探し物は、そこに
白磁で組まれた墓所の底、瓦礫の山の中で、艶やかな金属の門扉には傷一つ無かった。
「………」
訪問者を乾いた空気が出迎える。床面の大理石には雲に似た模様が渦巻き、黒曜石の天蓋には光彩がチラチラと瞬いて、夜空の星屑のようだ。
キールはかつて祖父アントラーと登った霊峰を思い返す。雲より高い空の下、澄み切った空気を。地下深くに秘められた安置所は、まさにそんな天空の再現だった。
ならば部屋の中央に置かれた棺も、きっと極上の寝床であろう。北の旧き王はクレヴァシアの宿敵だが、その埋葬はただ安らかに眠れと、弔いの気遣いに満ちていた。足を踏み入れるのが躊躇われるほど、静かに、穏やかに。
キールは乾いた口腔に、ありもしない唾液を無理矢理に飲み込んだ。
「レナーシア。あっちの状況は、分かるか」
「数がすごく減ってる」
「時間をかけすぎた」
キールは意を決して踏み込んだ。粗末な布で吊った右腕を揺らして、ずるずると足を引きずるように。
追随するレナーシアの足取りは慎ましく、静けさを乱さないような無意識の配慮があった。セロンが待っているというのに、静謐な空気が逸る気持ちを宥めすかす。
やがてキールは棺の元に立ち、息を呑む。
棺に蓋は無く、儚い青色の花が敷き詰められた中に、長身の男性が横たわっていた。痩せ細った身体。色素の抜けた髪。まだ死からさほど時間の経っていない、亡骸だった。
しかし、その姿はどう見ても南の民で――
「ラウルだよ」
言葉無き疑問に応えたのは、傍らのレナーシアだった。
「ここの王様、だった人」
「っ……」
結局生前の姿を見ることは無かった、南の英雄。確かに纏う蒼の死に装束は、重厚で気品高さを感じさせる。
「いや、でもなぜ、こんな場所に」
まさかここまで来て――北の王の墓ではなかったのか、とんだ思い違いだったのか。根本が揺らぎ、ぐらついた視線が王の胸元に吸い込まれて、
「……はっ」
乾いた笑いが、吐息と共に漏れ出したのだった。
骨と皮だけの腕に抱えられた、雲より白い、オカリナを見つけて。
キールは震える指で、出来うる限り丁寧に死者の手を退けて、遺物を手に取った。空気のように軽く、手触りはまるで布のようで、そして陶器のように冷たい。
「じいさんの、言った通りだ」
見間違えようも無いアントラーが語ったその品は、旧王の魂を閉じ込める器――偽りの肉体――一つのカラパイスだった。
はるばる追い求めてきた品をようやく手にし、キールの言葉は跳ねていたはずだ。抑揚無くとも、表情一つ変わらなくとも、達成感に溢れていただろう。
「………」
そんな狩人を尻目に、レナーシアはただじっと亡骸を眺めていた。
螺旋の瞳に煌めきは無く、ゆっくりと蠢く虹彩が死者の姿を焼き付ける。霞のように遠くなってしまった過去に、「クレヴァシアの王」以外の、あるいは「かつての主」以外の、もっと覚えておかなければならなかったはずの、彼を探していた。
「――――シア。――――レナ―――」
それともやはり、そんなものは最初から、無かったのだろう、か。
「レナーシア!」
頭の後ろで、白銀の帯がパチンと跳ねた。
「っあ、えっ?」
ようやく頭を上げたレナーシアに、困惑を映した漆黒の瞳が向けられる。
「やっぱり、限界か?」
眉根が歪んだキールの声はただ心配一色だ。決してレナーシアの心身の仕組みを知るわけではなかったが、人ならば何百回と死ぬ傷を受けて万全だとは思えない。
「えと、違うの。ちょっと、考えてて――」
「……無理をさせるが、まだ仕事は残っている。むしろここからが本番だ」
「っ大丈夫!」
娘は感傷を振り切って、健気に力強く漆黒を見返した。気を抜くはずも無い。デズモンドという大きすぎた障害も、入り口でしかなかったのだから。
キールは腰を落としレナーシアと目線の高さを合わせる。華奢な肩を気付けのように掴み、一言一言を噛み締めるように。
「レナーシア。お前は先にセロンの元へ行け」
「っじゃあ、それが?」
「そう、これが器だ。中に旧王の魂が詰まっているはずの。だが……」
光彩の明滅の中、暗室を見回しても、棺の他にはめぼしいものは目に付かない。
「……遺骸が見当たらない。こいつを壊せば光彩の奔流は起こるが、魂は元の身体に引っ張られる。敵を巻き込めるか不安だ」
ズズン……と、部屋の外から大きな崩落音が届いた。部屋の外でもうもうと白煙が湧き上がり、壁でも崩れ落ちたのだろうか。大蛇が暴れたこの墓所も、あとどれほど保つことか。
「ああくそ。不安だが時間も怖い。セロンが死ねば水の泡だ。遺骸は俺が探す。お前は一旦、あっちを助けに行け」
「わかった」
レナーシアの間髪入れない了承は、肩を握る男を信頼するが故だ。
「いいかレナーシア、ここからが正念場だ。北にも南にも傾かず、現場で状況を見て、自分自身で判断し、行動するんだ。そのカラパイスがあれば動きやすい……なあ、あんた。名前も知らんが分かってるな。後は、頼んだぞ」
キールが声を掛けたのはもう一人の保護者だ。ガチン!と、白銀の火花で応えた相棒も、また頼もしい。
「レナーシア。どんなことになっても、何が――何が起こってもだ、身を呈して大事な奴だけ守り続けろ。それだけ、それだけでいい。セロンと合流したら吠えるんだ。あの咆哮なら、どこからでも俺には分かる。そうすれば――俺もまた、頑張れる」
かつて男の心を切り刻んだ音の刃を、今や二人だけの合図して。キールが微かに見せたのは、娘にとってたいそう頼もしい大人の笑みだった。
「お前ならできる。後は、俺に任せろ」
「お願い」
「こちらこそ」
それだけの言葉を最後に、互いに背を向ける。
決められた役割のために二人は行く先を違え、あとはひたすらに進むだけだった。レナーシアにとってキールの言葉は、もはや悩むようなものでは無い。
ただの一度も眼を逸らさなかった奇妙な狩人。森の奥でのじゃれあいも、猟犬のごとき追跡劇も、遠い昔のように感じる。唇に矢の感触を思い返しながら、レナーシアは真っすぐに前を見据えた。
バチンと白帯が弾け、白銀が身を取り巻く。娘に翼を与えるために。
レナーシアの瞳は爛と輝き、螺旋は止めどなく渦巻く。
影とはしばしの別れ。大切で愛しい、あの光を探しに行かなければ。
今の自分ならば、彼の背を守ることも、できるはずだから。
セロン待ってて、今――――!
――――足が、止まる。
進む先には死体が一つ転がっていた。ボロボロの制服も、ぼさぼさの薄紫の髪も、虚ろに空に投げられた視線も、もう二度と動かない。
彼は墓所を散々に傷つけながら戦っていた。壊して抉り、崩して弾いて。
その結果が先の崩落音だったのだろう。死体の後ろで大きく崩れた壁面は、一人の騎士の必死の戦いの象徴だった。
こんな年端も行かない小娘一人に、全力を傾けてくれた。
そんなデズモンドに、レナーシアは感謝する。
心の底から、感謝する。
真実をありがとうと。
「そっか」
つ、とキールに振り返ったレナーシアは、
「それも嘘なんだね、キール」
――まったく笑ってはいなかった。
(……くそ)
男もまた、天空の棺の隣で目にしたのだ。
無機質に立ち塞がる獣の向こう、墓所の分厚い壁の中、幾重の白磁の石の奥。
(そんなとこに、仕舞ってんじゃねえよ)
ぽっかりと空いた大穴に、巨大な眼が露になっていた。
ざらつき逆立った剛毛、ひび割れた表皮。埋め込まれるようにずらりと並んだ、数十の濁った瞳。開ききった螺旋の虹彩は、娘のものとよく似ていた。
『北の旧き王』
墓所の壁に詰め込まれ納められた、数百メートルの巨大な遺骸が、十五年ぶりに白日に晒されていた。
「確か、そうだったよね」
レナーシアがコツリ……と踏み出す。
「遺骸を敵の真ん中に、って。そこで解放する、って」
ギリギリギリと、聞き慣れた引き絞るような音が、開けた空虚に反響する。
「でも、知ってたはずだよ」
「キールは知ってたはず。こんなにおおきい、って」
アントラーが王の側近だったならば、その正体も知れただろう。必ずキールにも伝えてはずだ、主君の真の姿を、形を。
『――呵々大笑しながら戦場を掛ける美丈夫。巨獣を自在に操り、地を裂き天を割る――』
ああ、確かに伝えていた。美丈夫、巨獣。どちらが本人だったのかも。
持ち運べるような、ものでは無かったのだ。
初めから、破綻していた。
「――――――」
男の左腕が、鍵となるオカリナを収めた拳が、制止するように持ち上がる。
「………………」
だがレナーシアが歩みを止めたのは、そんな貧弱な腕のためではない。男の表情を目にしてのことだ。
苦痛、焦燥、そして後悔。それはそれはたいそう人間らしい豊かな感情だった。
「来るな、それ以上」
誤摩化しも欠いた言葉は、もはや苦し紛れの懇願となる。
「こっちは、ガキの来る場所じゃない」
「あ、そ」
しかしレナーシアは聞く耳どころか、言葉すら絶って再び踏み出す。
元より冗長な会話は好みではない。理解できないおしゃべりに耐えられるほど理性的でもない。もはや死者への遠慮も消えて肩で風を切りながら、カツカツとキールに歩み寄る。
頭の後ろでガチャガチャと煩いのは「わかっていた」もう一人のウソツキだ。男と同じく引き止めようとするズルい大人を、レナーシアは無造作に解いて投げ捨てる。ガシャンと放り出された白銀の帯はそれきり沈黙した。
纏まりを失い肩まで垂れた黒髪は自在に蠢き逆立って、その奥で平静に光る純白と妙に対照的だった。
「踏み込むんじゃねえ!!」
男の叫びは、殻を割ってくれたときとは雲泥の差だった。子どもを怒声で制御しようという愚かな行為。見当違いだ、獣が相手ではなおさらに。
ならばそれを知って尚、どうして臆面も無く叫んでしまうのか。
「言っただろうが!行けよ!」
「行かない」
「会いたいはずだろ!」
「うん、会いたい」
「セロンも、クレアも、お前を待ってる!」
「たぶんね」
「今ならまだ、お前は――」
「私は?」
「お前は、被害者でいられるんだ」
「もう遅いよ」
結局、制止は最後まで届かなかった。説得の壁は容易く破られて、白い掌が男の頬を優しく包む。
「気がついちゃったら、おしまい。嘘も、おしまい。だからね――」
静かな呟きを受けて、小さく頭を振るう男の表情は、今にも泣き出しそうに歪んでいた。
「私が、やるよ」




