11.異変と混乱
「全く、人間なんて能天気な生き物だね。ちょっといい事があればすぐに嫌なこと忘れるんだから」
クライストの周囲を囲むように建てられている塔、そのうちの一つに「彼」はいた。
端正な顔立ちに、光のない黒い瞳。街を歩けば間違いなく女性が寄ってきそうな美貌の持ち主だが、残念なことに髪から顔をのぞかせる蛇たちが、彼を人間ではないと証明してしまっている。
『面白くないですね、旦那』
「お前と気が合うのは些か不愉快だけど……確かに面白くないね。随分楽しそうな食事相手だったのに」
髪から首を伸ばしてくる蛇に答え、それはにたりと微笑んだ。
片手に持っていた白い仮面を顔にかぶせ、塔の頂上――その、中央へと歩みよる。
「さて、ペリドットから借りたあれでもばら撒いてあげようかな。……この結界を破壊してね――」
「クレアちゃん、眼鏡姿も随分板についてきたんじゃね?」
廊下ですれ違いざまにそんな事を言われ、クレアは持っている書類で彼――ケイマの頭を軽く殴る。
「馬鹿言ってないで、仕事してよね。君のサインが必要な書類、まだこっちに回ってこないじゃない」
「ふえーい、すいませんした!」
相変わらず――と、今となっては言えるそんな掛け合いをしながら、クレアは私室のドアを開く。仕事用の執務室として城内に設けられたその部屋のプレートには、「師団長」と書かれていた。
一般に公開されていなかっただけで、今までルカが埋めていたという師団長の席は、戴冠の儀から随分と長い間空席になっていた。
本来ならば下の階級から、相応しい者を選ぶはずの席。そこに座っているのは、自分でも場違いではないか――そんな事を未だに思わないでもない。
仕事はしっかりとこなしているし、本来の師団長の役目である政治的なサポートも、多分、悪くはないはずだ。
だが、未だにルカから一本も取れないような実力ではたして「騎士」と呼ばれていいものなのだろうか。
――そんな事を悩んでいる矢先だった。
「――おい、クレア!ヤバいぞ、西塔の結界が破れた!」
派手な音を立てて、ドアを開け――るどころかぶち破ったその相手に、一瞬目を丸くする。
が、その口から飛び出した物騒な言葉にすぐに眉をひそめた。
「結界が――破れた?」
「……そりゃ、塔自体が破壊されたんだからそう言うのが適切だろ」
さらに付け加えられた言葉に、その場にいた補佐官の顔が青くなる。
ここでパニックになられては面倒だ。仕方なく、クレアは補佐官に向かって適当な指示を出す。
「聖騎士と神官たちに各塔の結界の確認と修復を命じます。伝令は任せますよ」
「はっ、はい!失礼します!」
やることさえあれば彼らは動く。慌てて出て行った補佐官を見送ると、クレアは目の前の男――緋色の髪の騎士に視線を戻す。
「それで、破壊した犯人の目処は?」
「……黒装束の男がいたという話しか、今のところ聞かん。それも塔の下から目撃した市民の証言だからな、正確性はあまりない」
的確で簡単な説明に、クレアは小さく頷いて立ち上がる。
「西塔は、貿易船も入る港がある。魔物が入り込んだらちょっとの被害じゃすまないだろうね。
カイ、君のところの部隊は動かせる?」
「問題ない。既に港のほうに防衛線を張るよう指示しておいた」
「さすが。じゃあ行くよ」
予想通りの手早い配慮に、クレアは満足げに頷き剣を取る。
さすがに、何年も手にした剣はいい加減手に馴染んでいた。
「犯人を探す気か?」
「勿論。どういう手合いなのか、かなり心当たりがあるからね」
眼鏡の位置を直しながら外套を羽織る。不思議そうに眉をひそめるカイにいつもの笑みを向け、私室を出た。




