第二十六話 誰がハートに火をつけた?
次の日はあいにくの雨だった。空はどんよりと雲に覆われ、しとしととみぞれ交じりの冷たい雨が降っている。午後には寒気が降りて雪になるとの予報も出ていた。
そんな天候の中、車寄せの天蓋の中にパールホワイトのリムジンが滑り込むように入ってくる。いつものようにボディーガード、ハジメに続いて月日が車から降りてきた。
「おはようございます。旦那様」月日の姿を見つけるなり、頭を下げるかくや。顔をあげた彼女の顔はとても嬉しそうに微笑んでいた。昨日の今日だというのに。もう何日も会っていなかったかのような表情をしている。
「おはようございます。かくやさん」挨拶を交わす月日は彼女の姿を見て驚いた。雨こそ入ってこないが、冷たい風の吹きこむエントランスで、彼女は制服姿のまま立っていたのである。
こんな寒い朝だというのに、彼女は外套も着ずにずっとこんな場所で待っていたのだろうか。
月日に続いて出てきた百夜も驚いて彼女に駆け寄る。
「何をやっていらっしゃるのですか!? こんな寒いところで!」
「大丈夫です。寒いのには慣れておりますし、大事なところには使い捨てカイロを張っております」と、彼女はお腹を軽くポンポンと叩いた。
「そういう問題ではなくてよ、かくやさん!」さらに後から来たまどかも心配そうな顔つきでかくやに注意する。
「少しでも早く旦那様にお会いしたくて……」
「お気持ちはお察ししますが、あまり無茶なことはなさらないで下さい」少し頬を赤らめながら、まどかは彼女から目を逸らした。
「もし、あなたがお倒れになったら、月日さんが心配なさるではありませんか」
「……そうですね。会える嬉しさに夢中になり気づきませんでした。旦那様にご心配をおかけするなんて妻失格ですわ……。ご忠告感謝いたします」そう言ってまどかの手を取ったかくやの手は氷のように冷たかった。
「かくやさん! 手がこんなに! 早く教室へ参りましょう。月日さんではごきげんよう」
「では旦那様後ほど」
「ごきげんよう。月日さん」女性陣はせわしなく月日に挨拶をすると、ゲートの奥へと姿を消した。
「何ともなければいいけど……」月日は心配そうにゲートの向こうに姿を消した女子たちを目で追っていた。
「女の子は寒さに弱いからなぁ」ハジメが素っ気なく呟く。彼はかくやの心配をしていないわけではないが、月日にいらぬ心配を掛けさせないようにあえて気持ちを込めないで言ったのだ。
「ま、彼女たちが付いてる。だいじょぶだろ」
「う、うん」
「俺たちも行くとすっか」
「……そだね……」月日は、後ろ髪を引かれる思いでもう一度ゲートを見やった。ほかの上層教育科の生徒たちが次々とゲートの中に吸い込まれてゆくのが見えるだけだ。
少しばかり胸騒ぎがしたが、いつもの取り越し苦労だと思って彼は普通科棟へ足を向けた。
やはり月日の取り越し苦労だったのだろうか、午前中の授業は退屈なくらい何事もなく過ぎていった。
気付けば、雨はいつの間にか雪に変わっていた。
例によって昼休みは、かくや襲来で食堂はまたしても騒然としたが、それも一時で収まった。騒ぎ立てたのは昨日いなかった初見さんだけのようで、普通科の連中は昨日の妙な一体感以来、かくややまどか、それに百夜にも慣れたのか、近寄ってくることはしないが月日たちを生暖かい目で見守ることにしたようだ。
昼食も何事もなく? 終了し、かくやも元気でいることが分かり一安心といったところで月日たちは分かれ、再び午後の平穏な授業へと戻っていった。
午後の授業も無事何事もなく終わった。
月日は今朝の胸騒ぎが杞憂でよかったと胸をなでおろして、ハジメと共に上層教育科のエントランスへと向かっていた。
外はまだ深々と雪が降っている。校庭はうっすらと白く雪化粧をしていた。この降りだと結構積もりそうだと、呑気に廊下を歩いていると月日のスマートフォンが鳴りだした。
慌てて胸ポケットからスマートフォンを取り出して着信相手を確認すると、まどかからだった。スピーカーモードで通話する。
「月日です」
「月日さん、まどかです。今日は少し遅くなりそうなので、申し訳ないのですが、車の中で待っていてください」彼女の息が軽く弾んでいる。どうやら歩いているようだ。まどかのほかにも人の気配がある。きっと百夜とかくやも一緒なのだろう。
「どうかしたの?」
「それが……生徒会長から呼び出しがありまして……」
「生徒会長って、あの日鏑の?」
「はい。いま百夜ちゃんとかくやさんと一緒に生徒会室に向かっているところです」
嫌な予感は斜め後ろからやってきた。やはり胸騒ぎは当たったのである。
「ハジメだ。もうすぐ生徒会室に就くのか?」月日の横からハジメが割り込む。
「はい」
「なら、このまま電話を切らずにいるんだ」
「わかりました。でも、この携帯はバッテリーがあまり持たないのでいつ切れるかわかりません」
「出来るだけでいい。なるべく情報を流してくれ」
「わかりました」まどかはそう言うと、通話状態のままハンズフリーモードにしてスカートのポケットにスマートフォンをしまい、眼前の扉に目をやった。
赤茶色をしたマホガニー製の扉にはピカピカの真鍮製ネームプレートが取り付けられており、そのプレートには『上層教育科生徒会室』と刻印がされていた。
まどか、百夜、かくやは頷き合うと、まどかが代表して扉をノックした。
「どうぞ」女子生徒の声が扉の向こうから聞こえる。
「失礼いたします」まどかは意を決し、金色の真鍮製のドアノブを回すと重い扉をあけた。
上層教育科生徒会室は全校生徒会室とは異なり、扉こそ重厚だが室内はいたってシンプルだった。多少の装飾は見られるが貴族のサロンといった趣はなく、事務に徹した社長室といったところだ。
壁と床は扉と同じ赤茶色のマホガニー材で統一され、白い天井には間接照明のシーリングライトが取り付けられており落ち着いた佇まいだ。部屋の中央には会議用と思しき三、三、一の七人掛けのテーブルソファーセットが置かれており、一人掛けの席には先ほど応答した書記と思われるポニーテールの女子生徒が事務処理をしていた。ほかには小型のキャビネットと書棚が壁伝いに整然と並んでおり、部屋の一番奥にカーテンが掛かった窓があった。いずれの内装も赤茶色と白で統一されている。部屋の奥の窓を背にして生徒会長の席である大きな執務机が部屋を威圧するかのように構えていた。
「まぁ、掛けたまえ」会長席に座っていた七三分けをした銀縁眼鏡の男子生徒が立ち上がり、中央のテーブル席に向かって手で指し示した。日鏑晶だ。書記の女子生徒はそそくさと書類とタブレットを片付けて席を立ち、まどかたちに一礼すると部屋を出て行った。
まどかたちは頷き合うとテーブルの下座のソファーに、百夜、まどか、かくやの順で三人並んで座る。
「いや、お見苦しいところを見せてしまったね。そろそろ生徒会も解散なもので、今は引き続きやら卒業式と入学式の段取りやらのための事務仕事が忙しいんだ」日鏑晶はタブレットを片手に席を離れると、当たり障りのない世間話から入ってきた。
「卒業式と入学式の実際の段取りは、新生徒会が構築するのだが、概要だけはまとめておくのが上層教育科生徒会の伝統でね。僕の代で終わらせるわけにはいかない。そうそう、君たちの入学式を取り仕切ったのは現生徒会。つまり僕らなんだよ」彼はそう言いながら、まどかたちの正面にある三人掛けソファーの中央に座った。
「ところで……」と言いつつ、彼はタブレットを操作している。
「君たちは昨日、普通科の生徒指導室に乗り込んで先生方の邪魔をしたそうじゃないか」ついに本題に入ったようだ。
「邪魔をしたわけではありません。誤解を解きに伺っただけです」まどかがきっぱりと反駁した。
「誤解? どんな誤解があったのかな?」人差し指だけを折って中指で銀縁眼鏡のブリッジを押し上げる。
「あることでの疑念を晴らしに行ってまいりました」今度は百夜が答えた。ここで素直に答えると、またまた厄介なことになりかねない。
「おかげさまで無事誤解は解け、普通科の教頭先生を含め生徒指導の先生方にもご納得していただけました」
「そうですか、生徒指導の先生方も、ね……」と、日鏑晶は含みのある言い方をした。百夜はその言いようが何かとても気になったが、今はそれどころではないようだ。
「今日、君たちを呼んだのはその問題ではないんだよ」
「ではどういったご用向きなのでしょう?」百夜はそう言いながら、黒縁メガネのフレームを人差し指と親指で挟んで位置を調節した。伊達メガネなので特に視力には影響しないが、百夜が少し緊張しているときにする仕草だった。
「君たちが、遊び感覚で気軽に普通科棟に行くことが問題なんですよ」日鏑晶はタップするともなく、タブレットのフレームを人差し指でトントンと叩きながら、まどかに視線を向けた。
「上層教育科の生徒が普通科棟に行くことは許されています。問題はないと思いますが」
「そう、規則的には許可されている……が」日鏑晶は目を細め今度は反駁してきた百夜を見つめると、思わせぶりにゆっくりとそう言った。
「昨日、普通科の生徒指導室に呼び出された、確か、太神月日君だったか。彼が生徒指導室に行く原因を作ったのは君たちじゃないのか?」彼はタブレットを操作し、百夜が昨日見せた同じ動画を彼女たちの前で再生して見せた。
百夜もまどかも言葉に詰まった。彼の言っていることは確かに正しい。自分たちが暴漢に襲われなかったら、月日は五時限目の授業を受けられていたはずなのだ。自分たちさえ行かなければ、と百夜が思いかけたとき妙な違和感を覚えた。すべてにおいて、タイミングが良すぎるのだ。
思い返してみれば、あの暴漢たちは自分たちが来ることを知っていて襲ってきたような気がする、と百夜は思い至った。
まどかもそれに気づいたようで百夜に目配せをしてきた。
――もしかしたら、わたくしたちは嵌められたのかもしれない!
百夜はうすら寒さを覚えた。これもドクター・レッドタイドか何かの差し金なのだろうか。それとも、日鏑が何かを画策したのだろうか。いずれにせよレッドタイドと日鏑はつながっている。たとえ、これが日鏑の策略だったとしても、今は証拠がない。相手が正論を掲げている以上、こちらとしては打つ手がない。
百夜はかくやにも視線を移した。かくやは静かに日鏑晶を見ているが、特に何も気づいていないようだ。レッドタイド事件のことを知らないのだから彼女が気づくはずもない。それに、彼女は今のところ黙っていてくれたほうがいい。彼女が下手なことを言い出すと、話が余計にこじれかねないのだから。
「太神君もいい迷惑だろうな。君たちさえ普通科に行かなければ、生徒指導室に呼ばれることもなかったのだから」さも月日のためであると言わんばかりだ。ここまでお為ごかしがあからさまだとむしろ清々しさすら感じる。
「僕はね、君たちのことを責めているんじゃない。むしろ心配しているんだよ」不審な目つきをしている百夜に気付いたのか、日鏑晶は切り口を変えてきた。
「普通科はセキュリティも甘く、裏で何をやっているかわからないような連中も少なくないと聞く。君たちを襲った暴漢がいい例だ。なので普通科になど、上層教育科の生徒がおいそれと行くべき場所じゃない」
「その暴漢ですが、わが校の普通科生徒ではない可能性があります。ですから普通科生徒が悪いわけではありません」まどかは懸命に普通科の生徒が悪いわけではないことを訴えた。しかし、それは逆効果で日鏑晶の張った罠でもあった。待っていたとばかりに日鏑晶は口を開く。
「分かっていないね。それならば、なおさら普通科などに行くべきではない。君の言っていることは、普通科は得体の知れない部外者が容易に入れる場所であると暗に証明していることになる。普通科などは上層教育科の生徒が行くにはふさわしくない場所なのだ」百夜は日鏑晶の言葉の端々に人を蔑むような響きを感じていた。どうも人間として彼を好きになれそうにない。
「いい加減気付きたまえ。普通科と我々上層教育科とは住むべき世界が違うんだ。彼らと行動を共にすることは上層教育科の生徒として相応しくない」今の言葉で百夜の疑念は確信に変わった。この人は選民主義者だ、と。
日鏑晶は選民主義を振りかざすだけでなく、この事件を仕掛けて我々を月日から排除しようと試みている。百夜は直感的に散らばる情報を結び付けてそう推測した。しかし、例によって証拠は何一つない。証拠がない限り、百夜のこの考えは推測の域を出ず、ただの偶然が重なっただけという可能性が高くなる。
しかし、まどかはまだあきらめてはいなかった。
「彼らは……太神月日さんと遠吠一さんは我が蒼月家の使用人です」なおも日鏑晶に食い下がる。
「ならば早々に解雇することを勧めるよ。これ以上君たちに危害が加わる前にね」日鏑晶は背もたれに寄りかかり顎を上げ、見下すようにまどかの言葉を一蹴した。
「……わかりました……」日鏑晶の言葉を受けて、まどかは顔を俯けておもむろに答えた。
まどかは怒っていた。それも甚だしく。こういう態度をとるときのまどかは尋常ではないほど怒りに燃えているのだ。彼女をよく知る百夜は戦慄すら覚えた。
「彼らが普通科だからいけないというのでしたら、彼らを上層教育科に転科させます!」顔を上げたまどかの瞳は爛々と闘志に燃えていた。日鏑晶は彼女を本気にさせてしまったのだ。こうなった彼女はいかなる手段を講じても目的を遂げようとするだろう。
「な、何を言っているんだ。そんなことができるわけがないだろう!」まどかの目に見えない闘志に気圧されて、日鏑晶は思わず叫んでいた。背もたれに体が食い込むほどのけ反っていた。もう少しソファーが軽かったら、ソファーごと転倒していたかもしれない。
「途中転科は制度上認められている生徒の権利です」月日たちが転科試験を合格できるかは別問題ではあるが、統月学園には途中転科という制度は確かに存在した。
「わたくしたちが普通科に出向いてはいけないというのであれば、彼らを上層教育科の生徒にしてしまえばいいのです!」
「ばかな、そんなことができるはずがない! 学年度末試験も迫っているんだぞ。その両方を平均七十五点以上で突破できるとでもいうのか!」
日鏑晶の言葉に静かにそして重々しく頷くまどか。火が付いてしまった彼女の心はもう変わらない。蒼月の総力をあげて目的を完遂するだろう。
「な、ならば、やれるものならやってみるのだな!」
日鏑晶はもう解散だと言うように手を振って、立ち上がった。まどかたちも彼に続いて席を立つ。
「太神さんの上層教育科の制服姿をお見せできないのは残念ですが、まずはご卒業おめでとうございます、と申し上げておきますわ」まどかのその瞳には、心に燃え盛っている怒りとは相反して、青白く冷たい光が湛えていた。
日鏑晶はぞっとして、今度こそ後退ると「もう下がっていい」とだけ言って、困憊しきった様子で執務机に向かった。
「では、失礼いたします」まどかたち三人は日鏑晶に一礼し、静々と生徒会室を後にした。
扉が閉まる刹那、頭を抱えた日鏑晶の姿が隙間から垣間見えた。




