夕暮れお悩み相談所
「ねぇ。それ、いつまで掴んでるの?」
「あ?」
日常に戻った光景をぼんやりと眺めていたキールに、不機嫌な声が突き刺さった。視線を落とすと、垂れ髪を無造作に掴んだ手の向こうで、純白の瞳がキラキラギラギラと見上げているではないか。
「あ、ああ、ごめん」
気の抜けた謝罪が漏れ出る。解放された漆黒の頭尾が、ひゅいん、と風を切って振るわれると、その鋭い音にキールはようやく自失から抜け出した。
尾に触られることを好む生き物は少なく、そうでなくとも女子の髪を鷲掴みにするなど無礼千万。キールは両の手を挙げて、素直に頭を垂れた。
「済まなかった。申し訳ない。てっきりお前が飛び出すものかと」
そんな謝罪も既に意識の外に、レナーシアの視線はすぐに中空に戻される。
だが無視されようとも、キールは下げた頭もそのままに娘の動きを注視した。未だ読み取り難く、一歩間違えれば命取りになるのがレナーシアの情動だ。次に飛び出すのは許しの言葉か、怒りか呆れか、それとも――と。
しかし、
「……飛び出す、かぁ」
そのあまりに乾いた声色に、キールは意表を突かれた。
「うん、それ。そうしたかったよね。全部ぶっとばせたらいいのに」
物騒な言葉だが、その実本気でないことが一聞きで分かる。抑揚の薄い声は、淡白で粉っぽく、水気を失って割れた砂地のよう。こんな声をレナーシアから聞いたのは初めてだろう。
いや、あるいは前に一度だけ。
『……はー、あー』
セロンが誰もを置いて駆けていった時、漏れ出したため息があったか。
「仕方ないの。約束だから守んなくちゃ。ほんとにもう、いっつもいっつもいーっつも」
今もそうだ。ブツブツと取り留めなく、しかし妙に饒舌な言葉の羅列は――乾いた諦めを混ぜ込んだ、愚痴そのものではないか。
キールは反応に困り、挙げた諸手のやりどころにも迷って、ふとレナーシアの胸の下、ぽっかりと空いた穴を目に留めた。
「…………」
まさかレナーシアが、セロンの受けた傷に何も感じなかったはずがない。しかし娘は湧き上がった怒りを眼下の敵ではなく、石床を相手にぶつけた。未熟な情動と、それを制御しようとする理性の妥協があったのだ。
思えばレナーシアは、未だ去った二人を追おうともしていない。セロンの怪我も心配だろうに、身体を起こす素振りも見せず、ただ無為にそよ風を受けるばかりだ。
やがて許しを請うていた腕は降ろされ、長く深い呼吸が、娘の姿を再び捉えるきっかけとなる。
(――直情的に行動する子ども、だったはずだ)
東城塞での戦いぶりに始まり、森の中での襲撃や、突然の跳躍もそう。
(でもこれは違う。妙に落ち着いて、乾いている)
包囲されたときから平静にキールと行動を共にし、今の姿は諦観すら感じさせる。
ならば、今の娘を見つめ直すならば?
二人の姿が消えて尚動かないことに、尾の揺らぎが妙にゆったりとしていることに、傍らの男に意識は向けても、視線は決して送らないことに――意味を探るというならば。
キールには、それらが、そう。
ささやかな「期待」に見えた。
「よく、あるのか?」
ほんの一瞬、尾がピクリと跳ねたのを狩人は見逃さない。
「……なにが?」
「あれみたいなことだ」
「……あれって?」
「っと」
まったく、と。
キールはすっかり重くなった身体を、投げ出すように横たえた。娘と一人分離して仰向けになれば、視界いっぱいに天空が広がる。日は既に傾いて、雲にはっきりした陰影を生んでいた。
キールの瞳は相変わらず空も映さない薄暗さだったが、覆う瞼はゆったりと瞬いていた。
「あいつ、セロンのことだ」
「………」
「お前のことも放ったらかして、さっさと巻き込まれに行っただろう」
積極的な交流はもっと後に腰を据えて――そう考えていた。
だがまさに今、レナーシアはキールの言葉に耳を傾けている。
そもそも去ろうにも足を掛ける場所も無い高所だ。降りるための手助けは、未だ動く気配のないレナーシアから得なければ。この娘と言葉を交わすのに、これほど相応しいタイミングがあろうか。
「それにだ、そう。さっき殴られたときだって、あいつなら本当は躱せたんじゃあないのか?」
「どうして?」
「ディルバの腕を躱す奴だぞ。俺にはわざと殴られたようにしか思えない」
事態を収束させるために、あえて傷を負ったのだという方がそれらしい。殴った側は貶められた分の気が晴れ、傷を受けた側は、むしろ加害者を受け入れて喧騒を収める権利を得る。
「ものごとを上手く回すために不利益を受け止める、ああいった『お人好し』はどこにでも一人くらいあってな。大抵無茶をして、周りの気を揉ませる。上手くいっているうちはいいが、どこかで足を踏み外して大怪我するんだ、ってな」
隣の娘もきっと、例外ではない。
「心配だろう」
「うん」
レナーシアは今度こそ、素直に頷いた。誤魔化さず、ひねくれてもなければ巫山戯てもいない、複雑な感情が込められた不純無き言葉だった。
「セロン、すーぐどっか行っちゃうんだもん。あのときもあのときも。もぅ……」
「相当頻繁に、首を突っ込んでいるようだな」
「最初はねえ、迷子とか落し物とか、ちっちゃなケンカ、みたいなのだった」
レナーシアは口に出す言葉を探るように選んでいた。この娘と、浮ついた単語の応酬ではない「会話」を交わしたのは初めてだ。
「そしたらさ、いつの間にかべろべろになった人とか、泥棒とか、武器もった人とかも。そのうち、みーんな困ったらセロンにお願いするようになっちゃった」
「それは……良くない広がり方だな」
英雄志向の典型的な傾き方だ。なまじ解決できる実力があると、失敗や後悔という抑えも利かなくなり、手を出せるもの全てに関わろうとしてしまう。そして周囲からの信望を受けると同時に、リスクも膨れ上がっていくのだ。
「だったら、今日のようなことも?」
「あった。ぜいきん?が高すぎるってたくさん暴れたこととか、変な人たちが変なことしようとしたりとか。全部セロンが頑張って止めたんだよ」
「危険なことだ」
「そんなことない。絶対危なくなんてない。だってセロン強いもん」
「それでも――」
――本心からそう信じているならば、お前が語りたいことなど無いはずだろう。
「大事な人が傷つくのは、嫌なことだ」
「………」
「助けになれないのは、苦しいことだ」
「うん」
カリリ、と石を削る音が静寂に木霊する。傍らに目を向けなくとも、言葉を捜し、手持ち無沙汰に爪先を擦っているレナーシアの姿を想像できた。
「……私だって、セロン困ってるの知ってる。忙しいの知ってるもん。遠くからでも聞こえるし全部見えるんだから。怒られるのも睨まれるのも、すっごく嫌なことなんだから」
「ああ」
「私ならなんでもしてあげられる。名前呼んでくれたらどこでも飛んでいくし。すごく力持ちだし、丈夫なんだから。強いんだ。知ってるでしょ?」
「ああ」
「でもずっと我慢してる。来ちゃダメって。人の前に出ちゃいけないよ、危ないから駄目だよ、って言われて。大切な約束だから、約束破ったらダメだもん。でも、でもさぁ……」
断続的なレナーシアの言葉には、意味が通じないものもあった。だが全てを理解する必要はない。ただ僅かな口篭りに、娘の迷いを見逃さなければよかった。
「言ってみろ」
一言、割り入っただけだ。
小さくヒビを入れただけだ。
「――――――――――――――――――――――――ずるい」
それだけで、とっくに満杯だった堰は決壊する。
「ずるい。ずるい。ずるい!ずるいもん!セロンのばーーーーか!!」
夕映えに鋭い罵声が吸い込まれる。細い手足は癇癪を起こして、バタバタと、そしてガツガツと、石組みを穿つ音を立てながらいきり立った。
「私にはダメダメ言うくせに、セロンはいーつも危ないことばっかりして!クレアも止める振りして手伝って、私だけ置いてけぼり!おしゃべりしてても遊んでても、お勉強しててもすぐにそう!別にセロンがやんなくてもいいのに、みんな自分でやればいいのに!すぐに頼ってお願いしてさ!」
わめき散らす言葉の雨を、破壊の音を聞きながら、キールふと息をついた。
巻き込まれればただでは済まない駄々を隣に、しかし身じろぎ一つ無く耳を傾ける。
「心配しないでーとか、大丈夫だよーとか、すぐに戻ってくるからーとか、わかってるもん!でも嫌なの!一緒がいい!離れたら離れただけ寒くなるの!弱いのがみんなセロンを引っ張ってって、そのあいだ私はずっと寂しいんだ!何にもしてあげられないのが嫌なの!怪我してるの見てるだけなのは苦しいの!でもセロンはさ、帰ってきたらいっつも、待っててくれてありがとう、とか、置いていってごめんねとか、ちゃんと言って、くれる……の」
バシン、と鋭い音が叩きつけられるが最後、ふと言葉の嵐が止んで――
「そんなの……ズルイよ」
風に乗って流れてきたのは、これまでも幾度か垣間見えた、諦観が混ざる嘆息に似た一言だった。激情は一息に洗い流し、残るのは乾いた諦めだけ――なんと不器用な感情の処理だろうか。
「『ずるい』、ね」
青年に親愛を委ねるこの娘にとって、彼を悪し様に語る言葉など、滅多に出せるものではないはず。ならばこれこそレナーシアの内面に触れる入り口だろうと、キールは手応えを掴んでいた。
確かに今後の交流のためにも、そして仕事の成否のためにも重要なこと。
「――レナーシア」
しかし今はそれだけが、娘の隣に身を投じた理由ではない。
「今ぶちまけたその言葉、大事に取っておけ」
「取って、おく?ことばを?」
「そうだ。いつかセロンに、直接ぶつけてやるタイミングが来る。もちろん言葉選びは大事だが、他でもないお前の言葉なら、きちんと伝わる。無茶を自重させることもできるだろうさ」
「………」
「間違えて、嫌われて、離れてしまうような不安があるなら。あるいはただ本音を伝えるのが怖いなら、間に誰か仲介を立てるといい。手紙でも、人でも。俺でもいい」
「手伝って、くれるの?キールが?」
ふと零すように、おずおずと触れるように、娘の口をついた男の名前。
ああ、名を呼ばれるまでになったのか……などと、浮かんできた感慨に、キールは馬鹿馬鹿しいと鼻を鳴らす。驚くほど回る自分の口にも、気前の良すぎる申し出にも、あまりに俗な理由が付いて回るのだから。
「若い奴に悩みなんて打ち明けられたら、なんとか応えたくなるのが年長者だからな」
ヒュウン!と漆黒が空気を切り裂いて揺らめいた。感情を映す鏡であろう尾の下で、果たしてレナーシアはどんな顔をしているのか。くだらない見栄張りに失笑でもしてくれていれば、とも思っていた。
「……言えたら、いいね」
しかし、レナーシアの声には変わらず明るい色も無く、
「言えたら、いいのになぁ」
放られたのは、やはり遠回しな諦めの言葉だった。
キールはレナーシアの言の奥を探りながら、頭に敷く腕を置き替える。
「言えないような理由が、他にあるんだな」
レナーシアのみならず、あの大人じみたクレアまでもがセロンの悪癖を甘受している。キールの付け焼刃な助言で解決するほど、簡単な話ではないのだろう。
「私がね。行かないでって言えば、ちゃんと伝えればセロンだもん、聞いてくれる。危ないことも止めてくれるよ。でも――……」
数拍溜められたレナーシアの声色は、寂寥に濁り切っていた。
「セロンが止まっても、声が止まらない。だから、行かないでなんて、言えない」
「『声』?」
「私には聞こえないから、わかんない。私のほうがずっと耳はいいはずなのに」
キールとレナーシアの、目も合わせないやり取りは壁越しのように遠回しで、伝わるのは言葉の機微のみ。しかしだからこそ、男は娘の奇妙な言い回しに気がついた。
きっと怒鳴り合いや喧しい騒音、という意味ではない。
「声っていうのは、どんな声だ」
「悲鳴」
端的な単語はまるであの女史のように抑揚無く、無機質な刃として突き刺さる。
「音の無い悲鳴。クレアはそう呼んでる」
「音の、無い」
諳んじてみたところで意味は理解できない。ただその名付けには突き放すような冷たい敵意があった。きっとレナーシアも同じ理由で、この言葉を口にしている。
「困ってる。泣いてる。痛い。寒い。消えそう。からっぽ。見えない。怖い。なんでもかんでも、嫌なことはセロンに伝わるの。心の言葉が聞こえるの」
「それ、は」
思考が、伝わってくると。
何らかの比喩。例え話。
それとも突拍子もない妄想か。
勘違いか、考え違いか。
しかし、と思う。北の民の隣りに寝転がり、さらには愚痴を聞かされるなんて状況があるならば、この世界では本当に何でも起こり得るのではないか、と。
キールの理解を待たずして、レナーシアは滔々と語り続けていた。
「音じゃないから、耳を塞いでも聞こえるの。壁も屋根もすり抜けるんだ。無視してたらどんどん大きくなって、痛くて辛くて眠れなくなるって。だから、声を止めに行くの。止めるしかないって。さっきのも、きっとあの事故だって、聞こえたから行っちゃったんだよ」
「っ……」
そうだ、あのようやく人心地ついた路地で、確かにキールも異常の片鱗を目にしたではないか。レナーシアのように人知を越えた存在ならまだしも、セロンも遠く引き起こされた事件に気が付いていた。
そして躊躇い無く自身を投げうって、「悲鳴」を上げる人々の元へ向かったのだ。
『――あいつはちょっとした有名人でな――』
店主の言葉が、今となって蘇る。
セロンが率いた自警団などという町人集団も、どうすればあの短時間で、あれほどの人手を集められるというのか。人づてと、信任を得られるというのか。
やや英雄的志向の入った、心優しい親切な青年――その程度の認識では不十分。あれは繰り返してきたのだろう。一朝一夕ではなく、声無き叫びを聞き、出向いては救い、戦ってはその度に傷ついて。
それが青年が認めた役割でも、見過ごせない性格の問題でもなく、追われてそうせざるを得ないというのなら――
「呪い、だな」
「クレアは病気だって」
「原因がわかるなら、そうとも呼べる」
「わかんない。私には何にもわかんない。セロンの苦しさも、クレアの大変さもわかんないの。だから、だからね――」
レナーシアはむずがゆそうに身体を揺らし、そのままコロリと転がった。
キールとの距離は埋まり、互いの肩が当たる近さとなる。
「ねぇキール。世界ってなあに?」
「っ……また唐突だな。お前らは揃いも揃って難しいことを」
セロンといいレナーシアといい、相手が俗物だとわかって聞いているのか。
ただクレヴァシアに到るまでの数ヶ月間、確かにキールは大地を歩き、あまねく人、物を目にしてきた。無学の輩が経験だけを基に、『世界』とやらを語るならば――
「世界っていうのはな――家の外、だ」
大真面目だ。冗談でもなんでもない。
ただキールには言葉を探す辞書もなく、浮かんだ言葉を並べることしかできない。
「安心して眠れるところの外側。凄い誰かさんが決めたルールでできている。逆らえばおしまいだ。一度挫けたら立っているのも難しい。止まれば死ぬ、転べば死ぬ。手を貸したら、死ぬ。厳しさだけでできている。好き好んで出て行く奴の気が知れない」
キールは東からの道中、三回は死に掛けた。一度は事故、一度は人の悪意、そして最後は自然の脅威。
その度何かを支払って生き延びてきた。一度は旅の相方、二度目は相手の命、最後は村一つの犠牲に背を向けた。ぽろぽろと零れ落ちてゆく命を目にして、キールも気づかされたのものだ。
分厚い城壁の中で眠れるのがどれほど幸せなことかと。
安穏に一生を終える幸福は、何事にも変え難いものなのだと。
だが、それでも。
「それでも世界は、家なんかよりずっと広くて深い。自由な場所だった」
外は移り変わり続け、あらゆる機会に満ちている。失うだけではなく、見つけることや出会うことも多くある。
もし平穏を犠牲にできるならば、そこは可能性に溢れた場所。
キールは娘の欲しがっている一言を誤魔化すことをしなかった。
「だから、世界にはきっと、お前の探してるものもある」
「うん……うん!」
今度こそ喜色を映した声に、役目を終えたキールはやんわりと息を吐いた。
結局、レナーシアが求めていたのはこの保障だ。とっくに見つけていた答えを行動に移すために、その後押しとなる誰かの声が欲しかったのだ。
「私、私ね!もう少しで外れるの。長かった。でもずっと待ってたんだ!怒られるから誰にも言えなかったんだけどね!」
勢いを増す娘の言葉に、見ずとも満面の笑みが目に浮かぶ。仰向けに高く高く伸ばした掌の向こうに、どんな景色を見ているのだろうか。
「外れたら、私、セロンを誰もいないところに連れてく!声の無い場所を見つけるんだ!」
北の民、獣の娘、レナーシア。
セロンやクレアに甘え、心置きなく触れ合う中でも見せないものがある。近しいがゆえに聞かせられない言葉がある。幼いばかりでも、他に気を遣って自分を抑えることはある。
「私、世界ってちょっとだけ知ってる。風景がどこまでも続いてて、あちこちに変なものがたくさんあって、見たことないものもいっぱい!だから歩いて探して、見つけるの!セロンとクレアと、私で――」
ならば今こうして聞き手のことも気にも掛けず、感情のままに捲し立てているのはなぜだろうか。
「一緒に石で塔作って、ずっと一緒に暮らすの!おはようもおやすみも、一緒に言うの。それで――それでね――」
「……ん」
その理由に気が付いているが故に、キールは静かに耳を傾ける。
(『聞き手』なんて無い、か)
レナーシアとの会話は最初から、自身にぶつけ自身に答える――自問自答に近いものだった。
これまで溜めこんでいた思いを、密かに描いてきた展望を、キールを通して再確認するための作業だった。
性格が変わって見えたのも当然か。独白に気遣いなど必要無く、ならば言葉に堰などできようもない。語られるのは包み隠さぬ本音となるだろう。
会話のふりした独り言。
それは鏡に声をかけるように、水面に映すように――地に落ちた影に、向き合うように。
「もうすぐ、もうすぐ」
「………」
影に言葉は必要ない。
ただ空の紅が消えるまで、キールは娘のモノローグを聞き続けたのだった。




