第十七話 月からのインベーダー?(上)
『トト、トツートト、ツーツーツー、トトトツー……』
静かな冬晴の夜空。月齢は満月を越えて欠け始めた月に向かって、モールス信号を打つ少女が一人。窓際にほほ杖を突き、畳の上に横座りになって月を眺めていた。
長い黒髪は平安貴族のように嫋やかに畳の上に流れ落ち、長いまつ毛の底に見える黒い瞳は物憂いげに金色の月を映していた。
部屋の明かりはすべて消され、月明かりだけが彼女を照らし出していた。
「もうすぐ……会えますのね……」吐息交じりのその言葉は、ずっと待ち侘びていた、まだ見ぬ想い人へ向けられたものだった。
一月も終わりに差し掛かったある日。いつものように蒼月円のリムジンから、赤レンガの敷き詰められた車寄せに、丸い体躯を揺らして降り立った太神月日は、変な視線を感じていた。特に殺気と言うわけでも、危険を感じさせるものでもなかったので、まどかに知らせることもなく、その場はスルーすることにした。もしかしたら、またルピィナが覗き見をしているのかもしれない。
「そういえば、すっかり忘れていたけど、あれ以来ルピィナを見てないんだけど。そのまま初等部へ行っているの?」
「あ、はい、ルピィナは帰国子女学級に編入されたので、寮生活をしています」月日の問いかけに百夜が答えた。
「帰国子女学級って全寮制なんだ……」「はい、初等部四年生以上は。なんでも、なるべく早く環境に適用させるためだそうですよ」突然まどかが、月日に答えようとしていた百夜を押しのけるように割って入った。まどかの行動に百夜は少し驚いたが、ハッと気づいて、二人から顔を背けるとクスっと小さく微笑む。
「それじゃあ、またあとで蒼月さん」
「はい、ごきげんよう太神さん」月日の挨拶に答えるまどか。百夜は月日に、にっこりと微笑みながら会釈し、まどかの後に静々と付いて行った。
月日とハジメはいつものように、彼女たちが上層教育科のゲートに姿を消すまで見届けると、普通科棟へと歩き始めた。
上層教育科、一年A組。獣人のルピィナが壊した窓は窓枠ごと交換され、床の傷もきれいに修繕されていた。まるで略取事件などなかったかのようだ。
「ごきげんよう皆さん」
「ごきげんよう蒼月さん」
まどかはいつも通りに、百夜と一緒に教室の前方の扉から入ってきて、クラスメイトと挨拶を交わす。
ふと、一番後ろの自分の席を見やると何かが違っていた。教室を修繕したから何かが変わったというわけではない。
「百夜ちゃん……あれ……」と、自分の席の、向かって左隣にある百夜の席を指さした。
「あ……」百夜もそれに気づく。
百夜の席の後ろに、一つ席が増えていた。
百夜の席は、最後列の廊下側壁際の席だ。ところがその後ろに一つ飛び出して席が増えている。上層教育科の机は普通科の机に比べ、二割増しほど大きく、席と席の間隔も広いので、席が増えるとよく目立つ。しかも一つだけ飛び出しているのだからなおさらだ。
何だろうと思いつつも、自分たちの席に座るまどかと百夜。
始業の予鈴の鳴る中、まどかは後から登校してくるクラスメイトに挨拶をしながら始業の準備をする。学校指定のペン付きタブレット端末を鞄から取り出し、起動して授業の時間割などの確認をして準備を整えた。いつもの光景だった。
「転校生かしら?」
「こんな時期にですか?」まどかの問いかけに、百夜は戸惑いがちに答える。
うーんと、二人で考えあぐねていると、始業チャイムが鳴った。
初老の痩せた地味な身なりをした女性教師が教室に入ってくる。担任の三柿森教諭だ。一呼吸置いて一人の少女が後から入ってきた。上層教育科の黒いセーラー服に身を包んだ少女は、長い黒髪を腰の辺りで大きめの赤いリボンを使って纏めていた。リボンを解けば、髪は太腿のあたりまで届きそうだ。
男子たちから、静かなさざめきが起こる。小さな顔立ちに大きな瞳とかわいらしい桜色の唇を持った、流れる滝のような美しい黒髪の美少女。前髪は眉毛に掛かる程度で切り揃えられ、これぞジャパニーズビューティーと言わんばかりだ。そして、どことなく儚げで華奢な体つきは、男子生徒たちの庇護欲を掻き立てずにはいられなかった。守ってあげたいランキングがあったら、間違いなく一位になっていたことだろう。
彼女は、担任からペンタブレットを手渡された。自分の名前を書き込む。前面にある授業用の大型タッチパネル・ディスプレイに彼女の名前が映し出された。
「月見乃かくやと申します。これから、よろしくお願いいたします」と言って、彼女は優雅な所作で深々と頭を下げた。
月見乃と聞いて、ふと眉をひそめる百夜。どこかで聞いたような名前だった。このとき百夜はすぐにその名前を思い出すことができなかったが、その名はあまり良い印象ではないことだけは、はっきりと覚えていた。
「何か皆さんに一言を」と、かくやは担任から促される。
「では……」と言って、クラスを見渡してから彼女は口を開いた。
「わたくしは、太神月日様の妻になるために参りました」と、澱みなく、聞き間違いようのない、はっきりとした滑舌でかくやは言った。
一瞬、誰もが自分の耳を疑った。担任の女性教師も両の眉をあげて驚いている。そして小さな囁きは、あっという間に大きなざわめきに取って代わった。
「なに? なんて言った?」
「妻? 妻ってお嫁さんってこと?」などと、生徒たちは口々に騒ぎ出す。
「皆さんお静かに!」女性教師が声を荒げなければならないほど、教室内は大きくざわめき立った。そのざわめきの中で、まどかだけが口を開けたままの放心状態になって、かくやを見ていた。
その視線に気づいたか否かは知らないが、かくやはさらに続けた。
「はい、わたくしは太神月日様の許嫁です!」火に油を注ぐとはこういうことの例えであることを、彼女は実践してのけた。教室は担任教師の声など届かぬほどに、さらにざわめき立ってしまった。
「何を騒いでいるんですか!」
騒ぎを聞きつけ、隣のクラスの男性教師が入ってこなければ、教室はカオスに陥っていたかもしれなかった。
ほどなく騒ぎは沈静化したものの、当の本人である月見乃かくやは、何をそんなに騒いでいるの、と言わんばかりの表情で、教壇から教室を見渡していた。まるで誰かを探しているかのように。
その挙動でハッとする百夜。
「あの……」と、かくやが言いかけたとき、遮るように百夜は手をあげて、「彼女の席はわたくしの後ろが良いと思います」と空いている後ろの席を指さした。百夜が言わずとも、その席はかくやの席に決まっていたのだが、これ以上の騒ぎを起こされては困るとばかりに、担任教師は百夜の発言に便乗し「ではその席に座ってください!」と、かくやを追い立てるように座らせた。
百夜は、かくやが月日を探していることに気付いたのだ。恐らく、かくやの「あの」に続く言葉は、「月日様はどこにいらっしゃいますの?」とかに違いない。そんなことを言ったりすれば、教室内の最炎上は免れなかっただろう。ショートホームルームが終わった今もまだ、かくやの放った一言が、教室内に沈殿したささめきとなって燻っているのだから。




