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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

乱れ咲く華々~百合短編集~

明日、この旅が終わっても。

作者: an-coromochi

毎週土曜日の夜、1万文字以上、2万文字以内程度の百合短編を挙げさせていただいております。


今回は、主従系となっております。少しばかり暗いテイストかもしれませんが、良ければお楽しみください。


では、拙い文章にはなりますが、週末の暇つぶしにでもどうぞ!

(1)



 どこから湧いて出たのか、異様な形状をした虫が、意識の朦朧としていた僕の足元で数匹、もぞもぞと蠢いていた。


 黒く、硬い外殻を重そうに引きずる姿を、気付けば目で追っていたのだが、その尖った顎で僕のアキレス健辺りに牙を立てられたため、反射的に片手で虫を叩き潰した。


 外殻の色とは全く違う緑色の体液が、バラバラになった虫の手足と共に、足首にへばり付いている。


 それを拭う布切れもないし、気力もない。


 強く生温い風が、僕が死に場所に選んだ狭い路地に吹き込む。


 舞い上がる砂塵が、この薄暗い小径に流れ込み、重力に引かれて降り積もる。


 直射日光を遮るためのフードが、かえってこの痩せ細った体全体を押し潰そうとしているようだ。


 つい数時間前までは、耐え難い空腹に咽び泣いていた胃が、今ではすっかり大人しくなっていた。

 言い聞かせたわけでもないのに、突然寡黙になった自分の内部に、のろまな死神の訪れを感じる。


 何もかもを諦観の渦の中に投げ込んだ瞳が、ほんの少しだけ空を見上げた。


 無意識のうちに行ったことではあったが、もしかすると、俯いて生きる日々の終わりには、せめて青空を刻み込んでおきたいと思ったのかもしれなかった。


 だが、空はどんよりとした鉛色に染まっており、青空はおろか、陽の光すら拝めそうにもないありさまだった。


 遠くから、雨の匂いがする。


 雨天の中、横たわる自分の姿を想像する。


 野犬だ。


 僕は、野犬か、それ以下だ。


 それこそ、僕の足首を墓標にした虫程度の存在。


 枯れ木のような手足、変色した爪。そして、僕たちの民族特有の浅黒い肌と、悪魔のように黒々とした瞳。


 僕は、ベンデルの民。

 そして、この国は、アズールの民の領土。

 それだけだった。


 僕が、路地裏で野垂れ死ぬことになる理由は。


 奴隷として売られ、祖国であるベンデルの辺境からこの国にやって来た僕は、数年船の上で働かされた後、体調を崩した。


 労働力として見込めなくなった奴隷など、辿る道は二つに一つ。


 玩具同然の慰み者にされるか、捨てられるかだ。


 幸か不幸か、僕は後者だった。


 ベンデルがアズールとの戦争に敗れ、縮こまっているこのご時世、ベンデルの民の浮浪者など、ゴミ同然の扱いを受けた。


 そうして、人間の悪意の坩堝(るつぼ)で過ごせば、嫌でも分かることがある。


 人は、残虐で、おぞましいものだと。

 善人というものは実在せず、ただの仮面であるということを。


 ポツポツと、雨が乾いた地面を湿らせ始めた。自分の上にだけは降り注いでいないのではと思ったが、被っていたフードのせいだった。


 人も、この世の中も、祖国も、敵国も…。


 それらの全てを呪うこともなく、ただ諦めて、僕は腐敗し、土に還ることなく処理される。


「僕は…」


 雨粒のような呟きが口から溢れる。


 僕は、何だろう。

 この世に、僕のような命が一体どれだけあるだろう。

 いてもいなくても、どうだっていい。


 そう世界に吐き捨てられてなお、勝手に生き続けようとする体を引きずって、ここまで来た。


 そうだ、この路地裏が僕の世界の果てだ。


 残飯入れのゴミ箱、虫の死骸、敗国人種の浮浪者。

 薄闇、死肉鳥の囀り、野犬の遠吠え。

 ぞっとするほど静かな、雨の音と、匂い。


 目を閉じ、リズミカルな雨音に耳を澄ませる。そうすることで、自分もその静けさの中に溶け込めるような気がしていた。


 そうして、どれだけの時間が過ぎただろう。


 鈍くなっていく四肢の間隔とは裏腹に、異様に研ぎ澄まされていく聴覚が、僕の体を雨霧の中央へと運んでいたのだが、ふと、それとは別の音が混じって聞こえてきた。


 土を蹴る音、それから、耳障りな息遣い。


 数秒後、雨が止んだ。


 雨音は、絶えずこの路地裏に響き渡っているというのに。


 雨の音を押しのけて、鈴の音のように美しい声が僕の耳を貫く。


「ちょっと、大丈夫なの?」


 閉じていた目を開ける。


 銀の絹糸を垂れ下げ、きらびやかなドレスに身を包んだ少女が僕の上に赤色の傘を広げていた。


 透き通るような白い肌と、月の光を飲み込んだような銀髪。


 純血のアズールの民だ。


 傷一つない肌、ほつれ一つない衣装。


 この世のあらゆる陰陽の内、陽の部分だけを注ぎ込んだような爛漫な顔つき。


 何もかもが真逆の存在に見える彼女の姿を、僕はじっと見上げた。


 積み上がった砂塵を押し流す雨が、彼女が差した傘の外で、帳となってこの薄暗い路地裏に降り注いでいる。


 頬をつたい、簡単にへし折れそうな僕の体に落ちていく雫を、少女が見つめているような気がした。


 大通りのほうから、スーツ姿の初老の男が慌てた様子で走って来る。彼女の召使か何かなのだろう、少女が僕に触れることを大きな声で咎めていた。


「なぁに、私のすることに文句があるわけ?私は、お父様が言う『ノーブレスオブリージュ』を果たしているだけなのよ」


 止んだ雨の代わりに、聞き覚えのない言葉が僕の頭上から降り注いでくる。


 桜色のハンカチで僕の頬についた雫を拭った少女は、後ろから制止する男性を鬱陶しそうに追い払うと、しゃがみ込み、僕と同じ視線になって言った。


「貴方、私のところに来なさい。小間使いとして雇ってあげるわ」


「お嬢様!」と男が悲鳴のような声を上げる。


「お黙り!この子を見なさいな、今にも野垂れ死んでしまいそうよ」


「お嬢様、そのような言葉遣いをなされては…」


 言葉遣いを咎められた少女は、ぺちんと軽く男の膝を叩いて睨みつけた。その圧力に相手が黙ったのを見て、もう一度僕のほうを振り向く。


 それから、また同じ提案をした彼女の顔をまじまじと見ていると、精根尽き果てていた僕の体に、奇妙な力が湧き起こった。


 何処に隠れていたのか分からないそれは、みるみる肥大化すると、心臓を通り過ぎ、喉を通って外へと飛び出した。


「どうして」


 少女は、意外そうに目を丸くする。


「どうしてって…、えっとぉ…そう!それがノーブレスオブリージュだからよ」


 その言葉の意味が分からずに、今度はこちらが首を傾けた。


 すると少女は、待ってましたと言わんばかりに立ち上がり胸を張ると、歌でも歌うかのように大きな声を出して言った。


「貴族の使命のこと!高貴な生まれにあり、恵まれた者は、そうではない人たちに尊き行いを示してあげる必要があるのよ!」


 分かる、と彼女が目をキラキラさせて聞き直す。


 高貴な生まれにある者。それはこの時代において、何不自由なく暮らしている者たちのことだ。

 明日の飯に不安を覚えることもなく、


 眠りに就くとき、明日また太陽と共に起きられるか不安になることもない暮らし。


 隣人に、死を迎え入れる必要のない人々のことだ。


 その呆けた温もりに満ちた生活を思い描いたときに、僕の中で膨れ上がっていた感情が臨界点を迎えた。


「分かるわけないだろ」


 豊かな地で育ち、心にゆとりを持って成長してきた者しか持ち合わせない、眩い爛漫さと余裕を見せつけられた僕は、少女の顔に風穴が空くのではないかと思う鋭さで睨みつけた。


 ぽかんとした表情の彼女に、僕は言ってのける。


「アズールの銀狐め、僕たちベンデルの民から、死ぬ自由まで奪うな」



(2)



 カーテンを開けて、続いて窓を開く。湿気た空気が部屋の中に入り込み、先程自分が眠っていた寝台の上を風が撫ぜる。


 窓から体を三分の一ほどはみ出させ、大きく息を吸い込み、数秒止めて吐き出した。


 昨日の予報では、今日は雨が降るとのことだった。インチキじみた占い師が言うことなのであてにはならないと思っていたが、空の様子からして、どうやらその予報は的中しそうであった。


 遠くのほうで、騎馬隊が列を成し、丘の上を目指してゆっくり上がっていくのが見える。


 確か、あの先はこの村の議会場があったはずだ。もしかすると、見回りに来ているのかもしれない。


 馬の列から視線を移す。昨夜自分たちが泊まった宿の前には、針葉樹の林が並んでいる。防風林の役割でも課されているのか、規則的な並びだ。


 そこから飛び去る小鳥の群れを目で追いながら、読みかけの本を片手に窓際のチェアに腰掛ける。


 そうして自分が使っていた隣のベッドで眠りこける女性が起きるのを黙って待つ。


 安らかな横顔の上を、銀色のショートヘアが揺れている。それがくすぐったいのか、小動物の鳴き声みたいな呟きを漏らして、寝返りを打っていた。


 歳は、もう二十歳になるかどうか、といったところか。白い肌と銀の髪色は、典型的なアズールの民の特徴であった。


 もうしばらく起きそうにもないな、と小さなため息を吐いて、頁をめくる手と、紙面の上を滑る文字たちに集中する。


 どれだけそうしていただろうか。おそらく、朝日の傾きから計算すると、三十分程度だろう。


 気持ち良さそうな寝息を立てていた彼女は、ようやくもぞもぞと布団の中で身をうねらせながら、大きな欠伸をして体を起こした。


 しょぼしょぼとした目つきで、こちらを見ていた彼女に、ため息混じりに声をかける。


「やっと起きたの」


「…んーん、まだ起きてない」


「馬鹿言ってないで、さっさと支度して」甘えたような声を出す彼女を無視して、本を閉じる。「騎馬隊が丘を上がっていった。もしかすると、ここも危ないかも」


 彼女はそれを聞くと、眠そうにしていた表情を途端に変えて、自嘲気味な微笑みを浮かべた。


「そう…、じゃあ、早く出発しよ」


 素早く身なりを整え、彼女を待った。


 持って動かなきゃいけない荷物なんて、ほとんどない。金貨や、いつまでも読みかけのままの本が、小さな革袋に入っているだけだ。


 身を守るための剣は、寝るとき以外はいつも腰からぶら下げている。


 それに、本当に大事なものは、準備なんてしなくとも勝手に自分の後をついてくるのだ。正確には、二人の道が同じだというだけに過ぎないか。


 外套を羽織り、鏡の前に移動する。腰のあたりまで伸びた黒い長髪が、見るものに、暗い井戸の底みたいに不気味な印象を与える。


 先に身支度のために鏡とにらめっこしていた彼女は、何だかおかしそうに、でもやるせなさそうに笑った。


「ノワール、今朝は随分懐かしい夢を見たわ」


 とても聞いて欲しそうな表情だったが、ノワールと呼ばれた背の高い女性は、眉間に皺を寄せてから、壁に掛かった機械仕掛けの時計を一瞥した。


「ブラン、それは後でいい。早く出よう」


 銀髪のショートヘアの女性――ブランは、また少し悲しそうな顔をしてから、ノワールの提案に相槌を打って承諾した。


 そうしてまた身支度に戻ったブランの背中を見ながら、ノワールは心の中で肩を落とす。


 ノワールは、ブランのその表情が嫌いだった。


 何もかも諦めきったような…、どこで死んだって構わないと言い出してしまいそうな…そんな顔が。


 準備を終えた二人は、素早く宿のチェックアウトを済ませると、建物の外に出た。敷地外に出るときは、周囲からは勘付かれない程度に慎重に、静かな足取りであった。


 ノワールもブランも、旅人が愛用するような外套にシャツとズボンといった服装だった。しかし、一点だけ彼女らの間に明確な違いがあった。


「ブラン、もう少しだけ深く被って」


 ノワールはそう言うと、ブランの頭を覆っているフードを下方向に引っ張った。


「分かったわ。…だけれど、前があまり見えないの。もちろん、ノワールが手を引いてくれるのでしょう?」


「…人目に付くから駄目。村外れにまで出るまでの辛抱だから」


 自分の申し出をきっぱりと断った彼女を見て、ブランは首を曲げ俯き、それからか細い声で不服そうに呟いた。


「あの頃は、私のお願いを断ったりしなかったなぁ」


 それが聞こえていたのか、ノワールも同じようなトーンで返す。


「あの頃とは、全てが違う」背を向けたままで、彼女は続ける。「人も、国も、世界も…。天地がひっくり返ったみたいにね」


 相手の返事など求めていないふうな声音に、ブランももう何も言わなくなった。ただ、あの諦めの微笑を浮かべているだけである。


 先程、宿から見下ろしていた針葉樹の間を縫うように進む。

 整地された道ではないが、人目を忍ぶには丁度良い。宿からは見えなかった小川を左手に、ぐんぐん足を前に動かす。あまりに早足になると怪しいため、少し急いでいる程度に留める。


 十分ほど二人で歩いていると、民家などの建物が減り、代わりに田畑が多くなってきた。


 さらにそこから十分、二十分と道を辿れば、もう辺りは建物も田畑もなく、ただの辺境の街道沿いへと景色を変える。


 すれ違う人もまばらどころか、全くのゼロに近い。そろそろブランに窮屈な思いをさせる意味もなくなってくるだろうと、ノワールが考えていたところ、ブランがおもむろにフードを脱いた。


「あつぅい。お肌が焼けちゃう」


「…少し日焼けするぐらいが丁度良いよ」


 ノワールが何気なく言った発言に、ブランが皮肉った口調で告げる。


「アズールの民だから?」失言だったと気付き、言葉を詰まらせていたノワールに鼻を鳴らして冷たい視線を送る。「二人だけのときまで、そういうのはやめてほしいわ」


「ごめん」


 素直に謝罪したノワールの横を、水色の蜻蛉が追い越していく。


 地上の塵を押し流すための雨を多分に含んだ黒雲が、遥か先の上空に見える。まだかなりの距離があるように見えるが、雲の流れなんて予測がつかないものだ。


 気が付けばすぐ真上に来ている、という点では不幸という正体不明の存在に酷く類似している。


 街道沿いには、絶え間ない緩やかな流れを生み続けている川が流れていて、そこの水面すれすれを蜻蛉の群れが飛んでいた。くっついて飛んでいるものたちもいる。


 それを何となく目で追っていると、目の前を、矢のように飛んでいく黒い物体が横切った。


 燕だ。


 羽ばたく、というよりも滑空する動きで飛ぶ燕は、やや上昇してみせたかと思うと、一気に急降下して、その水面ぎりぎりを、放物線を描きながら滑った。


 死神の鎌みたいな軌道だ、とノワールは思った。もちろん、実物など見たことはない。


 一瞬のうちに一匹の小さな蜻蛉を仕留めた燕は、そのまま急上昇して空のどこかに消えていく。


 呆気ないものだ。


 蜻蛉に降りかかった不幸を目の当たりにして、ノワールは目を細め、燕が舞い上がった曇天を仰いだ。


 この旅も、いつまで続けられるか分からない。


 今しがた食物連鎖の波に飲み込まれた蜻蛉のように、いつ自分たちの上に死神がやって来るとも限らないのだ。まあ、もしかすると、群れの仲間を犠牲にし、偶然生き延びたその他の蜻蛉たちのように、しぶとく生き続けられないこともないかもしれない。


 ノワールは、その時間制限付きの旅を、遠くの景色を見るような気持ちで振り返ると、途端に誰かと話したくなった。


 元々無口の自分がこうなるのは非常に珍しいが、それでも、たまにないわけでもない。


 何か適当な話題を考えたところ、村を出る前にブランが口にしていたことを思い出した。


「…夢、どんな夢だったの」


 唐突な問いかけに、ブランは呆気にとられたように口を小さく開けていた。それから、ほっとするような笑みを浮かべ、何度か頷く。


「聞きたい?」


 童女みたいに口の端を持ち上げた彼女は、並んで歩くスピードを少し緩めてから、上半身を少し斜めに倒し、下から覗き込むようにして言った。その昔の彼女に戻ったみたいな仕草に、自然と笑みが漏れる。


「この場合、聞くという選択以外ないんでしょ?」


「あら、可愛くない」


「それは失礼しました」


 そんなノワールの素っ気ない態度を見て、わざとらしく頬を膨らませたブランだったが、すぐにどちらともなく笑いだした。


 彼女たちの事情を知らない人から見れば、そんな二人の和やかな様子はきっと、仲の良い友人が気ままな旅でもしているように映るかもしれない。


 だが、そんな美しいものではないのだ。


 もしかすると、ブランも、自分と同じように過去を偲んでいたのかもしれない。


 陽が昇り、月が沈む度に死んでいく今日という一日。それらが積み重ねって出来た、屍の山を思って…。


 ペシミストみたいな悲しみを、そっと胸の内に隠して、ノワールは片手を差し出して話の続きを促した。それを勘違いしてしまったらしいブランが、ぎゅっとその手を握り返してきた。


 ほんの少し驚いたノワールだったが、約束みたいなものもしてしまっていたから…、と何も言わずその手に軽く力を込める。


 二人の間を、温い風が吹き抜ける。遠くから吹きかけられる雨雲の吐息みたいな風に、黒と銀の髪が穏やかなに揺れる。


 もうじき、雨が来る。


 それまでには、次の村か、雨風凌げる場所に避難したい。


 非常食として、干し肉は少しばかり持っていたが、心許ない量だ。


 狩りをしなければ…。燕みたいに、死神の鎌を振りかぶって…。

 そうでないと、生きていけない。他の命を、犠牲にしないと…。


 幸せそうな顔でこちらを見返していたブランには、ノワールの深刻な脳内のことなど微塵も想像できなかったのだろうか。いや、そうではない。


 彼女にも、あてのない旅の過酷な現実は身に染みて分かっていた。そうして笑っていることがノワールを心配させないと思っているだけなのだ。


 繋いだ手を、子どものように前後に振ったブランが、星の数でも数えるふうに空を見上げながら声を発した。


「じゃあ、聞いてくれる?今朝、私が見た懐かしい夢というのはね――」



(3)



 窮屈な襟首を緩め、どすどすと地団駄を踏むような足取りで自分の部屋に飛び込む。それから乱暴に、手に持っていた革製の鞄を机の上に放り投げる。六人掛けくらいの大きな円卓の上を滑ったそれは、反対側に落下する寸前で停止した。


 後ろから追いかけて来る初老の男性が、そんな私の行為を咎める声が聞こえるが、無視してベッドにダイブする。


 華やかな装飾が施されたドレスがふわりと膨れ、それから一瞬で萎む。


 ふて寝してやろうと思っていた少女は、その寝苦しさと、男性のしつこい叱責から、ますます腹を立て、腹這いになったまま勢いよく顔を上げた。


「うるさい!寝るの!」


「いけません、お嬢様。そのような言葉遣いは…」


「爺はそればっかり!言葉遣い、言葉遣い!身だしなみ、淑女の嗜み!もううんざり、馬鹿!どっか行ってよ!」


 まくし立てるようにして怒鳴りつけられた男性は、肩を落としてため息を吐いた。


「そのようなことでは、旦那様の言う『ノーブレスオブリージュ』には程遠いですよ」


  男性が重々しい口調で言った言葉に、少女は歪な笑みを浮かべ、ふん、と小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。


「私、分かったの。お父様の言う『ノーブレスオブリージュ』は偽物なんだって」


「あぁ、何と言うことを…」


 片手を額に当て、大きく目を開いた男性は、絡繰り人形みたいに首を左右にぶんぶん振った。その度に、頭の大部分を占めている白髪が、風に吹かれるススキみたいに揺れる。


 むくりと起き上がった少女は、天蓋付きのベッドの上を跳ねるようにして男性のほうへと近づくと、挑戦的な眼差しでじろりと睨みつけた。


「だってそうでしょう。お父様は、未だにベンデルの民を使用人にしたことを咎めるのよ?ねぇ、どれだけ経ったと思う?もう半年よ、一年だったかしら…?とにかく、しつこすぎるの」


「旦那様も、立場があるのです」


「立場?一体どんな立場があれば、娘と変わらない歳の子どもをまた捨ててこいなんて言うの?犬猫みたいに!」


「お嬢様…、ベンデルの民だというのが不味いのです。私たちアズールの民がつい数年前まで大きな戦争をしていた国がどこか、知らないわけではないでしょう?」


「うるさい!戦争なんて、大人が勝手に始めたことでしょう。それに私たちを巻き込んで、命に優劣をつけないで!」


 手近にあった人形を男性に投げつける。ぽすん、と彼のお腹に当たった人形は、少女と同じようなドレスを着込んだデザインであった。


 男は大きくため息を吐くと、自分の目の前に落ちた人形を拾い上げ、少女趣味の室内をぐるりと見渡した。それから、未だに悪態を吐いている少女を無視して、人形を仲間たちのいる飾り棚に戻した。


 そうした大人の対応に、一層青筋を立てた少女は、ヒステリックな声を上げながらベッドの縁を叩いた。


「もういい!石頭の爺じゃ話にならないわ。ノワールを連れてきて!」


 先程から爺と呼ばれている男性は、目を固く瞑り、無表情を維持したまま恭しく頭を下げた。年老いているとはいっても、長身の体躯は、壮健さを失っていない。


「そう言われると思って、もう呼んでおります」


「え、本当?」


 突然、ぱあっと表情が明るくなった少女は、男が開けっ放しになったドアから出ていく姿を期待に満ちた瞳で見つめていた。


 男性は決して少女に背を向けず、正面を向いたまま部屋の外まで後退すると、首をわずかに傾けて口を開いた。その様子は、一見すると独り言を発しているように見えるが、少女からは見えない壁の向こうに、待ち人がいることは確かなようであった。


「ノワール、お嬢様に失礼のないように」低く、落ち着いた声の中にも、どこか優しさを感じられる声音だった。「はい、フレデリクさん」


 フレデリクの隣を、ゆったりとしたペースで頭を下げながら、十代前半らしき子どもが入ってくる。それを見て、素早く腰を上げた少女は、満面の笑みを浮かべてフレデリクに言った。


「ご苦労様、爺。少し二人にしてくれるかしら」


 フレデリクは、「承知しました」と告げると、用があるときはすぐに呼ぶよう少女とノワールに伝え、地面との摩擦がないかのように静かに離れていった。


 開け放たれたままのドアをノワールの代わりに閉めた少女は、じっと立ち尽くしたままのノワールの手を引いて、ベッドの縁に腰掛け直した。


「…お嬢様、手を離してください」


「そんなことより、聞いてよ、ノワール!お父様ったら、本当に分からず屋なのよ」


 自分の話はまるで聞こうともせず、強引に話を展開しようとする少女に、ノワールはチッ、と舌を打った。ついさっき、フレデリクに忠告された言葉も忘れたようだ。


「それ、聞かなきゃ駄目ですか」


 アンニュイな口調で大儀そうに顔を横に向けたノワールは、黒のパンツに、白シャツ黒ベストという、フレデリクと同じような服装をしていた。


「あのね、従者というのは、主が『聞いて』と言わなくても、話を聞かなきゃいけないのよ。分かる?言葉にしなくてもよ。例えば、『聞きたい?』って言われたときとか、思わせぶりに口を噤んでいるときだって、全部よ」


 そんな面倒はごめんだ、とノワールは目だけで主である少女を見据える。


 ノワールは、一年ほど前、少女に拾われた浮浪孤児だった。元奴隷孤児でもある。


 当時、少女は領主である父親の影響で『ノーブレスオブリージュ』、つまり、高貴なる者の務めに興味津々だった。そんな少女の優しさという名の気まぐれにより、ほとんど抵抗する力も元気もなく、この屋敷に連れられてきた少年のような容姿をした少女がノワールだ。


『ノワール』という名前も、一向に名を名乗らない彼女に、少女が与えた名前であった。


 初めの頃は、誰彼構わず牙を向いていたノワールだったが、次第に落ち着きを身に着け、今では少女のお気に入りの使用人として重宝されていた。


 もちろん、敵国の民であるベンデルの人間を良く思わない者も少なくはなかったが、ノワールを重用する少女の態度と、使用人の長であるフレデリクの力添えのおかげで、すぐに批判の声は静まった。


 完全に消えたわけではなかったものの、元々人を信頼していないノワールは、何とも思っていないようだった。


 ただ、ノワールの静けさは、決して懐柔されたような意味合いのものではない。


 ベンデルの民としての憎悪は、胸の奥でごうごうと燃え続けているし、業務の合間に隙を見て、兵士たちの鍛錬を参考に腕を磨く抜け目の無さも持ち合わせていた。


 足りない知識はフレデリクに教えを請うか、寝る間も惜しんで読書に耽り、学習した。


 反旗を翻すという明確な野心があったわけではないが、彼女の中にある、敗国奴隷としての不屈の怒りが、そうさせていたのであった。


 自分を気に入っている少女に関しても、初めのうちはノワール自身、鬱陶しく思っていた。


 恩人といえば恩人なのだが、少女の幼い善意では、社会の鋸刃に削られたノワールの心を解きほぐすに及ばなかった。


 アズール本国に強い影響力を持つ少女の父が、ノワールを毛嫌いしていことも、彼女の一貫した素っ気なさを崩せない原因の一つであろう。


 今日、少女は、自らの父にベンデルの民を使用人として雇用していることを咎められた。


 これそのものは珍しいことではなかったのだが、少女が強く反発したのは初めてのことだった。


 大人の事情など露も知らない少女は、そうして父親と大喧嘩した。今すぐにでも家から飛び出しそうな勢いで反論した後、使用人に当たり散らすようにして自分の部屋に戻って来たのだ。


 そのことを一気に早口で説明した少女に、ノワールは真冬の水の如き冷ややかさで応じる。


「どうしてそんな無駄なことをするんですか」


「まあ!どうしてノワールまでそんなことを言うの?無駄だなんて、分からないでしょう」


 ノワールは相手が聞こえないくらいの音で鼻を鳴らし、立ったままの姿勢で目の前の少女から目を逸らした。


「…無駄ですよ。ベンデルの民も、銀狐――アズールの民も、これだけ殺し合ったんです。…もう、溝は埋まらない」


 滲み出る諦観が、吐息となって天井に昇る。ノワールの言った言葉の最後のほうは、まるで独り言のような響きを含んでいた。


 絵本の中でしか知らないような天蓋付きのベッドの下で、少女は目くじらを立てて、ノワールを見上げた。

 その負けん気の強い、ガラス玉のような青い目は、自身の正しさを信じて疑わない傲慢な光を放っている。


 少女は自分の隣を手で何度か軽く叩き、ノワールに座るよう促した。というよりも、ほぼ命じていたといったほうが的確だろう。


 主からの命令は、基本的には絶対である。よっぽど人道から外れたものではない限りは従う。特に今回のような、わがままの範疇であればイエス以外の答えはない。もちろん、優先順位はある。フレデリクが少女よりも、その父の意向に従うのはそのためだ。


 使用人というのは、まずそれを叩き込まれるわけだが、まだ経験の浅いノワールはその限りではなかった。


 言外に座れと命じられても、しばらく渋っていたのだが、厳しい口調で、「座りなさい」と言われたのをきっかけに仕方なく腰を下ろした。


「どうして、そんなふうに諦めるの?」


 ノワールは何も答えない。


「黙ってないで、何か言いなさい」


 支配階級に生まれついたもの特有の、鋭く、自然な圧力に満ちた口調だ。まだ十代前半の少女がまとう空気としては、ある意味で歪だった。


「お嬢様は、差別を受けたことがないからそう思うのです」少女のほうは向かず、俯いたままノワールが呟く。


「それはそうかもしれないけれど…、だからといって、誰も何もしないなんて、それで一体何の解決になるの?」


「何をしても解決しないから、無駄だと言ったんです」


「じゃあ、私たちアズールの民とベンデルの民は…この先ずっといがみ合うの?ノワールみたいなベンデルの民が苦しんでいるのを、諦めて見てろって?冗談じゃないわ」


「お嬢様が嫌でも、社会とはそういうものなのです。旦那様が指摘されることは、自然なことと思います」


 その発言に、呆れと驚きを撹拌(かくはん)したような顔で少女が応じる。


「どうしてそう他人事みたいに…」


 少女の無責任さを責めるような口調に、ノワールはいよいよ苛立ちを抑えきれなかった様子で顔の向きを変え、睨みつける。


「僕は――差別や迫害を受けたベンデルの民は、自分たちの受けた仕打ちを忘れない。忘れられるわけもない。お嬢様には分からない、というのはそのことなんです。この溝の深さは、途方もない。お嬢様みたいな、一部の人間だけの気遣いで埋まるほど、生半可なものじゃないんですよ」


 珍しく饒舌になり、矢継ぎ早に言葉を紡いだノワールを、少女はじっと黙って見つめていた。


 その真っ直ぐで真摯な眼差しに、ノワールは尻すぼみになりながら、「だから、無駄なんですよ」と呟いた。


 少女は決して、ややもすれば無礼と言われても致し方ないノワールの態度を咎めることはなかった。


 ノワールとしては、責めてくれれば感情のまま言葉を続けられたのかもしれないが、そうはならなかった。そのため、彼女はバツが悪そうに少女から目を背け、俯きがちになるほかなかった。


「…申し訳ございません。とんだご無礼を…」


 少女は、ふっと微笑み頷いた。


「構わないわ。ノワールのそういう、歯に衣着せぬ物言いが気に入ったから、こんなに重用しているんだもの」


「恐縮です」一瞬だけ、二人の視線が交わる。「…相変わらず、物好きですね」


 その言葉を耳にして、少女は、今度は満面の笑みを浮かべた。年相応の表情に、ノワールも少しほっとする。


 ずっと繋ぎっぱなしだった手を離した少女は、並んで座るノワールの頬にその真っ白い指先を這わせた。びくりと大袈裟な反応をしたノワールに対し、少女は堂々と眩しい笑顔を湛えたままだ。


 何かに怯えるように必死でシーツを掴むノワール。


 彼女の脳内に刻み込まれた過去の記憶が、顔を覗かせたのかもしれない。


 そんなノワールを安心させるためか、少女はゆっくりと、相手に言い聞かせるように丁寧なアクセントで告げた。


「そう、私は物好きなの。自覚はないけれど、みんな言うから、多分そうなのね。…でも、だから、私は諦めない」


 少女の瞳が、高貴な、爛々とした光に燃える。


「だから安心しなさい、ノワール!」急に立ち上がった少女は、腰に手を当て、慎ましやかな胸を張った。「ベンデルも、アズールもない。この領地を、そういう場所にしてみせるから」


 毅然と、日向に咲く向日葵のように。少女は笑う。


 その眩しさに目を細めるように苦笑したノワールは、ほとんど独り言のように小声で言った。


「お嬢様は、どうして、そうも…」


 その小さな問いに、少女は意外そうに目を丸くして、考え込むように唸り、顎に手を当てた。それから十秒ほどして、ハッと、何か宝物でも見つけ出したように破顔し、大きな声を出した。


「それが私の、『ノーブレスオブリージュ』だからよ!」



(4)



 ノワールは、ブランが見た夢の話を聞いて、ぞっとする思いに駆られた。喉の奥から這い上がって来る、そんな不穏な気配の塊。


 ブランは――少女はまだ、綺麗な思い出ノーブレスオブリージュを抱えたまま生きているのだ。


 決して戻らぬものだと頭では分かっていながら、もしかすると、その夢想を捨てられていないのではないか。


 自分とブラン以外は、誰も通らない畦道の上に、ぽつぽつと黒いシミが浮かび上がり始める。雨音は土に吸われ、辺りは独特の雨の香りに包まれていた。


「雨、降ってきちゃったわね」ブランが寂しそうに言う。


「急ごう。あと少しで、山際の町に着くはず」


 傘ぐらい常備していたほうが良いだろうかと思うときもあるが、なにぶん荷物になる。常に必要なものだけで、頭も体もいっぱいにしておきたい。


 雨に降られながら、二人はそれまでと打って変わって、黙々と歩みを進めた。水を吸って重くなり始めた外套が、とても不愉快だ。


 三十分ほど進んだところで、小さな看板が見えた。道の上にぽつんと佇むそれには、山際の町まで、もう十分ほどの距離まで来ていることが記されていた。


 舗装されていない雨の道は、二人を寡黙にさせていた。それでも時折、ブランは遠くの景色を眺めながら、よく聞こえない声で何かを呟いていた

 。

 ノワールは、その憂いを帯びた横顔に声をかけなければならないのでは、と何度も思い、実際そのように動きかけたのだが、その度に諦め、言葉を飲み込んでいた。


 僕に言えることなど、何もない。


 だがせめて、とノワールは、昔は憎くて仕方がなかった銀糸に指を伸ばした。


 そうすることで、ブランのそばにいられると思った。

 他の誰よりも、近くに。


 しかし、ノワールの想いを拒絶するように、髪に触れられたブランは大きく体を跳ね上げて反応した。


 その瞳に宿っていたのは、太陽のような輝きではなくて、かつての自分の中に巣食っていた、陰鬱とした鈍い煌めきであった。


「ご、ごめんなさい」自分を責めているような声だった。「いや、ごめん、ブラン。僕が迂闊だった」


「違うの、触られたくないとかじゃないの、ただ…、びっくりしてしまって」


「ああ、分かっているよ」と口元を綻ばせたつもりで、ノワールは返事をした。だが、ブランの目からは、傷ついているようにしか見えなかった。


 謝り続けるブランと、許し続けるノワールは、そうこうしている間に山際の町に足を踏み入れた。


 雨が降っているせいか、通りにはほとんど人がいなかった。だからといって、警戒しなくていいかというとそうではない。事態が悪化するきっかけは、いつだって油断しているときにあるものなのだ。


 適当な宿に入り、部屋が空いているかを尋ねる。とはいっても、賑わいのある街にも思えないので、空き室がないはずがない。


 ノワールが心配しているのは、そこではなかった。


 宿屋の主人らしき恰幅の良い女性が、じろりと二人のほうを睨めつけるように顎を引いた。


 濡れ鼠になった自分たちを哀れんでいるのではない。ブランが被っているフードの下で、煌めく銀髪を注視しているのだ。


 無遠慮な視線に、隣でブランの体が固くなるのを感じつつ、ノワールは、有無を言わさない口調で告げる。


「宿を一室頼みたい」不審な沈黙が横たわる。相手が何かを言う暇を与えないよう、さらに続ける。「雨に降られて冷えているから、暖炉も使わせてもらえると助かる。もちろん、追加で料金は払う」


 革袋の中から、銀貨を一枚取り出し、カウンターの上に置いた。暖炉の利用料を加味しても、多すぎる支払いだった。


 すると、あからさまに女の態度が変わった。女は貼り付けたような笑みとセットで、今すぐ部屋の用意をすると言って、奥のほうへと消えていった。


 その背中を忌々し気に睨みながら、ノワールが口を開く。


「卑しい奴め」


「ノワール…」


「分かっている、分かっているよ。…行こう」


 ブランの口から、小綺麗な言葉が飛び出さないうちに、女の後を追う。


 案内された一階の突き当りにある部屋は、とても上等な作りをしていた。三人掛けのソファがあって、キングサイズのベッドもある。そのどちらもクッションやマットにパッチワークが施してあるのは、何とも情けなかったが、少なくとも、宿の外観から考えたら想像以上にちゃんとした内装だった。


 肌着になり、服を乾かす準備をしてから、すぐに夕食の用意をしてもらう。そして、備え付けの暖炉の前でそれらを平らげる。用意された食事は、鶏肉と人参、じゃがいも以外は何が使われているか定かではなかった。


 食事が済んで、服が渇いても、二人はごうごうと燃える暖炉の前から移動しようとしなかった。それどころか、火の粉が当たるのではという距離まで近づく始末である。


 バチバチと音を立てて、室内をただ一人の力で照らし続けている火炎は、二人の対照的な色をした肌を、薄暗い部屋の中に浮かび上がらせた。


 不意に、ブランが声を発した。外から聞こえてくる、雨が窓ガラスを打ち付ける音に負けそうな声だった。


「…ごめんね、ノワール」夜になると、彼女はこの言葉を好んで使い始める傾向があった。「何が?」


 素知らぬふりをしたノワールの腕に、自分の腕を密着させるようにして、ブランが続ける。


「貴方にまで、こんなコソコソした暮らしをさせてしまって…」


「はぁ、またその話?」うんざりした様子でノワールがため息を吐く。「だって…」


 言い澱んだブランは、両手で自らの体をきゅっと、強く抱きしめた。


 それくらい、僕がするのに。


 そう考えるノワールだったが、今までだって、一度も彼女を抱きしめたことはなかった。


 …いや、一度だけあったか。


 そのときのことを、ブランも思い出していたのかもしれない。


 眼前で煌々と燃える炎は、あのとき僕たちが見た光景を、記憶の底から引きずり出すのにあまりにも十分に思えたからだ。



(5)



 猛り狂う雄牛のような炎が、あちこちで上がっているのが見える。


 形あるものを呪い、灰に還すことを自らの使命だと信じているような赤い舌が、屋敷のあらゆる物を覆っていた。


 庭師が剪定していた綺麗な中庭も、毎年、少女の身長が刻まれていた柱も、毎日踏みつけていた木の床も…。尽くが赤く揺らめいていた。


 その赤は、炎の明かりだけではない。


 横たわる顔見知りたちの体からオイルみたいに零れ出ている、血液のせいでもあった。


 そんな中を、僕は走った。


 自分と同じ服を身にまとった、物言わぬ同僚たちを踏み越えて、屋敷の中を真っすぐ走っていく。

 炎の熱が、額に滲み出る汗を浮かび上がらせていても、僕は、一切気にせず、ひたむきに足を動かし続けた。


 上へと向かう大階段の前に辿り着いたとき、二階から誰かが叫び声を上げて、階段を転がり落ちてきた。咄嗟にそれを躱したノワールは、夥しい血を巻き上げる屋敷の兵士に息を飲んだ。


 上階を見上げる。そこには、侵入してきたベンデルの民に追い詰められている屋敷の主人と、数名の兵士、それからフレデリクの姿があった。


 自分に色んなことを教えてくれた恩師の窮地に、ノワールは大声を上げる。


「フレデリクさん!」その声に、誰より早く反応したのは主人のほうだった。


「おい、小僧!早く私を助けろ。拾ってやった恩を返すのだ!」


 自分が冷静だったならば、その恩着せがましい言葉に、激昂したかもしれない。だが、灼炎と、死体と、全てが燃え尽きていく不安と恐怖によってパニックになっていたノワールは、体を固くして立ち止まってしまった。


 自分が何をしにきたのか、分からなくなったのである。


 言葉通りに、この屋敷の主人を助けるべきか、それとも、恩師を?いや、こんな炎に囲まれていては死んでしまう。折角拾った命を捨てるなんて、愚かにもほどがあるではないか。


 困惑して、ぽかんと口を開けたままになっていたノワールを動かしたのは、普段は声を荒げない男の、大きな叫びだった。


「行きなさい!ノワール!」


 その声と共に、上階から剣が蹴り落とされる。屋敷の兵隊のものではない。おそらく、侵入してきたベンデルの民のものだろう。


 灼熱の大広間に響き渡った、カランカランという高い音に、混沌としていたノワールの意識は明瞭になった。


「早くしなさい!」


 ダメ押しの一声に、ノワールは弾かれるようにして燃える階段を駆け上がった。その片手には、ベンデルの剣が握られており、鉄の持ち手は酷く熱かった。


 自分の窮地にも関わらず、逆方向に走り出したノワールと、そう命じたようにしか聞こえないフレデリクに、屋敷の主人が喚き散らすも、風のように距離を離していくノワールにはまるで届かない。


 本当の主の元へ駆ける彼女は、頭の中のどこかで、故郷の風を思い出していた。


 潮風と、砂塵の舞う乾いた土地。


 海を臨むその地で、船上の風を感じていたのを思い出す。


 その風のように…、ノワールは訪れ慣れた少女の部屋の扉を跳ね開けた。


 彼女の目に飛び込んできたのは、天蓋ベッドの端まで追い詰められた少女と、その幼い命の灯火を絶やそうとしている男の背中だった。


 お嬢様、とノワールは叫びそうになった。しかし、彼女の人並み外れた狩猟者としての本能が、その声を喉の奥へと押し返した。そして、こちらに気付いていない男の背中に狙いを絞る。


 床を蹴り、盗み見ていた兵士の動きを真似て、剣を振りかぶる。


 想像以上に、剣先が重い。


 袈裟斬りに振り下ろそうとした刹那、男の背中越しに少女と目が合った。その瞳に、かつてないほど色とりどりの感情が宿る。


 自分が助けに来たことへの喜び、希望、安堵…。

 だが、それと同じぐらいの不安と、恐怖…。


 少女の視線から、本能的に危機を悟ったのか、男が体を反転させようとしているのが分かった。


 まともにやりあっても、勝ち目はない。


 とにかく、この不意打ちで決めなければ…!


 身長差が激しかったため、ノワールの振り下ろした太刀筋は、男の右の肩甲骨辺りから、左の腰の付け根辺りに軌道を描いた。


 床に散っていたものと同じ色の鮮血が舞う。


 だが、手応えは鈍い。


 半端な歳の、しかも、女の腕力では、軽装甲とはいえ、鎧の隙間を断つことはできなかったのだ。


 それでも、男は苦悶の声を上げていた。それを耳にした瞬間、自分が人を斬った、という事実に今更ながらに気がついた。


 しかし、それを恐れるノワールではなかった。


 獣を狩るときと同じだ。


 やらねば、やられる。


 自分は別に構わない。元々路地裏で拾った命だ、たいした命じゃない。


 だが、お嬢様は違う。


 再び両腕に力を込め、今度は確実に致命傷を与えるべく、鎧のカバーが効かないところを狙って薙ぎ払うが、鬼気迫る形相で振り向いていた男の剣に容易く弾かれ、尻もちをついてしまう。


「ノワール!」少女がベッドの上を這って、慌てて近寄ってくる。「来ないで、お嬢様!」


 彼女の声を聞いた瞬間、男の動きが静止した。目は丸々と見開かれ、振りかぶられた剣先は天井へ高く掲げられたままであった。


 ノワールには、直感的に、男がどうしてフリーズしたのかが理解できてしまっていた。そのことで、彼女も数秒足らずの間、躊躇し立ち上がることが出来なくなる。


 本当に斬るのか、同胞を。共に時代に虐げられてきた者を。


 すると、ノワールと命がけの沈黙を共有していた男の背後から、突如、少女が身を躍らせ、飛びかかった。


「ノワール、やりなさい!ノワール!」


 殺すか、殺されるかという状況の意味を、真に理解していたのは、もしかすると少女だけだったのかもしれない。


 男は自分の胴にしがみつき、少しでも動きを抑えようとしている少女を見下ろし、怒鳴りつけた。


 剣を握っていないほうの肘で、少女のつむじを強く叩きつける。


 今まで、一度も人に本気で殴られたこともないような少女の悲鳴が、鼓膜を揺する。


 それらを目にし、耳にした瞬間、ノワールの中で大きな決心が固まった。


 自分の喉から、抑え込んでいた叫びが飛び出る。


 声、というよりも、獣の咆哮に似たそれは、自分の構えた切っ先が男の体を貫き、やがて身動き一つしなくなるまで長く続いた。


 激しく息を荒げ、いつまでも落ち着かない鼓動をなだめようと、胸に手を当てる。だが、そんなことに効果はなく、早鐘を打つ心臓は暴れまわるばかりだった。


 同族を、殺した。


 ベンデルの民を、この手で、殺した。


 相手は…、殺しに来た僕を見て…、僕が同胞だと分かったから、殺すかどうか迷ったのに。


 僕は…。


 気付けば、涙が溢れていた。黒曜石のような瞳から零れる二筋の流星は、炎の煌めきを吸い込んで、ルビーのような色に変わっていた。


 僕は、このとき、悟ってしまったのだ。


 もう二度と、ベンデルの民としては生きられないと。


 表面上、偽ることはできるかもしれない。だが、心までは偽れない。


 アズールの民である少女のために、ベンデルの民を殺めた。


 帰り着く場所が、どこにもなくなったのだ…。


 ぎゅっと、温かな感触に包まれ、ノワールは顔を上げた。


「ノワール、どうしよう、ノワール…!」少女も、泣いていた。「私、人を、殺させてしまった。貴方に、ベンデルの民である、貴方に…同胞を…!」


 僕と同じように、ベンデルの民の返り血で頬を赤く染めた少女が、混乱し、取り乱し、途方もなくなった様子で、僕にしがみついてくる。それを強く抱き返して、息を吸う。


「逃げましょう、お嬢様」僕は、反射的にそう口にしていた。「ここにいては、僕も、貴方も、殺されます」


 驚き、呆気に取られた顔で少女は答える。


「に、逃げるって…、どこへ?それに、まだお父様たちが…」


「旦那様はもう死んだ」急な苛立ちに支配され、ノワールは矢継ぎ早に続ける。「フレデリクさんも、死にました。この目で見てはいませんが、あの人数に追い詰められていたら、生き残れるはずもない」


「嘘よ…」


「事実です」


「駄目、この目で確かめないと」


 どうして、彼女はこの期に及んでもまだ、そういうもののために危険を冒すのか。彼女はきっと、事の大きさが分かっていない。


 領主の屋敷が攻め込まれる、というのは並大抵のことではないのだ。それだけ周到な計画が練られており、その裏側には、とてつもない民族単位での憎悪が蠢いている。


 ここが襲われた以上、他の主だった拠点も狙われるだろう。あるいはもう、ここより先に灰と化しているかもしれない。


 彼女の、純血のアズールの民の居場所は、もうこの領地にはないかもしれない。


 それなのに…。


 一向に言うことを聞く気配のない少女の肩を乱暴に掴み、揺さぶる。


「もしも、お嬢様がここで死んだら、僕は、何を拠り所にすればいいんですか?僕はもう、ベンデルの民には戻れない。そうだ…、僕だけじゃない。お嬢様ももう、アズールの民には戻れない」


「ど、どういうこと?」少女が困惑した面持ちで呟く。「私は、アズールの民よ。それも、純血の」


「いえ、見てください、この景色を。アズールの民であるうちは、これがどこまでも付きまとってきます。死の影です。ここに横たわる男が発している死の影が、地の果てまで付いてきます。それが、ベンデルの民の怒り。民族間戦争の、最も呪わしい部分です。生まれのためだけに、虐げられ、蔑まれます。あの日、お嬢様が拾ってくださった僕の姿、路地裏で蹲り、死を待つだけのものに、次はお嬢様がなるのです。このままここにいては」


 部屋に充満しつつある煙で、ノワールが咳き込み、一度話が中断される。しかし、すぐに彼女は夢現のようになると、眉間に皺を寄せて苦しそうに言った。


「いえ、お嬢様は綺麗だから…、これからだって、もっと綺麗になるだろうから…、僕よりも、ずっとずっと酷い目に遭う」


 その独り言のような響きによって、ノワールの脳髄に浮かんでいたおぞましい妄想が伝染したのか、少女もごくりと息を飲む。


 最早、一刻の猶予もなかった。


 ノワールが飛び込んできた扉は上から下まで、炎の宿り木となり、生あるものを拒絶する壁となっている。


 このままいつまでもここで蹲っていては、丸焦げになることは明白だ。


 だから、僕たちは屋敷を後にした。


 二階の窓からカーテンを使って、中庭に下り、誰のものともしれない怒号や絶叫、鐘の音を背にして、馬小屋のほうへと走り出す。


 煙と火を本能的に恐れ、パニックを起こしそうな一頭を鎖から放つ。ノワールが思っていた以上に激しく暴れまわる馬に危険を感じながら、何とか飛び乗り、なだめる。


 使用人の仕事として馬たちに接していなければ、こううまくいかなかったかもしれない。


 少女を鞍に引き上げ、敷地内から逃げ去ろうとしたところ、彼女が、残った馬たちも解き放つよう言った。


 そんなことをしている暇もないと思ったが、知能の高いこの愛しい隣人たちが、炎と黒煙に怯え死ぬことを考えれば、体が勝手に動いた。


 混沌と共に自由を手にした馬たちに紛れ、僕たちは夜の闇を駆け抜けた。案の定、領地のあちこちで火の手が上がっているのが見えた。


 灼炎に焦がされる空に、星が瞬いている。


 その弱々しい光が指し示す先をなぞろうと、必死で目を凝らしたが、少女にはもちろん、ノワールにとっても、その暗闇は深く濃かった。



(6)



 暗がりに、何かの気配を感じてノワールは目を覚ました。


 耳を澄ますと、ドアのほうからカチャカチャと鍵を扱うような音が聞こえてくる。


 チッ、と心の中だけで舌を打つ。このような経験は初めてではなかったため、一体何が起こっているかは把握できていた。


  素早く闇の中を動き、穏やかな顔で眠るブランの肩を揺する。寝ぼけ眼で首をもたげた彼女に、小声で囁く。


「ブラン、ベッドの下に隠れて」


 その一言で、彼女は一瞬のうちに目を覚まし、切なげな顔で頷きベッドから下りた。


 部屋の外の気配に全神経を集中しつつ、枕元に置いておいた剣を鞘から静かに滑らせる。


 何かを研ぎ上げるような、狡猾で獰猛な響きだ。


 扉の死角になる位置まで床を這って進み、息を殺す。


 ガチャリと扉が開き、細い光が灰の積もった暖炉を照らした。


 数人の男の影がのろのろと室内へ入ってくる中、入り口のほうから女性の声が聞こえた。確か、女主人の声だ。ごゆっくり、と扉が閉められ、再び暗黒の世界が広がる。


 アズールの民ならば、下卑た男たちの贄にして、自らの小遣い稼ぎに利用しても良いと思ったのだろう。


 かけられた布団を引き剥がすタイミングをニタニタと待っている男たちの後ろで、ノワールも同じようにタイミングを図っていた。


 先頭の男が布団を勢い良く舞い上げた。だが、そこに誰もいないことに目を丸くする。


 その背後から、最後尾の男目掛けて剣を一薙ぎする。


 虚空を断ったように軽やかに、何の抵抗もなく振り抜かれた刃と共に、鮮血が舞い、ドサリと一人が床に倒れ込む。


 何が起こったのか、分かっていない残りの二人のうち、近いほうを二の太刀で斬りつけ、息つく暇も与えず、最後の一人の首を刎ねる。


 三人とも、馬車に引かれた蛙のような声しか発さなかった。


 それが、彼らの最期の言葉になったのは、ある意味幸福かもしれない。それだけ一瞬で死ねた、ということなのだから。


「もういいよ、ブラン」ゆっくりと、様子を窺いながらブランがベッドの下から這い出てくる。「…終わったのね」


 こんなことばかり、上手くなってしまった。


 背も伸び、力も付き、技も磨いた。どれも、生きるために必要だったことだ。


 隣に並んだブランは、返り血に塗れたノワールに抱きつき、また小さく謝った。しかし、今はもうそれどころではない。


 素早く荷物をまとめ、二人で部屋を出る。


「ひっ」と返り血に塗れたノワールを直視し、腰を抜かした女主人を睨みつける。


 斬るか、と一度納めた刃がノワールに問いかけているような気がした。


 駄目だ、そんな暇はない。


 無言でその横を通りすぎる。その際に、ブランが物言いたげに立ち止まったが、無理矢理にでもか細い腕を引いて、月の光が支配する外の世界へ出た。


 早足でその場を後にしつつ、次の進路を悩んでいたノワールにブランが呟く。


「ごめんなさい、ノワール…。貴方にばかり、辛い思いをさせてしまって」


「辛くなんてないさ、僕は何ともない」


「嘘よ」と蚊の鳴くような独り言を漏らす。


「本当さ」町外れが近づき、人の気配がまるでなくなってから、ようやく足を止める。くるりと体をブランに向け、ノワールは大きく息を吸い込んだ。


「僕は…、お嬢様が無事ならそれでいい」


「ノワール…」


「そもそも、この国で一緒に生きていくためには、僕が戦うしか道はない」


 冷淡過ぎる物言いかもしれないとも思ったが、それは何よりもの事実だ。


 あの夜を境に、この国と、その近辺の勢力図は大きく変わってしまった。


 今やほとんどのアズール領地がベンデルに支配されていた。


 かつて奴隷だった人々は、それまでの主人を奴隷として酷使するか、殺すか、玩具にするかして、鬱憤を晴らすことを生きがいのようにしていた。


 所詮、どちらも同じ人間なのだ。そして、人間とは、支配や暴力、復讐を好む生き物なのだろう。


 その連綿と続く輪の中から、僕たちは抜け出したくて、こんなことを続けている。


 永遠に、あてのない旅を…。


 何の保証もない、未来なき旅路だ。


 ぎゅっと、ブランが僕の体に腕を回した。肩が震えている。泣いているのかもしれない。


「いつまでもは、続けられないわ…。きっと」


「…うん。そうだね」


 僕の声に反応し、少しだけ顔を上げた、その白磁器みたいに繊細で白く美しい額にキスを落とす。


「それでも、続けられる限りは行こう。どこまでも、行こう」


 ノワールの優しい声音に、ブランが空元気を出して微笑み、頷いた。


 月光にも勝る白い頬が、作り物みたいな儚い尊さに満ちていた。


 ノワールは、その頬に両手を添え、顔を近づけながら思った。



 …僕は、明日この旅が終わっても構わないと思っているんだよ、お嬢様。



 この旅の終着点が、貴方の隣なら…、いつだって、どこでだって、終わったっていいんだ。僕は。

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