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想いは純粋なれど  作者: 宿屋
7/28

追跡する者 される者

「なるほど、これか」


 足取りを追うのは容易だった。人の流れがおかしくなっていれば、そこがセロンの抜けた道だ。

 掻き分け掻き分け通りを五本ほど抜けた先、輪になって遠巻きに「現場」を眺める群集のうち、キールは適当な一人に声を掛ける。


「何があった」

「ああ?あー、事故だよ。馬車が突っ込んだんだ。祭りにのぼせたのかねえ」


 確かに人の壁の向こうには、よろしくない光景があった。石畳の擦過跡に沿って木屑が飛び散り、先に転がるのは折れた車軸だ。さらに奥にはなぎ倒された街路樹と、噴水に突き刺った瓦礫の山。

 そしてあちこちに倒れ付す――人の姿も。


(人を跳ね飛ばしながら進んだのか)


 現場は大きな広場だ。人目も多く、既に警邏の兵士が事態の収集にかかっていた。

 そんな只中に当然のように、セロン、そしてクレアの姿はあった。


 クレアの筆が宙に描いた軌跡が、傷ついた人物の肉体に染み込んでゆく。セロンの側はといえば、延々と唇を動かしつつ指で奇妙な形を組む作業を繰り返していた。記述型とはまた異なる奏術か、指先には仄かに光彩の光が灯っていた。


「損の多いことだ」


 キールは思わず、皮肉混じりに呟いていた。

 せっかくの休暇、水入らずの交流であったろうに。なまじ助けられる力を持っていたがために、わざわざ首を突っ込んで救命活動と相成ったわけだ。救う技術だけではない、救おうとする精神も備わっていれば尚のこと。


「………………………」


 ならば、ここにいる凡俗な男はどうだろうか。

 事故の景色に視線を巡らせながら、キールの指先は無意識に、腰の物入れを叩いていた。

 カチ、カチ、カチ、カチ。指先に伝わる硬質な音に、男の目元に僅かな迷いが浮かんで――


「いや。必要ない」


 それきり力を抜いて腕を降ろす。

 キールは二人の奏者としての実力など知らない。だが助けなど無くとも、被害は最小限に食い止められる。あの二人の存在は、見知って数日のキールがそう確信できるほどに大きかった。

 そう、被害者らは運が良い。あの両名が偶然現場に居合わせるなど――


(いや。居合わせたわけじゃない。駆けつけたのか)


 青年が唐突に駆け出した理由。通り五本分も離れて、どうやって事態を察知したのだろう。

 あるいはこれも獣の娘、レナーシアの――


「ねぇ」

「っ!?」


 心臓が跳ね上がる。

 突然わき腹を叩いた声にキールが目を剥けば、一体いつからそこにあったのか、すぐ隣に背の低いフードが佇んでいた。全く無音、無気配に、ほんの拳ひとつ分まで懐に入り込んだ――レナーシア。


「なあに、変なかお」


 レナーシアは前髪を指で遊びながら、フードの陰から覗く純白の双眸をキールにじっと向けていた。ぐるぐると巡り回る螺旋が、ギラギラと貪欲な煌きが、容赦なくキールの思考を引っ掻き乱す。


「おまっ、お前、セロンはどうした!」

「お仕事」

「えっ、あ、いや」


 呂律の回らないキールの問いは、セロンから離れてしまって大丈夫なのか?という趣旨だったが。

 ……思えば間抜けな質問だ。こんな衆目の只中に、レナーシアを連れて行けるはずが無い。


「  ん    ん    ン    ン    」

「――――――っ!」


 全身がゾワリと粟立った。

 身動き一つ取れなくなる。

 レナーシアの柔軟な体躯が、キールに触れるか触れまいか、じわりと這い寄ってきたのだ。傍らをすり抜けて、背中を回り、纏わりつくように回り込む。薄手の外套の下では、尾がぐるり、まるで逃がさぬと言わんばかりに腰周りを取り巻いているのが分かった。

 じっとりと身体を舐める視線は、首筋に感じる生温かい息づかいのようだ。すんすんと匂いを嗅いで、どこに食い付こうか決めあぐねている獣のごとく。


「――――――」


 言葉は、許されるか?

 動くのは?紙一重を保つ網に触れるのは?

 少なくとも、呼吸を耐えるのは限界だった。


「――――――す」


 キールは薄く長く、息を潜めるかのように息を吸う。獣の興味を引かぬよう、音一つ立てぬように。

 だが子どもも獣も等しく、気まぐれなものだ。


「  ン  」


 眼前に、純白の双眸が現れる。


「っ……っ……っ……」


 背伸びでもしているのか。目と目が、鼻と鼻が、正面を切ってまっすぐに向き合った。

 これほどまで近く、娘を見るのは初めてのこと。

 太陽を受けてキラリと光る、肌に刻まれた緻密な軌跡。幼い顔立ちを作る、細かに編まれた繊維の造形。丸くなだらかな頬、結ばれた小さな唇、細く通った鼻立ち――そして、鮮烈な螺旋の眼光。


「ねえ、気づいてる?」


 目といえば、そう。こう見るとレナーシアの双眸は鋭い三白眼をしていて、長いまつげが無ければ少女というよりも勝気な少年のようにも―――


 ―――『気づいてる』?


 瞬間、噛み合った牙がガチン!と火花を散らした。


「囲まれてるよ」

「っ!?」


 金縛りが解け反射的に上がりかけた頭を、しかしキールは全身を強張らせて耐え切った。


(囲まれっ!まさか!?)


 確かに視界の端、群集の周囲で動く影がある。弧を描きつつ包囲を固めんとするその動きは、キールのよく知る匂いに満ちていた。


(狩人――っ猟団!?なんだ、どこで)


 狙いをつけられたのか、と。

 だがそんな疑問もつかの間だ。意識を周囲に広げれば嫌でも気付かされてしまう。

 この事故現場、周りに集まった者は姿格好を見る限り、悉く街の住民だ。観光客も商人も、背を向けるかあるいは遠巻きに眺めているだけ。当然だ、誰が訪問先で問題に関わりたいと思うのか。

 事故現場に深く歩み寄った者のうち、異邦人は――


(俺だけだ。まんまと吸われた。この事故、連中の仕業か!)


 これは罠だ。他と異なる動きをする者を浮き彫りとするための。

 何をしでかすか分からない者共とは、キール自身で語っていたことだ。だがまさか人目を避けるどころか、住民を巻き込むような行動を起こすとは。

 今や猟団の狙いはキールへと向けられていて、


(いや、だったらまずい。最悪だ)


 キール一人が絡め取られたくらいならまだマシだった。

 しかし今、捕らわれの獲物に歩み寄ってしまった奴がいる。


「?」


 キールの目の前で、きょとんと首を傾げる娘――北の民、レナーシア。

 猟団が狙うターゲットだ。


(どうする――)


 ゆるゆると狭まりゆく包囲に、キールはレナーシアの手を掴んで人の奥へと分け入った。異形の肌に触れる危険に、頭を回す余裕は無い。


(っどうする!まだ疑い程度だろう。でもこいつはまだしも、俺は完全に顔を見られた)


 この先にはセロンもクレアもいる。「何一つ心配ありません」と、臆面なしに言ってのけた確かな実力者だ。事態に対処するには二人の協力が不可欠で――


(今のあんたらにそんな余裕があるか!)


 悪意を受けた命を、掬い上げようと必至な若者。彼らにこれ以上の重荷を増やしてどうするのか。


(それに今の時点、二人との関係まで割れていない。声を掛ければ言い逃れができなくなる。追われる人数は少ないほうがいいはずだ)


 間違ってもレナーシアがセロンの元へ向かわぬよう、キールは掴んだ手首を必要以上に引き寄せて、小柄な体をしっかりと固定しにかかった。

 もちろん、その行為自体が命賭け。


「頼む。じっとしていてくれ」


 懇願じみた呟きは娘の耳にも届いているだろう。だがレナーシアの性格と膂力だ。振り解くだけならまだしも、勢いあまって天高く吹き飛ばされても不思議ではないのだ。


「………………。」


 ならば運がいい。レナーシアはセロンを呼びつけることもなく、外套の下に顔を伏せて、隠した尾を振るうこともしていない。もっともこの機嫌がいつまで続くかは天のみぞ知る。


(今のうちに逃げよう。疑いは疑いのままに、レナーシアには何もさせちゃあならない)


 爪でなぎ払うも牙で食い尽くしも禁じ手だ。北の民としての力を目撃されれば、敵は際限なく増えるばかりになるだろう。この先の突破はキールの人間としての力量にのみ試される。


「レナーシア、いいか。一緒にここから離れよう」


 人の壁に薄い箇所を探り、いつでも踏み出せるように脚をたわませながら、キールは刺激せぬよう低くレナーシアへと語りかけた。


「何も言わずに付いて来て欲しい。今は説明を――」

「わかった」

「してる暇が……おぅ?」


 拍子抜け、する。

 なんと落ち着いた声色か。

 まるで波風一つ立たない、水面のような静けさだった。レナーシアは口先だけでなく、フードに深く双眸を潜め、キールに引かれるまま歩を合わせている。

 いかに説得し従わせるかと考えていたのに、本当にこれが、あのキールを遊び半分にぼろ雑巾にした小娘か?


(いや、とにかく都合はいい。気が変わる前に!)


 大きく息を吸ってつま先で地面を探り、意識を鋭く第一関門へと差し向けて――


「レナーシア――行くぞっ」

 掛け声一つ。

 キールが踏み出すと全く同時に、レナーシアもまた大きく脚を振るう。歩幅も速度も等しい二人三脚は、ゴッ!と二人の身体を一息に加速させた。


「っ!待て!」


 お決まりの叫びと共に男が飛び入ってくると同時、キールは予め構えていた腕を思い切り振るった。手に握っていた得物は濃く香りを残して走り、


「ギッ!?」


 裂けた紙袋から迸ったトマトソースが、男の両目を真っ赤に潰す。悶絶した男は直後、強烈な体当たりを食らって吹っ飛ばされていた。


「ああ、悪いなリマンド」


 破れた袋を放って、キールは遠い店主への謝罪を残し路地裏へと走りこんだ。事故現場の喧騒があっという間に遠ざかるが、これだけで逃げ切れるはずがない。


(一番警戒の薄い場所を選んだ。つまりここは連中が用意した逃げ道でもある。誘導に任せればそのまま袋小路に追いやられる)


 相手が追跡の本職ならば、こちらもまた同じ。追う側の意図を読むのは造作も無い。さらにキールは今日までクレヴァシアの街を歩き、構造を頭に入れている。

 そして傍らに目をやれば、外套の下からキールを伺う視線がある。フードの陰で爛々と輝く純白は、薄暗く狭い道を駆けているというのに、前方も足元も気にしていなかった。

 ただ、キールの次の言葉を待っている。


「戦うのは駄目だ。このまま先導に従ってくれ。曲がるぞ!」


 速度を落とす余裕は無いと、キールは路地の壁を掴み力任せに勢いを抑え、レナーシアを引き寄せようとした。

 瞬間――


「っづ!?」


 ガッ、とレナーシアの身体が急停止する。舞う石の欠片は、白い足裏に抉られた大地のもの。急制動をかけてそのまま、娘の足指がパン!と跳ね上がって――


「っう、おおおお!?」


 トップスピードのまま、レナーシアはほとんど直角に通路を曲がってみせたのだ。ゴオと突風が巻き上がり、両者の髪をかき乱す。

 キールの足取は到底間に合わず、置いていかれそうになる頭を首の力で何とか引き戻した。


(っとんでもねえ!これじゃあ俺が引かれるぞ!)


「レナ――」

「道。教えて」

「っ!左だ!」


 言葉少なな娘に、キールもまた端的に答えを返す。再びの直角の挙動に、レナーシアを捕らえる手の平はたちまち熱を持った。キールは浮かびかける両足を、なんとか踏ん張り地を掴む。


「また左だっ。裏まで――躱す!」

「うん」


 ズドン!と駆け足につきようもない音を残して、レナーシアはキールを大きく振り回す。


「づ、っづ、づ!」


 壁に肩をしこたまぶつけてバウンドしつつ、キールは何とか追い縋るばかり。

 それでも指示だけは的確に飛ばし、娘の案内人となる。猟団の包囲網を読み、先んじて道を奪い、時にはあえて姿を見せて撹乱する。大通りに出れば目立たないように速度を落とし、いくつもの直線と曲がり道を縫い走る。獣の追い方しか知らない連中から逃げるなど容易い――はずだった。


「次、右だ」

「う――」


 だが数度の指示の後、明らかにレナーシアの返事が滞る。


「――いる」

「何?」


 呟きを残したレナーシアは、グンと身体を加速させた。

 引かれるキールの腕には鋭く痛みが走り、いよいよ足が回らなくなる。


「っおい!」


 問いただす間もない。レナーシアは指示を無視し、そのまま通路を直進する。

 キールは流れる視界に、進むはずだった分かれ道を捉えるが、特に人の気配は無く――かといってキールも馬鹿ではない。レナーシアの知覚、それは常人とは異なるのだから。


「まさか位置が分かってるのか!?なら教えてくれ!」

「後ろふたり、三人。右のほうに三人、三人。左にふたり、ふたり、さん――」

「いや多すぎる!そんなはずがない!」


 並べられた数字にキールは思わず叫びを上げた。周辺だけで十五人以上、それでは追っ手の総数はさらに増すはず。二倍?三倍?いいや、そんな大所帯の猟団などあってたまるか。

 だがもちろん、娘がウソをつく理由も無い。


「っ左に、曲がりたい。どうだ?」

「増えてる。ふたり」

「どこから沸いた。仕方が無い、もう一度大通りに出るぞ」


 気が付けば、枝分かれする道の先が悉く埋められてしまっているではないか。

 肌をちくちくと刺すように迫る包囲網、だがそれでもキールは未だ道筋を捉えていた。レナーシアの足は飛ぶようで速度も十分、肩が外れぬようにだけ気を付けていれば、次の一手で抜けられる!


「っ?」


 だがしかし。ちらりとキールの視界に違和感が一つ。

 先の道、土の色だ。


「レナ――」


 キールが警告はおろか息を吐き出す間さえなく、直後、レナーシアは無防備に場へと脚を踏み入れる。

 娘はあまりに早すぎたのだ。


 キシ――と土中に異音が軋む。


 均された土が湧き上がり、跳ねるように飛び出したのは鋭い金属の刃であった。獣のアギトを模したかのような両鋏で、獲物の四肢を骨まで抉り、動きを奪う狩猟道具――トラバサミ。

 猟団の仕掛けた罠は、細く華奢なレナーシアの足首に喰らいつき、


「んえ?」


 気の抜けた甘い唸りと同時に、バチン!!と、粉々に吹き飛んだ。

 歯が欠けバラけた破片が宙に散る。トラバサミは肉を穿つための罠であり、決してうねりを上げ突き進む鉄塊を捕らえられるものではない。

 だが、


「止まるな!」


 レナーシアに効かないことなどキールも気が付いていた。警戒すべきは「そこ」ではない。

 通用はせずとも、しかし役目は果たせるのだから。

 レナーシアは足に受けた衝撃に、ただ何を踏んだ?と、確認のために脚を止めてしまっていた。


(初手は足止め、次は――上か!)


 急停止の揺れ戻しに振り回されながらも、キールは視線を巡らせ見つけた。

 奇怪な影が、路地裏の二人に覆い被さる。天上に広がったのは、白々しいまでの晴天に刻まれた、巨大な網の目模様であった。


「離れろ!」


 キールはレナーシアの外套を引いて、転がるように飛びずさった。直後、身に受ければひとたまりもない大質量が、ズン!と地響きを立てて落下する。猟団が扱う、鉄糸を編みこんだ特殊な大網だ。


「っ!レナーシア!」


 キールは引いた外套が軽すぎることに気が付いていた。鉄網が巻き上げた砂煙の中、キールは咳き込みながら、止め紐が切れて空っぽのフードに臍を噛む。


「レナーシア早く出るんだ!巻かれるぞ!」


 キールは叫びの裏、ギイイイイイイイイイイイイイイ――と、砂煙の奥から不吉な音が届く。鉄が擦れ焼ける匂いの正体は、鉄網の収縮だ。

 その鉄網が「特殊」とされるのは、それが糧を得るための道具ではない点だ。対大型害獣――人々に仇なすような危険な獣を「とにかく殺す」ためのもの。捕まれば最後、光彩駆動に際限なく収縮を始める鉄網に、巻き取られ、絞め殺され、そのまま肉の塊として焼却処分される。


 そんな無慈悲な処刑道具がレナーシアを完璧に捉え――


「なにこれ?」


 ガギン!と不意に停止する。


 砂の帳が開けた向こうで、レナーシアは、ただ立っていた。

 ときに落下の衝撃だけで獲物を殺しうる重量を、その細い首で、丸い肩で受け止めていた。今まさに肢体を締めつけんとする鉄網を、まじまじと見つめながら。


「ふん?」


 そのまま踏み出す。

 構えているわけではない。力を込めているようにも見えない。散歩のように軽やかに足を出しただけだ。


 だが違う。音が違う。

 ズン――ズン――ズン。

 小さな足裏が一歩を踏むたび、キールの身体をも揺らす地鳴りが届く。


 ぶち、ぶち、ぶち、ぶち。ばち、ばち、ばち、ばち。オーバーヒートして立ち上る光彩の煙、端からひしゃげて弾ける金具、枝毛のように千切れて跳ねる鉄糸。一連の破断の音は、どこか不明な生き物の悲鳴のようだった。


 やがて鉄網が限界を迎えるより先に、網が掛けられていた壁が崩落した。メキメキと引き剥がされ崩落する漆喰の壁を前にして、キールは声も無く後ずさる。


「んー、なんか引っかかった、いこ」

「お、おう」


 城塞で見た光景と変わらない。

 崩れ落ちた壁が、バラけた罠の破片を何も感慨も無く踏みつける足裏。その下、傷一つ残らない糸編みの肌に、無茶な摩擦でズタズタにほつれたドレス――


「お前、服ボロボロじゃないか」

「?……あーっ!」


 レナーシアはなんともいえない悲鳴を上げて、大きく裂けたスカートを摘み上げた。服が使い物にならなくなったことがショックだったわけでも、半裸になってしまった恥ずかしさでもない。

 代弁するならば、『服は壊れちゃうのすっかり忘れてた!』、だろうか。


「と、とにかく。これかぶれ」

「うん」


 またクレアにどやされてはたまらないと、キールは外套を被せ、異形のものではあるがうら若い乙女の肌を隠す。しかし小娘はまるでお嬢様然として、自分からは外套に触れようともしない。


「ったく、身の回りのことも教えたらどうなんだ……!」


 結局キールが、布を伸ばし整え、止め紐を結び直し、フードを被せてやる他無い。相手が胸までも届かない娘では、まるで案山子に服でも着せているよう。

 しかし、まったく愚かなことだ。小柄な身体が罠二つを容易く突破した、その事実にキールも虚を突かれていたのだろう。

 悠長に足を止めている暇でないことに、頭が回っていなかった。


「通りに出て歩こう。速度を落として目立たないように――」

「三人」

「っ!?」


 だが状況が、キールの事情に気を遣ってくれるはずもない。

 レナーシアの視線を追って向き直れば、通りの先、逆光にくっきりとした影が浮かび上がっていた。

 その数はレナーシアの報せどおり、三つ。


(元の道に――)


 戻ろうとしたキールは、しかし崩れ落ちた壁が道を塞いでいることに気が付かされる。猟団の仕業ではない他ならぬレナーシアの怪力によって、いつの間にやら退路が絶たれていた。

 そして焦りに再び敵を見据えようとしたキールの視界、逆光のうちにキラリと光が瞬いて――



 直後、キールの眼前に鋭い切っ先が現れていた。



「っ!?」

 腕一本ほどの長さもある鋼鉄の棒、これもまた、キールの見知っている「狩猟道具」の一つだ。

 螺旋の彫刻は旋回を生み、鋭い先端は光彩のコーティングで赤熱している。その質量と形状、光彩の熱は全て貫通力に集約され、当たれば最後。人の頭など、砕ける前に溶け落ちる。



 ではなぜ、狙われたキールが暢気に観察などできているか。


「レナーシア!」

「うん」


 他でもないレナーシアの細腕が、死の大針を止めたのだ。どれほどの力で抑えたのか、掴み取られた大針は拳を起点にひん曲がり、キールの目前で焼けた鉄の匂いを漂わせていた。


「――――」


 唐突に訪れた死の脅威、さらにそれを強引に回避せしめたレナーシアの手腕に、キールはいよいよ思考も抜け落ちて立ち竦む。


「ほら」


 トン。と胸を押されてよろめいたキールの耳元を、ゴ!と突風が吹き抜けた。またしても飛来した大針は背後の瓦礫に突き刺さり――そのまま溶解して突き抜ける。


「――ば」


 一体本日、何度目だろうか。死が唐突に訪れ、そして回避される。そんな状況の連続に、とうにキールは限界だった。


「っば、馬鹿じゃねえのか!?」


 トラバサミや鉄網は、まだ狩りの領分だった。しかしこの大針は違う。  

 厚さ十センチの表皮を、金剛の爪を、超高密度の骨を穿つための――神代の獣と戦うための光彩仕込みの兵器。そんなゲテモノが、あろうことか生身の人間に向けられるだと?


「マトモじゃねえぞ、お前ら!」


 常軌を逸した猟団の殺意と、そんな相手に弾けたキールの怒気。

 どちらも、これまで平静を保ってきた水面を乱すには十分だった。



 ガチン!



 見極めの時間は終わりかと、獣の牙が盛大に打ち鳴らされる。


「ふっ!」


 レナーシアは外套を巻き取りスカートを翻しながら、キールの服を懐に引っ張り込んだ。よろけた黒髪を三発目の赤熱が掠めると同時、獣は狩人の前へ出る。

 ぐ、と振りかぶった細腕、ギリギリと絞られる二の腕――即席の弩と化した腕には、曲がった鉄の槍が握られていた。


「そお、れっ!」


 大きく一歩を踏み込んで、脚も背中も肩も腕も全部使って、ずっと早くてもっと強い、そんな渾身のお返しを――


「駄目だ!」


 捕まえ止めたのは、あろうことかキールであった。


(こいつの攻撃は、駄目だっ!)


 加減を知っている娘ではない。死体は隠し切れない痕跡として残り、問題をさらに大きくする。そんなレナーシアの躊躇の無さに、キールは咄嗟に手を出したのだ。

 そう、咄嗟に出してしまった。

 キールはその先を予見できていない。


「あ?」

「ふぇ?」


 二人分の呆けた声を残して、キールが――浮く。


「お、お?」


 全力の確保が仇となったか。強く掴み取った銀の槍ごと、振るわれた腕に「投擲」されて――


「お。おおおおおおおお!?」


 キールは恐怖より先に間抜けな叫びを上げていた。

 大の男が大振りにぶん投げられ、宙にぐるんぐるんと弧を描く。

 視界に風景が流れ、またぶれる。地面が消え、空が見えればまた地面。一瞬だけ、驚きに目を開いた娘が見えた気がした。

 そんな短かな空中散歩の末、キールの足が付いたのは――


「お?」

「えぶっ!」


 あろうことか、そして幸運なことに、驚愕に固まる猟団員の顔面だった。

 投擲の勢いをそのまま乗せたドロップキックが、横並びの三名のうち中心を撃ち抜いたのである。蹴り抜かれた男はどおと仰向けに倒れ、キールを乗せたまま地面を滑る。


「っおら!」


 キールはそれといった考えも無く、とりあえず鳩尾にかかとを叩き込んでいた。


「てめえ!」


 自失から抜け出した二人は弩を構える。大針の反動にも耐える堅牢な構造が、キールの左右を挟むように動いた。


「!んなもん――」


 しかしさすがは獣の奇襲を「迎え撃った」だけのことはある。キールの意識は連中より一歩先を行っていた。


「人に向けんな!」


 腰裏から引き抜かれた二本の無骨な鉈が、寸分狂いなく両脇の弩、弦を繋ぐ接合部分に突き刺さった。固定が破断し、引き絞られた弦が開放されればどうなるか。


 バヅン!

 危険な音を立てて弾けた弦に、男二人は横面を殴られて吹っ飛んだ。

 さらに不運なことに、彼らが飛ばされた先には駆け寄ってくるレナーシアがいて――


「うわっ」


 小さな驚きの声と共に、男どもはレナーシアの平手に叩き落されていた。べしゃり、そんな擬音が似合うほどに容赦なく地に打ち付けられた身体は、それきり沈黙する。


「っだあぁ……」


 止めの一撃を見届けたキールは盛大にため息を吐き出して、感触の不快な足場から降りる。痺れの残る腕を振りつつ鉈を収めて、ピクリとも動かない猟団員を靴先で小突いた。


「死んでは、ないか」

「息してるよ」

「ならよし」


 結果的にレナーシアにも攻撃させたことは、都合よく置いておこう。

 当たり所によっては鼓膜でもやられているかもしれないし、最後の平手打ちには骨が折れるような音も聞こえていた。しかしキールからすれば、人間相手に神代の武器を向ける連中など同情も不要。放っておけば仲間が回収するだろう。


 そんな未だ恨みを燻らせるキールは、ふと傍らのレナーシアにまじまじと見られていることに気が付いた。娘が浮かべるのは――強いて言うならば戸惑いの表情だ。


「……びっくりした」

「――ああ、悪かったよ」


 それはそうだ。レナーシアもまさか男一人ぶん投げる羽目になるとは思っていなかっただろう。


「ん……くふっ……ふふ、ふふふふ」


 さらに娘は堪えきれないといった風に、クスクスと背中を丸めて笑いはじめた。


「ふふふふ、びっくりしたぁ」

「だから悪かったって。大通りに出る。しっかりついてきてくれ」

「うん。……くふふ」


 罰の悪さを誤魔化すようなキールの主導に、返されるのは今日何度目かの、透明な首肯の言葉だ。二つの影は引かず引かれもせず、ゆったりと通りへ歩み出す。


 カァ、と開けた視界に光が漏れ、痛みを伴う刺激にキールは目を細める。

 東地区はどこも灰色で似た光景ばかりだが、この通りには見覚えがあった。さらにもう数本通りを挟めばリマンドの屋台が見えるはずだ。

 大回りしつつ通りを三本も戻れば、追っ手を撒くには十分な距離だろう。


 だが、しかし。


「ダメか」


 路地裏から姿を見せるや否や、ちくちくと群集から突き刺さる視線があった。包囲を抜けるどころか、むしろあからさまにその数を増している。

 相手の配置や、包囲が狭まる速度、布陣の作りも、キールの判断に間違いは無かった――ただ一つの計算違いは「数」にある。


「まさかな、猟団が徒党を組むか」


 猟団一つが相手ならとうに撒けている。ここまで先回りされるならば、ただ単に手が多いのだ。集団の数は四つ、五つ、あるいはそれ以上か。


(依頼内容を見れば互いに競争相手のはず。姿を消している連中がいたことで、危機意識から手を組んだのか――)


 クレアに話したように猟団は閉鎖的な組織だ。キールの知る常識に照らせば、団ごとに違う手法・伝統を超えて手を組むなど、一筋縄ではいかない。

 ならば彼らは既に、そんな不都合も無視できるほどに被害を受けているのか。

 対神代の道具まで持ち出したことも、焦りの表れと取れる。


(突破は、厳しいな。押し通ることはできても、流血沙汰になれば今度は追っ手に兵士が加わる)


 どうせ大立ち回りを演じるならば、先と同じく路地裏のほうが人目に付かないが――


「レナーシア。後ろは何人いる」

「右のほうから三人、ふたりと、ふたり。左は四人と三人、まっすぐふたりと三人、三人、三人」

「容赦ないな」


 うんざりするほどの敵の数も、それを遠慮なく伝えてくるレナーシアも。

 レナーシアの手腕があれば追っ手など全て沈黙させられるかもしれない。だがレナーシアを動かせば動かすほど、娘についての情報はフロイストに流れてゆく。これまでの動向に加え、さらに外見や特徴、種族に能力、人間関係やその立場に到るまで露見しかねない。


「別行動、だな」

「んえ?」


 故にキールの判断は、一番の重荷を切り捨てることだった。

 他でもない、キールという足手まといを。


「別行動。お前一人なら、セロンを追っかけたときみたいに人ごみも上手く潜り抜けられるだろう。とっとと逃げてしまえ。くれぐれも静かに、目立たないようにな」


 もとよりキールがレナーシアを連れ行動を共にしたのは、破天荒な娘を一人にすることに不安があったからだ。しかしここまでの娘の落ち着きぶりをみれば、手綱を握る必要もないだろう。

 そしてキールさえなければ、そもそも娘が逃げおおせるのは簡単なことだった。


「あなたは?」

「子どもに心配されるほど落ちぶれちゃいない。同業なりの話のつけ方があるんだ」


 これは嘘だ。相手が平常な精神ならば話もできようが、これまでの連中のなりふり構わない行動から見ると、下手をすれば拉致か拷問か。

 ならばレナーシアが逃げた後に騒ぎでも起こして、クレヴァシアの兵にでも拘束されてしまうのが、一番安全だろうか。

 そんな諦めの一手も、北の民レナーシアが隣にいてはできない。互いに互いが邪魔になっている。


「後は二人にも伝えておいてくれ。何とかしてくれるだろう。ほら、行け」


 そんな合理的な理由から、キールはここで道を分けてしまおうと、レナーシアの背を柔らかに押し――


「――やだ」

「……は?」


 そして、聞き覚えのある声色を耳にしたのだった。

 絵の具を思いのまま塗りたくったような、鮮やかで乱雑な音だ。これは確か森の中、泥にまみれながら聞いた「あれ」と同じ――


「っい!?」


 腕に走った強烈な痛みに、キールは小さく悲鳴を上げた。見れば腕が小さな掌に捕らわれて、万力のようにギリギリと締め付けられているではないか。


「お、前、こんなときに!」


 唐突な娘の豹変に、キールは拘束を振りほどこうとするが……レナーシアは大地に縫い付けられたかのように微動だにしなかった。

 逃れようと悶えるキールは、外套の下に、愉快げに綻ぶ唇を見る。


「そんなのよりさ。とんでもいいかな?」

「とん――?」


 富んでも、問うても――――――『飛んでも』。


「あ、きた!」


 不穏な言葉が浮かぶと同時に、レナーシアはピョンと嬉しげに跳ね上がった。

 娘が指差す先、雑踏の奥に、キールもまた鋭い光を見る。

 ギラリと陽光を弾く――光彩筆だ。


 ズドン!


「!?」


 直後、通りに爆発音が轟いた。

 路肩に積まれていた荷物が、内側から膨らむように弾けたのだ。収められていた赤い果実が宙に散り、瑞々しく光を反射する。

 雑踏の視線は轟音に、そして紅の諸星へ釘付けとなり、もちろんキールも意識を奪われて、


「う」


 瞬き一つの間も置かず、


「お?」


 キールは再び、空にいた。


「――――――――!!」


 だが段違いだ。

 何にも触れない、触れられない。

 足がかりもなく空転する視界に、小さく映りこんだのは人々の頭か。群集を真上から見下ろすという体験にも、ただ怖気を伴う浮遊感にも、驚きは追いつかずただただ呆けてしまう。

 やがて視線は建物より高く、上昇は絶頂を迎えて――


「ぐえっ!」


 無造作に放り出されたキールは、潰れたカエルのような悲鳴を上げてゴロゴロと床に転がった。太陽と床の汚れが交互に視界を覆い、その切り替わりのうちに、傍らに着地したレナーシアの姿もあった。


「ぎっ、ぐ……はあ……」


 ぐらぐらと揺れる頭とこみ上げる吐き気に耐えながら、何が起きたのかと思考が巡る。離された腕も、襟回りに締めつけられたように残る首の痛みも、どうやらレナーシアに掴み飛ばされた証左だろうか。


「づ、はぁ……はぁ……」


 指で掴んだ床――いや、建物の屋根は、雨ざらしに長く人の手が入っていないくすんだ色をしていた。キールは一息つくこともなく、身を引き擦るように屋根の端へと体を運ぶ。

 恐らくクレアが引き起こした爆発、さらに息を合わせたレナーシアの跳躍、その真意を確認したかった。


「高っ、けえ」


 そうして覗き見た下界の光景は、おおよそ五階建ては超えるだろうか、思わず口に出てしまう高度だった、どの建物に飛び移ったのかは判断付かなかったが、周囲に背の並ぶ構造は少ない。


「っだあ……」


 キールは盛大なため息と共に、がっくりと頭を落としてしまう。


「走った意味、無ぇじゃねえか」


 そう、こんな跳躍ができるなら路地裏をうろうろせず、追っ手から視界を切って天に飛べばよかった。これまで度々レナーシアの力を見せられてきたが、キールは未だに上限を見誤っていたのだ。






 さて、改めて下の世界を眺めてみれば、実に分かりやすい構図が出来上がっていた。


 一つ。追っ手は悉くキールとレナーシアを見失っていた。猟団員らしき連中が苛立った様子で群集を掻きわけているものの、天上にまで目を向けてはいない。その発想に到るのは難しいだろう、爆発に意識を逸らされた一瞬で、移動できる高さではない。


 二つ。爆発は騒ぎとして広まっていた。人々が輪を成して首を伸ばし、事態を確認しようと集っている。明らかに人為的なこの事件は、果たして何者のものなのかと。


 そして、三つ目。大通りに散る何十人もの猟団員。彼らをさらに大きく囲む「もう一つの集団」があって――その先頭に、まさかのセロンの姿がある。


 舞台は整い、演者も観客も十分。

 そして主役も到着した。


「――下がって!市民の皆さんは下がってください!」


 ここは、既に狩場だ。


「我々は東地区の自警団です!街中を奇妙な集団が走り回っているという通報がありました!」


『自警団』とはよく言ったものだ。セロンと共に街道を封鎖する人々は、そのまま街の住民の風貌だ。肉屋に魚屋、酒場の主に宿屋の店主、好々爺じみた老人に、恰幅の良い女性までいる。先にキールに紙包みを押し付けたリマンドまでいるのだからさもありなん。


 ただ、その数は尋常ではない。

 街の一部が丸ごと動いたような錯覚すら受けてしまう。

 さらに声を上げる金糸を前に人々は足を止め、その言葉に耳を傾けた。


「繰り返します!こちらは東地区自警団――そこの!動かないように!」


 セロンが鋭く指し示したのは、他でもない猟団の一団だった。

 ざわり、と、猟団の周りから人が離れてゆく。網にかかったキールが異邦人であると看破されたと同じ。服装・風貌、その土地に住むものから見れば、住民で無い者など一目で分かる。


「全員!代表を残して解散を要求します!また代表は、爆発の参考人として同行を!繰り返します!これ以上の集会は、住民の総意として認められません!」


 ひとところに集うには異様な異邦人の数――その場で引き起こされた爆発事件――両者は容易く関連付けられよう。

 狩人との獲物の立場は、いつでも逆転しうる。


「――――――――――!!」


 流石に嵌められたと気が付いたのであろう、猟団のリーダーらしき男が何やら悪態を飛ばすが、多勢に無勢では無理を通すことはできない。住民を傷付けでもすれば、次は正規の軍が出てくることになる。


(一人ひとりならばただの旅行者。しかし集めて囲んでしまえば、怪しい危険集団か)


 やがて、セロンと猟団は接触する。


「――!!」

「――――――――――。」


 声は遠く、話の中身は分からない。しっかり包囲されてしまった猟団は、北の民追跡という正当性でも主張しているのか。だがレナーシアの身内であるセロンが受け入れるはずもない。


「―――――、―――――!」

「―――」「―――――!」


 馬車事故の方に向けられているのだろうか、兵士の姿はまだ見えない。自警団の年若い代表として説得に当たるセロンは、ずいぶん猟団に近づいてしまっているが……心配は不要だろう。あの青年が暴力に遅れを取るともはずもないのだから。


「――――。――――………」「――――!!」

「――?」「――――!――――。――――!!」


 傍らを見れば、レナーシアもまた建物の端で寝転び、下界を眺めていた。ぱたぱたと振る足にドレスの裾がめくれ、爪先が陽光にまぶしく光る。脚だけでなく頭の尾もゆらゆら愉快げだ。


「ん   ん   ん~   セー  ロンっ」


 爆発事件を「解決」したヒーローに釘付けで、鼻歌交じりのリズムに乗るほど上機嫌。


「……はあぁ」


 キールは未だ熱さの燻る吐息を吐き出して、今一度のっそりと身を起こした。

 見回せば視界を遮るものもなく、開放的な空間からは遠く河川を望むこともできる。気だるさを払うように大きく伸びをすれば、湿気をはらんだ風が身体の熱をさらっていった。 


 なんと平穏なことか。

 緊張の糸が伸びきって、だれて弛んで垂れ下がる。

 決して敵の手が届かない安全圏。もはやセロンの優勢が覆ることもなければそうだろう。


「――――。――――………」

「――――!!」

「――?」

「――――!――――。――――!!」

「――――。――――………」

「――――!!」

「――?」

「――――!――――。――――!!」


 下界からの罵声が無粋に感じられる安穏。これほど身体の力が抜け切ったのはいつぶりだろうかと、キールは疲労に霞かかった頭の片隅で数えていた。


(三、四……故郷を出てから、五ヶ月……いや、もう半年経ったか?)


 記憶に遠い古巣、遠くウラルを臨む東の山々が蘇る。静謐な霊峰の秘境で、信頼できる師の隣、心置きなく眠れた時代を、今になって思い出すことができようとは。


 きっと、隣に転がっているレナーシアの影響だ。


 神代の獣――村を食い荒らし街を滅ぼし、ときに国一つを機能不全に追いやることもある。そんな災害に対抗するのが神代の狩人だ。追ってきた猟団も一筋縄ではない連携を見せていた。

 だがレナーシアはそんな集団の小手先から真打まで、悉く下した。一度も退くことなく正面切って、砕いて均して踏みつけた。


「……はああ」


 虎穴に入れば食われようが、宿主の許しがあればまた別の話。

 強大な爪の威を借りて、キールはもう湧き出る欠伸にすら耐えられなくなっていた。

 怠惰に呑まれて浸ってしまった。眠気に身を委ねてしまうほどに。





 ――だが、抜き身の刃の側で、眠れるはずがなかった。





「あ」


 キールはふと呆けた吐息を漏らした。

 眠気に閉じかかった目に、男の振り抜かれた拳と、大きく仰け反った青年を映して。

 セロンはスローモーションのようにゆっくりと倒れながら、その顔面から幾ばくかの赤を散らしていた。

 ガチン!と、耳に覚えのある「牙音」が聞こえて、


「っ!?」


 傍らで爆ぜた破裂音が、安穏を吹き飛ばす!


「待てっ!!」


 キールは悲鳴のような叫びと共に、とっさに手を伸ばしていた。


「やめろ出るなっ!!」


 だが遅い。全く遅い。制止の言葉も腕も、獣の脚にはあまりに手遅れだ。


(油、断――セロンの血――レナーシア!)


 あの青年を傷つけられて、あの娘に、時も場所も人目の有無も関係あろうか。爪を振るうにも牙を穿つにも十分すぎる。


 かつて見た光景が、生々しく蘇る。

 あの咆哮が再び響き渡る。


「――――」


 凄惨な形相を浮かべ地に降り立った獣が、あの踊るようなステップで――


「―――――――」


 彼を傷つけた連中を、彼を守らなかった連中を、変貌せしめる――


「――――――――――」


 首。胴。脚。肉と血。世界が赤く、赤く赤く――


「―――――――…………、お」




 そんな光景はふと消え去った。

 幻は剥がれ落ちて、現実が帰ってくる。




「――丈夫!大丈夫ですから!」


 セロンが何事無く立ち上がって、反撃しかけた住民を身体ごと制する。


「――馬鹿野郎いらねえことを!てめえら下がれ!下がれっつてんだろ!」


 手を出した男を押し付けて、罵声の嵐をさらなる大声で上塗りする猟団員がいた。




 集団同士の流血沙汰は、未だ互いに冷静を保っていたリーダーによって阻止されていた。双方を落ち着かせるための地道な説得が、交渉が、理性に支えられて戻ってくる。


「…………あ」


 そしてキールはようやく、自分の手が、黒い頭尾をしっかりと掴み取っていたことに気がついた。

 いや、そもそも。

 レナーシアはその場から一歩たりとも動いてはいなかった。キールのトラウマが呼び起こした幻影に反し、喧噪をじっと眺めていただけだった。ただその細指が八つ当たりのように屋根の石材をえぐり取っていて、きっと耳にした破砕音の正体はそれだった。


「――――――かった」

「―――――ります。必ず」


 ややして意見がまとまったか。あるいは腫れた頬もおかまいなしに詰め寄るセロンに、気性の荒い者どもも気色を削がれたか。喧噪は次第に治まって、やがて集団は遅まきにやってきた兵士へと引き渡される。


「――の―――っ!」

「―――――さ。―――こう」


 そして今までどこに身を隠していたのか、セロンに歩み寄ったクレアがきつい表情で何やら罵りながら、青年の頬に布を当ててやる。二人もまた兵士と同行し姿を消して――

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