2.碧色の主
本を読んでいるといつのまにか寝てしまったなんてことは、おそらくだれにでもよくある話だろうと思う。
本を読まない人には無いかもしれないが。
とはいえそれを見事に実行してしまっている人間を目の前にして、青年は困ったなと溜息を吐いた。
不用心にも鍵のかかっていない屋敷の住人は、散々歩き回って見つけた奥まった場所の書斎に確かに存在していた。
明かりがついていないと思っても仕方がない。この書斎の窓らしき場所は、今目の前で本を枕に眠っている相手のすぐ後ろにしかない。
ちょうど、そこは門のほうからは見えない位置である。
薄暗いランプの明かりが照らすその一角で、青年はどうしたものかと思案する。
目の前で眠っている、碧の髪の――おそらく女性だろうか?彼女は、身形からしてこの屋敷の主か、その妻だとか娘だとか言っても良さそうな品のいい服装をしていた。
読んでいた本がどんなものかはわからないが、机の上に置かれている本はどれもかなり古い。手にとって表紙を見ると、自分には読めない文字のものさえある。
「……魔術関係のものか?それにしても、すごい量だな」
目の前の相手を起こすのも申し訳ない気がして、青年はまわりを見渡す。
広いとも狭いとも言えない空間に、所狭しと並べられた本棚。その本棚にも入りきらないのか、いくらかの本が床や脚立に平積みされている。奥のほうは暗くてよく見えないが、他もこんな感じなのかもしれない。とにかく、溜息が出るほど本だらけであった。
ここまでの量の蔵書を、目の前の人物はすべて読んだのだろうか。それは聞けばわかるかもしれないが、当の本人は本の上に突っ伏して眠っている。
顔が見えないため年齢も全くわからないが、随分と華奢な人物ではあるようだった。
そんなことを思っていると、不意に、目の前の碧色がもそもそと動く。漸く机に突っ伏すという辛い寝方に体が文句を言ったのかもしれないが、青年にとってはとても都合の悪い状況ではあった。
まったく考えていなかったが、目覚めて目の前に知らない男がいればそりゃあ、女性なのだから驚く以前に怖がるのではないだろうか。しかも自分は帯剣している。怪しさもぶっちぎりなはずである。
まず彼女が起きた瞬間にどう言い訳しようか。そんなことを思っているうちに、目の前の相手はゆっくりと頭を上げた。
寝起きでぼんやりとした碧色の瞳に、自分の姿が映る。しばらく視線を交わらせていたような気がするが、先に声を発したのは「彼」のほうだった。
「……あれ、お客様?珍しいね……」
まだ眠そうにしながらもはっきり発せられたその声は、ほんの少し中性的でハスキーな――だが、それとわかる男性のものだった。
「……成程、それでこの屋敷へ?」
シャワーを借りた後、通された客間で紅茶など出されながら。
青年は今し方まで女性と思っていた「少年」に、ことの経緯を説明していた。
そもそも自分が無計画に街をふらついた結果みたいなものなのだから、ただそれだけで不法侵入された少年のほうはいい迷惑だろう――と思っていたのだが、当の本人はなぜかにこやかに茶菓子はどれがいい?などと聞いてくる。
その笑顔は自然なのだが、なぜか張り付いた笑みにも見える。おそらく自分の気のせいだと思うのだが――
「お名前、聞いてませんでしたね」
紅茶のお代りをカップに注ぎながら、少年は微笑む。声もそんなに低いわけでもなく、背も低い彼はやはり、ちょっと着るものを間違えば女性で通用してしまいそうだ。
そう思いながら返答に詰まる。自分の本名を明かしてもよいものだろうか――
「僕は、クレア・クライス・ライア。一応はこの屋敷の主です。……貴方は、騎士とお見受けしますが」
「……ルカ。見ての通り、騎士として公務についている身分です」
散々迷ったが、本名ではなく愛称を名乗ることにした。というのも、現状この少年――クレアの身分がはっきりしないままでは素性を知られてはならないのだ。
姓まで名乗らないことに関しては察しているのだろうか、クレアは笑顔のまま正面のソファに座る。
「では、ルカとお呼びします。こちらも好きに呼んでくださいね」
追及されないことに少し感謝しながら、ルカはゆっくりと頷いた。