(8)
「山本奈津実
出身は新潟で、高校までずっと地元、大学進学のときに、上京した。小学校のときは合唱部で、中学校でテニス部で、高校で吹奏楽部に入った。大学でサークルは、入らなかった。塾には行かず、あまり勉強を自分からがんばってすることはないけれど、頭がよかった。小学校まではよくできる子で、中学校ではまあまあできる子で、高校でふつうで、大学は聞いたこともない私立大学になんとなく入学できた。小学校のとき、よく学級委員になった。中学校のとき、生徒会長になった。高校では、部活の部長になった。十九でひきこもった。大学を卒業して、家電量販店に就職した。二年目でやめた。小学校のとき、四年生のとき、音楽室で、放課後、待ち合わせた男子と抱き合ってみた。同じ音楽室で、五年生のとき、ちがう男子と、はじめてキスした。六年生のときも、ちがう男子と、音楽室で、キスした。中学校のとき、一年生のとき、はじめて彼氏ができた。おもしろくないので、三ヶ月で別れた。二年生のとき、なにもなかった。部活ばっかりしてた。三年生のとき、またできた彼氏と、同じ高校に行こうと約束して、彼氏だけ落ちた。それで、終わった。高校のとき、一年生のとき、本当に好きな彼氏ができて、彼氏の家に行って、三週間目くらいで、やった。二年のとき、その彼氏となかよしだった。三年のとき、ふられた。理由は、ぜんぜん分からなかった。大学のとき、ろくな男と出会わなかった。いま、なにかしなきゃいけないけど、毎日、ひまでしょうがない。
「意志が弱いんです、そもそも。だいたい同級生にはきらわれるけど、上の人には、特に大人には、もてた。にこにこ笑って、もとめられてることが分かって、いちいち適切にそれをこなすから、それは、そうだと思う。年下にも、もてた。めんどくさいから、てきとうに無視してたら、なぜか、人気ものになってた。まあ、男にも。それで、なんか。
やめた。
どうして、こう、なんにも言えないんだろ。なんにも言えてない、気がする。まちがってないんですよ、でも、言ってしまうと、うそになる。うそにはならないけど、変になる。わたしの人生、書いてもらったとおりで、特に書きたすこともないと思う。お父さんは高校の先生で、お母さんも高校の先生で、わたしが生まれて主婦になって。それで、あとは、小さな事件が、無数に、数えきれないくらいあったわけで、わたしが覚えてないのも、なかにはある。もともとわたしが知らないこともあるわけで、わたしだけが知らなくて、ほかの人はみんな知ってるってこともある。社会の教科書、歴史に残るくらいの大事件なのに、誰も知らないことも、あるかもしれない。あると思う。それが、わたしを変えてる。中学二年のとき、なにもなかったって書かれた、それは、そうだ。息をするのをやめたら、死ぬから、息はしてた。思うんですけど、それだけで、意味があるんじゃないですか。一日何回、息を吸って、吐くんですかね。それが三百六十五、繰り返されてて。一回息を吸ったら、次の一回は、前の一回より、ほんの少しうまく息を吸えてるんじゃないですかね。一ミリの何万分の一以下の進歩かもしれないけど、なんか、変わってると思う。だから、意味じゃなくて。なんなんでしょう。暑かったら汗をかくし、水分とったら、おしっこしますよ。なんなんでしょうね。あたりまえのことは、あたりまえだから、あたりまえのことでつまらないから、省略すると、なんにもなかったことになる。分からないんです。なにが、あたりまえなんだか。なにがおもしろいんだか。人を殺したこともないから。あたりまえに男とつきあって、それでも、なんか、誰も思わないこと、おもしろいことを感じてれば。分からない。やった、って書かれた。やりました。なにが言えるんだろ、わたしは。痛かった。気持ちよかった。それで。なんにも言えてない。だめだ。
「意志が弱い」
って言ったのは、数少ない同級生の友達だったんです。そうだな、と思った。
「弱いんだよ。人間として」
そうだ、正確には、そう言った。特に弱いのは、意志なんだと思ったのは、わたしの勝手な記憶の修正、翻訳だった。
「なにがだめなの」
「自分がないの」
「自分ってどっかにあるの」
「あるよ。ここに」
「ここって」
「ここに。わたしのすわってる、ここ。わたし、いるじゃないか。だから、わたしには自分があるの」
「じゃあ、わたしもあるよ」
「だめだよ。ないんだよ」
「なんで」
「あんた、これから書かれるんだもん」
「なんで」
「だから、あんた、いないんだもん、書かれないと、いないの。どんなやつだか誰も知らないし、みんな、あんたに興味なんかないから、書かれたとおりの女だと思う。分かるでしょ」
「よく分かんない」
「もっと、もっと、自分を強く持って、自分を主張しなきゃ」
「そうかな」
「もっと強くなってよ。主人公だって、さけんでごらんよ。ヒロインだって。かわいくなれよ。どんな顔がいいの。男に好かれたいの」
「ふつうでいい」
「だめだよ。ふつうの人間は、残してもらえないよ。いままで、一番たのしかったことは」
「え。ああ」
「三、二、一」
「ええと、待って」
「すぐ出てこないのか」
「あ、デート」
「へえ。誰と」
「彼氏と」
「それ、いいかもね」
「水族館に行ったんです。雰囲気いいかな、と思って」
「それで」
「水族館の生きものって、本当に生きものなんだよね、ただの。生きてるだけ、最短距離で。ペンギンとか、かわいくないんだよね。じっとしてる。子供がカメラかまえてても、愛想をふりまくこともしなくて、ただ、夫婦でじっとプールの端で立ってる。食いものを手に入れるとか、そういう活動の必要がないかぎり、動く意味がないんだよ。野生の生きものは本当に合理的で、むかつくくらい合理的で、生きるのに最短距離なんだ。交尾、セックスだって愛してて気持ちいいからじゃなくて、ただ、子孫をふやそうっていう本能から、やってるだけ」
「それで」
「だから、日本が水没してさ、それで水族館はどうなってるんだろ」
「なにそれ」
「やっぱり、じっとしてる気がするよ。エネルギー温存しないといけないから。それで、わたしが通りかかると、ぎらぎらした目で食いものを要求する。まったくいやされないね」
「なに。たのしいの。つまんないの」
「水族館の魚とかタコとかカニとか、あの無機質な生活を見るのがたまらなくて。むかつくけど、デートするときって、わたしは本当にその人を好きだから、だから、客観的に自分を見るのにも、いい。本能だけで生きてるのを見て、ああ、しょせん子孫繁栄なのか、って思って、あんまりはめをはずさないようにって誓う。水族館で、わたしはそのうち、水槽を見てるのがいやになる」
「たのしいの」
「たのしくは、なかった。つまらなくもない。だから、ずっと覚えてて、よくデートで行くし、ひとりでも行く。なんかが、あった」
「なにが」
「なんかが。何回も行きたくなるような、そういう、なんか」
「つまり」
「ことばにならない」
「だから」
「それは、分かってるんだけどね」
「だめだよ。残るのは、ことばだけなんだもん、早く、言えよ」
「なんにも言えませんよ。もう、なにも言いたくない。言いはじめると、全部言わなきゃいけないけど、全部ってないから。だから、言わないほうがいい。もう、なんにも言わない」
「なんか話してないと、存在してることにならないんです。ラジオを思い浮かべてください。ため息でも、あくびでも、くしゃみでもいいから、音を出さなきゃ、生きてるって思ってくれないよ。てゆうか、いないんだって。そこにいないの。生きてる、生きてる、生きてる、生きてる、って言いつづけるの」
「へえ。それって」
「なに」
「死にたいって言いつづけたって、いいってことか。死にたい、死にたい、死にたい、って。そういう人、いるね、いっぱい。でも、わたしは、それも言わない。だまる。このまま、消える」
「あ、むり」
「なんで」
「もう、書かれたぶんは、消せないから」
「魚って、しゃべらないじゃない」
「しゃべらないね。それが」
「魚になるよ。水族館で、泳いでる。泳いで、見てもらってれば、声を出さなくても、自分を強く持てるんじゃないでしょうか」
「見えない魚」
「じゃあ、いま言っとくよ。そこにいるから。魚のわたしは、空気を泳げるから、どこにでもいるの。どこでも、空気のあるところなら、魚のわたしは泳いでるから、油断しちゃだめだよ」
「すごくなってきた」
「すごいだろ。これで、わたしは、わたしのにおいをつけた。もう、空気のあるところで、わたしのことを思い出さないところはないでしょ」
「あ、本当だ」
どこなんだろ、ここは。記憶のなかで、すわってるような、立ってるような、季節もない、夢のなかで、わたしの部屋とどこかの喫茶店がまじってるような、だから、どちらでもあるような、そんな、あやふやな、どこでもなくて、どこでもある場所で。どこか決めるのは、たぶん、わたしで。
なににもつながってない、ぽっかり浮かんだ、無人島みたいな、誰かとの会話。誰と話してるのかも知らないのか。早く、書いてくれ。わたしは、どこに行くんだろ。いま、ここは、なんなんだろ。ひとつだけ、わたしは思ったことがある、って言える。ふつうの人間。ノストラダムスの大予言。どんな事件も事故も当事者になれずに生きてきてしまった。恐怖の大王。地球人が平等に主役になれるチャンスがあって、わたしは、見事にそれをのがした。あれは、歴史に残るような大事件だった。だってそうだ、あんなに人を待たせて、待たせるだけ待たせて、肩すかしみたいに、なんにも起こさないで、終わった。ぜったい死ぬって覚悟してた、あのときの子供は、どうなるんだ。死んでも死にきれない、生きてるんだかなんなんだか、また急に気が変わって、恐怖の大王、帰ってくるかもしれないって、心のどこかでおびえてる。あのときの子供に、あんなことしといて、社会の教科書にはぜったいにのらない。そんなの、あるか」」