挨拶
なりたいものになる、夢を追い続けるのは難しい。それが例え、自分の好きなものだったとしても。
うちにもそんな経験があった。大好きな人に憧れ、始めたものが。やがて大好きになり、高みを目指したものが。
ただ、意外にも少しの傷だけで脆く崩れてしまうのだから本気と覚悟が足りなかったのだろう。
「えみみん、笑咲ちゃーん、えーみーみーん」
重い瞼を持ち上げると、赤いツインテールがあった。
「ごめん、寝ちゃってた?」
「うん、思いっきし。もうすぐホールに着くよ」
ほらあれ。指差す方を見ると、学園バスは百合ノ花ホールへの駐車場へと向かっていく。
「……広くない?」
百合ノ花生は常時無料のバスを降り、他の学生達と一緒に大きな建物に入っていくと綺麗なエントランスが広がっていた。エレベーターにホテルマンのような厳かな服を着たスタッフ、二階まで繋がっている螺旋階段。
「そりゃそうだよ。百合ノ花ホールだもん」
「昔の第一体育館じゃなくて?」
ちほちょんによると、旧体育館ではあったが、現在は地元民も使えるホールとして開放しているみたいだ。当時のセキュリティーや機能はそのままで、文化祭の文芸部発表会もここで開催するらしい。高い天井を見上げていると首が痛くなった。
「この学園、演劇部なんてあったんだね。それで、えみみんの先輩達はどこにいるの?」
「エントランスに行けば分かる、と言われたんだけど……」
入部届けの用紙にペンを走らせていた新入部員に「明日、春フェスがあるから良かったら観に来て」と部長が誘ってくれた。聞き慣れない音楽フェスのようなイベントの誘いで戸惑ったうちらに説明を加えたのが鬼灯先輩だった。
「乃音さんの言う『春季高等学校演劇発表会』は春に行われる演劇部の発表会です。この辺りは学校が少ないので参加校はあまり多くありませんが、如月さんや水瀬さんに演劇に触れてもらえるいい機会かと思います。春に行われる大会も春フェスと呼称されがちなので気をつけてください」
春フェスの詳しい説明に対し、待ち合わせ場所はざっくりしたまま解散だった。聞くのに大変な勇気がいるうちはさておき、同じくメモをとっていた水瀬さんはどう思っただろう。
演劇の衣装で目立つ、という意味なのかもしれない。辺りを見回すも、白、白、白のセーラー服で昨日会ったばかりの部長達は見当たらなかった。
その時、背後から誰かのため息が聞こえてきた。落胆といったものではなく、感動に近い。
「……あっ……」
入口から現れた白い少女。腕も脚もスラリと長く、小顔は握った手ほどという表現は言い過ぎではない。顎より短い髪が一本一本綺麗に揺れ、輝いている。ここにいる誰よりも存在感がありながらも、誰も近寄らないそんな不思議な光景だった。
「うわあ……、美人。あんな子見たことないね」
瞬きすら許されないような、それでいて歩く姿はゆっくりと見えて、彼女の周りだけ次元が違っているようだった。そんな魔法にかけられているなか、深海の瞳と目が合う。
どき、と心臓が跳ねる。当たり前や、偶然とはいえ、大勢の中で目が合ったんやから。うちはそう思っていた。それは勘違いのようで、水瀬さんは向きを正面ではなくうちのいる方に進んでいく。こっちに今日のスケジュールが載ったチラシがあるからやんな?
「あの人、えみみんに向かってきてない?」
ちほちょんの指摘は正しかった。他の者に目を留めず歩み寄ってくる。スローに見えた魔法は今のうちには効果が無い。速く来る。逃げられなかった。不思議と身体が動かない。まるで金縛りにあったように。
床板一つ分残し、水瀬さんは足を揃えて止まる。睫毛が彼女の瞳を際立たさせ、薄ピンクの唇も艶プルだ。美しさの具現化とはこういう人を言うんやな。うちは見惚れていた。
「貴女よね、如月笑咲さん」
「あ、はい……」
まさかフルネームで呼ばれるとは思わなかった。しかも覚えていたのか。それでいて昨日と変わらない、涼やかな声。さっきとは別の意味で心臓が跳ねる。
「じゃあ、行きましょう」
反応する暇もなく手を握られ、心臓が一番大きく跳ねる。体温の高いうちよりもずっと低い。肌はしっとりと水分を含んでいた。
周りがザワついた感じもしたが、水瀬さんは周りのことなど気にせず半ば引きずるように歩き出した。ちほちょんが大慌てで助けようとしてくれるけど、運悪くセーラー服の波に飲み込まれていくのが見えた。
うち、どっかに連れて行かれるんやけど!? 思ってたより力あるし!
先日の身体測定で六十をきってしまった自分を動かせる何をとっても正反対の彼女に開いた口が塞がらない。
「ど、こに……行くん、です?」
「入部したからには後輩として挨拶は欠かせないでしょう」
反対方向にある窓際に連れて行かれた。三重にもなった集団が誰かを囲んでいて、爪先立ちをしても前の人の旋毛を見るので精一杯だと思った。
「何を仰っているのかいまいち……」
水瀬さんは眉を動かし、うちは何かおかしなことを言ったのかと自分を疑ったがやはり状況が飲み込めない。
挨拶と言っても部長達が見当たらないんやし、どないしろと。
百合ノ花のセーラー服もいれば、ブレザーを着用する者もいる。この囲みと何が関係あるのだろうか。
全く言動が読めない水瀬さんに困惑していると突然、彼女は集団の中に入っていった。流されたのではない。自らの意思で突き進んでいったのだ。繋がれた手はいつの間にか離してある。
「み、水瀬さんっ!?」
隙間からするりと入っていった水瀬さんは外からではもう確認出来ない。普通の女子高生より身長高いはずの彼女が何故あんな行動が出来るのかやっぱり分からない。
ここに誰かおんの?自分一人ではどうしたらいいか、席に着いておいた方がいいのか悩んでいると、
『俺はお前とは違うんだ。分かったのなら、もう掛けてこないでくれ』
この台詞、あの声、堂々とした言い回し。
部長のラビリンスの台詞……!だから水瀬さんはこんな中にも飛び込んだんやな。
「挨拶……か……」
あんなにもぐたぐたなうちを受け入れてくれた先輩だ。演劇に関して興味がある水瀬さんとは動機が違うけど、挨拶は大事だ。言い分も正しいように思えてくる。今を逃せば終わるまで挨拶することは不可能のはずだ。
隙間が出来たのを見計らい、腹を引っ込めて前へ突き進む。林のように連なる足を踏みそうになり、流されそうになる。
「ちょっと、痛いからやめてよ!」
「ご、ごめんなさい!」
背が低いとはいえ、力で腹をへこませてもそれは一時にしか過ぎない。しかも声を出したことで力が緩み、だらしない腹が戻ってしまう。誰かに弾き飛ばされ、うちは眩しさに顔を顰めた。
「おや、如月ちゃんじゃないか」
背中から落ちてしまうかと思っていたが、誰かの腕に支えられて難を逃れた。助かった。
赤眼鏡は外され、目元に青のアイラインが入っている。顔に影が出来ているものの、美形であることは直ぐに分かった。
「部長……おはようございます、さまです」
「あはは、ありがとうー。あたしの隣にお座り?」
部長の左隣には水瀬さんがいた。うちは部長のドレスをお尻で踏んづけないように注意してソファに据わった。三年の部長の隣に座っていても違和感はなく、右隣に座ったうちの方が異物感があって顔が上げられない。
「鬼頭様のお知り合いですか……?」
「うん?そうだよ、昨日入部してくれた一年の如月 笑咲ちゃんと水瀬 カリンちゃん。二人とも可愛いよね〜」
可愛い。セーラースカートを掴む両手に力が入る。顔と耳が熱いのは褒められたからなのか、肩を抱かれたからなのか。うちのどこに可愛い部分を見出したのかもさっぱりだけど、頭を下げた。
「あああ、りがとうございます」
「ほらね、可愛い」
上機嫌な部長の言葉に釣られてなのか、周りの女子達も頷き合っていた。うちが他人からの初めての評価を必死に飲み込もうとしていると、この奇妙な空気を指摘したのは顔色一つも変えていない水瀬さんだった。
「鬼頭部長、先ほど鬼灯副部長が鬼の形相でメイク室の前で仁王立ちされていましたよ」
そういえば他の先輩達はどこにおるん?
ここには部長を囲む女子が沢山いるが、演劇部員はいないようだ。部員なら彼女のことを鬼頭様とは呼ばない。
笑咲は肩が揺れていることに気付いた。自分の肩ではない。回った手が小刻みに震えている。隣にいる本人の顔を覗くと顔が青ざめていた。
「本当……?」
「あ、言い方が駄目でしね。微笑んだ鬼灯副部長が丸めた台本をお持ちですよ。『リップサービスもほどほどに』との伝言を預かっています」
「そっちの方が駄目じゃない!? 今、い、いい行きます!皆、演劇楽しんでいってね! あ、二人は部員だから前列に座ってね」
一年部員を挟んだ部長はすぐさま立ち上がると、集団をかき分けていく。ホールの何もない所で盛大に転ぶも、またすぐに体勢を整えて階段に上っていった。ロングドレスを束のように持ち上げていた。
「おいたわしや、鬼頭様」
部長がいなくなると取り囲んだファンは一人、また一人と掃けていった。真ん中をぽかんとあけたソファに取り残されたのはうちと水瀬さんだけ。声を掛けるか迷ったけど、やっぱり口を噤んだ。
それにしても、べっぴんさんやな……。
長い睫毛は上向きになり、虚無いた儚い瞳、鼻筋はすーっとしていて、童顔でぽっちゃりのうちとは全く違う。座高が大して変わらないおかげで昨日より観察が出来る。チラ見しても美人やから、見返りされたら石化しちゃうんちゃうの?言霊は胸の内でも効果があるらしい。水瀬さんの両目がこっちを見た。石化はしなかった。
「公演まで十五分よ。そろそろ席に着いていた方が良いんじゃないかしら」
「あ……、ああ、そうです、ね」
たしか前方の席に着いてと言われてたな、と思い出す。ちほちょんと隣の席じゃないのは残念で仕方ない。
「ほら、行くわよ」
目下に手の平が現れる。手相が肌の色と同化するほど薄いことにまず驚いた。
「何してるの、早く行かないと遅れるわよ」
微動だにしない手と水瀬さんを交互に見つめ、うちはやっと理解した。手を取れ、と。
自分で立てるんやけど……。何故、いきなり紳士的に?同じ部員やからといって、一緒に入らなくてもええよな?
集団の中に入る勇ましさといい、本当に演劇部かどうか分からないのに門を叩いたり。結果として正解だけど、顔一つ変えない数々の言動には凄いの評価を超えていた。
「わっ……!」
美人は凡人の躊躇を待てなかったらしい。また彼女の柔らかな手指に包まれてしまう。エントランス内の視線が交わる中、水瀬さんはうちを連れて会場に入っていった。
羞恥に耐えきるなんてうちには到底不可能なのに、汗で滑り離されないように指を折り曲げた。声を上げても解放してくれずに白い目を向けられるルートが過ぎったわけじゃない。わけじゃないんだけど、とくとくと打つ脈はどっちのものなのか、何故、そう感じるのかはその時のうちには皆目見当もつかなかった。