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想いは純粋なれど  作者: 宿屋
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欲、利益、願い

 クレヴァシア王宮。

 下界に祝祭の音を置き、国土の中央にそびえる白磁の巨体は、なによりその外観で有名だった。

 円柱が入り組んで幾何学な塊を成し、しかしその大半はただの装飾。人が立ち入れるのは中央の主塔くらいという無駄が過ぎた構造だ。元は古くに語られる聖地を再現したもので、今や王の居住地というよりも、クレヴァシアを象徴するモニュメントとして認められていた。


 そんな建造物に走る渡り廊下を、二つの影が闊歩する。


「――スウィフト。貴官は戻らずともよいのか」


 一つはクレヴァシア宰相、バルバス。

 宰相という立場上纏うのは上品なローブだが、まったく隠しきれない「戦さ者」の匂いを放つ男だ。木彫りの夜叉のごとき相貌に刻まれるのは、無数の古傷と深い皺。こわばった金髪を撫でる手は剣タコと瘤に覆われる。存在感は圧倒的で、もし彼が王を名乗れば誰しも思わず頭を垂れてしまうだろう。


「――不要です。私の部下らは自身で判断ができるよう、育てております」


 もう一つは北城塞指揮官の一人、ヘルゼ=スウィフト。

 バルバスに比べればまるで小柄な女性だが、それでも群青の軍服姿はまさに凛と立つ花――美しくも毒の棘を持つ、強き花を連想させる。結わえ上げた灰色の髪は一糸乱れず、鋭い碧眼は爛々と光を放っている。


 装飾の少ない廊下の意匠も相まって、二人の歩みは堂々たるものだった。


「そもそも、連中の目的は何だ。ディルバの異形など見逃されるはずあるまい。無事に侵入など出来ようもなかろうに」

「露見が前提ならば、城塞の襲撃自体が目的とみるべきでしょう。東城塞は脆い。弱小の城塞であっても崩せば、クレヴァシアの信用に傷を付けることはできます。祝祭の最中、他国の目が集まっていれば尚のこと」

「北の戦略の一環、ということか」

「いえ。北の要塞、シルバストリアからも報告がありましたが、他の北の民に動きはありません。ディルバは強大ですが後衛もなく、襲撃もあまりに少人数でした」

「指揮系統から外れた、孤立部隊の仕業か」


 ――それは国の舵取りをする者らが、東城塞の襲撃を論じている光景。

 だがしかし、彼らは机上の報告書を前にすることもなく、足を止めて向き合う様子も無い。襲撃事件の扱いの低さが見て取れる、片手間染みた会話だった。


「しかしたった数体とはいえ、東城塞が抑えるとはな。あれは消耗前提のはずが」

「まさか。あれの技能ではとても対抗できません。付近を哨戒中だった北城塞の兵が救援に向かっておりました。彼らの奮闘によるものです」

「む。さすが叔父上の教え子らだ」

「恐縮です。軍とは群である。叔父の薫陶は未だ色濃く。今後も北城塞の兵が、随一の統率をもってクレヴァシアの守りとなります」

「うむ!」

「『カラパイス』の兵連中には、決して出番は与えません」

「う?むう……」


 ヘルゼの断言に、バルバスは言葉を呑み込み鼻白んだ。

『カラパイス』――ヘルゼはあからさまに瞳をぎらつかせ、その単語を唱えていた。分かりやすい対抗心、隠す気もない士官の戦意に、バルバスは苦笑いを浮かべて嗜める。


「スウィフトよ、その競争心。決して悪くはないが、今日は慎んでもらわなければ困るぞ!今見えている客人は、そのカラパイス兵なのだからな!」

「ええ、そうおっしゃるのであれば、バルバス様」


 瞬間、ヘルゼの口に帯びていた熱が――嘘のように消える。

 その言葉、待っていたと言わんばかりに。




「そもそもこの会合、中止していただければ私の心も落ち着きましょう」

「――――――……」




 沈黙は唐突だった。

 バルバスもヘルゼも、先までの笑みを完全に消し去って巌のようだ。無感情に響く足音は、ひどく空気をひりつかせる。


「………………」

「………………」


 ヘルゼが突然に言い及んだのは、城塞襲撃という「国の大問題」を放置できるほどに、重要な案件だったのだ。まさにクレヴァシアの未来を左右する会合の場に、二人は向かっていたのだ。

 正確に言えば――バルバスと客人の会合に、ヘルゼが介入を試みている図だった。


「……我々の不利益にはならぬ」

「王のご意志を曲げる!これ以上の不利益がありますか!」


 ヘルゼの口ぶりは尊大で、一国の宰相に向けてよいものではない。

 しかしバルバスは無礼を叱責することもなく、深く深く息をつくだけだ。


「戦局は分かっておろう。昔と違い、連中は群での戦いを避けている。砦や国は無事でも、小部隊での散発攻撃、商団への襲撃、行路の破壊。なんとも小賢しいことだ」


 南北の境界たるクレヴァシアには嫌でも以北の情勢が入ってくる。今や北の民の攻撃は南のライフラインに集中し、入植の効率をひどく鈍化させていた。


「これ以上支配に時間はかけられぬ。今こそ抵抗者は烏合の衆だ。しかし『北の旧き王』の後釜が生まれればどうなる!奴らは再び結束するぞ!『紺碧の王』に『枝角の王』。素質を持つ者は未だ多いのだ」


 バルバスが鋭い眼光で睨む虚空には、大戦で猛威を振るった敵将の姿が色濃く残っている。


「もう過去の方策に拘ってはおれぬ!入植の効率を上げ、連中の勢いを削がなければ。王も個人的な恨みは差し置いて、早々に決断するべきだったのだ!」

「不敬を!我らが王は……っ!」


 ヘルゼのさらなる反駁は、しかし寸前、バルバスの掲げた分厚い掌に止められる。

 言い争ううち、二人が辿り着いたのは重厚な扉の前。そこでバルバスが見せつけたのは、手に備わる黄金色の指輪だった。

 細く、美しく、無骨な手には不似合いな装飾品。


「俺はな、実力で伸し上がった」


 それは名も無い一兵卒から成り上がった、バルバスの人生の証だった。


「俺の判断は、決して間違いではない」

「っ――――っく――――……!」


 成否の基準を個人の内に置いてしまえば、もはやどんな論も届くことはない。そのような排他性は、宰相という地位で許されるものではないというのに。

 ヘルゼは歯噛みする。何でもいい、コレに届く言葉はないかと探るが、しかし時間は待ってくれない。


 ゴオン……と扉が重苦しく開き始める。


 扉の先は円形の広間だった。天井の垂れ幕から飾られる花に到るまで、総じて白地に蒼を基調とする上品な領域。クレヴァシアを代表する蒼き空間――王の間だ。

 しかし、一際高くに置かれた玉座に人の姿はなく、


「おや」


 代わりに広間の中央には、場違いなほど鮮やかな紅色が立っていた。

 撫で付け整えられた薄紫色の髪。年を刻んだ細い顎と細い目つきが、端的に酷薄な印象を与えてくる。赤色に金銀をあしらった華美な衣装は、質素な蒼の間では実に浮いていた。

 バルバスに気が付いた男は、腰を深々と曲げる。高く上がる右手、胸に据えられた左手――そんな優美な一礼は、しかし実利を重んじるクレヴァシアの王宮では、滑稽なほど大仰だった。


「フロイスト皇国、カラパイス兵団所属。デズモンド=アングィスと申します」


 持ち上がった客人の顔は、実に役者染みた笑みをたたえていた。



……

………

…………



「――ヘルゼ」

「ん。ああ」


 王の間から去る道すがら、ヘルゼは声を掛けられるまで人の存在にも気が付けないほど、深い自失にあった。

 投げやりに見てみれば駆け寄って来るのは大柄な男だ。

 壮齢の面構え、刈り上げられた短髪はいかにもベテランの職業軍人といった装いで、しかし腕章はヘルゼより一つ下の階級を示している。


「……マルネア」

「っその様子だと、やはり、駄目だったか」

「億劫だ」


 マルネア――付き合いの長い副官にすら、ヘルゼの応対はぶっきらぼうだ。再開した歩みも、往路とは打って変わってトボトボと侘しい。マルネアは無理やりに歩幅を合わせ、ちょこちょこ滑稽な足運びで追従しなければならなかった。


「なんとも、情けない、話に、ならず」

「……ふむ」


 ぽつぽつと呟くヘルゼは下を向きっぱなしで、マルネアは何とか声色から伺う他ない。


「代理、とはいえだ。仮にも国の指導者が、他国の言いなりなど」

「ふむ」

「あっていいのか。使者ごときに、ぺこぺこぺこぺこ」

「ふーむ」

「あれが、叔父上と肩を並べた。ありえん。見た目だけの、木偶の坊ではないか」

「ふむむ」

「………ふむふむふむふむとそれ以外に言う事は無いのかマルネア!」

「ふむう!?」


 沈んでいたかと思えば、唐突に爆発。いつもの威厳はどこへやら、ガツガツと力任せに床を蹴り付け始めた上官を前にして、しかし副官は冷静だ。


「声が大きいぞ、ヘルゼ」

「だが!」

「落ち着け、判るさ。俺も腹に据えかねてる」

「く…ぅ……」


 癇癪を起こして悪態を喚き散らす姿も、唇を噛みなんとか激情を飲み込もうとする様も、城塞の指揮官としてとても見せられたものではない。あくまでマルネアの前、二人きりだからこそ露にする本音だ。

 老獪な副官は、若い激情を燻らせるヘルゼの肩を引いて、バルコニーにまで歩かせた。眼下に遠い祭り火を眺められるその場所は、壁も無い廊下よりは話しやすい。


「あいつも、バルバスもなぁ。昔はああじゃなかった」

「とても信じられん」

「ああ、今となっては見る影も無いが、確かな覇気に溢れていた。アズール様と並んで様になる程度には、ガワだけではなかった」

「………」


 おもむろなマルネアの語りは、ヘルゼの知らない時代のものだ。

 今や城塞の一角を任されている彼女だが、大戦の頃はまだ成人すらしていない。敬愛する叔父――アズール=スウィフトを初めとして、家族同然の同胞らを故郷から見送ることしかできなかった。

 しかしマルネアは、アズールに付き従って大戦を過ごした生き証人だ。


「元よりバルバスは、フロイスト皇国の出身。その頃の癖が国を出てからも抜けなかった。特にこれみよがしに皇国軽視の『賢人』とは折り合いが悪くてな。我らが王に心酔し付き従ったはいいものの、皇国への忠心も捨て切れず。どっち付かずな男だった」

「……今と変わらん。あの面で八方美人とは笑わせる」

「だが皇国との調整役としては重宝した。我らが王もアレの才覚は見抜いておられたからこそ、最後まで側に置いておられたのだろう。もっとも真に背を任せられた腹心は、アズール様だったが」

「では叔父上が――健在であれば?」

「もちろん王のご意志そのままに、皇国の使いなど叩き出していただろう」

「そう、そうだ。あの人ならできたはずだ」


 マルネアのきっぱりとした語り口に、ヘルゼは激情を流されて肩をすっかり落としていた。今は亡き憧れと、未だ届かない自分に歯噛みする。


「スフィフトが。私がもっと早く、地位を取り戻していれば、な……」

「………」


 言葉が消え、たった二人のバルコニーはしんと静まり返る。見渡す闇夜に煌びやかな明かりが見えても、祭り囃子はここには遠く届かない。

 数秒か数刻か、寒々しい空虚な時間にやがてヘルゼの唇が分け入った。


「マルネア。そろそろ、本題に入ろう」

「む……」


 ヘルゼは一歩二歩と歩を進めて、マルネアに背を向ける。顎を引いた副官が誤魔化しに目を泳がせている姿など、見るものではない。付き合いの長さはお互い様なのだから。


「こんな判りきっていた顛末を、わざわざ聞きに来たわけではないだろう。私の愚痴に付き合うために、来てくれたのでもない」

「むう」


 すっかり疲れが混ざった主の求めに、マルネアは石のような拳をゴツと、自分の額に当てた。考え込むこと数秒、男は意を決して息を吸い込む。


「東城塞で――」


 ヘルゼの両の手が握り締められる。ただ、耳を塞いでしまわないように。


「――遺体が見つかった。全員確認した。確かに、彼らだった」

「大佐、は」

「全員、だ」


 唸るように男が捻り出した言葉は、目の前の背中にずっしりと覆い被さる。


「そう……そうか。皆、死んだのか」

「ヘルゼ。お前の――」

「分かっている」


 ヘルゼは曲がりかけた背を、しかし見えぬ誰かに捧げるように、最後の矜持で持って耐える。

 強烈な耳鳴りに責め立てられて、顔を覆って天を仰ぐも、その指先が濡れることはない。


「分かっている、分かっているさ」


 音の無い嗚咽は、乾きに乾いたものだった。



……

………

…………



 クレヴァシアの西部分はよく整理された区画だ。縦横に舗装された大通りに沿って立ち並ぶのは、大半が商人組合の本拠地――商館だ。溜め込んだ富を誇示するように高く広く、そして闇夜に浮かぶほどの白さ。


 中でも際立つのは、鮮やかな紅の幕を垂らした館だ。その色は南諸国の宗主、フロイスト皇国の施設であることを意味する。貿易事業の大手であり、大使館であり、クレヴァシアにおける皇国の活動拠点だ。

 もちろん今日日はこの館もまた、国の祝いに興じていた。


 風当たりの心地よいテラスと、並ぶのは高価なスパイスの効いた皿。舌鼓を打つのは装いを正した紳士淑女。くゆらせるワインは煌びやかな光彩を映して止まず、建物の中では弦楽器の優美な音色と、弧を描いて回り踊る男女の姿が。


 東地区のような乱痴気騒ぎも、中央地区のような人ごみもない。

 しかし。よくよく見れば彼らもまた、別種の狂乱に染まっているのだ。


「いやはや、長い戦いでしたなあ!」

「苦節十五年――」

「北の大地が我々を待っておりますぞ!」

「雇い入れの人夫がとても足りなくて」「何をおっしゃる、嬉しい悲鳴ではありませんか」

「フロイスト万歳!クレヴァシア万歳!バルバス様万歳!」


 ――普段よりただ利益を追い求め、顔面を偽の笑顔で塗り固める連中だ。それがまるで化けの皮を剥がされて一様に歓喜の渦に巻かれては、豪商も形無しだ。

 知らぬ者からすればなんとも訝しい光景であるが、壁を隔てた階上で静かな酒を味わう男は、その事情に精通していた。


「クレヴァシア――『世界の門』。その呼び名が好意的な意味を持つことは、あまりない」


 彼の語りは窓の向こう、光彩の明かり蠢く中央広場に向けられていた。


「――ここクレヴァシアは、人も荷も、通過の締め付けが強くてね。特に北への入植審査は類を見ない厳しさだ。資源価値の維持のため……言い分はもっともだが、限度がある。建国から十五年の長きに渡って、融通の効かない門番であり続けてきた――」


 そこは商館の最上階、どうしてか椅子が残らず取り払われ、調度は豪奢な円卓一つ。

 そんな広々とした間で、男――デズモンド=アングィスは語る。

 王宮での会談を終えた後であろう。しかし紅の上着を払えば下のシャツには皺も無く、伸びた背筋もまた、一日の疲労を感じさせなかった。


「――大戦に勝利した以上、北への支配を広げるのは当然。しかしラウル王は、フロイストの意向を全く受け入れない。南諸国は等しくフロイストの属国……いや、皇帝陛下の子であるが、これほど聞き分けのない子は前代未聞であろうよ――」


 肥えた土地に手つかずの資源。北の大地は広大なフロンティアだ。開拓に人手はいくらあっても足りず、投資すればその額は何倍、何十倍にも膨れ上がる。

 故にフロイスト皇国も、それに付き従う諸国や商人も、規制の緩和をクレヴァシアに求めてきた。


「だが確かに!ラウル王は偉大な大戦の英雄だ。フロイストも、私個人としても、無理に働きかけるのはずっと不本意だったよ。残念な話ではあるが彼が病に伏せ、話の分かる宰相殿が実権を握ったことで、ようやく話を進めることができた。階下の騒ぎは、そう、利益を約束された成功者達の宴だ。多少耳に障っても大目に見てやりたまえ」


 商売人でもないデズモンドに直接の恩恵は無い。しかし忠心を捧げる主、フロイスト皇帝からの命を成し遂げたことに、彼は祝杯を掲げていた。


「狭き門は、あと数日で開け放たれる。記念すべき日となろう!」


 そんな達成感に彩られた祝事に――



「――話が、長い」



 陰鬱な雑音が割り込んだ。


「仕事の話はいつ始まる」


 ずけずけと、どうでもよさげに、相槌すら素振りもみせない言葉。

 見事に場の興を削ぎ落とされたデズモンドは、しかしそんな客人の無遠慮さすら予定調和であったのだろう。くっくと肩を震わせて、ようようと首だけで向き直る。


「無粋だな。これまでの連中もそうだった。獣ばかりを相手にしていると、人間性が薄れていくと見える。東の地では皆そうなのかね――キール君」

「………」


 無言を返答とする男、狩人キール。

 デズモンドが直々に、クレヴァシアに招聘した客人だ。

 荷も外套も降ろし、腰に下がる鉈以外はいたって簡素な軽装だ。しかし床面を踏みしめる両脚は微動だにせず、雇い主の皮肉にも眉一つ動かさない。さながら冷たい石像だった。


「……まぁ、いい。無駄口を叩かないのは良いことだ」


 石の塊相手ではどんな口上も独り言。デズモンドは興醒めを払うように髪を掻き上げて、口調を事務的なものへと切り替えた。


「まず最初に、我々が雇うのは君だけではない。各地から『神代の獣』の猟団を集めている。ただし、私が個人で雇っているのは君だけでね。特別に報酬は言い値で払おう」


 金の話は人となりの皮を剥がす。階下の亡者がその例だ。そしてもちろん、キールの目元は欲よりも不審に彩られる。

 負の心証を隠さないキールに、なんとも読みやすい男だとデズモンドは鼻を鳴らした。


「そう警戒しないでくれたまえ。特段奇妙な話でもなかろう。神代の狩猟者は数あれど、白眉を仕留めたという経歴は他に無い。その腕に期待してのことだよ」

「……随分と、」


 白眉――おおよそ故郷以外では聞かれない名に、キールの眉根は錆びた鉄鋏のようにギリ……と締められる。顔に落ちる陰鬱さも、不快感という陰にいっそうと濃くなったようだ。


「――噂が一人歩きしている。それに、こんな切り開かれた土地だぞ。脅威になるような神代がいるとは思えない」

「その通り!察しがよいではないか。まさに今回の君の獲物は神代ではなく、そう――北の民だ」

「……なんだって?」


 まさか無駄に演技染みたデズモンドの台詞が、聞こえていないはずがない。ただ平静を装って返す言葉を選んだだけで、キールが本当に吐きたかったのは罵りだろう。

 しかしデズモンドは、元より反駁など聞き止めるつもりも無いようだ。杯の中身を一息に飲み干すと、空のグラスは窓際に置いて、ゆったりと歩み寄ってくる。

 持ち替えた書類の束を、ばさばさと見せ付けるように揺らしながら。


「君への依頼は、ここクレヴァシアでの『北の民の調査、及び発見』。驚くことなかれ、実は先行していた調査員が、国内での異人の目撃例を多数報告してきてね」


 デズモンドはほとんど投げ捨てるように、キールの目の前、円卓の上に書面を開帳した。緻密な文章で書かれたその報告書は、本来部外者に見せるようなものではない。目にするだけでも危険な代物だろう。

 しかしキールはそんな回りくどい圧力を、歪に曲げた眉根で返す。

 見極めを行うのはデズモンドの側だけではない。


「間抜けな話、あんたは仕事の種類を間違えている。俺は兵士ではない」

「いいや、間違えていないさ。言っただろう。『調査』と、『発見』だ。戦闘ではない。私が求めているのは、目と耳、そして丈夫な脚だ。影のごとき曖昧な匂いを嗅ぎ付け、万里を渡る爪に追い縋る能力だよ」


 煽るグラスを通してもハッキリと知れたほど、キールの体躯は頑強だ。特にその両脚は、椅子も与えずに長らく放っていたにも関わらず、重心が一瞬たりともぶれていない。


「走り回って見つけるまでが貴様の仕事。そして殺すのは――我等の役目だ」


 物騒な一言に、デズモンドはおもむろに袖をまくった。

 露になった男の前腕を前にして、キールの眼は細く鋭く警戒に染まる。


「――カラパイス、か」


 それは一見、薄い手甲だった。鱗のような板金を組み上げたようで、しかし鮮やかな紫色の反射はただの金属由来ではない。


「ほう、名くらいは知っているか。だが目にするのは初めてだろう?」


 自慢げに腕ごとカラパイスを翻すデズモンドは、キールに見せ付けているというよりも、その品を手にしている自分自身に陶酔しているようだ。口調にも熱が戻り、紫色の煌めきを見つめる目つきも尋常ではない。


「良い機会だ。よぉく見ておくがいい。皇帝陛下より賜った秘宝だ。大量生産の光彩兵器とは比べ物にならん。千の異人相手でも、遅れを取ることはない」


 誇張のつもりでもないのだろう。手甲をしっとり撫でながら円卓を回りこんでくる姿は、例えるならば業物の刀剣でも握っているかようだ。さらにただ希少な品を与えられただけではなく、振るう腕も自信を持っていると見える。

 しかしそのような所作に反して、デズモンドの笑みの裏には微かに苛立ちが滲んでいた。


「……君のような男でもカラパイスの力は知っているだろう。疑いようも無い、フロイスト皇国の権能だ。何をそれほどに、心配することがあるというのかね」

「――心、配?」


 不可解な言葉。そう思うと同時、キールはふと自身の頬に触れていた。そうすれば、ああ、確かに。指先に伝わってくるのは強ばった震えだ。果たしてどんな引きつった表情をしているのか。

 無意識に表れた情動。しかしキールは、その出所に心当たりがある。

 


 ――炎と黒煙に彩られた舞台。

 ――赤い世界に踊る、白い四肢。

 ――死を踏みつけ超然と立ち上がった、獣の、娘。



「――いや」


 指先が離れた顔面は、いつもの鉄面皮だ。


「何も、無い。確認されている北の民。例えばどんな連中だ」

「ふん」


 傍から見れば下手な誤摩化しであったが、わざわざ追求するほどでもない。デズモンドはカラパイスを袖の内に収めながら、石像に向けて器用に指を弾いた。

 キールが受け止めたのは、小さな小さな子瓶であった。蓋には所有者の趣味か過度の装飾が施され、しかし黒い眼は意匠などではなく、その中身に釘付けとなる。


「鱗か」


 透明な液体につけられた、深い深い、群青色の鱗だった。幾重の層が光を弾いて煌めき、まるで宝石かと見紛うほどだ。


「その鱗の持ち主こそが、貴様の追うべき敵の首領だ。種族の名は『ドラコルネ』。吐息で鉄を溶かすとかいう物騒な連中でな……いや、しかし、そこはさほど重要ではない」


 デズモンドの口調は相変わらず居丈高だが、しかし先のような無駄な誇張が無い分聞き取りやすい。要点を摘む話し方には、どこか教師めいたものがあった。


「問題は、北の旧き王の下にいた二柱のうち、『紺碧の王』もドラコルネであった、という点だ。『枝角の王』と並び、未だ行方知れずの脅威。今回の獲物は果たしてその氏族か――あるいはヤツ本人やもしれん」

「それが大盤振る舞いの理由か」

「そう。手はあればあるほどいい。足取りを掴めたのならば、それは皇国への多大な貢献となる。鱗の出所に繋がる、どんな道でも構わない。見つければ、報酬は、言い値だ」

「………」

「答えは聞けそうかね?」


 依頼に到る動機、仕事の範囲、そして褒章の条件。全てを示されて、キールは初めて机上の資料に手を触れた。過去に採集された試料とその分析を、一様に流し見る。そこにはドラコルネだけではない、その仲間であろう他の種族についても――


「ああ」


 まったく、下を向いていて良かった。

 キールは自分にも聞こえないほどに小さく息を吐き出し、努めていつも通りに、陰鬱に宣言したのだった。


「この仕事、引き受けよう」

 

 心の隅に、安堵を隠しながら。



 ……

 ………

 …………



「――と、いう話があった」



 席の向かいに腰掛けたセロンとクレアは、それぞれ奇怪な表情でキールの暴露を喰らっていた。セロンは理解しているのかいないのか府抜けた笑顔を浮かべ、クレアはぽかんと口を半開きにしている。


 デズモンドとの密会の翌日、早朝の東城塞の一室のことだった。

 クレアはすぐに頭を振るって我を取り戻し、眼光鋭くキールを睨め付ける。


「どういうおつもりですか」

「あんたたちの敵にはなりたくない、ということだ」


 キールは疲れの消えない身体を椅子に投げ出すようにして、クレアの敵愾心を受け止める。


「元々は『神代の獣』関連で、稼ぎのいい仕事があると紹介されたんだ。まさか北の民なんて無茶を言われるとは」

「あの子のことは――」

「口にしていない。一切、だ」


 男は勢いよく身を乗り出し、その眼光でまっすぐクレアを突き刺す。強まった語調は、言葉に説得力を持たせたいと無意識だろうか。


「言えるはずが無い。運がいいのか悪いのか、俺はあの娘のことを知って……知っているからだ。いくら積まれても割に合わない相手だと」


 未だキールの脳裏には、レナーシアと対峙した連中の末路が焼きついている。デズモンドに情報を売り渡すにはリスクが大きすぎると、当然の判断だった。

 クレアはしかし、もっと根本からの疑問をぶつける。


「それでも、です。何も見ず聞かなかったことにして、早々に国を出るのが懸命だったと思いますが」

「俺もそう思う。しかしあの襲撃で荷が炎に巻かれてな。路銀無しじゃあ故郷へ逃げ帰ることもできやしない。道中でのたれ死にだ」


 東城塞でのこと、キールは襲撃から逃げ出す最中、重荷となる旅の荷を捨てていた。結果こうして生き残ったものの、皮肉なことに今となってしわ寄せが来たのだ。


「ついでに皇国からすれば、俺は情報を漏らしかねない先鋒になった。断れば、どうなるかは目に見えていた」

「だからここへ来たということですか。仕事を完遂し、報酬を受け取って無事に東へ帰る。そのために私たちの協力が欲しい…………いえ、私たちではありませんね」


 誤魔化しは許さぬとレンズの奥に構えられた瞳を、キールは変わらぬ鉄面皮で受け止めた。


「ああ、そうだ。あの娘、レナーシアの手を借りたい」

「っ……」


 クレアにとっては容易に予想できた言葉だ。しかし率直過ぎる男の回答は一歩先を行く。

 なぜならキールには誤魔化す理由が無い。ここには至極真っ当に「仕事」の話をしに来たのだから。


「幸い俺が見た物証に、あの娘に繋がるものは無かった。フロイストが追っているのは別の連中だ。だったら国を好きに飛び回ってるらしいあの娘だ。何かしら情報を持っているかもしれない。そうでなくとも、頼もしい捜索の力になってくれる」

「………」


 立て板に水。滔滔と流れる男の言葉に、しかしクレアは伸ばした背筋を微塵も譲らない。努めて思考を平らに均し、口元に漏れかけた「お断りします」の一言を無理やりに呑みこんだ。


(っよろしくないですね。冷静に)


 レナーシアのことともなれば、さしものクレアも冷静さを欠くことがある。特に知り合って数日という男が、実はフロイスト皇国とも繋がっていて、その上雇い主を裏切っての仕事の依頼――心情的にはノーに決まっている。

 だが現実を見るとそうもいかない。


「要求は、分かりました。ではあなたに協力して、我々、そしてあの子にどのような利益があると?」

「フロイスト側の言だと、国内にはとうに相当数、俺の同業者が入り込んでいる。ただでさえ身を隠す気が無いあの娘が『発見』されて、フロイストのリスト入りしてしまう危険は大きい。だが、俺が誰よりも早く仕事を達成することができれば、そんな事態を回避できる」


 わかるだろう。と、キールは言葉の先を、とっくに答えに達している聡明な女史に促した。


「――ええ。確かに私たちが協力し、あなたが十分な成果をフロイストに提示できれば。あの子とは関係のない別の標的が捕らわれることで、調査自体を終わらせることができる。あの子には手が伸びることもないでしょう」


 逆を言えば、キールの申し出を拒否すればそのリスクが跳ね上がる。受けざるを得ない、というのが現実だろう。


「しかし。その策に、果たしてあなたは必要でしょうか?」


 と、ここで頷かないのがクレアがクレアたる所以。ためしに意地の悪い一手を示す。


「あの子の能力一つで十二分、捜索など容易でしょう。一方であなたはあの子を知り、フロイストとも繋がる危険人物。手など組まず、今ここであなたを『どうにか』してしまって、発覚のリスクをさらに減らすのはいかがでしょうか?」

「本気で言っているわけじゃないだろう」


 キールに脅しへの恐れは見えず、むしろ呆れたように肩をすくめた。クレアが聡明であることを短い交流でも知っているが故だ。


「確かに俺抜きでも、あんたたちは北の民連中を見つけて、匿名でのリークか何かでフロイストに情報を伝えることができる。だが、それは不自然だ。不明な連中がどうしてわざわざ北の民を探し出し、フロイストに情報を伝えてきたか。ひとたびその動機を怪しまれれば、行き着くのはあんたらで、その奥にはあの娘がいる」


 悪手どころの話ではない、飛んで火に入る夏の虫。フロイスト皇国とはとにかく距離を置くに越したことは無いのだ。そのための緩衝材として――


「俺一枚挟むだけで結果は違う。依頼を受けた俺なら、北の民を探すのも、フロイストと接触することも当たり前だ。もし見つけた手段を聞かれても、企業秘密で通せる。あるいは適当な狩猟技術をでっちあげても、連中には判別がつかない。さらにフロイストの動向をあんたたちに伝えることもできるな」


 自分に他では代用できない役割がある――キールはその利点に自信があったがために、こうして敵地になりかねない東城塞へ顔を出すことができていた。


「その役割では不足か?」

「いいえ」


 クレアの問いの真意は、キールがそこまで考えを巡らせることができているかを確認する作業にすぎない。男の淀みない回答に、支障無しと判じたクレアはひとまず舌鋒を収めた。


「しかし。申し訳ありませんが、最後の決定権は私にはありません」

「もちろん。依頼する側として、本人に直接頭を下げさせてもらいたい。会う場さえ整えてくれれば十分だ」

「ええ、それとあともう一人――セロン」


 そこで初めて、クレアは傍らに矛先を向けた。先ほどから不自然にだんまりを決め込んでいる青年へと。

 キールからすれば、今のところクレアとの交渉は非常にスムーズだ。まさかこの女史が感情的にわめき散らすなどとは思ってはいないが、道理と利益のある話でも、キールという人物が信用に値するかはまた別の話。

 セロンはそれら判断も含めてクレアに任せ、わざわざ口を挟むまいと見守りに徹している――のかと思いきや、


「あの子の大事です。間違っても、私だけに任せないでくれる?」


 クレアの言葉尻には軽い怒気が混ぜられていた。どうやら本来、この話し合いには彼も参加するはずだったようだ。子の教育方針を決める父母のように。


「ああ……うん。ごめんよ」


 どうも煮え切らない反応とともに、セロンはゆったりと佇まいを直す。

 キールは表に出さずとも警戒を強めた。戦いに見た印象が強すぎるためか、青年のなんでもない動きが、まるで一種の構えのように見えてしまう。


「キールさんからの申し出は、もちろん、受けるべきだと思う。レナーシアを守るためには、キールさん自身の協力も大切だ。今については、異論はないよ」


『今について』。

 そんな布石を置き、伏せ気味の瞼に揺らいでいた碧眼が、ぴたりとキールの像を捉えた。


「でも僕は、先の話もしておきたい」

「っ」


『先』。その一言に、キールの体は強張った。

 ここまでクレアとの交渉で示された今後の道筋を、セロンは一まとめに『今』と表した。ならば彼の『先』とは、これまで話した方策が全て成功した、さらに後のこと――?


(何を言い出す?)


 東城塞での突飛な戦いと同じだ、この青年は次の行動の予想ができない。

 分かることは、利益不利益を基準にできたクレアとは違い、セロンには――澄み切ったの青色の向こうには――キールの知らない奥行きが隠されている。


「……好きになさい」


 ややの逡巡の後クレアが身を引いたのは、彼女はその清純に潜むものを知っているからだろう。

 緊張をひた隠しにするキールを、セロンは真正面から見据え、ややして唇を開いた。


「キールさん。あなたは、レナーシアの力を借りたいのですね」

「……ああ」

「直接会って、話をして、仕事をお願いしたい、と」

「そう、言っていたつもりだった」

「僕らを介することなく、お話ができますか?」

「あの娘は、別に内気でも人見知りというわけでも、ないだろう。むしろ溌剌な性格に思えた。もちろん保護者なら同衾はするべきかも――」

「っいえ、すみません、回りくどい言い方でした。あなたはレナーシアと会話が、言葉のやり取りができると、そうお考えなのですね?」

「?――分からないな」


 そう、質問の意味が判らない。さんざん目の前で、牧歌的な仲良し兄妹の会話を見せ付けてくれたではないか。


「言葉が通じることと、話ができることは別です。北の民と『話』ができる――多くの人々は、そのような捉え方をしません」


 セロンは、多く一般に当てはまらない類の人間。

 しかし同時に、世間を良く知る青年だった。


「しかもあなたは、彼女の実力をその目で見て、恐れを抱いていたはず。にもかかわらず彼女を話が出来る相手だと考える。仕事の依頼ができる、交渉ができるとすら確信した。なぜでしょうか」

「いや、なぜと言われても……」


 ――自分の行動を顧みろ、と。

 セロンからの奇怪な問いに、キールは戸惑うばかりだ。


 例えば脳裏に残る娘の姿を反芻してみれば、最初はそう、死体の上に立つ姿だ。


(ん?)


 鮮血を吸った脚があり、肉を弾いた腕があり、平静な螺旋の瞳があった。青年の元へ行くことしか頭に無く、途中の殺戮にも命のやり取りにも、何の熱も抱いていなかった。

 もはや触れることも能わない、生物としての力の差があって――


「ああ、なるほど……」


 そうだ。考えれば考えるほど、セロンの言葉の意味に気が付かされる。

 無邪気に振るわれる暴力。

 群に突っ込む躊躇いの無さ。

 自分の身体を削りながらも喰らいつく攻撃性。

 打算的な保障があって動いていたわけではない。自他の命の価値観が枠に収まっていない。

 常識を割って崩して、はみ出している。


 身体も心も、逸脱している。

 そんな存在を、世間では何と呼ぶ?


(言われてみれば、そうだ……どんな無茶だ)


 あんな『化け物』と、顔を突き合わせて会話しようとは。

 確かにセロンやクレア。確かに飼い主が一緒なら大人しいことこの上ない。

 それでも獣と同じ檻に入りたがるなど、馬鹿か物好きだけだろう。自分を容易に殺しかねない相手の目の前、手の届く場所に立つなど正気ではない。愛らしい娘の姿をしていても、一皮剥けば、そこにいるのは異形の輩。


 それを身体が理解していたからこそ、あの時、弓が構えられたのではないか?

 そう、あのときはただひたすらに――


「――怖かったな」


 これまですっかり置いていた感情を、キールは初めてぽつりと口にした。

 じっとりと体を起こしながら、掌にべたつく嫌な汗を握り締める。戦いに目にした獣の一挙手一投足を思い出す度、強まる心臓の鼓動が耳元に届く。


「本当に、怖かった」


 次は自分だと思った。あの生死に無関心な瞳が向けられると思った。

 殺されるかと思った。抵抗もできず、嬲り殺されると。

 確信があった。一度狙われれば、泣こうが叫ぼうが逃がしてくれないと。

 言葉ひとつ、躊躇う理由にはしてくれないと。



 だから?

 だったら、つまり。

 そういうことだ。



「セロン」


 見抜くような視線を向けてくる青年に、キールはふと、特段深い考えを巡らせることもなく、思いついたままの言葉を口にしていた。

 どうしてレナーシアと話ができると思ったか?


「俺がレナーシアを『怖がったから』、かもな」

「………………」


 ああ、まったく。意図の伝わる言葉ではなかっただろう。

 セロンの沈黙に促され、しかしキールは急ぐことも無く立てかけた大弓へと視線を向ける。


「狩人になって長い。あんな恐怖は、久しく感じていなかった。故郷で『神代の獣』を相手にしていても――どいつもこいつもデカくて速くて硬い、正真正銘の化け物ばかりだったけどな、恐怖なんて感じない。当たり前だ。そんな連中を狩るのが俺の生業だったんだ。俺は絶対に、絶対にだ。獣を怖がらない」


 狩人としての矜持を元に、自信を持ってキールは言い切ってみせる。


「なら俺を襲った恐ろしい連中も、ついでに助けてくれた恐ろしい娘も、どっちも神代の獣とは違うのだろうさ。獣じゃないなら、人間だ。強くて怖いが人間だ。なら頑張れば言葉も通じるだろう。つまり、まあ――そういうことになる」


「………」

「………」


 セロンとクレアは顔を見合わせる。

 なんとも煮え切らない答え合わせ。狩人だからという個人的な理由付けを、結論ありきで無理やりに因果関係を繋いで、これが試験なら赤点は不可避だろう。


「だから……頼むから難しいことを聞かないでくれ。俺にわかるのは、それだけだ」


 そして歯噛みするばかりのキールも理解などしておらず、説得力が無いことも分かっているのだろう。


(だったら、どうして)


 クレアは目の前に、愚鈍のうちに生まれた一つの異物を見ていた。

 どうしてキールはそんな暴論で、たどり着くことができたのか。

 そうだ。歴史的に見れば、学術的に学べば、北の民は化け物でも獣でもない。

 ただ『文化形態の異なる人類である』という事実に。


 誰もがセロンやクレアのように、正しい師の下、学びの機会に恵まれるわけではない。

 北の民とは、人の姿を偽り、不明な言語を操って、南の土地を脅かす化け物の類――世の中にそんな誤った認識が広がって、どれほどになるか。


「………?」


 黙りこくる若者二人を怪訝に伺うキールは、確かに無学な男だろう。

 だがその学の無さは――誤解を抱くための先入観すら持てないほどだ。遥か東ウラルのその向こう、深い深い山奥では、南の「常識」に染まることがない。


「キールさん」

「っ!」


 キールが思わず後ずさったのは、セロンがあくまで静やかに、しかし双眸を青々と煌かせていたためだ。青年が纏う空気は先までとは違い、明らかに浮き足立っている。


「少々不躾なお話になりますが、単刀直入にお伝えしたいことがあります」

「っセロン……!」


 クレアの狼狽を、しかしセロンは持ち上げた手で制する。

 キールもまた細い双眸をさらに深く刻んで身構えた。クレアが思わず留めかけた言葉は、きっとレナーシアとの秘密に関係する。一体何を明らかにしようというのか。


「レナーシアの存在を知ったのは、実のところあなたが初めてではありません。これまでも何度か、偶然の重なりで、僕たちと関わることになった人がいました」


 祝祭でクレアも口にしていたはずだ。これまで何度も姿を見られてきたのだと。

 そのたび与太話として処理されてきた。騒ぎ立てさえしなければ、危険など無かった。


「――そのうち、今も生きている方は、一人としておりません」


 そう。あくまで、騒ぎ立てなければの話だ。


『――もう、死体は御免です』

 女史の呟きに垣間見える愚者の末路。

 彼らを死体へと変えたのは何なのか。


「レナーシア自身の手にかかったのは三名。原因不明の事故や事件に巻き込まれたのは五名。他は行方不明という扱いですが、恐らく」

「……ふん」


 だが神妙な顔つきのセロンに対し、キールには別段の驚きもなかった。秘密と立ち位置を守るために、相応の対価は必要なものだと知っていたからだ。


 一方、キールは気が付いていない。自身に不都合な事実すら受け入れ、尚且つ不動であり続けるなど、当たり前にできて良いことではない。

 そんな男の市井と乖離した価値観を――セロンは目ざとく見逃さなかった。


「っこれまでは……パニックに陥り逃げ出した人。恐慌とともに刃を手にした人。街中での演説を目論む、あるいは国の外へ報せようとした人。あるいは、レナーシア本人を国の外へ連れ去ろうとした人もありました。しかしあなたは――レナーシアを知って、知った上で、僕らの前で、彼女と『話をしたい』なんて言ってくれたのは、あなたが初めてなんです……っ」


 セロンは一時、言葉を絶って頭を振るう。かつて目にした光景を払うように。

 絶叫と共に、二度と出られない地下迷宮に消えた背中を。

 折れたナイフを呆然と見つめた、生首を。

 口から泡を吹き出して絶命した、紫色の顔を。

 最期に見たきり行方も知れない、幾人の姿を。


「これまでこれまで一つも上手くいったことはありませんでした。あなたも、これ以上僕たちには関わらないほうがいいのでしょう。一時の利益にまかせて触れるには、不安定で、あまりに危険なのです。だから今回のお話も、そう、断るべきかと考えて、おりました」


 ぐ、とセロンは改めて真正面を、キールを見据える。


「しかし今、結論が出ました。あなたを拒否するのは、もったいない」

「もったい、ない?」


 どこまでも澄んで真っすぐなセロンの瞳を受けて、キールは思わず言葉を反芻してしまう。

 そして気が付かされた。決心に見開かれた青には、読み取れない奥行きなど無かったのだ。ただ見ている向きが逆だっただけだ。


 キールにレナーシアを与えるか、ではない。

 レナーシアにキールが必要か否か。


「そう。あなたは……レナーシアの友人に、なってくれるかもしれない」


 ――あの子の友達になってほしい

 青年が考えていたのは最初から、可愛い妹分の友人関係でしかなかった。




 だが、しかし。


「困ることを……言ってくれるな」


 どんな純真な願いでも、受け取る側は苦々しく噛み締めるばかりだ。

 キールの伏せられた顔落ちる影には、不安、緊張、そしてまた別の形の恐怖が乗っていた。


「俺からしてみれば友人とかお友達だとか、そんな話じゃあ済まない。あんただって分かっているから、回りくどい質問から始めたんだろう」

「ええ、失礼ながら。でも僕はこの機会を、本当に逃したくなかった」


 キールが求めたのはあくまで一時の協力関係だった。全部済ませれば無かったことになる。仕事を終えれば解消される。国を脱すれば交流はそれきりだ。

 だがセロンはキールに、獣の娘の身内になることを――彼らと同等の秘密の担い手になることを求めてきたのだ。



 ――覚悟してください

 ――一度関われば、踏み込めば、もう無関係ではいられません



「かまわない」

「っ!」


 だからこそ淡白なキールの返答に、セロンは目を丸くした。

 しかしキールからすれば、今更決める覚悟もなかったのだ。仕事の達成のため、フロイストとの繋がりを暴露しようなどという時点で、とうに腹は据わっている。


「でもな、別に特別なことはしないぞ。あの娘とのやり取りに、いちいちあんたたちを介すことをしないだけだ。直接言葉を交わして、できるだけ行動も共にしよう。それで、いいだろう?」

「ええ、ええ!ありがとうございます」


 捉えようによってはやる気の無い宣言だが、しかしセロンは相好を崩して頷いた。

 友人関係など築こうと思って上手くいくものでもない。セロンが抱く想いと、レナーシアがキールを受け入れるかは、また別の話なのだから。


「流れに任せよう。なるようになればよし、ならなければ、仕方がないな……あの娘、年はいくつになる」

「十二歳です。もっと綺麗になりますよ。楽しみですねえ」

「それは子煩悩か?しかし、若い。こっちはもう二十も半ばになる、話が通じるかも怪しいな」

「大丈夫ですよ。こうしてお話してる僕もまだ十七。クレアも一つしか違いませんからね」

「あんたらは十代の貫禄じゃあねえな」


 合意に緊張もほぐれたのか、セロンは朗らかに、キールはぶっきらぼうに言葉を交す。

 だがもちろん、こんなしょうもない会話は、男二人が示し合わせて間を持たせるためのものだ。

 残された一人が、次の言葉を決めるまでの。


「――私、たちが」


 やがてキールは、呟きのような声を拾う。

 なんとか届くかというほど絞られたクレアの言葉は、伏せきった頭からも好ましい心情は抱いていないことは知れた。縮こまった背にセロンが優しく手を添えると、ぽつぽつと声が漏れ出した。


「私たちだけで、十分でしょう」

「クレア」

「デメリットが、大きすぎます。顔を合わせない関係なら、まだしも。私たちと同じ覚悟か……フロイストも動いているのに……」


 ぶつぶつとうわ言のように、否定の言葉が並べられる。

 クレアも分かってはいるのだ。この場に先行き良い未来だけを見ているような愚か者はいない。キールもセロンも、問題と危険を並べた上で今後を語っている。


「クレア、僕は」

「だって、分かっているでしょう?失敗したら、また――」


 それでもクレアが容易に踏み出さないのは、「また」訪れかねない、一人の男の末路を想像してか。

 あるいは多大な犠牲を生みながら守ってきた日々が、壊れてしまうことを恐れているのか。


「私たちだけなら、これまで通り問題なく――」

「うん。変わらずにいられるよ」

「だったら……!」

「でも、ダメなんだ。僕らだけじゃ、足りない」

「っそんな、ことは」

「だって、僕らはまだ城壁の中しか知らない。あの子に教えられることなんて、本で読んだことばかり。でもこの人は違う。僕らの知らないことを、クレヴァシアに無いものを知っている。レナーシアにはきっと、必要な人だ」


 人前に、公の場に出られない。誰に話しかけられることも、触れ合うこともない。いくら楽しく幸せに満ちた日々でも、今のレナーシアには、外と交わりがたったの二人しかいない。

 縛られてなくとも、繋がれてなくとも、そんな環境は檻の中にいるも同じではないか。


「レナーシアに、できるだけの未来を見せてあげなくちゃ。僕らは、きっとそのためにいるんだよ」


 友達は多い方がいい。

 それ自体は子供じみた道理でも、確かに世界にあまねく成長は、常に多くと触れ合うものだ。


「っ―――……ぅ―――……」


 だが関わるものが多くなるほど、綻びも増えてゆく。クレアもかつて、綻びの一因になりかけたことがある一人なのだ。

 それは娘の手ではなく、密告の文書を取った汚点。

 今では妹のように愛するようになった子に、関わる大事。


「――キール、さん」


 しかし、だからこそだ。


「あの子を。よろしくお願い、します」


 真に想っているからこそ、クレアは小さく頭を下げたのだった。

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