道のりの意味
「―――だからねっ、青と赤ってほんとはおんなじなの!」
気が付けばレナーシアの一方的なおしゃべりは、そのまま数時間に及んでいた。
「―――こうね、ぐしゃあ、ってして、ばわあ、って膨らむんだ」
意味を成したり成さなかったりの言葉の雨に降られる時間だったが、キールには文句の一つもない。雪の落ちる音に包まれる冬ごもりのように、じっと穏やかな気分だった。
「―――それでね、クレアの眼鏡はねぇ、たまに逆さっ…………」
だが長かった独白も、おしまいは唐突だ。
淀みなかった言葉が半端に途切れたことで、キールは初めて傍らに目を向ける。
「ん、どうした。舌でも噛んだか」
「――――」
レナーシアは口を開いたまま、じ……と天空を見上げていた。その姿勢には揺らぎもなく、風に吹かれる外套が無ければ、時が止まったかと思えるほど。
やがてふと、辺りが一段暗くなる。
一日の終わり。日が山の向こうへ消えたのだ。
「――――った!」
瞬間、レナーシアの肢体が跳ねた。
手も使わずに不明な力で直立すると、いまだ色薄い星空の下で、獣は伸びやかに背を反らした。
瞬く星々を見つめるのは、それを上回るほどに煌びやかな純白の螺旋。尾が勢い余るほどに振られ、秘められた活力の解放を、今か今かと待ち受けている。
つまり、なんかこう……ものすごく元気になっている。
「うん!じゃ、お仕事の時間だね!」
唖然と転がったままのキールを、白い双眸がにっこりと見下ろした。
「な、何?」
「いこっ!キールっ!」
明朗な掛け声と同時、返事も待たずレナーシアは駆け出した。
「っ!?待て!どうした!」
慌てて身を起こせば、白い影が建物の屋上を飛び越えてぐんぐんと小さくなってゆく。
レナーシアは唐突に、何の説明も無しに「仕事」を始めてしまったのだ。
「っ待てレナーシア!今日は無しだ!二人を待とう!」
今日は事件に巻き込まれたこともあり、二人が迎えに来るまでおとなしくしているつもりだった。
だが白い背中に反応は無く遠ざかるばかり。キールの声が聞こえていないはずもなく、ならば意図的に無視しているに違いない。
そして依頼している身の上、キールはレナーシアを一人にするわけにはいかなかった。
「勘弁してくれよ」
覗き込むまでもなく、落ちればただでは済まない高さを前にキールはげんなりと頭を垂れた。ただ両脚を、両の腕を回して準備を整え、踏み出した身体に迷いはない。
「っだ!」
立ち並ぶ建物の合間は数メートルはあったが、一息で飛び出した足裏はしっかりと対岸の屋上を捉えた。弓も外套もない身軽でよかったと、キールは速度を緩めることなく次の跳躍に全身をたわませる。
「っ」
重力が失われ、全身を浮遊感が包み込む。中空への停滞は秒もなく、追い風に運ばれた身体はぐんぐんと進む距離を伸ばした。
獲物を追い三日三晩かけて山を越える脚には、距離も高低差も苦ではない。それでもすっかり薄暗く、眼下に光源も遠ければ、頼れるのは月明かり程度か。息を呑み脚を伸ばして、勢いを殺さないようリズミカルに足場を踏みしめてゆく。
「っ、あいつ……」
行く先、尖塔の頂点に片足で「立つ」レナーシアは、そんなキールを一瞥して小首を傾げた。屋根の縁に降りたかと思えば、浮き石を渡るように、つま先立ちでぴょんぴょんと跳ね進む。
まるで児戯のような動きだが、一飛びで数メートルを稼ぐ跳躍だ。なんとか追える足取りは、しかし休む余裕までは与えてはくれない。
くるりくるりと回りつつ両腕をなだらかに振るう娘の姿は、まるで踊りを見せているかのよう。
……そう、見せつけているのだ。
軽い散歩に必死に追い縋ってくる、のろまな男に。
「あは」
「ったく、この野郎」
命の危険がないだけマシと、幼稚な挑発に沸く怒りも無い。適当に歩いてるんじゃあないか――なんて疑いも頭の片隅に残しながら、甲斐甲斐しく子どもの夜遊びに付き合ってやるだけだった。
走り回るばかりの一日に、やがてキールの足取りは東地区の終わりにまで届いていた。
駆ける眼下に流れる太い河川は、東地区と西地区を分断する運河だ。
石で固められた川べりも、質素で頑丈な高架も、荷運びの色が濃く風情は感じられない。煌びやかに光彩に染まる街中とも違って人気が無く、音といえば流れる水の音くらいだった。
そして白い影は、あろうことか高架を支えるアーチの頂点に消えていた。
もちろん人が踏み入ってよい場所ではなく、踏み入れる構造ですらない。
「っと……」
それでもキールは止まらなかった。白の軌跡を追って、足場とも呼べない狭い骨組みに踏み込んでゆく。落ちれば命の無い道ばかり選ばせて、これがただの悪戯ならばまったく質が悪い。
それでもキールがここまでレナーシアを追ってきたのは――
抑えろとも止まれとも、文句一つ口にしなかったのは――確信があったからだ。
先を進みながらも、姿が見えなくなるまでは離れない。
奔放に歩くせくに、ちらちらと頻繁に振り向いてこちらの足取りを伺ってくる。
そんなもの、ただの不器用な道案内じゃないか。
「――歩くの、早えんだよ」
「――そぉ?」
そして確かに、レナーシアは待っていた。
高架の頂点に隠れるようにしゃがみこんで、組んだ腕に頬を埋めて、瞳を楽しそうに煌めかせて、しっかりと着いてきた影法師を上機嫌に見つめる。
――暗くて心細い、細くて危ない、高くて怖い。最後までついてこられる?
そんな子どもじみた儀礼を通して、キールが自分と同じ道を歩めることを確かめていた。
「ここからね、まぁーっすぐ」
「っ!確かか」
言葉足らずでも十二分に伝わる。レナーシアはキールの標的を――北の民へと繋がる道を示したのだ。風に煽られぬようキールが腰を落とすと、娘と触れるほどに顔が近づき、秘密を語る囁きのよう。
「昔っからずっとある匂いだよ。お仕事言われるまで気にしてなかったけどね」
「距離は。ここから見えるか」
「ううん全然。まだまだ向こう」
「なら、西区画の奥に立ち入ることになるか」
先の建物群はどれも大きく、月明かりに白く浮かび上がっている。レナーシアがまた奔放に離れてしまう前にキールは警鐘を鳴らした。
「この先は一緒に行動させてくれ。西地区にはフロイストの連中がいる。だから――」
「いないよ」
「――一旦……なんだって?」
「今はいないの。今日はみんな、夜にお城でご飯だって」
『王宮で晩餐会に参列する』
「それ……どこで知った」
「聞こえちゃっただけだもん」
盗み聞きを怒られるとでも思ったのかレナーシアはぷいとそっぽを向いて、しかし当のキールは絶句するばかりだ。国賓のスケジュールを把握していたことで、クレアが仄めかしていた娘の出自が現実味を帯びたから――
では、ない。
「いやお前、それ……いつから」
追うべき獲物の居場所に気が付いていて、だから誰にも見られない屋上という安全な場所で、キールと言葉を交わしながら、標的の傍から敵が消えるまで待っていた――
これまでの動きの真意は、そういうことなのだろう。
結構なことだ、理にかなっている。
だが、どこからだ。いつからだ?
元はといえば人目の無い屋上に至ったのは、追跡され追い詰められた結果だった。
さらに逃亡劇の始まりも、キールが猟団の罠に嵌ったがため。
(そうだ。俺が間抜けにも罠に嵌った)
警戒することなく事故現場に踏み込んだために、包囲されて逃げ出すことに――
(いや。そういえば、おかしい。そもそも俺はどうしてあの場から逃げ出した?)
キールもまた、フロイストから依頼を受けた一人……表向きは猟団の味方だ。その場に留まりむしろ自分から歩み寄って身分でも明かしていれば、情報共有でもしていれば、あのような大事には――
『囲まれてるよ』
「っ!?」
そこで唐突に蘇ったのは、レナーシアの語りかけてきた一言だった。纏わりつくように寄り添って、キールをまっすぐ見つめて発した言葉。あれこそ、レナーシアを連れ出すため逃げざるを得なくなった、起点だったではないか。
「なあレナーシア、お前、もしかして――」
深く考えることも無く、その疑問は口をついて出た。
徹底してキールを無視していた娘が、あのときは自ら歩み寄って声を掛けてきたのは――
「――わざと、話しかけたか?」
不満げに頭尾が振られ、また謝罪に頭を垂れることになるだろうと思っていた。
そして、横倒しにキールを見つめるレナーシアの表情は、
――なあに?ようやく気が付いた?
揺らぎ無く、愉快げに笑っていた。
「っ!?」
純白が、キールをまっすぐに突き刺す。螺旋の瞳孔が狙いを定めて、細く鋭く絞られて。
ああ、これは。無用心に巣に踏み込んだ獲物を見る目だ。
(いつ、から――その目で見ていた)
キールの追求の言葉は喉元で止まり、視線を動かすことができない。
ただ記憶が、情景が、引き戻されてゆく。
(俺はここまで、一度も地面に降りていない)
建物の屋根を辿って来た。祝祭で溢れる夜の群集を超えて、誰の目にも止まることなく。キールが踏んだのは、キールの足で渡れる道……いや、渡れるように道が選ばれていた。
(わけも分からないうちに、屋上にいた)
跳躍で論ずる間もなく連れ出された。自力では降りる事もできず、そしてレナーシアと言葉を交わす。 レナーシアが動くその瞬間まで、キールは屋根に縛り付けられていた。
(逃げた。レナーシアの報せを基に、逃げ道を探って)
三人、三人、三人、二人、二人、三人。レナーシアは追っ手の数も場所も把握していた。
だが、しかし。キールはそんな人数を実際に目にはしていない。見えない敵に道を塞がれ、避けて躱して、最後にたどり着いたのは結局包囲網の只中だ。
あの終わりへの道筋を決めていたのは、本当に自分自身だろうか。選択は常に介入を受けて、誘導されていたのではないか。脱出を確実としたはずの虎の子の跳躍も、最後まで見せられることがなく。
(っまさか、あり得ないだろう。そんなはずが)
終始掌の上で、コロコロと転がされていたというのか。
逃亡の始まりも道筋も行く先も、その先まで。
全てレナーシアの思惑通りに。
――屋台の前で一瞬、しかし確かにキールを捉えた視線。
――森の奥で、キールが遅まきに気が付くまで続けられた観察。
(そうだ、こいつは、レナーシアは、最初から俺を見ていたんだ)
だが何を目的に。
わざわざキールと追われるようなことをして。
セロンもクレアも引き離して。
たった二人で何を――
「話したかったからだよ」
二人で。
セロンとクレアからも離れて、二人きりで。
「――――――。」
臆面無く白状された娘の目的に、キールは呆然と言葉を失った。
そしてレナーシアはにっこりと微笑んで立ち上がり、小さな掌を差し出してきたのだ。
「行こ、キール」
……
………
…………
とても白い手に触れられる気分ではなく、しかし導かれるまま西地区へと踏み込んだキールは、変わらず遮るもの無い高所を歩いていた。広々とした商館の屋根の上を、先行するレナーシアから十歩以上の距離を開けて。
おぼろな月明かりの下、娘はふらふらと酔っぱらいのような足取りだ。富の殿堂を足蹴にし、遮るものない星空を独占する白い影。権力も財力も、その歩みを留めることなどできはしない。
「――よほど、不信だったということか」
「んー?」
探るようなキールの問いに、レナーシアは肯定でも否定でもない唸りを返す。
確かめたかったのは、レナーシアがキールとの行動を狙った理由だ。セロンとクレアが少女を心配していたの同じく、レナーシアもまた、彼らのことを案じていたのではないだろうか。
二人の若者は、それぞれの思惑もあってキールの存在を受け入れた。
だが外から見る限り、そして幼い判断基準からすればどうだろう。
城塞の襲撃に居合わせ、一時的に協力したまではいい。しかし一晩で再び目の前に現れ、裏切りと仕事の依頼を告白。
なんとも、怪しい。
「んぅ~?あやしいって言われたら、そうかも。キールって今までの人たちと違いすぎるから」
「っだったら、森でのことも、俺の力量を見るためか」
じゃれあい、などと笑わせる。最初から試されていたことにも気がつかなかったとは。
キールが脅威であるかどうか、レナーシアはその爪と牙で確かめに来たのだろう。そして男はまったくの無力を露呈し、ひとまずは一緒に行動にしても安全だと判断したのだ――
「んえっ?」
――と思っていたが、レナーシアの反応はまた違う。
「え、あれ?あー。うん、それはねぇー」
途端に歯切れが悪く、視線が宙に滑る滑る。前髪を指に巻きつつ、開かれた唇は硬かった。
「ん!うん。そうそう。それは別にいいじゃん。それよりもキールの匂いだよ」
下手すぎる誤魔化しに、しかしキールはその先もまた罠が待つのではと、踏み込みきれない。
そして、『匂い』?
「最初のときも、森の中でもさ。キールってずうーっと、変な匂いしてる」
「………湯浴みはした」
「そっちじゃないよ。生きてるのに死んでるみたいな香り」
「いや、わからねえよ」
死臭とでも言いたいのか。あるいは心根が腐っているとでも扱き下ろしたいのか。
クレアも初見の際似たような評価を下していたことも知らず、キールは眉根を曲げて頭を振るう。
「心当たりもない。それが俺を探った原因か?」
「半分くらいはね。でもそっちは、そんなにいいや。ただ変ってだけで嫌いじゃないもん」
失礼な比喩の一方で、好意的な評価。相も変わらず焦点が定まらない会話に、キールは惑わされないように必死だった。なんとか会話の主導を握らなければ、と。
「だったらもう半分は、なんだ」
「ふふ~ん?」
よくぞ聞いてくれました、と言わんばかり。レナーシアはつま先で弧を描き、ステップを踏んで振り返る。流れる黒尾の軌跡の向こうに、ギラリと牙を見せ付ける鮮烈な笑顔で。
食い付かれても未だ暴れる、諦めの悪い獲物を見た。
「ウソついてること」
「……嘘、俺が?」
「うん。そうでしょ」
尋ねるような語調は、しかしもはや断言だ。
あなたは私に、偽りをもって接していただろうと。
下手をすれば敵対にも繋がりかねない疑念を前に、キールの首筋が冷たくなる。
「いや、そんなつもりは無い。確かに疑うのは当然だ。まだ伝えきれていないことはあるかもしれない。だが俺は何も偽ることは――」
早々に釈明せんと、足早な歩みでレナーシアに歩み寄ろうとし――
「だってキール、ほんとはこのお仕事って、どうでもいいでしょ?」
一撃で、止められる。
キールはようやく気が付いた。喉元に食い込む牙に、心臓を掴む爪先に、とっくに手遅れだったことに。
「お金稼ぐため、だったっけ?セロンにもクレアにもそう言ったんだよね。でもさ、本当はやりたいこと他にあるじゃない。お仕事したいんじゃなくて、お金が欲しいんでもなくって、もっとその先にあるの、それとも――」
小さくて大きな獣の娘は、横顔に長いまつげを瞬かせた。
その指先で、自身の顎先を指し示しながら。
「もしかして全部ぜーんぶ言い訳で、『私』がそうなのかなっ?」
「――――っ」
ゴオ!と風が一段と強まり、キールの頑なな黒髪をかき混ぜる。月明かりは次々と通る雲に明滅を繰り返し、男の据わった瞳に乱雑な影を落とした。
レナーシアの言葉は、淀みない「確認」は、探りでもはったりでもなかったのだ。
「……どうして、そう思った」
「なんとなく。私にはなんとなーくわかる」
外套の下、パタパタと軽やかにはためくドレスと裏腹に、尾を振り上げた娘の挙動は、じわりじわりと這い寄るようだ。一つ、また一つ、素足の爪先が近づいてくる。
もう逃げられない。逃げようも無い。暴れれば暴れるほど、獣の顎は深く打ち込まれる。
「息とか目とか、体の熱さも、匂いも。あと心臓の音と、血の流れもだね。頭の周りにピリピリ光ってるのも、少しだけ。ぜんぶ集めたらウソついた人って分かるんだ。これまでの人たちもみんなそうだった。そこはキールもおんなじ」
「っ……っ……」
「でも、キールは本当にずっーとそんなんだから、どこにウソがあるのかは全然わかんないんだけどね。もう全部ウソ?変なの」
事実を聞けば聞くほど、キールに重たい怖気が襲ってくる。
これまでただ向けられてきた純白は、身体の奥の奥を、精神の隙間までを見透かしてくる、そんな始末に負えない視線だったのだ。
「ねっ?」
小首を傾げ、可愛らしく上目遣いのレナーシア。
しかし月明かりに浮かぶ双眸に、螺旋の渦はあまりに深い。
「いや、俺は……」
全てを見通す瞳の前では、否定の言葉すら意味が無い。力関係は最初の襲撃で決まっていて、今更許されるのは命乞いくらいのものだった。
「……言えないことが、あるだけだ」
「ふぅん。そ」
そんな苦し紛れの言い訳に、レナーシアは淡白に、ひゅいんと頭尾を振るって踵を返す。
「――っは」
視線が外され、同時に精神に掛かっていた爪も消える。キールは溜まった息を冷たく吐き出して、なんとか両膝が折れぬようにと背を丸めた。ドクドクと、心臓の鼓動が耳まで届く。眩暈のように揺らぐ視界は、もはや自身の靴先しか映してくれない。
顔を上げるのが怖かった。次にもたらされるであろう、自身の行く末を確かめるのが恐ろしかった。
このまま森での襲撃のように、容易く遊ばれてしまうのか。
それともこれでおしまいと、血濡れの決裂が訪れるのか。
所詮、狩人の男がいくら悩んだところで、獣の娘の考えなど分からない。
だが、しかし――
「――別に」
そもそも、キールは失念していた。他ならぬ自分自身で、レナーシアは「人」だと明言したことを。
不理解など、大の大人が、年の離れた子どもの考えを想像できていないだけだということを。
「別に、いいよ」
甘く、そして柔らかに。
耳朶を叩いた言葉に、キールの頭はふと持ち上がっていた。
「怪しそうとか、危なそうとか、何か隠してそうとかさ。そういうのは、もう全部いいよ」
月明かりの奥、レナーシアは背を向けたまま、ふと息を吐くように呟いた。
「―――あなたなら、いい」
「っ……!」
それは、あまりに無防備な許しだった。
流れ出るように自然で、しかし揺るがぬほど固められた、確固たる宣言だった。
「―――………」
キールは訝しく華奢な背中を見つめる。
そんなもの、虚偽に塗れた相手へ向ける言葉ではない。
その真意を探るか、それとも甘い言葉に誘われたか、キールは言葉無く二つ三つ歩を進めてレナーシアの隣に立った。
娘の頭は伏せられて、美麗な天空ではなく下界を――遠く暗い石畳ばかりを見つめている。顔に乗る影は濃く、読み取れるのは自然と明滅する白い瞳だけ。
見れば、これまで快活に蠢いていた双眸が、いまや瞼に覆われて深く憂いを刻んでいる。
そんな娘の姿に、キールは今更に。あまりに今更に気が付かされる。
「……そう、そうだ。そうか」
考えるまでもない。この娘が心労する理由など、他には無い。
「お前、どのタイミングで来ていた」
「二回目、おっきい扉が無くなったとき」
不明な問い、そして答えに、キールは深呼吸のごとく盛大なため息を吐き出した。
ようやく……ようやく真に理解できたのだ。これまで振り回され続けてきた、長い道のりの意味を。
「見てたのかよ。ずっと」
「うん。上からだとね、よく見えたんだ」
螺旋に蠢く瞳は色も形も如実に、かつて映した光景を呼び起こす。
娘は「あの時」も、似たような高みから見下ろしていたのだ。
……
………
…………
「―――!」
レナーシアが最初に捉えたのは、巨大な音の波だった。メディウスの山肌に組み込まれた東城塞、そこで膨れ上がり押し退けられた大気の渦を、螺旋は確かに捉える。
「っだめ!まだ待ってよ!」
着地の衝撃そのまま、ガリガリと素足で岩肌を抉りながら、レナーシアは焦りに牙を打ち鳴らす。早く早く、と両の脚を引き絞って、次の跳躍に再び力を込めた。
異常を察知し国の真ん中から豪速で飛んできたが、それでも所詮地を掻く獣の足。募ってゆく焦燥感と比べればあまりに遅い、遅すぎる!
「ッだ!」
バン!と大岩を蹴り割って、レナーシアの身体は空気を切り裂き撃ち出された。しだいに大きくなる城塞の姿に、しかし気が休まることは無い。
寄れば寄るほど知れるのだ。
匂いが、音が、光が。
赤い、赤い。赤い赤い赤い赤い赤い赤い。
「っ!」
城塞の尖塔の先端に細い手足が取り付いて、指先が勢いそのまま石組みに突き刺さる。東城塞全体を一望できるその場所からレナーシアは大きく身を乗り出した。ギュルリと螺旋の瞳が収束し、煙も炎も、あらゆる障害が悉く見透かされる。
「どこ!」
大穴と化した門扉。そこから放射状に広がった破壊の跡には、抉れた地面以外何も残っていなかった。据えられていた馬車も砲も、草木の一本に到るまで根こそぎにされている。ばらけて転がる「部品」も、もう元の形を想像するのも難しかった。
「セロン……クレア……」
赤い世界を前にして、娘は縋るように願うように探す。愛しい金糸を、恋しい幾何学を求めて。
そして――
「ひ」
小さな悲鳴が、喉を裂く。
見開かれた瞼は震えて固まり、見たくも無い光景を、捉えて離してくれなかった。
ぐったりと、ぐんにゃりと、倒れ伏す小さな体があった。
もうすっかり背が伸びなくなったと不満げだった、華奢な体。
触れると暖かくて、抱き締められると柔らかくて、心地良い香りに満ちた体。
わき腹がまるまる消えた――クレアの体。
「……や」
残酷かな、レナーシアには一目で全てが知れてしまう。骨も肉も内臓も、流れ出る血も、呼吸も心音も体温も駆け巡る雷鳴も――全てとっくに、手遅れだ。
「クレア……っづ!?」
思わず飛び出しかけたレナーシアの身体は、しかしガギリと、唐突に動きを止めてしまう。体と心とがせめぎ合って、前にも後ろにも進めない。動けない。
「なんで、どうしてぇ……っ!?」
ああ、かつて彼と交した約束の言葉は、こんな時ですら私を縛ってしまうのか。
ただレナーシアを護るための、秘密を秘密とするための約束だったのに。どうして大事な人の隣に行くことも許してくれない。
「っ!あいつ!」
そう、恋しい姉の傍らには、見知らぬ黒髪の男がいた。名が呼ばれない限り、人目のある場所には降り立てない。あの誰ともしれない男がレナーシアの道を邪魔しているのだ。
男はぐらつく頭を押さえ、体を瓦礫に預けるように立ち上がろうとしていた。馬鹿みたいに黒い外套はまるで、クレアに覆いかぶさろうとする陰鬱な死そのものに見えた。
レナーシアが尖塔から掌を引き抜くと、その手にはこぶし大のつぶてが握られる。その腕をもってすれば、豪速の砲弾として男の頭を吹き飛ばすことができるだろう。
アレを始末して、邪魔なものは全部退けて、クレアの元まで駆け寄って、そして、そして――
「――どう、しよう」
その先には、何も無い。
「どう、しよう。どうして、なんで」
風より早く助けに来た。腕を振るえばどんな障害も突破できる。どんな状況でも、環境でも。どんな相手でも負けやしない!
でも、流れ出る命を拾う方法なんて、レナーシアは知らなかった。
「セロン、どこ?」
呆然と開いた口元から、その名は自然とまろび出た。
「セロン、セロン……!」
無力な娘にできるのは希望の名に縋ることだけ。彼なら必ず、クレアを捕まえる死の腕を何とかしてくれる、絶対に助けてくれる!
かつて自分を救ってくれたように――どこからともなく現れて――大丈夫だよと、笑って微笑んでくれる。
はず、なのに。
「早くっ、早く来てよおぉ!」
娘は、守りたい約束と大切な人を、天秤にかけることができなかった
悲痛に叫んで救いを待つばかりで、何も選ぶこともできなかった。
そんな幼く、無力な子どもを前にして、
「――――――――!」
陰鬱な影が―――一人の大人が動いたのだった。
……
………
…………
「――キール、がね……」
はふ、と一息吐いて、回想から抜けたレナーシアの身体から、強ばりが抜ける。
「何したのかはよく見えなかったの。でも何かしてくれたんだ。あんなに大きな傷だったのに、すごいね。ダメだって思ってたのに。音も熱さも、すぐに全部元に戻ったの」
「…………」
「あとは、頑張って引っ張って隠れててくれたよね。それからのことは、知ってるでしょ?」
「セロンに呼ばれるまで待っていたか。よく耐えられたな」
「行きたかったもん!行きたかった、けど」
絞り出した言葉も、ぎゅうと握られた両の拳も、隠しきれない幼い失意の表れだ。
「前に、出てって大変なことになったことがあるの。私がじゃなくて、周りが。だからもう、人がいるとこには呼ばれないと出たらだめだ、って」
「それが約束、か」
いつからの取り決めかは知れないが、レナーシアは長らく守り続けている。それこそ港で我を抑え込み、怒りの矛先を制御してみせたように。
最初は、無邪気で向こう見ずなガキだった。
しかしキールは知ってきた。誰かを想い、悩みを抱き、ときには人を試す強かさを、そして耐える力を持つ娘なのだと。
それでもいまだあまりに短い時間。やはりキールは、レナーシアの本質を捉えられていなかった。
「壊すのはあんなに簡単なのにね。治し方なんて全然分かんなくって。だから私が出ていっても、なんにも出来なかったよ。キールが、いてくれたから」
ああ……大人の邪推なんて馬鹿馬鹿しい。利益だの力量だの、怪しさがどうとかウソが何だとか、何も見えていなかった。
なぜこの娘は、保護者二人を通さずたった一人、キールの元へ現れたのか。
どんなきっかけで、内面をさらけ出し答えを求める相手に選んだのか。
わざわざ振り回すようなことをして、時に背を向けて――気を引こうとしていたのか。
――森の中、声を掛けるのが気恥ずかしくて、もたもたしてたら見つかってしまった。
――誤魔化そうとして、ちょっとふざけて遊んだら、すごく怒られた。
――でも、きちんと話がしたくて、なんとか二人きりになろうと企んだ。
「だから、ね。あのね、キール――」
気まずさと申し訳なさを乗り越えるのに、丸一日を費やす。
やはりレナーシアは正しく、子どもだだった。
たったの一言を伝えるのに、ここまでの手間と時間が必要な。
「――クレアのこと、助けてくれてありがとう」
娘は小首を傾げて、大切な人を救ってくれた恩人を見上げる。ほんのりとはにかんで。
そして嘘も真も受け止めて、眼下の石畳の先に、用意しておいた「お礼」を置いたのだ。
それは仕事の成果。
匂いの出所の、古びた屋敷だった。
「――あ、あとね。森でのことも、ごめんなさい」
「いいさ。俺がこの国へ来た理由も、機会があればちゃんと話そう」
「うん。まってる」
ここまでが前編となります。
中編に続きます。