第三話 人生いつかは恋の花咲くこともある?
全速力で食堂から逃げてきた三人は、脊髄反射的に一年B組の教室に逃げ込んだ。
「なんで逃げることがあるの?」全く意味を理解していない鵜鷺三美が、キョトンとした顔で月日に尋ねた。息を切らせている二人に比して、三美は全く息を切らせていない。
「男の嫉妬ほどねちっこく、クソみたいなものはないんだよ」月日の代わりにハジメが答えた。自分の席に横座りで座りこむと壁に背を預ける。
「ふーんそうなんだ」そう言うと、少し考えてから何か閃いたかのように、「じゃあたしと月日が付き合っちゃえばいいんじゃない」と三美はいいアイディアだろうとばかりに言った。
「えぁ!」思わず月日は言葉にならない奇声を上げた。
「なんでそんな発想になるんだ?」ハジメは言葉を失っている月日の代弁をした。月日にとって、色恋沙汰の経験値はゼロなので、答えられよう筈もない。ダメージを食らっただけだ。
「あたしと付き合っていれば、月日が変な目で見られることがなくなるんでしょ。だったらそれでいいじゃん。みんなハッピー」彼女は心の底から、そう思っているような笑顔を月日に向けた。
「それに、そうすれば、毎日四百メートル一緒に走れるじゃない。そんで痩せられるよ」
「そういう意味じゃないし、そんなことをしたくない!」
「えっ、だって、女の子と付き合えて、足早くなれて、そんで痩せられるんだよ、一石三鳥だよ」
「一石無量大数でも嫌だ。ぼくは痩せたくないの!」
「なにそれ、意味わかんないんだけど!それになんか傷つく…」彼女は大きな目をさらに大きくして本気で驚いていた。
「お前の言っていることの方が意味わかんないよ。三美ぃ」月日は逆に目を半開きにして三美に面倒くさそうに言い返した。
「普通、カレカノで毎日四百メートルも走るやつらなんて見たことも聞いたこともないぞ」畳みかけるようにハジメも加勢する。
「えー、陸上の加藤先輩と中島先輩はカレカノだけど毎日一緒にトラック走ってるよ」
「それは部活の練習中の話だろう。お前は所かまわず月日を走らせようとするじゃないか!」イヤイヤを通り越してイライラになってきたハジメであった。
「それじゃ、だったらあたし、誰と一緒に走ればいいの?」
「走ることを前提に話をするな!」
「だってだれも私と一緒に走ってくれないんだもの」
「それは誰もお前についていけないからだ。そこは喜ぶところだぞ!」
なんか夫婦漫才みたいになっている、とか月日は思いつつ面白いから二人のやり取りを楽し気に傍観していた。
「お前もなんか言ってやれ!つか、これはお前の問題なんだぞ」と、矛先が月日に帰ってくるのは至極当然のとこである。
「え、あ」咄嗟に話を振られて返す言葉が見つからなかった。自分の問題を他人に任せていたのだから仕方がない。
「い、家の言いつけで僕はこの体形を保たねばならないんだ」苦しい言い訳ではあるが、半分は真実なのだから嘘は言っていない。より正確に言えば、とある秘密を守るためにこの体形が必要だった、だ。
「だいたい、好きでもない子と付き合うなんてできないよ」
「付き合ってから好きになればいいじゃない?ほら、合コンとかお見合いってそんな感じっしょ」
「お見合いって、僕たち知り合ってから四年だよね。今更、お見合いってっ」月日は思わず鼻で笑ってしまった。
「そもそも、お前月日のことどう思ってるんだ?」と、眉に皺を寄せハジメが尋ねた。
「好きだよ」
「マジか!」ハジメは我知らず前のめりになって、三美ににじり寄った。
「マジよ!もちろんハジメのことも好きだかんね」
「あ~はいはい、ラブじゃなくライクなやつね」ハジメは左の口角を上げ、そんなことだろうと思った、という顔つきをしていた。
「そうだよ、当り前じゃない。ラブの気持ちなんてわかるわけないよ。恋だってしたことないもん。愛している~なんて意味わかんないし、好きっていうだけじゃダメなのかな?」いつになく真面目な顔つきで三美は言った。
「お前、恋もしたことないのかよ。誰かのことを思うと夜も寝られないとか、好きな人がとられたらヤダとか、その人を独り占めにしたいとか思ったことないのか?」ちょっと心配そうな声音でハジメが眉をひそめる。
「ないよ、だってその人はその人だもん。その人を尊重したい。だからあたしの好きな人が、他の誰かを好きになって、あたしといるときより幸せになってくれるんだったら、それってとっても素敵なことじゃない。応援してあげなくちゃ。そもそも、あたしの好きなそのXさんは、誰のものでもないし、あたしがその人を独り占めなんてしたら、その人かわいそうじゃない」かわいそうとかいう感情はあるんだ、と妙なところで月日は彼女の言いように納得した。
「おまえは聖母か!」信じられないという顔つきでハジメが立ち上がった。
「でも、おまえもいつかは結婚するんだよなぁ」
「するよ。さっきもいたけど、愛のない結婚は悪いことじゃないと思う。結婚してから好きになっていけるってとっても素敵だとあたしは思う!」妙に説得力のある声音で三美はそう言った。
「あー、それにあたし誰かの家に嫁ぐことが決まってるらしいの。いわゆる許嫁的なものがいるらしくて、ウチはその家に逆らえないらしいんだ。江戸時代より前から家臣って言うの?どうもあれらしいの」人差し指を立てて顎に押し付けながら、斜め上を向いて考えながら独り言のように彼女は身の上を語った。
「それは初耳だ…」「うん」ハジメの呟きに月日も頷いた。
「だからあたしはあたしでいるために、恋はしないし誰も愛さない。でも好きな人は好きだから、お付き合いとかデートとかはしてみたいわね」と、三美はハジメに顔を寄せて、にっこりと微笑んだ。
「ちょ!顔ちけぇよ!」
「何をいまさら恥かしがっているのかなぁハ・ジ・メ・クン。何人ものおなごを手籠めにしてきたチミがぁ」
「手籠めになんてしてねぇよ。すべて合意の上でのことだ。それに、したことと言っちゃぁお近づきの挨拶くらいなもんだ。い・ち・お・う」ふっと、決め顔で首を振る。
「お近づきの挨拶って!」思わず月日がハジメに食らいつく。
「おいおい、なんか勘違いしていないか?いきなり唇なんかにはしないぞ」
「やっぱりキスしているんだ!」にこにこしながら三美が突っ込む、
「じゃあどこにしているんだよ」月日は眉をへの字にして抗議がましく訊いた。
「知りたいか。月日お前もお年頃だな」またもハジメはふっと鼻を鳴らして決め顔で首を振った。その手の経験値の違いを思い知れと言わんばかりだ。
「話をはぐらかすなよ!」
「手の甲とか頬っぺたとか額とか…、俺だって一応紳士なんだぜ。初対面の相手にいきなり唇を奪うような無粋な真似はしない。あぁ、でも向こうから迫ってきた場合は期待に応えないと逆に失礼になるからちゃんとお応えしてるぜ」
「ったく十分にナンパぶりを発揮してくれていてありがとう。いろいろ参考になったよ。1ポイントくらい経験値が上がったかもね」月日は右の口角を痙攣させながら作り笑いを顔に張り付けた。
「言っておくが基本的に俺は落とす方専門だ、落とされるなんて俺の矜持に反する」ハジメは首を大きくフリフリ自分の裡にあるあってはならない記憶をふるい落そうとしていた。
「俺のことはどうでもいいんだよ、そうやって外野を装っているが、お前はどうなんだよ」とそこでハジメは言葉を切ると、声を潜めて月日の耳元でささやいた。
「なんで、あの娘を助けた」
彼の言葉に月日は電流に打たれたような気がした。
……そうだ何故あの時、僕は彼女を助けた…?
「あの時ちょうど夕ご飯を買って帰る途中だったよね」
「ああ」そっけなくハジメは月日に答えた。
「何コソコソ話してるのよ。あの娘って誰よ」
「「え、お前聞こえてんの!?」」月日とハジメがハモった。
「この、鵜鷺の三美さんの名前は伊達じゃないんだよ」エッヘンとばかりに両腕を腰に当てる。
「おっかねぇこいつ」ハジメは大きなため息交じりに呟いた。
「昔っから地獄耳だってお姉たちに言われてるんだよね」鼻高々っという感じで、三美は顎をあげた。
「お姉ちゃんたちは元気かぁ?」のっぺりとした声音で月日が懐かしそうに訊いた。金曜のことを根掘り葉掘りされる前に話題を変えようとしたのだ。
「みんな元気だよ、一美姉も二美姉も四美もって、それより何コソコソ話しているのよ」月日の目論見が外れて話が戻ってしまう。
「えー金曜は珍しく雪ってたなって」
「そんなことをわざわざ内緒話にすることないじゃない!」
「ベ、別に内緒話をしていたんじゃないよ。三美とは関係ない話だから聞いてもしょうがないだろ」
「なんかヘン。なんか隠しているでしょ」
「べ、別に隠し事なんかしてないよ」
「ウソね。絶対なんか隠してる!」
「ベ、別に、なにもないって」
「別に別に言ってないで、ちゃんと話しなさいよ!」
「べ、別に、別になんて言ってないよ」
「ほら、言ってるじゃない!……じゃなくて!」彼女は身を乗り出して月日の首輪を掴む。
「あたしに何を隠しているの!」
「三美とは関係ない話をしていただけだよ。聞いたって面白い話じゃないし」
「さっきの上層科の娘と関係があるのね」こういう時だけ勘が鋭い。
……普段は空気を読まないくせに。
とか思いつつ月日は頭をフル回転させて言い訳を考えていた。が、何も浮かばない。助けてよ、とばかりにハジメに視線を送る。するとハジメは片眉をあげ、やれやれとばかりに鼻を鳴らした。
「金曜の夜、月日が困っていた上層科の女子をちょっと助けてね。それでさっきの彼女がお礼に来たってわけだよ」
「月日が人助け?信じらんない!」
「な、そうだろ!そういう反応をするからお前に聞こえないように話していたんだよ」ハジメはわざとらしく両手を振って見せた。
「信じられないけど上層科の娘が来たのは事実のようだし…」そこで言葉を切って、横にいる月日とハジメの顔を見比べた。
「まぁいいわ信じたげる。なぁんか嘘くさいけど」彼女は口を尖らせて目を細めた。
「で、助けた娘ってどんな娘だったの、かわいかった、綺麗だった?」いきなり、隣のおばちゃん口調になる。
「お礼を言いに来た子は使用人。助けた娘は暗くてよくわかんなかったよ…」月日は半目になって身体をのけ反らた。
「またまたぁ。見えない訳ないじゃん。相手だってこっちのことが分かったから来たんでしょ」
「そりゃそうかもだけど…む、向こうは街灯と街灯の間にいたから暗かったんだよ」
「ふーん…」三美は、再び目を細めると鼻で答えた。
「何がどう困ってたの、彼女は?」
「た、大したことじゃないよ。お、落とし物を探してあげたんだ」こめかみにじわりと汗がにじむのを感じつつ、あまりにも情けない作り話に自分でも嫌になる。
「お付きの人もたくさんいたでしょうに。あんた自分から手伝おうとしたんじゃない」
「どうしてわかるの!」「バっ!」思わず本音が出てしまう月日を制止しようとしたが間に合わなかった。ハジメの言葉が空を切る。
「やっぱそーなんじゃん。このぉ女泣かせめぇ」見事に月日は三美の罠にはまった。
「で、やっぱり美人さんなの?」してやられたとばかりに俯く月日の顔を覗き込む三美。
「だから、わからないんだってば」
「でも、助けたんでしょ」
「う~」中途半端な肯定をする。
本当のところ、月日には彼女の顔ははっきりと見えていた。変化した彼にとっては街灯がなくとも昼間とたいしてかわらなかった。
なぜ自分が彼女を助けようとしたのか自分でもわからない。
猛スピードで追い抜いて行った黒塗りの高級車の窓から一瞬垣間見えたその顔は不安に歪んでいた。今思い出しても決して美しくもかわいらしくも感じない。ただ、その顔を見た瞬間、衝動的に彼女を助けなければという思いに駆られたのは間違いなかった。ただただ衝動的に。
『彼女は俺の獲物だ』とでも思えればまだ納得がいっただろう。だが、そんなどす黒い感情ではなく、もっと透明で純粋でとても熱いなにかが裡から沸き上ってきた。しかしそう感じたのは行動を起こしたその時であった。すでに体が勝手に動いていたのである。きっとほかの娘ではそうならなかったと思う。やはりあの娘のあの悲壮な顔が自分を突き動かしたのだろうと月日は思った。しかし、今でも脳裏からあの悲壮な顔が離れないのはなぜなのだろうか。
「それはきっと恋だね」月日の思考のど真ん中を突き破る言葉が割って入ってきた。
……恋?これが?
月日は三美の言葉を訝った。世間一般に言われる恋の気持ちと、今自分が抱いている感情が、とてもかけ離れているような気がしたからだ。いわゆる胸のときめきも、雷に打たれたような感じも何もなかった。あったのはあの透明な熱い感情と衝動だけだった。
……それが恋というものなのだろうか。ぼくは彼女のことが好きなのか?
『……好き』
その言葉は、自分でも驚くほどしっくりと心になじんだ。
「そうか、僕は彼女に恋をしたのか…?」誰に言うとなく言葉が零れ落ちた。心の声がそのまま口から漏れ出ていたのである。
それは世間一般で言うところの恋とは少しばかり違ったかもしれない。しかし、月日があのとき彼女に好意を抱いていたことは間違いない。人を好きになるのに理屈をいくら積み重ねても意味はないのだ。それを恋と月日が思ったのならきっとそれが彼の恋なのだ。たとえ今はそれが蒼月円に向けた憐憫の一種であったとしても。
「ついに月日にも春がやってきたんだねぇ」ニコッとほほ笑むと三美はなぜか勝ち誇ったかのようにハジメを見やった。ハジメは面白く無さげに口をへの字に曲げ眉をしかめて三美から視線を逸らせた。
「僕は彼女が『好き』だけど、ライクなのかラブなのかまだ分からない」
「ラブよラヴゥに決まってるでしょ!」
「なんで三美は僕が彼女に恋していることにしたがるんだよ」
「そ、そんなことないよ!だってあたしと付き合ったらってってさっき言ったじゃん」いつになく三美が焦っているようだった。何か核心に触れたのだろうか。
「何か隠してるだろう!」
「そんなんじゃないって、まったくぅ月日ったらぁ」無理やりはぐらかそうとしているのがあまりにもあからさまだ。
「ハジメも三美と一緒になってなんか企んでるのか!」
「俺は別に企んでなんかないぞ!」と、声は威勢がいいが、彼に視線は中をさまよっていた。
「怪しい……。なんか……」月日が言いかけたとき、昼休み終了の予鈴がなった。
「あ、あたし戻らなきゃ」言うが早いかまさに脱兎のごとく三美は教室から飛び出していった。
一人残されたハジメを月日はねめつける。
「わかったよ、言うよ。そんな顔すんな」そう言いながら、ハジメは月日の顔のまで手を振った。
「あの日、里のモンが言ってきた。……学校の前の道をあの時間通れってな」
「里のって……」
「ああ、ジジイの手先が来た」ハジメは吐き捨てるように言った。と、同時に五時限目の本鈴が鳴り、現国で担任教諭が入ってきた。
午後の授業の始まりだ。