第三十三話 どうして予想はいつも斜め下?
翌日。普通科の男子トイレの前。二時限目と三時限目の間の休憩時間だ。数人の生徒が行きかっている。
ハジメはげっそりしながら男子トイレで顔を洗っていた。立っているだけでも辛そうだ。蒼月邸での連日の勉強会疲れがここにきて表れ始めたのだろう、少し足がおぼつかない。
獣憑きの月日は、学力はさておいて、メシさえ食べていれば体力だけは無尽蔵だ。そんな月日に、常人のハジメが付いてゆくことなどできるはずがない。
辛うじて意識を保ちながら、ハジメはぼうとしながら男子トイレの出口から廊下に出る。
そこにいつものようにピンクのカーディガンを羽織り、偶然を装った日鏑煌がぶつかってきた。
「ドン!」
「キャッ!」それは彼女にしてみれば、自分をアピールするためのただの可愛い小細工のはずだった。
廊下に倒れ込む二人。
煌はあざとくハジメだけにはスカートから下着が見えるような尻もちをついてみせた。そういうテクニックだけは抜け目がない。
「いてて」と少しかわい子ぶった言い方をしつつハジメを見ると、彼はノックアウトされたボクサーさながらに廊下にダウンしていた。完全に気を失っている。
「ハジメ!」顔面蒼白になる煌。全くこんなことになるとは予想だにしていなかった。
彼女の叫びにあたりの生徒が寄って来る。
「どうした?」「なんだ?」
「あ……あの、彼と廊下でぶつかっちゃって、それで……」煌は気が動転してしまい、二の句が継げない。まさかこんなことになろうとは夢にも思っていなかっただけに、頭の中が空転していた。
「どうかしたの?」
煌の前に中肉中背のどこにでもいるような女生徒が立っていた。襟元に付けている記章から二年生であることが分かった。ミディアムカットのヘアースタイルに淡い色合いの花柄をあしらったヘアーバンドをしている。
彼女はすぐにハジメの顔に自分の頭を寄せ、彼の息があるかを確かめ、呼吸があるのを確認すると「君! 君!」と肩をたたいて、意識があるかを確認した。
「うう……」と反応はするものの意識を取り戻す気配はない。
「気を失っているだけのようだけど……診断は専門に任せましょう。副会長、担架を! それに保健の先生も! いらっしゃらなければ担架だけでいいわ!」
「はい!」
彼女はてきぱきと活舌よく指示を飛ばし、ハジメが苦しくないように学ランとワイシャツのボタンを開け、ハンカチをくるくると丸めてロール状にし、彼の後頭部の首の付け根にあてた。気休めだが、気道確保を行ったのである。
「あなたは大丈夫?」
「あ、はい……」唐突に問われ、煌は焦った。どぎまぎしいてると、二年生の彼女が近寄ってきた。
彼女はあたりを気にしつつ、煌に近寄ると「下着が見えているわよ」と小さく耳打ちしてくれた。
慌てて、姿勢を正し、ハジメに近寄ろうとする煌。
「統月の生徒ならばしかるべく、ね。それにカーディガンを着ているなら襟くらい出しなさい」そう言われて、煌は更に焦った。襟を隠す目的でカーディガンを着ているのだ。襟を出せるわけがない。
「あ、あなたにそんなことを言われる筋合いはありません」内弁慶な煌でもさすがに反論せざるを得なかった。
彼女のその言葉を聞き二年生の生徒は少しきょとんとした顔をしてから不思議そうな顔つきになった。
「あなた、わたしが誰か知らないの?」煌をねめつけるように彼女はそう言うと、そっと彼女のカーディガンの襟元をめくり上げる。
「なるほどね……」
紛れもない三本の金筋の入った襟がカーディガンから垣間見えた。
「わたしは普通科生徒会会長の薄原小夜子。二年生よ」と、小声で自己紹介をする。
「あたしは……一年の日鏑煌といいます」
「あー、日鏑先輩の……」と薄原小夜子は眉をぐっと押し上げた。
「先輩にはいろいろとご迷惑をおかけしているようで申し訳ないわ」と、少しとげのある言い方をしたがすぐに、薄原小夜子は「ごめんなさい。あなたには関係の無いことだったわ」と、真面目顔で謝罪した。
「会長! 先生を連れてきました!」薄原小夜子の背後から副会長の声が掛かった。振り返った彼女はすぐさま養護教諭と入れ替わった。
養護教諭はハジメに声を掛けて反応を確かめたうえで彼の腕をとって脈を計った。
「脈は正常のようね、担架に乗せてすぐに保健室へ運んで」養護教諭は副会長にすぐさま指示を出す。
「わたしたちも手伝います」薄原小夜子はすかさず煌の腕を掴んで担架に歩み寄った。
「なんでそんな恰好をしているか知らないけど、付き合ってもらうわよ」薄原小夜子は煌の耳元で囁いた。有無を言わさぬ勢いに、煌は目を白黒させてただ頷くしかなかった。
副会長を先頭に後部左右を薄原小夜子と煌が担架を持ち、ようやく保健室にたどり着く。養護教諭が急いで扉を開けベッドまで誘導する。
一度、担架ごとベッドの上に下ろしたうえで、ハジメの頭部を副会長が持ち、脚部を薄原小夜子と養護教諭が持ってベッドの上に移し替えた。隙を見計らって煌が担架をベッドから引きずり下ろす。
ハジメの移動はうまくゆき、養護教諭が彼にシーツを掛ける。
再度ハジメの腕を取り腕時計を見ながら脈を計る。
「脈拍も呼吸も正常ね。恐らく疲労からきているものでしょう。彼のクラスは?」
「おそらく1Bです。先ほど記章で確認しました」養護教諭の質問んに薄原小夜子は即答する。
「担任の先生からはわたしから連絡しておくから、あなたたちはもう帰っていいわよ。大変だったわね。ご苦労様でした」
「あ、あの! あたし彼の看病をしていたいんですが!」もう帰っていいという養護教諭のサインに煌が即座に反応した。
「何を言っているの、あなた授業があるでしょう」困り顔で腰に手を当てる。彼女が責任を感じているのは結構なことだが、生徒に授業を受けさせないわけにはいかない。
「あの、でも……」それでも煌は食い下がった。
「実は彼女が彼に衝突してしまったようで、彼女は責任を感じているのだと思います」薄原小夜子はちらりと煌を見やると養護教諭に向き直って事故の経緯を話した。
「彼なら大丈夫よ、あなたが責任を感じるほどのことじゃないわ」
「でも……」下唇をかみしめて必死に力強い眼差しで養護教諭を見据える。彼女が真剣であることは、さすがの養護教諭にも伝わってきた。
「先生……実は、ここだけの話ですが、彼女は彼のガールフレンドでもあるようなのです」何の感情もあらわさず淡々と薄原小夜子は養護教諭にはっきりと言った。こういう話は変な誤解をされるのが最も厄介なことになる。責任を感じたガールフレンドが彼の看病をしたがっているという体裁を取っておきたかった。
薄原小夜子が言ったことはある意味本当のことだった。一方通行ではあるが確かに煌はハジメに心を寄せている。しかし関係といえば仲は進展せず、知り合い以上友達未満といったところか。
またも、薄原小夜子は煌を見やった。うろたえ気味に彼の手をぎこちなく取る彼女の様子からして、薄原小夜子は自分の考えが正しいのだろうと確信した。まだまともなデートなどしたこともないに違いない。恋人特有の間のようなものが感じられなかったからだ。どことなくぎこちなげで、自分と彼との距離感を計っているといったようなものを小夜子は彼女を見ていて感じた。
しかし、彼女たちの関係がどのようなものであれ、煌に対するハジメへの思いは察しがついた。彼女は本気だ。
わざわざ身分を隠して上層教育科の生徒が普通科にお忍びで彼に会いにやってきているのだ。何かしらの理由があってそんなことをしているのだろう。恐らく問題は煌の方にあると思われるが……。
でなければ、上層教育科の生徒は何も隠すことなくそのまま会いに来ればよいのだ。上層教育科の生徒は普通科にくるのに別段着替える必要など全くないのだから。これが逆なら停学ものだというのに、だ。
なぜ彼女が普通科の生徒に扮していたのかは思案の分かれるところではあったが、問題はそこではない。
彼女は彼のことを下の名前で叫んでいた、少なくとも彼女にとって彼はそれなりの仲なのだろう。
問題はなぜ彼女が普通科生徒に成りすましてまで彼に会いに来ていたかだ。
薄原小夜子は、彼氏と彼女の距離間がつかめずにいた。
ふと、そういえば、彼氏の方はよく女子たちを侍らせていると聞いたことがある。この前の会議の時だろうか。恐らく彼女もその取り巻きの一人なのだろう。しかもヒエラルキー的には下層の。これは珍しいことかもしれない、上層教育科の生徒が普通科の生徒よりも下に見られるとは。
ああなるほどと薄原小夜子は思った。だから彼女は普通科の生徒の格好をしていたのだ、と。
「はぁ」薄原小夜子は深々とため息をついた。こんな考察を重ねても何の意味もない。いま自分が何を考えようと、どんな勝手な結論を出そうと、彼女のあの真剣な顔を見てしまってはこれ以上の答えを見出すことに意味などないではないかと。
「あなたのクラスに連絡を取ってあげる」薄原小夜子は養護教諭に聞こえないように煌の耳元で囁いた。
煌は驚いた顔つきで薄原小夜子を見返した。
「上層教育科1D の日鏑さんでいいのよね」小夜子は煌のクラス情報を訊き直した。
「はい」戸惑いながらも煌は頷く。
「心配しないで、あなたはここにいて彼の様子を見ていてあげて……あとはこっちが何とかするから」やれやれと言った顔つきで、薄原小夜子は告げた。自分のお人よし加減にも困ったものだと言わんばかりだ。
しかしながら、事実を公にすればもっと厄介なことになることは明白である。一応校則では上層教育科の生徒が普通科にくることは禁じられていない。ただし、彼女がなぜピンクのカーディガンを着て身分を隠してまでやってきたかを深堀され問われ、「恋人に会いに来ました」では済まされないだろう。
不幸なことに、上層教育科と普通科とでは身分差というものが暗黙の裡に存在しているのだから。法的には無罪放免であっても、様々な力関係が彼女を襲うことになりかねない。彼女が上層教育科でも指折りの名家でそれこそヒエラルキー頂点にでも君臨していれば些末なこととして声なき声たちを黙殺することも可能だろう。
いや、逆にこの事件が引き金となって彼女の足を引っ張る輩が一斉に動き出す可能性すらある。
薄原小夜子はまたもため息をついて、余計なところまで気を回し過ぎる自分を諫めた。
「そこまでする恋かぁ……」そう呟き、煌の心配そうな横顔を見やる。
きっと彼女は何も考えてはいまい。今の自分の置かれた状況も、もしもこの秘密の行動がばれて、上層教育科においての地位が危ぶまれるようなことになるかもしれなくても。
恋は盲目などではない。薄原小夜子はそう思った。ただ、好きな人だけのことしか見えず、その人の声しか聞こえず、その人との会話をすることだけが頭の中を占めてしまうのだろう。ちょうど見ざる、聞かざる、言わざる、の真逆のように。そして、ほんの少しだけでも触れ合ってさえいられれば良いと……。
「副会長行きましょう。我々には我々のすべきことがあります」
「はい、会長」二人は保健室の簡易椅子から立ち上がった。
「先生、お話があります」そう言うと、薄原小夜子は養護教諭に耳打ちし始めた。
少しのあいだ、二人は小声で問答をしていたが、最後には養護教諭は頷いた。
薄原小夜子だけが一呼吸おいて、再度ハジメの看病をしている煌に振り返った。特に声を掛けるつもりもなかった。ただ、彼女を見ていたかったのだ。
「では先生もまいりましょう」薄原小夜子がどのようにして養護教諭を説得したかはわからない。ただ言えることは間違いなく養護教諭を彼女はコントロールしたということだ。
踵を返し薄原小夜子は副会長と養護教諭を引き連れて、なるべく静かに保健室を後にした。
廊下に出て、職員室へと向かう。
口を開くこともなく粛々と歩く薄原小夜子。
ふと、「わたしも恋してみようかな……」薄原小夜子のその呟きに副会長はぎょっとして立ち止まった。
「安心して。あなたにじゃないから……」彼女は普段見せたことのない、パッと明るく清々しい笑顔を副会長に返した。
そして薄原小夜子は天井を見上げ歩き始めると、今にも鼻歌を歌いそうな勢いで、ひとり職員室へと足を進める。
副会長は小首をかしげて何が起きたのかと彼女をしばらく茫然と見ていたが、ハッと気づいて後を追った。
既に授業は開始され、廊下には普通科生徒会会長と副会長そして養護教諭の姿しかなかった。




