第二十九話 夜明けマエ?
結局、転科テスト対策を練ることもできず、なんとなく夕飯を取り、入浴を済ませると月日とハジメはこたつで雑魚寝をして朝を迎えた。
月日はむっくりとこたつから体を起こし、脱いでいた学ランを羽織る。カーテンを少し開けて窓から外を見ると、そこは弱い朝日に照らされて仄かに紅を指した一面の銀世界になっていた。これは、一時限目は遅れるか休校になるかもしれないと月日は思った。これほどの雪が首都圏に降れば交通機関は完全に麻痺する。場所によっては大惨事になっているかもしれない。
そっとカーテンを閉めて薄暗い部屋を見渡す。
「お!」月日は声を殺して驚いた。自分のすぐ横にルピィナが眠っていたのだ。
――確か百夜さんが向こうの部屋に連れて行ったよな……。
そうは思ってはみたものの、ルピィナのことだから抜け出してきたのに決まっている。
「はぁ」と小さくため息をついて月日はこたつからルピィナを起こさぬようこっそりと抜け出し、洗面台に向かう。ボディーガードをしているせいか、早起きが板についている。
ふと、壁にかかっている時計が目に入った。まだ朝の五時半である。妙に秒針の刻む音が部屋にこだましているような気がした。きっと、外の音が何も聞こえないからだろう。雪は音を吸収し静寂を作る。それにどの交通機関も止まっているので、車の騒音や町の喧騒なども聞こえないせいもあるのだろう。
――こんな静かな朝があってもいい……。
月日は洗面台に向かうと、顔を洗い始めた。水はほぼ氷水で、手が切れるのではないかと思えるほどものすごく冷たかった。常人なら手がかじかんで霜焼けができるかもしれない。だが月日は凍てつく水も物ともせず、うがいをし、ジャバジャバと顔を洗っていた。首からぶら下がっているベルトが少しばかり邪魔くさそうだ。
「おま、冷たくないのか」いつのまにかハジメが後ろに立っていた。寝起きのせいだろう、少しくぐもった声音は、歯切れのよいいつものハジメのものとは程遠かった。顔は少しむくれ、髪の毛はぼさぼさで、せっかくの二枚目が台無しだ。
「きりっと引き締まって気持ちがいいよ」反対に月日はいつものもっさり感はどこへ行ったのか、別人のようにしゃきっとしていた。
「お前基準で言われてもな……って、冷たっ。つか痛ぇ」声を殺しながら悪態をつく。これでもハジメは女子たちを起こさぬよう気を使っているのだ。
「なんだ、温水も出るんじゃねぇか」よくよく見れば、蛇口のコックに赤い矢印と青い矢印が付いていて、赤い矢印にコックをひねれば温水が出るようになっていた。当然コックは青い方へ振り切っている。
「だって温水じゃ目が覚めないじゃないか」
「だからお前基準で語るな。こんな冷水で顔を洗ったら心臓麻痺で一生目が覚めなくなるだろうが!」
ハジメはコックをやや赤色の方にひねり、温かくなるのを待ってから顔を洗い始めた。
そこへ百夜が洗面所に現れる。
「おはようございます。月日さん。ハジメさん」
「おはようございます。百夜さん」月日はハンカチで顔を拭き終えると、さっぱりしたという顔つきで百夜に挨拶を交わした。ざばざばと洗面中のハジメは手だけをあげて挨拶をする。
「まだ二人は?」まどかと百夜とかくやは奥の四畳半の部屋で寝ていたのだ。
「眠っております。わたくしは仕事上、朝はいつもこの時間に起きております」
百夜がこたつの方を振り返ると、月日たちの寝ていたこたつの反対側に三姉妹が固まりになって眠っているのが見えた。
「本当に仲睦まじいこと」くすっと百夜は顔をほころばせた。
「こうして眠っていれば可愛げもあるんだけどね」月日はあどけない顔で眠っている妹たちを見ながら、後頭部をポリポリと掻いた。
「起きていても朔夜さんたちはかわいいですわよ」
「それは本人たちに言ってあげてね」月日はいつもの、にへらっと気の抜けた笑みを浮かべた。
「で、俺たちはどうやってここから出ていく?」顔を洗い終わった、すっきりとしたハジメが、手櫛で髪をセットしながら月日に訊いてきた。
「え、かくやさんたちと一緒に当校すればいいんじゃないの?」さも、当然であるかのように月日は答える。
「で、同じく登校してくる女子寮の他の女子たちに見つかるわけだ。ここはかくやさんのコテージとはいえ女子寮でもあるんだぜ」ハジメは鏡に向かって毛先を整えている。
「たぶんまずいことになる……と思う」
「考えが甘かったなぁ。よく考えればこうなることは分かったはずなんだが、昨日は緊急避難的にここに来ちまったからな」
「じゃぁ、今のうちに出て行こう。今ならまだ誰も登校していない」
「そうだな。この時間帯でこの雪だとまだ誰も登校していないだろう。少なくとも男子寮との分岐のところまで行ければ問題ない」
月日とハジメは頷き合った。
「というわけで、一足先に学校に行っている。みんなにはよろしく言っておいてね」
「はい、月日さん。申し訳ございませんでした。こんなことになるなんて。わたくしも寒さで暖まりたいのが先走ってしまっていたようです」
「仕方ないよ、寒かったもんね。女の子にはきついよ」
月日は妹たちを見て「例外もあるけど」と付け加えた。
例外から連想して、ふと三美のことを思い出した。彼女だったらこんな日でも朝練をしているのだろうかと、月日は雪の中を走っている三美の姿を思い浮かべた。
――彼女なら十分あり得る……。
月日はラッセル車の如く雪をかき分けて走る三美の姿がありありと脳裏に浮かんだ。雪の上をぴょんぴょんと飛び跳ねる雪兎というよりも、雪の中を走駆するヒグマの突進に近いイメージだ。
「何にニヤけてんだ。行くぞ!」外套を着こみ準備万端のハジメが月日に声を掛けてきた。
「あ、うん」月日は一つ頷くと自分も羽織っていた学ランを着直し外套を着る。
なるべく音をたてないようにして玄関で百夜に振り返る二人。まるでいつもの登校前の様子だ。
「百夜さんあとはよろしく」
「また後で」と、ハジメを背負うと月日は首輪を少し緩めすぐに締めなおした。彼の黒い瞳が銅色に輝く。
「ハジメ、舌噛まないように」
「おうよ」いつもの歯切れのよい二人のやり取りがあったかと思う間もなく、百夜の目の前で雪煙をあげて月日は跳躍した。砲弾さながらの跳躍だ。この分だと男子寮の分岐点どころか、普通科棟の屋上にまで到達しかねない勢いで飛んでゆく。
百夜は月日に対して相変わらず常識離れなことをしている存在であると思いつつも、これが今の常識なのだと思い直すばかりであった。
そもそも、百夜とまどかの日常とは、ほぼのべつ幕なしに命を狙われている日々を差していたのだ。あの頃に比べれば、月日らが来てからはその頻度は皆無と言っていいほど激減していた。
何が異常で何が日常なのか、もはや百夜には判別しようもなくなっていた。命を狙われる日常が、日々命の心配をすることなない、同級生が享受している普通の日常になったのだ。それを本当に日常と呼んでよいものか、百夜にはわからなかった。ただひとつ彼女が言えることは、このまままどかと月日と共に居られれば、それがどんな日々であろうと自分の日常なのであろうと思えるようになっていたことである。三人がバラバラになることなど、もはや彼女にとって考えられないことになっていたのだ。
百夜の視線の端に閃光が走った。
ふと、東の空を見れば、遥か学園と外界を仕切る壁からゆっくりと陽光が昇り、白一色の学園全体を朱に染めていった。また新しい一日が始まったのである。




