第三十二話 家庭教師は誰だ?
「そんなことはありません!」
ハジメの「俺たちを返すつもりはないのか」という質問に、まどかが半分怒ったように、そしてどことなく嬉しそうにそう言ってから四日ほどが経っていた。
交通網も通常通りに戻り、通学時もリムジンで行われていたのだ。その間、月日もハジメも自宅に帰らせてもらえずに学校と蒼月邸を往復していた。
肌着から日用品まで、日々必要となるありとあらゆるものが、あらかじめ用意されており、一時帰宅などさせる隙など一切与えないほど、至れり尽くせりの状況であった。当然、ハジメへの家族への了承はすでに取られていた。一方、月日のところにでも連絡しようものなら、そのまま祝言でも挙げさせられかねないと思われたので放置している。
「申し訳ございません。わたくしの力及ばず、ボーイフレンドのお二方の成績向上は困難でございます」
濃紺のスーツにタイトスカートを纏った大学生風の頭のよさそうな女性家庭教師がまどかに深々と頭を下げた。ロングヘアをアップにし、身なりは清潔そのもの、どこの家庭に出しても恥ずかしくない家庭教師だ。彼女は静かに踵を返すと戸外へと出て行った。
この時、まどかの目論見は破綻した。
まどかは自分の家庭教師を含めて勉強会を進めてゆくつもりだった。ところが、月日とハジメの二人の学力は彼女の想定をはるかに下回っていたのだ。
家庭教師はまどかと百夜の学力に合わせて雇われており、彼女たちの学力の遥か下を行く月日たちを扱えるほど家庭教師の許容範囲は広くなかったのである。
学力が低いのなら低いなりに落として教えればよいと思いがちだが、二つの異なった学力を両立させ教えられるような家庭教師はそうそう簡単に見つからない。守備範囲というものが決まっているのが普通だ。
決して異なる学力の生徒を同時に教育できないというわけではないが、現在雇っている家庭教師にはその能力はなかったし、家内の者以外には秘密裏に行っている勉強会を公にしてまで、オールラウンダーな家庭教師を新たに雇うわけにもいかなかった。
「そう簡単にいくわけはありませんね」
まどかの部屋の中央にあるテーブル席に座りながら、百夜は窓越しに立ち外を眺めているまどかに声を掛ける。
「わかっています」百夜の言葉に口を少し曲げて、まどかは窓の外を見やった。
カーテンを開けるとまだ冷たい空気が彼女の顔を撫でてゆく。二重窓とはいえ、雪の多く残る庭の冷気は閉じた二重窓をすり抜けてまどかの両手にそっと触れた。
「でも、結果オーライだったんじゃないんですか?」
「え?」まどかは眼を大きくして百夜の言葉に意外そうに訊き返す。
「そんな顔をなさらないでください」
くすっと百夜は笑うと数歩まどかから離れ、女の子らしい仕草で扉の隣にあるクローゼットに背を預けゆっくりと腕を組む。
「何なの?」
「わたくしたちで、月日さんたちを教えて差し上げればよいのですわ」
そう言われたまどかは二度ほど瞬きをした後、鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔で百夜を見返した。まどかにしてみれば、まさに目から鱗が落ちた瞬間であった。
「そうよ……そうよね」茫然とした表情で呟く。そして、徐々に彼女の身体全体に彼女の思考がゆっくりと巡って行った。
「そうよ! わたくしたちがお勉強を教えて差し上げればいいんだわ! 別に誰かに教えていただく必要なんかないのよ!」何かのスイッチが入ったかのようなまどかの熱の入れようは、窓際の雪をすべて溶かしかねないような勢いだった。
まどかは、ばっと窓際を離れると、一直線に扉に向かって歩き始めた。
「どこへ行かれるのですか?」
「善は急げよ! 皆さんにこのことを伝えなければ!」
「その心配ならご不要と存じますが……」
「え?」百夜が指し示す方に目をやるまどか。
クローゼットと百夜の影から月日とハジメが現れた。
「いつの間に……?」
「いつでしょうね」にっこりとあの意味深げに百夜が微笑む。
「実はクローゼットがもう一つのお部屋に繋がっておりまして、いつでも月日さんと既成事実を作ることができるようになっているのです」
「!」淡々と語る百夜の言葉にまどかは言葉を失って百夜を見返した。
「嘘です」あっけらかんと答える百夜のその言葉にまどかは真っ赤になったが、月日たちの手前ぎゅっと握り拳を作って睨みつけるのが精いっぱいだった。
「で……ほ、本当は何だったんです?」
「簡単なミスリードですわ。まどか様」百夜はそう言うと窓を見やった。
「家庭教師の先生をお見送りした後、お二人をお部屋の近くまでお呼びしておいて、まどか様の隙をついてお二人を引き入れたわけです」
「そんな暇なかったと思うけれど?!」
「そうですか? まどか様は考え深げにしておいででしたし、そういった意味では隙だらけでしたよ。月日さんがまどか様の頬に口づけをしたのもお気づきになりませんでしたか?」
「え!」「うそ?」二人は同時に電撃に打たれたかのようにクローゼットを挟んで飛び離れた。
「そんなはずないじゃないですか。でも、それほどまでに、まどか様は考えに没頭されておりましたよ」
「うぅ……」百夜にいいようにあしらわれて、まどかは恥ずかしさのあまり両手で顔を覆ってしまった。
「そんなに恥ずかしがることではありませんわ」百夜はまどかから目を逸らし、彼女にも聞こえぬほど小さい声で呟いた。
「いずれにいたしましても、お二人の家庭教師はわたくしたちが行います! よろしいですわね、月日さん! ハジメさん!」スイッチを切り替えて百夜は二人に檄を飛ばす。
「はい……」「へいへい」二人はやれやれと言った顔つきで百夜に答えた。
「ちゃんと答えてください! わたくしは家庭教師なのですよ!」と百夜は人差し指を二人に向けた。
「はい!」反射的に二人の声がきれいにハモる。この手の強権を振るわれることに耐性はないらしい。
「まどか様も、お二人に何か仰ってください!」百夜の怒りのとばっちりはまどかにも飛び火する。
「わたくしも、ですか?」唐突に話を振られてまどかは少しうろたえた。
「はい、今日からまどか様もお二方の家庭教師になられたのですから、何か一言申し上げてください。教師らしく!」
「そんな、急に言われても……っていうか、そんな堅苦しいことをする必要はないと思うのだけど……」戸惑いがまどかの言葉をほころばせた。
「これは通過儀礼です。わたくしたち自身に対しても、こうすることでなれ合いを減らし、教師と生徒としての一線を引くことができるのです!」
百夜の言葉には、まどかを妙に納得させる声音を持っていたが、説得させるに足る力は持っていなかったようだ。
「そこまですることはないと思わよ!」
「いいえ、まどか様は特に月日さんに対しては甘くなりそうな気がいたします。こういうことは今のうちに釘を刺しておくべきことと存じます!」
「そうだよ、そこまでしてもらうこともないよ。教えてもらうこっちとしてもなんだけど、そこまですることはないと思うよ」まどかをかばうように月日が割り込んだ。
「それがダメだと言っているのです」
百夜は言葉を切り、一同を見回した。
「相手は手段を択ばない……と思われる日鏑ですわ。どんな卑劣な手を使って邪魔をしてくるか知れたものではありません。それに試験のときにですらどんなことをしてくるか分かったものではないですわ!」
「それじゃ試験自体が無効になっちゃうよ」月日は冷静に至極まっとうな意見を述べた。
その言葉を受けてか、百夜はハッとして自分がかなりヒートアップしていたことに気付き、ほほに手を当てて月日から目を背けた。
「そ、そうですわね。少し熱くなり過ぎました」
「日鏑の動きに警戒しなけりゃならないのは、本来俺らよりかくやさんの月見乃産業の方だろうよ」茶髪の毛先を指先で気にしながらハジメは冷静に呟いた。
「そうだね……。かくやさんのところも大変なんだな……」ハジメに答えるとなく月日も呟いた。
月日のかくやを心配するその言葉を聞いた時、まどかの胸は締め付けられるような感覚に襲われた。
――え?
思わず胸元に手を当て、その場に座りこむ。自分に何が起きたのか皆目見当がつかなかった。
「まどかさん!」
「まどか様は大丈夫です。原因はあなたなので!」心配そうに駆け寄ろうとする月日を百夜は制した。
「え?」
「何でもありません。ちゃんと椅子にお座りください、まどか様」そう言うと彼女はすぐに月日たちに向き直った。まどかはすぐに丸テーブルの椅子に腰かけ直した。
「かくやさんのことも心配ですが、彼女の家柄もその筋の方々です。今は自分たちのことに集中しましょう」そう言う百夜をまどかが見やると、彼女は少し不満そうに眉を動かしてまどかから視線を逸らせた。いったいどういう意味があるというのだろうとまどかが訝る暇もなく「そうだね」と、月日たちが彼女の言葉に同意して頷いていた。
「いずれにいたしましても、わたくしたちが月日さん方の家庭教師になることは決定事項ですので、そのつもりでいてください。取り急ぎは、皆さんの学力を調べたいのでこれから小テストをしたいと思います!」そう言うなり、百夜は予め用意していたノートを二人の前に差し出した。
「では一時間でこれを解いてください」
「いまからやるの?」
「そうです。時間は待ってはくれません」
「わかったよ」と言って素直に仮テストに向かった月日であった。ハジメは仕方なさげにノートに向かった。
そして一時間後、百夜とまどかは頭を抱えることとなるのであった。




