(3)
「すいません。わたし、そこの児童館の職員です。あじさい児童館の、臨時職員です。ちょっと、すいません、なんて言ったらいいのか。すいません。坂本愛ちゃんっていうのは、二年生の女の子で、うちの児童館の学童なんですね。
ちょっと変わった子で。まあ、別に、これまで問題を起こしたこともないんですが、けんかとか。ひとりで本を読むのが好きな子で。児童館には、まんがもいっぱい置いてあるんですけど、あの子は、一切そういうのは手にしなかった、好きなのは、なぞなぞの本とか、シャーロックホームズでした。
すごくかわいい子で。黒い髪が、つやつやしてて、思わずさわりたくなります。まんがみたいに、きらきらした目をしてて。男子で、ちょっかいをかけてくる子が、たくさんいるんですね。
「なに読んでんだよ」
とか、そんなことを言って、頭をたたいたり。愛ちゃんはマイペースに本を読みつづけます、あんまり反応がないと、本気で蹴ったりもする。
そうなると、わたしがとめに入ります。
「だめでしょ、キックしちゃ」
って、強く言えば、ふつう子供は大人がこわいものなので、なんかもごもご言いながら逃げていきます。わたしも、かわいくない子よりは、かわいい子が好きなので、お気に入りの子をつくりたくなるのは、まあ、しょうがないと思います。愛ちゃん、わたしのお気に入りでした。
「なに読んでるの」
言ってから、あ、同じこと聞いてる、って気づきました。そんなの、のぞきこんだら、分かるんですけど、怪談の本で。
「なに読んでるの」
さりげなく、髪にさわった。ひんやりして、気持ちよかった。
「怪談。口裂け女」
こっちを振り返りもせずに、返事をしました。おなかを押すと声を出す、人形みたいだった。それも分かってました。細い線で、黒い長い髪の、赤いコート、白いパンツで、ハイヒールで、大きなマスク、イラストが右のページにのってました。
「おもしろいの」
「まあ」
「こわい」
「別に」
愛ちゃんは、そういう子でした。ピアノ、水泳、剣道、空手、英会話、最近はバイオリンとか、習い事をやってない子なんていません、週に八個かけもちしてる子もいます。愛ちゃんは、なんにもやってないんです。だから、いつも、最後まで児童館に残ってるんですね。愛ちゃんが帰るまで、わたしも帰れなかった、だんだん電気を消していって、帰れ、帰れ、ってプレッシャーかけるんですが、気にせずに、ずっと、本を読んでて。
「もう帰るよ」
「うん」
「聞いてる」
「うん」
「なに読んでるの」
「怪談」
「最近、好きだね。だいじょうぶ。こわくて帰れないなら、いっしょに帰るよ」
「こわくはない」
暗かった。門のほうでぽつんと、青い、あかりがひとつだけついてて、それがげた箱をすかして、さしてくるんですね。
ふたりきりだな、って、ふと思いました。所長さん、出張でいなかった。どきどきした。あの雰囲気。わたし、どうして、あんなに愛ちゃんのことが好きなんでしょう、お気に入り、とか、そんなもんじゃないんです、正直言って。さわりたくて、ぎゅっとしたくて、あの子の髪の、いいにおいをかぎたくて、愛ちゃんはやせてて小さくて軽いから、大きなパンをひと口で食べるみたいに、食べてしまえそう。だから、正直、わたし、好きだったんじゃないか、って思うんです。つまり、恋愛みたいな感情にとても近いもの。
子供のころのこと、思い出すじゃないですか。
どきどきした、わたしは、愛ちゃんに似てる子だったのか。そんなことはないですよ。ぜんぜんちがう。わたしは、かわいくはないけど、にこにこ明るい元気な子で、友達がいっぱいいた、一年生のころからずっと学級委員で、生徒会長もやって、人気ものでしたよ。なんの中身もない人気でしたけど、勉強もできないし、部活とか、運動もできない、音楽とか芸術とかぜんぜん分かんない、趣味もない。ただ、人と話してて、おもしろがらせて、いい気分になってもらうのは、なんか、得意でした。チワワにされてた。わたしも、なろうとしてたし。それで、このざまですよ。
このざま。なんか、なんにもやってなくて。がんばってやったことがないから、ゼロなんですよ。ただ、人よりうまくは生きてきた、苦労しなかったから。はじめて会う人でも、たいていはわたしのこと、好きになる、あんまりわたしに興味なさそうな人、男も、はじめて会って別れるときには次の約束してくれる。それで、もう、付き合ってる。気持ちいいですよね、なんでも思いどおりになると思ってた。でも、申し訳ないくらい、わたしは、博愛主義で、それは、気持ちが通じあってて、いま完璧だな、って思う瞬間はありますよ、いいところにあたってるなあ、って、こっちが逆にいいところを見つけられたりとか。死ぬほど好きだ、って、びりびり伝わってくる、でも、
「ありがとう」
なんて、そんな温度。三分の一くらい受けとめて、かみしめて、よろこぶけど、ありがとう、とかそんなの、三分の二は受け流すようなもので。わたしも死ぬほど好き、なんて、言ったことない。わたしにとっては、どんな死ぬほど好きも、全部、それはそれ、ってことになってしまって。だから、ぜったいにこれ、っていうひとつがなくて、食べちらかしながらぶらぶら歩いてるだけで、それで、立ちどまるのが不安なんですよ、たぶん。
で、いいかげんつかれて、くずれ落ちるみたいに、地べたにすわって、そしたら、もう、みんなわたしのことホームレスにでも見えるのか、誰も声をかけてくれなくなってて。女王アリ、って思ったことがある、調子にのってたのかもしれないですけど、あれ、実物は本当にグロテスクなんですねえ。
パンの愛ちゃんを食べたい。食べたら、わたしと愛ちゃんはひとつになって、だから、わたしが愛ちゃんでもあって、わたし、愛ちゃんになれる。愛ちゃんがいいんですよ、あんなに強く、マイペースに、自分の好きなことやってたら、なんか、もっと、よかった。とりあえず、抱きつきました。うしろから、ぎゅっと、つぶして、まるめて、ひと口に飲みこんでしまいたかった。
「じゃま」
そう言うと思った。
「愛ちゃん、あそぼう。帰らなくいいから。ひとりで本を読んでるのは、だめ。帰るか、わたしとあそぶか」
愛ちゃん、眉間にしわを寄せて、考えた。すごくいやそうだったけど、
「あそぶ」
「やった」
「なにする」
「なにがいい」
「じゃあ、おばけになって」
「いいよ。なにおばけ」
「この本の、好きなとこ開いてみて」
愛ちゃんが、本に指をはさんだまま、受けとって、そこを開きました。ノストラダムスの大予言、って、どろどろした字で、血がしたたってるような感じで、大きく縦に書かれてました。
「これ」
「やって。なって」
「ノストラダムスの大予言にか。うーん」
「やって」
隕石が落ちてくる。
南極の水がとけて、日本沈没。
核戦争。
宇宙人が、せめてくる。UFOが空一面、オセロみたいに埋めつくして、なにがはじまるんだろ。馬鹿みたいに見上げてる人間のからだが、爆発していく。
「なにをすればいいのかな。ノストラダムスになればいいの。どうするの」
一九九九年はとっくにすぎてて、もう、何年前の怪談の本なんでしょうね、口裂け女や赤マントは、永遠にこわがられて、忘れられてって繰り返すんでしょうけど、こればっかりは、もう、こわくもなんともないじゃないですか。一九九九年すぎたら、本当にあったこわい話、とか、言えない。
「どうするの」
愛ちゃんは、目をくりくりさせて、わたしを下からのぞきこんで、なんにも言ってくれないから、どうするの、ってわたしはまた聞いた。愛ちゃんは、じっと、まばたきもせずにわたしを見つめてて、その目は、なんだろ、小犬みたいな、小猫みたいな、でも、もっとぬれてて、つやつや光ってる。ビー玉みたいにきれいだった、ビー玉をマジックで黒くぬって、しつこく、しつこく黒目をぬりつぶした感じ。だから、本当に光る。門のところの、青いあかりが、ちらちらして。
「つまんねえ」
愛ちゃんに、逃げられてしまいました。あっというまに、ランドセルしょって、黄色い帽子かぶって、ぺたぺたくつを鳴らして、門をくぐっていきました。
それから、愛ちゃん、わたしをぜんぜんかまってくれなくなりました。もともと、愛ちゃんのほうからかまってくれることなんてなかったけど、わたしがなにを言っても、返事もしてくれない、ずっと、怪談の本を読んでました。
ノストラダムスの大予言のページ。
だんだん、児童館にも来なくなりました。かわいい子だから、いると、本を読んでるだけでも、いるな、って思うんですけど、いなければいないで、大事なものがなくなったような感覚は、そういう雰囲気になることもなくて、まるでトイレのドライフラワー、きれいで毒々しくて、誰もまともに見たことがないから。
児童館に行くときに、自転車で、ずっと川ぞいに走るんですけど、児童館に一番近い橋を渡ろうとして、愛ちゃんがいたんです。見まちがいかと思ったけど、大人の男の人といっしょにいた。背の高い、無精ひげの、やせた人。ふたりで、ずっと、川を見てました、川の流れを、ほかになにも見るものはなかったと思う、手すりに胸をくっつけて、落ちそうなくらいにのりだして。
なんにも声をかけれずに、通りすぎてしまいました。帰るときは、もういなかった。でも、たまに見かけるようになりました、そこの橋で。だいたい、そのかっこうで、川を見てます。そうじゃなければ、しゃがんで、ふたりで紙をのぞきこんでたり、なにか空、たぶん雲を指さして、話し合ってたり。
その男の人が誰なのか、わたしは知りたくて。次は、ちゃんと自転車をとめよう、声をかけてみよう。わたし、それくらいの権利はあるはずだ、と、自分に言い聞かせて、どきどき緊張したり、でも、なんか、うれしくてにやにやしてたりもして。たまにある、児童館のイベントの日で、お話の会、っていう、学童たちに読み聞かせをしてくれる人を呼ぶんですね、そういう日は、お母さんが愛ちゃんをつれてきてました。今日はいるかな、と、わたしはみんなをすわらせながら、探してたんです。見つからなかった。お話をしてくれるのは、ボランティアの、川のこっちに住んでる、むかし学校の先生だったとかいう、五十くらいの、わたしの母親に少し似た、小さな、若いおばあちゃんみたいな人でした。
不思議なくらい、子供たちはしずかにしてた。みんながすわってる前に、ピアノのいすに腰かけて、