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空とたつ壁

作者: 城間遙子

 少女は,四枚の灰色をした壁がぴったりとふちを合わせる空間にとざされていました。



 目を覚ましている間,壁は東に西に目を眩ますような光をさまよわせ,北に南に耳鳴りのような得体のしれない音を響かせました。それは,わけもなく少女を苛立たせるものでした。

 少女は耳をふさぎ,目を閉じて眠りに落ちるのを待ちましたが,待つほどに苛立ちはつのり,少女は灰色の中にぐるぐるとまわる錯覚をおぼえずにはいられませんでした。

 そうした時間をすごした果ての安らぎは,けれど待ち続けた眠りに落ちる瞬間だけでした。

 眠ればまた,夢というわずらわしいものが待っているのです。





 少女はぼんやりと横たわっていました。

 腕も脚もあらわにした白い服は,少女の瘠せた体をさえ充分に包んではいませんでしたが,少女は,横たわったまま自分を見おろすたび,自分がその白に埋もれていく錯覚をおぼえずにはいられませんでした。


 だけど,立ち上がってしまえば,白はたちまち灰色の前にかじかんでしまうのです。






 ある日,少女は東の壁にそっと指を這わせてみました。

 どうしてそんなことをしたのかはわかりません。なぜだか,退屈だと思ったのでしょうか。たどった指は灰色に汚れ,壁は,指のたどった跡を色彩に変えました。少女は,何か細く鋭いもので刺されたような衝撃に,じっとその跡をみつめました。


 それは,青い青い空でした。白い雲は濃く淡く,そこに重なる黒ずんだ雲は,切れ間から強い光を通していました。濃い白の雲はその光に輝き,淡い白の雲はその光を何よりも優しく透かしていたのです。そして,その空に飛ぶ誰かは,何かとても愛されているように思えました。


 少女の顔は歪み,その歪みは大きく声を放ち,少女は泣きだしました。

 理由なんて言えません。ただ,耳鳴りさえかき消すほどに,泣いたのです。




 空を飛んでいた少年は,大地を遮ってそびえる壁に穴があいているのを見つけて,おそるおそる降りていき,覗きこみました。

 その向こうでは,少女がひとりきりで泣いていました。

 目を閉じて根がはったように立ちつくし,両腕をたらして,手のひらを緩く握りしめて泣き続けるその姿は,お母さんを求める小さな子どものようでした。

 少年は壁を叩いてみましたが,少女はそれに気付かず,ただ泣き続けていました。お互いの音は,壁に遮られ届いてはいなかったのです。

 少年はそこでもう一度飛びたち,そしてすぐに戻ってきました。手には,黒い目をした森の生き物を抱いていました。



 少女の固くとざした瞼を透かす青い空からの光は赤く,それ自体がうごめくようにざわざわと,たかぶった感情を逆なでていました。それが,不意に何かによって遮られ,暗く沈んだのです。少女は思わず目を開きました。

 そこには,あの空を飛んでいた誰かと,黒い目をした小さな生き物がいました。「誰か」はそれをさしだし,それは鼻をくんくんと動かしながら,小さい毛むくじゃらの前足を壁の跡に伸ばしました。その目は黒く潤って無心に見はられていました。

 少女は知らず,笑っていました。それを可愛いと思う少女は,触れることもかなわないそれを,温かいと思ったのです。

 壁の向こうで「誰か」も笑いました。少女はそれに,泣きたいような気持ちをおぼえました。



 そうしているうちに空は光を落とし,少年と小さい生き物は見えなくなりました。

 やがて少女は横たわり,その目を閉じましたが,そのなかに苛立ちはなく,掴みどころのないもどかしさと優しさが交錯していました。眠りに落ちたそこにも,いつもの煩わしい夢は待っておらず,少女は今までにない夢を泳ぐように飛ぶように漂い,眠りから醒めた後には,青い空と小さな生き物と「誰か」を見せた跡はすでに消えていました。

 そうしてそこは,もうどんなに指を這わせても,二度と同じようにはならなかったのです。






 少女はしばらくの間,あきらめきれず東の壁に指を這わせていましたが,そうしたところで壁は少女の指を汚すだけでした。

 少女はふと身体中の力が抜けていくのを感じ,その場に座りこんで一度は膝を抱えましたが,弾かれたように立ちあがり,今度は南の壁を白い服のすそでそっと拭ってみました。


 そこでは,深い深い藍色の空と,空一面にちりばめられた色とりどりの光が,少女をとり囲むように広がっていました。少女は言葉もなくそれを見上げ,空は少女に向かって手を振るように,輝きをひとつ流してみせました。


 それは,少女が初めて見る光でした。ほんのひとときではわからないほどゆっくりと,けれど確かに巡っていく星々は,無造作に放りだされているようでいて,にもかかわらず少女には並べ替えようもなくはっきりと何らかの意味をもってそこにあるように思えました。

 少女はその変えがたい在りようにもどかしさを感じずにはいられませんでしたが,それは,東の壁で見た少年に対するものとは少し違っているようでした。



 いつしか空は色あせていき,光も空の白さにかすんでいきました。

 少女はその白さにつられるようにゆっくりと目を閉じて,その場に横たわりました。

 眠りのなかには絶えず何かが少女の周りを巡っており,それは南の壁で見た光のようでもありながら,少女の知らない,けれどずっとおぼえていたぬくもりのようでもありました。

 そうして眠りから醒めた後には言いしれない懐かしさが少女のなかにこみあげ,少女はじっと横たわったまま静かに泣いていました。やがてこらえきれず起きあがり向かいあった南の壁は,もう二度と,いかなる光をも見せてはくれませんでした。






 少女は悲しみのままに南の壁にもたれかかり,しばらくの間,ぼんやりと壁の向こうに見た光を思い出していましたが,やがて,ゆっくりと立ちあがって西の壁に向かいました。

 ですが,少女の手のひらも白い服のすそも既にすすけて汚れきっていました。そこで少女は服を脱ぎ,その服のまだ白いところで西の壁を拭ってみました。


 そこでは,空が冷たく燃えあがっていました。



 少女は息をのんでそれを見つめていました。

 重なりあう雲の,濃いものは何かすごい熱に溶けたかのように赤く,淡いものは黄金色に輝いていました。空は下から逃れようもなく燃えあがり,けれどそこに炎の光は感じられず,燃えつきたあとには何が残されるのか,まるで想像がつかないのです。その様子はまるで,命を流し続ける心臓の,最後の重い重い鼓動のようでした。

 それは,静かで荘厳な美しさでした。少女はその凄まじさに怯え,最後まで見つめる勇気ももてず,壁に背を向けてうずくまりました。

 そうして震えるまま眠りに落ちても,すべての夢は訪れることなく,ただ,少女の鼓動だけが低く,はっきりと聞こえていました。少女はそれを地響きのようだと思いました。

 壁のなかにいた少女が,大地の響きを知っていたとは思えません。ですが,少女はたしかにそう思ったのです。もしかしたら,それこそが眠りのなかに息づいた夢だったのかもしれません。






 少女が再び目を醒ました時,西の壁は既に元の灰色に戻っていました。

 少女は,その壁を二度と拭おうとせず,まっすぐに北の壁に向かいました。西の壁を拭おうにも少女にはもう何も拭うためのものがなかったせいもありましたが,何より少女は西の壁で見せられた空の命の終わりを,その終わった後の姿を見ることが怖かったのです。

 そこには,どんな恐ろしい世界が待ちうけているのか,想像もつきません。もしかしたら新しい何かを見せてくれたかもしれませんし,既に少女の知るやさしく美しいもののうちの何かを見せてくれたかもしれません。そうしたならきっと,少女はその前に見た燃える空さえ怯えず美しいように思い返せたのかもしれませんが,少女は希望をかけるだけの勇気をもつことができなかったのです。



 少女は北の壁の前で崩れるように横たわり,けれど目は閉じず,ただ息をひそめてじっとしていました。いつしか少女は,唯一の安らぎだった,眠りに落ちる瞬間さえも恐れるようになっていました。



 何かと何かが切り替わる瞬間はいつの時も少女を壁が遮り,同時に,美しいものからも少女を遮るのです。






 そうして横たわっていることもできなくなった少女は,やがて静かに体を起こし,あらためて最後の壁の前に立ちました。

 少女は北の壁に向かったまま,見るともなく灰色の壁を見続けていました。一面に灰色の壁は,見ているうちに少女の視界を少女の内にある記憶だけの世界へと引きこんでいきました。

 それは,今まで少女の前に描きだされた三つの壁の風景でした。

 少女は,もう一度東の空の世界に会いたいと思いました。南の空の世界に抱きとられたいと願いました。そうして,西の壁に怯えました。

 少女の視界は何度となく東と南それぞれの壁を往来し,西の壁を避けながら,結局北の壁に戻されました。

 けれど,少女には壁を拭うものは何一つないのです。



 少女は,北の壁に両手でそっと触れてみました。

 影さえもない灰色。壁の向こう側にあるかもしれない世界の,わずかな気配さえ窺わせないほど細やかにはりついたその色と,触れた力のぶんだけ指を押し返す壁。その感触に,少女はどうしてか寒いと思いました。そうして,手を離しひざまずいて頬を壁に寄せ,目を閉じました。何の音も聞こえてきません。ただ,忘れかけていた耳鳴りだけが少女を襲い,少しずつふくれあがってきました。

 けれど少女は,それを振り払おうともせずに息をひそめていました。耳鳴りが恐ろしいまでに拡がって少女の体を支配した時,少女は,それが自分の鼓動であることに気付きました。



 少女は壁に頬を寄せたまま,うっすらと瞼を開いてまどろむような瞳を壁に向けると,そのまま,鼓動に吸い寄せられるようにして北の壁に口接けました。

 その瞬間,灰色は真っ白に広がり,少女は身体中に刺すような痛みをおぼえ,壁から後ずさりました。

 目の前には,ひたすら静かな世界がありました。



 淡く光を放つ真っ白な大地を少しくすんだ白の空が覆い,その空からは大地のかけらのような白いものが絶え間なく降りしきります。

 それは,一面の雪景色でした。

 少女は大地のかけらの降る空を見上げました。その白は幾つも幾つも少女の視界をかすめ,大地と一つになっていくのです。見上げているうちに,あらがいようのない浮遊感に足許をすくわれ,このまま空に引き上げられてしまうような錯覚にとらわれました。大地に足がついているとはとても思えなくなったころ,少女は鼓動を忘れ,目を閉じて,意識は忘れ去られた鼓動の向こうに沈んでいきました。


 少女を抱きとった夢のなかには,四つの空がありました。

 空は東から西へとその色を変え,南の空は光を巡らせながら遥かな大地すべてにその輝きを解放していました。少女は,不意に頬を打った痛みに北の空へと振り返り,そこで目を醒ましました。




 少年は,大地を遮る壁の,その穴の向こうに少女を見つけてからというもの,何度となく壁に訪れていました。

 ですが,あの日いらい穴を見つけることはできず,もしかしたらあれは夢だったのかもしれないとさえ思っているうちに,春は夏をよび,夏はその終わりに秋にねがい,秋は冬を受けいれて大地は一面の雪に覆われ,壁さえもその風景に溶けこんでいきました。

 少年はなかば忘れそうになりながら,その冬最後の雪が降るなか,その壁を今一度訪れたのでした。


 大地に降り立ち,少年は,自分の目を疑いました。

 大地を遮っていた壁は,跡形もなく消えていたのです。


 何度となくその場所を訪れていた少年が壁の位置を見誤るはずなどありません。けれど,壁のあった場所には,ただ静かに雪が降りつもり,大地を眠らせているばかりなのです。

 少年はあたりを見回し,さらにぎょっとして目を見張りました。

 目の前の,ちょうど壁のあったあたりに,あの少女が倒れていたのです。



 少年は雪を蹴って少女に駆け寄り,力の抜け落ちた少女を覗きこみました。

 少女の背には雪のように白い羽があり,その羽は,何一つ身にまとっていない少女を守るように覆いかぶさっていました。

 この子は死んでしまっているかもしれない。そう思い,少年は少女の前でとっさに立ちすくみましたが,雪に半ば埋もれている少女の姿は,少年の想像できる限りの死んでしまったものに感じる恐ろしさを,少しも見せてはいませんでした。


 少女の冷えきった頬を手のひらに包んで,少年は声を押し出しました。

「目を醒まして」


 すると,少女が微かに目を開き,その目はまっすぐに少年を見つけました。





 少女を囲いこむ灰色の壁は,すすけた硝子でした。

 そして,少年がその冬最後の雪の降る日に降り立った場所は,硝子の壁の内側だったのです。

 少女は目を醒まし,あたり一面の,刺すような痛みを「熱い」と思いました。

「このままだと焼きつくされてしまう」

 こらえきれずそう呟くと,少年は少女が熱にでもうかされているのかと思い,少女を抱き起こしました。その少年の腕を温かいと知った時,少女は,降りしきる雪の痛みは刺すように冷たかったのだとわかったのです。

「あたし,あなた知ってるわ」

 少女はため息をつくように声を漏らすと,もう一度目を閉じました。

 少年はどうすればいいのかわからないまま,凍てついた少女の体を抱きしめました。そうでもしないと,少女の体はこのまま氷の人形にでもなってしまいそうに思えたのです。

「あの小さな生き物は?」

「眠ってる。今は冬だから。……春になったら,きっと起きてくる」

 少女は,細い息を一つつきました。白い息が広がり,大地の白に消えていきました。

「はやく,春になればいいのに」





 壁は四つの空の下で,澄んだ硝子でした。

 そうして,隠しようもなく大地を遮る壁だったのです。

 その壁は今も,この大地の果てのどこかにあって少女を囲んでいるのでしょう。少女が空に少女のすべてをうつすまで。




 少女は消え入りそうな声で呟きました。どことなく,懐かしい歌をくちずさむように。

「はやく,おきてくればいいのに」



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