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それからしばらく時が経ち、その日から約七年が経過した。一人の少女が、エトリセリア王城の北にある広大な森の奥の、誰の人目もない天文台に暮らしていた。その周りは深い緑色の木々に覆われ、誰もその建物を認識することはできない。そもそも、その存在を知る人はほとんどいない。知っているのは、この天文台の住人である少女と、彼女をそこに行かせた人くらいだ。元々はこの天文台も星術のために使われていたのだが、いつしか使われなくなってしまったのだという。
そんな場所に住んでいる彼女の名は、エリカ。エトリセリアの王女の一人だ。エリカは星のような色の澄んだ瞳で星術に関する本を読みながら、箒でゆっくりと床を掃いていた。しかし、ほとんどその目は床に向けられていないため、ちゃんとした掃除にはなっていない。
その部屋にあるのは、星に関連するものばかりだ。望遠鏡や天球儀、星術に関わる本、天文学の本など…。様々な物が乱雑に置かれている。ただし、これはエリカがやったのではなく、彼女が来た時から元々そうなっていた。恐らく、ここが本来の使われ方をされていた頃の名残だろう。エリカはたまに暇つぶしで望遠鏡を使っているが、それ以外のものはほとんど使っていない。観賞したり、軽く触ってみたりする分には非常に綺麗だし、面白いものばかりだが、今はもうほとんど意味のない道具ばかりだ。これでもかなり片付けた方なのだが、未だにそれが完全に片付くことはない。どうせエリカは使わないのだから、他の天文台にでもこれらを移動させたいのだが…。
「星術とは、どの星が出ているかとどの方角に何の星があるかによって未来を読み解く、我が国にしか存在しない、特殊な技術である…か。…やっぱり、私の力に関する記述はないみたいですね…」
そう呟きながら箒を適当に動かしていると、床に置いてある箱にそれが勢いよく当たってしまい、箱の上に置いていた本が落ちてきてしまった。整頓したばかりの床に本が散らばる。それらの本は星に関するものではなく、もっと別のジャンルのものだ。ここは天文台であるはずなのに、何故かそういった本まで大量に置かれている。だが、それぞれその分野について非常に詳しく書かれているため、エリカは勉強がてら読むことが多い。それらは間違いなく知識となるし、知っておいて損はないと思ったからだ。エリカは慌てて箒を壁に立て掛け、それを直す。そして、少し残念そうに読んでいた本を閉じて机の上に置いた。
「…さすがに掃除しながらの読書は無理みたいですね。さっさと終わらせてから読んだ方がどうやら効率も良さそうです。仕方ありません、読書は中断しましょう」
ちょうどその時、開いた窓から爽やかな風が吹いてきた。窓の外に広がるのは鮮やかな森の緑色。生命を感じさせる季節だ。エリカは窓際に近付き、そこからぼんやりと外を眺めた。青い空がどこまでも続いている。けれど、ここからではその先を見ることはできない。どこからか鳥のさえずりが聞こえてきた。そして、不意に森の中から姿を現し、どこかへと飛んで行く。エリカはその鳥の行く先を追うように背伸びした。
しかし、見える景色には限界がある。この森の外にあるものは何も見えない。木々が先の景色を覆い隠しているからだ。飛ぶ鳥の姿はすぐに見えなくなってしまった。七年前まで住んでいた王城も、ここからでは全く見えない。この景色は、ここに来た時からずっと変わっていなかった。エリカは見えない景色の先に存在する王城の人々に思いを馳せた。
「もうすぐあの日から七年ですね…。お父様やお姉様はお元気でしょうか?」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
七年前。星空を見せた翌日のこと。エリカは国王である父の元に呼ばれた。怪訝に思いつつそこに向かうと、何故かそこにはエリカ以外の兄妹や王妃である母がいた。食事でもないのに、家族全員がこうして揃うのは珍しいことだ。だが、そこで言われたのは衝撃的な言葉だった。
「エリカ、お前にはしばらく、天文台に行ってもらう。王城の北の森にあり、今は使われていない建物だ。だが、生活する上では十分だと思う。お前のためなのだ。どうか分かってくれ」
エリカは理由を尋ねたが、国王は曖昧に笑うだけだった。だが、いつかその理由に気付くはずだと言われた。そして、エリカにはそれを承諾するという選択肢しか残っていなかった。国王の下した命令は絶対だからだ。それを受け入れられないまま、しかし、あっという間に支度は整い、エリカはここへ連れてこられた。お別れする前、家族は皆とても悲しそうな表情をしていた。まるで、もう二度と会えないかのように…。それだけは今でも覚えている。
最初のうちはどうしてそんなことになったのか、全く理由が分からなかった。けれど、成長していくうちに、国王の言っていた通り、エリカは気付いた。自分の持つ力が、ある意味危険なものであるということに…。彼女が力を使えば、この国の星空は普通のものになってしまう。つまり、未来が読めなくなる――、星術を無効化してしまう。
もしもこのことが民に知られてしまえば、一気に王家は信用をなくしてしまうだろう。そして、民の信頼を失ってしまえばこの国の崩壊に繋がる可能性だってある。それにエリカが巻き込まれる危険性も十分にあるのだ。彼女の存在こそが、その何よりの証明であるから。だから、きっとエリカが王城に戻ることは二度とない。エリカがいる以上、その危険性は決してなくならないからだ。この力が消えてしまうか、星術が廃止されない限り、ずっと…。
けれど、そんなことはどちらもあり得ない。建国されてからずっと、星術はこの国で存在し続けた。それを突然無くすことなどできない。かと言って、生まれつき持っていた「星空の力」を消すことだって不可能だ。エリカはこの場所にある、星や星術に関わる本を何十冊も読んだが、そんな方法はどこにも記されていなかった。そもそも、その力の記述自体どこにもなかったのだ。…だから、エリカは既に半分それを諦めていた。
そして、現在、この天文台に住んでいるのはエリカだけだ。ここに来て最初の数年間は何人か侍女がいたのだが、時が経つにつれて一人、二人と消えていき、ついには一人になってしまった。その頃には既に身の回りのことは何でもできるようになっていたし、料理などもそれなりに習得したので、特に問題はなかったのだが…。それに、一年に数回、姉で第二王女のジゼルが来て色々な話をしてくれるため、そこまで寂しくはなかった。ジゼルは、来るたびに消耗品や必要そうなものを持ってきてくれたり、王城での出来事を話したりしてくれる。そのため、それはいつしかエリカの楽しみになっていた。また、天文台の敷地にはちょっとしたスペースがあり、そこで作物を育てることも可能だ。森にも様々な食料がある。建物の中には生活できるようなスペースや台所もあり、一人で暮らすには十分である。
何だかんだ、エリカはここで上手く生活できていた。なのでエリカは、自分の持つ、他の人には決して知られてはならない力と向き合いながら、ずっとこの天文台で暮らすつもりだった。外の世界と関わることは、恐らく、二度とないだろう。けれど、それでも構わない。自分の力がある限り、王城に戻れないのは分かっているし、ここでそれなりに生活できているだけ満足だ。そして、エリカはこれからも、こんな平穏な生活が続くと信じて疑っていなかった。――その日までは。
次回から本編に入っていきます。
読んで下さり、ありがとうございました。