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想いは純粋なれど  作者: 宿屋
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北風の旅人


「――――が……ぎっ!?」


 おそらく、墓所の最下層。崩れ落ちた柱を背にして気絶していたのだろう。キールは意識を取り戻した瞬間、右手の激痛に悶絶した。


「づ、あああああ……!」


 見れば細身の剣が掌に突き刺さり、あろうことか瓦礫に縫い止めているではないか。声を出しても堪えても、歯を食いしばっても喘いでも、刺すような痛みに変わりはなく、脂汗が止まらない。


「くっ、ふっ……ぎっ――!」


 カラパイスのものではない銀色は、曇りない刀身に嫌味のようにキールの顔を映しこむ。どれほど深く刺さっているのだろう、びくともせず、指先をうねらせることしかできない。思わず伸ばした左手に、大弓が未だに固定されていることだけが僥倖だった。


(矢で。いや、数が!)


 何本失われたか。勘定が正しければ矢筒の中身は、二本――いや一つ?

 しかもアントラーの矢は刀身を消してくれるわけではない。癒したところで、直後に再び裂かれるだけだ。

 治癒を封じる手法はまさにデズモンドの狙い通りで――


「……あ?」


 そう、そうだ、デズモンドはどうした?戦いは?

 と、意識がようやく痛みから離れたときだった。バチン!と遥か上空で破裂音が轟き、キールの身体に、白い塊が叩き付けられたのだった。


「――――レ」


 いや、そのふんわりとした挙動は、落ちて来たとは言いがたい。

 軽い。あまりに軽い。何十分の一、何百分の一か。


 肌の表層は弛み、羽毛のように空気に乗って遊んでいる。曖昧な輪郭線は幻のように心もとない。極細の糸くずを、くしゃくしゃ丸めて作った人形。大半が空気に置き換わって、西の街で実感した重さが影も無かった。


「レナー、シア」


 くったりと動かない娘の身体を、弓ごと胸に抱えるように持ち上げる。腕に伝わる感触はまるで薄めた綿のようで、右手の激痛も、その惨状を前に霞んでしまっていた。

 娘には元より、心音も呼吸も血流もない。故に生きている死んでいるのかもキールには知り得なかった。


「おい、レナーシア……おい」


 できることはただ耳元で名を呼ぶことだけだ。守るように、縋るように。



 しかしそれすら許されない。

 ダン、と紫色の鎧が地を踏んだ。



「おはようキール君。よく眠れたかね?」


 デズモンド=アングィス。

 第三師団長。

 カラパイス兵団の、頂点の一角。


 紫色の外殻はあちこちに傷を残すものの、優雅な足取りは鎧の中身がまったくの健在であることを知らしめた。蛇腹を鎧の内に納め、放置していた愛用の直剣を弄ぶ様には、精神的な余裕も十分。

 元より無茶だった方策は、当然の結末として、絶望的な状況に終わっていた。


「……ああ」


 それでも未だ、諦めはつかない。陰鬱な視線に未だ萎えぬ意志を隠して、キールは蛇を睨め付ける。

 一撃必殺の矢は健在。必要なのは状況の変化。ならば、時間を作るのみ。


「大人げないな、デズモンド。それとも、幼い娘を嬲るのが趣味か」

「その娘を利用している者の言葉かね。さて、聞きたいことがある」


 正直に素直に答えた分だけ、寿命が伸びる。単純な話だ。腕に走る痛みもどこか麻痺してしまったのだろうか。荒い息と絶え間ない汗でなんとか耐えうるものになっており、キールは余裕ぶって肩をすくめてみせる。


「好きにしろ」

「君の背後にいるのは、枝角の王こと、アントラー=カームルートで違いないかね?」


 デズモンドの口調は軽く、どこか親愛じみてすらいた。憎悪も怒りも臨界点を越えて、残ったのは乾き冷えた殺意だ。


「そうだ」

「素直で助かるよ。では、枝角の王はどこに?」

「死んだよ。土に還った」


 デズモンドは兜の奥で目を細める。彼の認識ではカームルートもまた、この度のクレヴァシア襲撃の首魁だったのだ。まさかあっけなく死亡を明かされるとは。


「では、他の仲間は」

「いない。俺一人だ。もう感付いてるだろう」

「……北の軍勢との協力も?」

「一切ない。むしろ連中のせいでこんな状況だ。クソッたれ」

「よくもまあ、やるものだ」


 呆れに嘆息も漏れるというもの。キール自身も、急すぎる事態に振り回されたのだと知れたのだ。たったの二人で挑んできたこと自体、北の一味ではない証明になる。

 ならばとデズモンドは、掌で転がしていた黒い矢尻を示して見せる。キールが放ったいずれかを回収したものであろう。


「たいそう有名な品だ。どう作った?」

「枝角の王に渡された結晶塊を、割り削った。そもそもの出所は知らない」

「ほう?」

「手駒に教えるような情報じゃあなかったのだろうさ」


 人の口に戸は立てられず、かけられた鍵も開くのは容易い。重要なものほど狭く留め置くのが、情報の賢い扱い方だ。キールという人物が、カラパイスに対抗する兵器の情報にふさわしいかと問われれば――。


 デズモンドは鼻で笑って、矢尻を握りしめる。実物だけで十分な収穫だ、と。


「結構。では短い付き合いだったな、キール君」

「……こいつについては、何も聞かないんだな」


 キールは心底意外そうに、小さく眉を動かしてみせた。自分などよりレナーシアの方が謎の塊だろうに。

 ――と考えて、そもそもレナーシアの抱く奇妙な背景を、デズモンドが与り知らないことに気がついた。北から連れて来た協力者程度としか認識していないのだろう。

 しかしその逸った問いが成果を上げる。


「それについては、なに、後で直接本人に尋ねることにしよう」

「――……」


 キールは心中で密かに嗤う。欲しかった一言、レナーシアの生存の証明だ。

 そうと分かれば、あとはとにかく時間だ。一秒でも長い引き延ばしを。

 使えるものは全て出し切って。


「あー……その結晶の起源だ」

「ん?」

「教える代わりに、こいつは見逃しちゃくれないか?」


 ド、とキールの右肩に直剣が突き刺さった。


「―――――――――――――――――――!!!」


 掠れた喉に、絶叫も音にならない。

 軽い所作で剣を投擲したデズモンドは、苦い顔で額を押さえていた。


「ああ、しまった、つい」


 悶えるキールを気にも留めず、やれやれと頭を振るう。


「勘弁してくれたまえ。止め用のものが無くなってしまったではないか。……と、まぁ、これでもよいか」


 そう呟いて拾い上げたのは、何の変哲も無い瓦礫だった。掌サイズの石ころでも、強化した膂力をもってすれば人の頭など簡単に潰せる。


「フロイストの法には三ヶ条というものがあってだね、カラパイスは南の民に向けてはいかんのだ。君が当てはまるかは、疑問が残るが。で、だ。知っていることがあればとっとと話したまえ。これでも我慢を重ねているのだよ」


 手慰みに瓦礫を放り受け止める裏で、デズモンドの視線は冷ややかだった。

 彼は決して嗜虐的な性格ではない。本来敵は一刀で切り伏せを信条とし、傷を与えて苦しませる趣味も無い。ただ情報を引き出して、早々に終わらせたいのだ。


「君が手にかけた彼らは、皆優秀で、いい子だったよ」


 とっくに凝り固まってしまった、感情の処理も含めて。


「――――っ、が―――あれは」


 口を止めれば、その瞬間に殺される。流れ出る鮮血に意識を薄めながらも、キールはなんとか言葉をひねり出す。


「あれは、鉱石じゃあ、ない。なあ、あんた。森の民の『血』ぃ、知ってるか?」

「血?」

「『樹液』、だよ」


 呼吸は荒く言葉も途切れ途切れで、それは果たして真に痛みからの喘ぎか、それとも更なる時間稼ぎの目論みなのか。どちらにせよ、デズモンドは静かにキールの言葉を聞いていた。


「樹液はなぁ、石になる。見たことは、きっとある、だろう。『琥珀』っつう、黄色い石だ」


 デズモンドの眉が疑念に傾く。装飾に使われることも多い鉱石だ、が、地の下から出土するものであって、樹から取れるものではない。消えかけの意識に寝言でも吐いているのか。


「嘘か、どうかは、聞くなよ。受け売りだ。本人からの」


 脂汗でべたつく頬が、くしゃりと歪んだ。何かを馬鹿にするように。


「森の民の樹液はなぁ、黒いんだ」


 キールの嗤いの矛先は、キール自身。



「アントラーの死体から、心臓を抜き取った。大きな真っ黒の、琥珀だよ」



 角を折り削った――弓。

 髪の毛と皮を編み込んだ――外套。

 爪を加工した――大鉈。


 心臓を砕いた――矢尻。



 狩人は死を纏っていた。

 女史が本能的に感じ取り、獣が匂いに気が付くほど、色濃く、暗く。


「――おぞましい」


 デズモンドは壮齢の瞼の奥で、不快感を隠さない。


「北の異人らしい。なんたる野蛮か」


 死体を裂き、解体して、中身を取り出す。砕いて加工し、使える部分は全て使う。確かにそれは狩猟者としてあるべき姿だ。

 しかし手がけるものが獣でなくなれば、もはやただの狂人であろうと。


「アンタが……」


 しかしその異常者は、他でもないデズモンドにも同じ嘲りを向けるのだ。


「アンタがそれを言うのか?」


 ギシ……と、はっきり空気が軋んだ。剣士のまなじりが、じっくりと細く、狩人を睨みつける。

 瓦礫で遊んでいた腕もまた、いつの間にか動きを止めて垂れ下がっていた。


「最終兵器と嘯いて、魔法の鎧におんぶに抱っこ。皮肉なもんだ。お笑い草だ。北の民を倒すのに、北の民が必要(・・・・・・)だって?なぁ、カラパイスの団長さん――」


 ぶつりと、傷が広がるのも躊躇わず、キールは大きく身を乗り出した。血を吐き捨てるように、唾を吐きかけるように、ドロドロの汚濁を見せつけた。




「――この娘も、鎧にするか?」

 ――テメエらも俺と同じだろう――




「     。」


 瓦礫が握りつぶされて、放たれたのは問答無用の一撃だった。撃ち出された蛇腹の先端は常人に躱せるものではなく、刹那にキールの眉間へ達し――


「――――――――っぷぅ」


 がっちりと、レナーシアに掴み取られたのだった。


「あぶなぁい」

「は……あ……」


 それきりがくり、と男の身体から力が抜けて、娘を支えていた腕もまた落ちる。脱力し浅くなった呼吸を背にして、純白の瞳がギラリと光った。

 対するデズモンドの目元には影が落ち、暗く暗く窪んでいる。


「邪魔をするな小娘」

「無視すんなおじさん」


 ぱきり、と掴み取られた刃が砕ける。


「あなたの相手は私、でしょ?」

「とっくに決した。敗者は敗者らしく、転がっているがいい」


 ガッ。蛇腹が薄い胸に突き刺さり、レナーシアの身体が跳ねる。


「壁が崩れ、時代が終わる。再び戦乱がやってくる。新しいカラパイスが必要だ」


 ガガッ。腹と喉が抉られる。


「より優秀で、より強大な鎧が。陛下と、その子らを、民を守るために」


 かくんと落ちた小さな頭はに、乾いた黒髪が跳ねて顔を隠した。


「お前はきっと、最高の鎧になるだろう」




 死体から漏れだす光彩――魂。

 別の器に流し込み、死にながらにして生き長らえる。

 残された記憶の残滓は、かつての血肉を求めるのだ。

 懐かしむように、夢見るように、再現する。

 鎧として、死体は兵器に生まれ変わる。


 甲殻(カラパイス)




「そっ、か」

「っ…」


 デズモンドの腕がビタリと止まる。突然、蛇腹が引き抜けなくなったのだ。ギリギリギリギリと、娘の身体に締め付けられて。

 かくりと傾いた娘の頭は、ぼさぼさの髪の毛に隠れて読み取れない。


「ずうっと、そんなことしてたのね。殺して武器にして、また殺して」



 そう、最初の争いは南で起こった。土地と資源を巡る争乱に、魔法の鎧はおおいに役立った。

 そして誰もが鎧の材料を求めて、北へ、北へ、北へ。そんな愚行はやがて臨界を越える。

 北の怒りに抗するため、また鎧が必要になった。狩りのための狩り。主義も道理も足蹴にして、その闘争に終わりは無い。



「あなたたちが――」


 娘にとってはたいそうどうでもよいことだ。大樹の葉が、拭かれて落ちているだけの話だ。小石が小石同士で、遊んで砕けているだけのお話だ。勝手にしていればいいと思う。


 それでもだ。一つだけ、絶対に見過ごせないことがある。


「あなたたちが、そんなんだから――」




「あの人が、苦しむんだ」


(っ―――――!?)


 瞬間、ギシリ……とデズモンドの身体が固まった。


(なんだ)


 何も無い、何もされてはいない。

 だがどうしてだ、全身が強ばって動かない。剣を引けない、瞬きができない。

 まるで蛇に睨まれた蛙のように。獣に睨まれた、蛇のように。


(づっ!)



 いや、何かがいる(・・・・・)!!



 確かに、首筋に這ったのを感じた!視線が背筋を舐めて、耳元に生温かい吐息を。ねっとりとした不快な感触が全身に!


(っ何だ、これは。何をした。何をされた!?)


 ぐったりとした小娘は変わらず消えかけの人形だ。動かしたのもその唇だけだった。

 カラパイスは何の異常も発さず、焦燥に駆られて周りを見渡しても、光も音も何にも示さない。


(っだが囲まれている!大きい、隙が無い……!)


 墓所を満たす光彩の嵐か?空気に何かが混ぜ込まれているのか?

 いや、もっと生々しい。巨大な口の中で、舌に絡み取られている。食まれて呑まれかけている。もう腹の内にいるかのように、「墓所全域」がドクドクと脈打っている!



 拍動の根元、髪の毛が落ちて露になった娘の目元から、白が覗く。

 睨めあげてくる濁った白が、見開かれた螺旋が、なぜか異様に大きく見えた。

 まるで遥かに大きな存在が、娘を通じてデズモンドを見つけてしまったように――




 ドクン!!!と、ソレは、「壁の向こう」で、一際大きく波打った。


『――喰われる――』



「っ―――――!?」


 長く忘れていた感情が蘇る。


「貴、様ァ!」


 突き刺した蛇腹を大きく振るって、デズモンドは小さな肢体を投げ上げた。娘は容易く宙へと放られ、くるくると力なく天高くに達する。

 そのような消えかけが、今更何をしてくると?

 だが確かに剣を振るうと同時、おぞましい外圧は失われた!


「この期に及んで、そんな目をッ!」


 理解が及ばず受け止めきれない存在が、デズモンドに道を選ばせた。娘の確保も追いやっての、恐慌に駆られての行動を。


「だッ!」


 床面に叩き付けた掌から、紫色の光彩が溢れ出る。床面を引き裂いて吐き出されたのは、もはや剣も鞭も超える長さの蛇腹――蛇の大群そのものだった。

 彼らはうねり絡み合う。互いの身を削りながら、行き交い交わり弧を描く。渦となり、巻いて逆巻き巻いて逆巻き、円とする。重なり合いを天高くまで積み上げて――


「ここで残らず、粉微塵にしてくれる!」


 怖気を振り払う叫びとともに完成したのは、火花を散らす刃の竜巻、慈悲無き破砕機だった。




「………」


 レナーシアは直下に刃の嵐を見て、一目で理解した。

 これまでの攻撃の比ではない、一度呑まれればおしまいだ。抵抗も修復もできず、落ちるほど細かく細かく刻まれて、存在自体を抹消されるのだろう。はじめから、無かったかのように。


「……あは」


 しかしレナーシアは朗らかに笑う。



 なぜだろう。だれだろう。

 墓所の壁の向こう(・・・・・)で、知らない誰かが騒いでくれた。

 それを娘の仕業と思い込んで、男はこんな大仰な手を打ってきた。

 娘は思いも寄らず手に入れたのだ。僅かだが、何にも邪魔されない場所と時間を。



 そして笑う。今ならこの「二つ」を、試すことができると!!



 娘は両腕を胸元に突き刺し、中身を握り締めて引き出した。


「っキール!おじいさん、使わせてもらうね!」


 右手には、狩人からの報賞を。


「ラウル!コレもう、私のでいいね!」


 左手には、王の形見の白帯を。



――そして娘は、「三人目」にも語りかける。



「あの人はさ。受け入れちゃったよ」


 最愛の者を失って未練も無く、病も死も取り込んだ者がいた。それは仕方が無いことだと思う。命のおしまいは本人の自由だから。

 でもきっと終わりたくない人もいるはずだ。レナーシアのようにまだ消えるわけにはいかない者が。もがいて足掻いて生き汚くしがみついて、誰かのために、在り続けたいと願う人がきっといる。

 だからこそ、聞いてみよう。


「ねえ、あなたはどっち?」




 やがて、娘の姿は消える。

 小さな問いかけは嵐に呑まれて――

 ほんの一時、しん……と音が消え去って――


 直後、刃の渦がぶわりと膨み、爆ぜた。

 



 ドン!

 轟音と共に弾けた刃が降り注ぐ。四方の壁に柱に床に、無数に深く穴を穿つ。


「がッ!」


 直下の剣士も無事では済まない。自慢の刃をその身に受けて、デズモンドは訳も分からぬまま衝撃だけで吹き飛ばされていた。

 しかしどうしてか。身動きできない狩人に刃は一つとして届かずに、


「……は、はは」


 ああ、そのはずだと。キールは視界を埋める情景に力無く笑ったのだった。


 何と、幻想的な光景であろうか。刃の嵐を押し除けたのは膨大な白い煙。霞のように儚く、チラチラと細かな粒子が舞い踊る、不思議な煙だ。

 その色は、白と呼ぶには鋭く、銀と呼ぶには無味すぎる。



 そんな「白銀」のただ中に、足も着かない中空に、娘は立っていた。

 華奢な鎧を、身に纏って。



「――んっ」


 大きく反った胸に合わせて、白銀の板金が擦れ合う。滑らかな胸当ては下へ下へと層を成し、緻密に噛み合って腰までを覆い隠していた。一方大きく開かれた背中には、肌を破って飛び出す鋭い突起。まるで千切り取られた翼の名残だ。


「んんんーっ」


 高く掲げられた両の腕には白銀の帯が巻き付いて、指先に鋭い爪を成している。頑強な手甲は肘で途切れて、肩にかけては露なまま。


「――――はあぁ……」


 白銀の混ざった吐息はゆるゆると落ちて、やがて腰から下がる、分厚い装甲に纏わり付く。花弁のように四方に広がる装甲は、しかし可憐な花とはかけ離れて――暴力的。


 ――四つは、轟音と共に白銀を吐き出す、アギトのような噴出孔(スラスター)

 ――四つは、ガチガチと絶え間なく蠢いて風を切る、刃のような展開翼。



 合わせて八つの甲殻が、主を天空に持ち上げる。

 純白の瞳がぱちりと瞬いた眼前で、黒髪に巻きついた白銀の帯は、自慢げに身を翻していた。



「馬鹿、な」


 デズモンドの驚愕は、無防備に身を起こせぬほどだ。

 その色、形状、さらには天空を手中に収める権能は他でもない。太陽の試練に並び、クレヴァシアの王を英雄足らしめたカラパイス。


「『北風の旅人』!?」


 叫びへの答えとばかり。ボッ!と白銀の鎧が掻き消えて、デズモンドの真上に現れた。高々と脚を振り上げたレナーシアの姿に――


「っづ!?」


 デズモンドは咄嗟に蛇腹で身を弾き、直後背にしていた瓦礫が娘の踵に両断される。紫色の鎧は帷子を軋ませ身を捻り、すぐさま牽制として数十の蛇腹を繰り出した。しかし――


(い――)


 蛇腹が貫いたのは、残された白銀の煙だけだ。


(――ないっ!)


 轟音と共に、溶けるように消えた娘の姿。足跡のような煙の痕跡は大きく弧を描き、とうにデズモンドの背後に回り込んでいた。

 剣士は腕を全力で引き戻し、背の死角に向けて経験則の薙ぎを繰り出す。命中の手応えはあった。


(っなんだ)


 だが視界の端に捉えた紫銀の斬撃は、白銀の手甲に受け止められて傷も残さない。さらに視線が向ききる前に、再び轟音を残して娘は失せる。


(なんだこれは)


 背後から受けた衝撃に、デズモンドは頭から床面に叩き付けられる。装甲と肉体の破損に、脳裏を真っ赤な警告が染めた。


「何なのだ!貴様あああああああ!」


 訳も分からぬまま地を舐めさせられた屈辱は、血を吐くような叫びとなった。床から壁から蛇腹が出現し、デズモンドの周囲を滅茶苦茶に薙ぎ払う。

 しかし轟音はとっくに遥か高み、紫銀の間合いの外まで逃れていた。

 螺旋階層の先、八つの装甲を花のように広げて、ゆったりと宙を泳ぐ背が見えた。


「北の民がカラパイスを、陛下の威光を扱えるなど――あり得ん!」


 デズモンドは身を跳ね上げて腕を振るい、刃の蛇に指揮を下す。乱雑に散っていた無数の蛇腹はビタリと向きを揃え、一気呵成、火花を散らし天の娘に食いかかった。

 その群、三つ。


「あはっ」


 朗らかな笑いを残して、白銀のドレスは宙に舞う。四つの咆哮が小柄な肢体を弾き、四つの翼が螺旋に導いて、レナーシアは鋭いターンで百の牙の隙間をくぐり抜ける。

 天駆ける白銀の軌跡。

 追いすがる蛇の群れ。


 ――ドン!


 スラスターが吼えるたび大気は揺れ、腰の翼は空気を裂いて真空を生む。娘の加速に伴う爆音は、音の壁を越えて生まれる衝撃波だ。鋭角ばかりの変則飛行はそれだけで、命を奪うほどの威力を叩き出す。


 ――ドン!


 這い寄る蛇はしかし衝撃波に散らされ、追いつくことなどできはしない。進路が狂わされた群同士で衝突し、互いを削って宙に散ける。


(なぜ、躱せる!)


 デズモンドは蛇腹を手繰る手は平静だが、天に自由に踊る娘を、見れば見るほど驚きを隠せない。

 咆哮一つのステップと、逆向きの二つは鋭いターン、四つ揃えば宙を滑るスライドだ。地面で踊ればそこまでだろうが、床も持たない天ならば、上下左右、高低にすら縛られない。

 足裏は天上を踏んで、持ち上げた視線は、掲げた指先の向こうに下界を見下ろす。

 世界の理なんてお構い無しに、全てが娘の舞台となる。


 遊ばれていると思えるほどに手慣れた飛行――いや、舞踏だ。あれほどカラパイスを扱えるようになるまで、どれほどの修練が必要だと!


(っいや、違う。違うぞ)


 観察の裏で、デズモンドは次第に白銀の綻びを捉える。



 カラパイスは、三つの要素で構成される。

 内皮――カラパイスの性能に耐えるための肉体変異、「材料」の血肉の再現。

 外殻――肉体を守る鎧であり、「材料」の皮や鱗、外骨格の再現。

 武装――外敵を狩る、「材料」の攻撃機能の再現。



(――兜も背殻も無い、明らかに外殻が欠けている。攻撃が相変わらず四肢を振るうだけだ。武装が備わっていないのか?北の民の肉体ならば、内皮も機能しなくなる!)


 公的な記録によれば『北風の旅人』は、重厚な外殻と多彩な武装を持つカラパイスだ。ならば今発現しているあの鎧は、不完全に他ならない。


(っ見極めろ!)


 デズモンドは新たな剣を抜いて、自ら蛇の群に飛び乗った。


(あの鎧は穴だらけだ。操る腕もまた同じ!)


 天高く延びて獲物を追う蛇腹の群は、そのまま白銀へ至る小道だ。翼を持つ相手に、デズモンドが仕掛けるのはあくまで地上戦だ。


「ふっ!」


 新たな刃を抜きつつ道を一息に駆け上る。喰らいかかった一群を背中合わせにすり抜けた娘に、デズモンドは頭上から挑むように切り掛った。狙うは外殻の欠けた部位、上腕部から背にかけて。


「ん!」


 だが直前、レナーシアの瞳は紫銀を捉え、同時にスラスターが吠える。反動でぐるんと身を回し、娘は勢いそのままに脚を振るった。その膝下は腕と同じ白銀に包まれている。さらに強固となった回し蹴りは、唸りを上げて刃を粉砕した。

 しかし。


(どんな高性能のカラパイスも、『技』が無ければ先を読まれる!)


 デズモンドは残る左の剣を、あえて大きく振りかぶる。それだけで、


「――だっ!」


 レナーシアはあからさまに、がら空きの右半身に狙いを定めたのだ。チャンスに確かな一撃をと両腕を大振りに構えて。


(未熟者め!)


 直後、レナ―シアの背後に四つ目の群が飛び出した。

 娘が背に避けた一群から、さらにその腹を食い破って出現させた一撃だ。距離タイミングともに完璧な闇討ちは、レナーシアに背にまっすぐに喰らいついて――


「あぎっ…!」


 ――躱される。

 漏れ出た嗚咽は、回避の衝撃によるものか。突如跳ね上げたスラスターで身体を弾き飛ばし、レナーシアは間一髪、刃の嵐をすり抜ける。しかし勢い余ったのか、娘はそのまま回廊の柱に身体ごと突っ込んだ。

 回廊の一角が崩落し、瓦礫が娘を覆い隠す。


(っ躱された――いや)


 デズモンドはすぐさま白銀を追って、瓦礫の山に隙無く視線を巡らせた。しかし男は同時に、困惑する。


(躱した、のか?何だ、今のは)


 回避した瞬間の娘の表情だ。

 なぜ、避けた本人が(・・・・・・)驚いていた?

 疑問を残しながらデズモンドが回廊に降り立つと、相手はそれを待ち構えていたのか。瓦礫の奥からボフン!と白煙が広がり紫色を包み込んだ。


(っ、煙幕か!)


 中でスラスターを爆発させたのか、巻き上がった砂塵と白銀の煙がデズモンドの視界を奪う。


「――――――――っ………………」


 しかし騒ぐまでもない。デズモンドはただぴたりと、動きを留めた。


「――――――――――――――――――――――――。」


 達人は一呼吸もかけず意識を限界まで切り詰める。音を探り、剣先に届く振動を数える。襲撃を予測し、敵に先んじさせて――その上の先を行くために。狙うはカウンターだ。

 ゆっくりと腰を落とし、剣柄を握る拳に、ほんの僅かに遊びをつけて。



 ――右後ろ。



「ふっ!」


 瞬間、零から百まで跳ね上げて、デズモンドは予備動作無しの刺突を放った。渾身に突き出された紫銀は、間合いに飛び込んだ白銀の外殻を見事に貫いたのだ。

 刃の中腹まで、深く深く。

 深く。


 いや、これでは深すぎる。

 まるで薄い板だけを突いたかのように。


「――――――――は?」


 鎧には中身が無かった。


「ぶっ!」


 不意に側頭部を衝撃が襲う。

 兜が砕け、紫色の体液が散る。頸骨がひしゃげる音。四肢の軋み。雑作無く宙へ弾き飛ばされ、面白いように身体が回る。回る。


「やった!当たったよ!」


 割れた兜の隙間から、朗らかな歓声が舞い込んだ。たった一撃、しかし致命的なダメージに、デズモンドは奇怪な幻覚を見る。


 一つは、白銀の甲殻。胸当てを貫通した蛇腹はただ空気を突いて、空っぽの手甲が、紫銀を無造作に引き抜いた。

 一つは、必殺の蹴りを決めて満面の笑みの娘。その身を包むのはボロボロのドレスだけで、鎧など纏ってはいなかった。



『ふたつ』



「が、ふっ!」

(カラパイスの、遠隔、操作っ?)


 激しく床面に叩き付けられながらも思考を回し、しかし答えが湧くわけでもない。


「おねがい!」


 惑う男を尻目に、明朗な一声を響かせて、娘の掌と空っぽの手甲が絡み合う。そのままくるり踊るように回れば、白銀の鎧が娘を丸ごと包み込んだ。

 二つは再び一つに。スラスターが吠えて、直下のデズモンドへ突撃する!


「くっ!」


 デズモンドは空いた蛇腹を手繰り、牽制に瓦礫を弾き飛ばした。しかし獲物しか見ていない娘はそれを避けもせず額で粉砕し、まったく素直な軌跡で爪を振るってくる。


(また、未熟だ!)


 蛇腹を放ち反動で飛び退けば、直線的な一撃など容易に逃れ――


 ……ドン!

 白銀が明後日の方向に噴き出して、唐突に娘の身体を回した。


「がっ――」


 結果、直撃。デズモンドは修正された爪先に抉られ、外殻を散らしながら吹っ飛ばされる。瓦礫だらけの岩場に転がり、打ち据えられた程度で傷つく外殻ではないが、中身は存分に揺さぶられた。


「づ、ぁああああああああ!」


 もう混乱している暇はない。デズモンドは損傷と対応を計算し、逆さまになった視界に向けて大きく蛇腹を薙ぎ払う。


「うん!わかった!」


 対するレナーシアは意図の知れない「返事」を残し、背面に飛び出した。地面すれすれの、岩場の間隙を縫う低空飛行は、横薙ぎの蛇腹を薄皮一枚でくぐり抜ける。


(下を抜けるかっ!)


 危険だが無謀でなく、そして最短。

 土壇場で正解を引く娘に、デズモンドはさらに次の剣を手向ける。地に足が着かなくとも、切っ先の狙いは誤らない。娘の両脇が瓦礫に挟まれる一瞬も見逃さない。

 ガッと火花を散らして、伸びた蛇腹が白銀に迫る。


(この逃げ場は上のみ!次の一手は右を、な、)


 ――――ブチ。


「っな、んだっ、それは!?」


 ブチブチブチ。


 それは地を掴んだ娘の指が、急制動をかけて千切れる音だった。レナーシアは両手の指を引き換えに身を反らし、刺突を「その場」で躱してみせる。


(動き、が――)


 ブチン!

 最後の指が千切れると同時に、白銀は再び突っ込んでくる。そして刺突に伸び切って戻せない紫色の腕は、あまりに無防備な餌だった。

 指の消えた手ではない。丸い頬を裂いて露になった大顎が、デズモンドの前腕に深々と打ち込まれる。


(動きが――ちぐはぐだ)


 デズモンドの世界が回る。大の男が細い首の力だけで振り回されて、何度も何度も地面に叩き付けられる。四肢があらぬ向きへと曲がり、骨と腱が甲高い悲鳴を上げた。


(安直な動きが、修正され、さらなる無茶が上書いて――読めなくなる)


 ひしゃげた手甲が噛み潰される寸前に、デズモンドは手甲を解除し中身を引き抜いた。

 露になった腕はカラパイスによって「内皮」へと変異し、血肉に紫色の光彩を流すもの。


 そしていくら不気味な紫色をしていても、それは長年連れ添った腕だった。

 古い剣ダコだらけの掌が、情けない主を叱咤する。


「っ!」


 そう、そうだ。あってはならないことだ。常識に囚われて結論を妨げるなど。

 忘れたのか?北の民との戦いは、いつでも常軌を逸するもの。

 もう気がついているだろう!


「二対一」


 姿なき、新たな敵がいる。


「望むところだ!」

「きゃっ!」


 蹴りを一発、紫色を噛み砕いた顔面に繰り出すと、気の抜けた悲鳴が飛び出した。同時に射出した蛇腹が娘の両脇を抜けて、背後の床に突き刺さる。縮めて身体を運べば一気に間合いの内だ。


「ふっ!」


 娘の懐に入り込んだデズモンドは、一息に両腕を振り切った。ギャン!と甲高い音を伴って、刃を受けとめた娘の両椀が、次こそは手甲ごと半ばまで断ち切られる。


(剣の強度はこちらが上だ。斬撃が正確ならば、通じる!)


 しかし今更腕の傷がなんだというのか。


「っこんの!」


 レナーシアは未だ繋がる腕を、踵から背まで使った跳躍に合わせて、カウンターとして振り上げる。切られようが削られようがお構いなしの反撃だ。

 しかしその意志と裏腹に、ガキン、とスラスターが跳ね上がる。


「あっ!」


 突如爆ぜた白銀に、娘の身体が後方へと跳ね飛ばされた。

 ――この距離は不利との「判断」だ。


「どこへ行く」


 しかし紫色と白銀の間合いは変わらない。デズモンドは相手の後退を予期して、全く同時に前へと飛び出したのだ。娘の視線や意識ではなくスラスターの向きを読み取れば、先回りするように脚を運ぶのは容易。


(今の判断は、違う)


 この娘ならば距離を取ろうとはしない。そのまま近距離での凌ぎ合いを選んだはずだ。

 ならばその無謀を止めたのは他でもない鎧の側、カラパイス『北風の旅人』そのものだ。


(原理など知らぬ)


 本来あり得ないことだ。

 北の民の肉体から親和性の高い「器」を作り、本人の「最後の光彩」を植え付ける。結果、生前の生体機能を鎧として再現するのがカラパイスという兵器だ。

 一般には知られていない、知られてはならない製法だが、結局は死体そのものなのだ。自身の意思で動くなどあり得ない。

 原因に思い当たるのはあの矢尻くらいで、しかし今更考察するだけ無駄なこと。


 確かなのは、付け焼き刃のコンビネーションで対応できるほど――


「甘くはない!」

「うっさい!」


 レナーシアはいつまでも離れないデズモンドに身をよじり、両手を組んで叩き付ける。鉄槌に匹敵する一撃は、しかしまるで直線的だ。

 デズモンドは余裕をもって紫銀を振るい、つい先に刻んだ外殻の切れ目に、寸分違わず斬撃を叩き込んだ。

 バツンと白銀の手甲が飛ぶ。二撃は耐えないと断じて、正確な位置に、的確な攻撃を加えた結果だ。

 宙に回る両腕の向こう、驚愕に見開かれた螺旋の瞳に応えるように、続けて頭突きを食らわせる。


「ギっ!?」


 剣ばかりを見ていた娘は怯み、さらに続けて顎を蹴り上げられる。カクン、と大きく振れた頭に大したダメージはないが、足元から視界を逸らせば十分。

 そして同時に、床から飛び出した蛇腹の渦がレナーシアを飲み込んだ。

 ガガガガガガガガガガと激しく擦過音を散らしながら、まさに蛇が纏わり付いてうねり這うように、白銀ごと娘を取り巻く。


「っ―――っづ―――っう――――!!」


 レナーシアは蛇腹を払おうと、両腕両脚、尾までを必死に振り回す。しかしその足掻きこそが罠。逆立つ蛇腹の刃は次々と白銀の甲殻に引っかかり、絡み付く。

 網とは一度捕まれば暴れるほどに縛られるものだ。

 ギシリ……と、見て分かるほどに娘の動きが緩慢となる。


(捕えた!)


 決めうちの五手は綺麗に嵌り、『北風の旅人』最大の武器、空気の圧縮爆発による高速移動を封じる。


(このまま、引き裂く!)


 網はそのまま刃の塊だ。収縮させれば中身を細かに寸断する!

 詰み手として収縮のトリガーを引こうとしたデズモンドの腕が、しかし突然、掴み取られた。



 ……掴み取られた?



 直前に切り飛ばした娘の腕だった。白銀の手甲が消えた中身だけが、文字通り腕の動きだけで床を叩き飛びかかってきたのだ。


(く――)

「――そ」


 まさかの横槍に、気を取られたのは一瞬だった。しかしその空白に、網に捕えた白銀が溶け落ちる。


 ガチン!


 絞られた刃の網が裂いたのは、残された白煙だけだった。

 レナーシアは鎧を丸ごと光彩の煙へ戻すことで、網との間に隙間を生む。そして関節すら見た目だけの糸編みの身体は、僅かな隙間をすり抜け、跳躍し、脱したのだ。


「っ――っ離れんか!」


 デズモンドが何とか引き剥がし、蛇腹の渦へと放り込んだ二の腕は、瞬く間に細切れとなって消え失せる。そして本当なら同じ運命を辿っていたはずの娘は、今やデズモンド頭上、遥か高みにいた。



 しなやかに風に乗る身体を、新たな煙が取り巻き、形を成す。

 白銀の鎧が再び超然と、獣の娘を包み込む。

 何度目か知れない轟音が、主を天高く持ち上げる。



「なんと」


 五体満足に天を昇る娘を見たデズモンドは、思わず呟きを口にした。


「なんと、奔放な……」


 憤りすら飛び越えて、感嘆を向ける。

 あまりに破天荒で――自由な戦い方に。


 決め手の一撃を躱されたのはどれほどぶりだろう。ほんの一瞬だった、などと言い訳はできない。師団長に身を置いて以来、これほど虚を付かれる戦いなど無かった。

 切り落とされた腕で掴み掛かり、刃に囲まれながら鎧をまるごと脱ぎ捨てる。失うことを不利とせず逆手に利用し、磨き上げた技すらすり抜ける。

 どこまでが鎧で、どこからが娘のものなのだ。




「逃げる、のか」


 デズモンドは天に次第に小さくなる影を追うことをせず、まずは自身の修復を優先した。

 振り回されはしたが、あちらも指・両腕と身体を失っている。一時でも撤退してくれるというならば、デズモンドにとっては好都合だった。

 何故ならこの戦い、本来は長引かせてはいけなかったものだ。デズモンドの仕事はまだ多く積み重なり、どれも重要なものばかり。


 ――扉を開けて遺骸を確認し、ついでに何処かに伏せている男を殺め、教え子の敵を討つ。

 ――さらに地上に出て、「本戦」に向けて北の軍を少しでも削っておくべきだろう。

 ――遺骸と闇夜の矢尻を、フロイストに届ける手はずも整えなければ。


 娘との決着など、後回しにするべきで、




 だが。

 しかし。





「陛下、お許しを」


 デズモンドは、その全てを投げ捨てた。


「あれは、今!倒さねばなりません!」


 無責任に自身の欲を優先したわけではない。教育者としての経験が警告するのだ。

 アレは、一秒たりとも放置してはならない!


 最初は一方的だったはずの戦いが、こうして拮抗している状況。無知で無学にも関わらず脅威的。

 ならばさらに成長すれば?この先技術を身につけ、一人の戦士となってしまえば?確信できる、もう自分の手にすら負えなくなると。


 デズモンドは獣の娘に見たのだ。旧王の遺骸――北の軍勢――必殺の矢尻――それらの成果を丸ごと打ち消すほどの、取り返しの付かない将来の被害を。


(この場この瞬間に、決着を!)


 割れた兜の隙間、硬い決意を眼光に秘めて、デズモンドは大きく身を捻る。




「――『最終宣言(ラストワード)』!!」



……

………

…………



 無論。レナーシアは、逃げなど微塵も考えていなかった。

 上空へ昇ったのも鎧を修復するための時間稼ぎだ。遺骸を手にする目的も、障害である剣士を排除する手はずも変わっていない。


「っなに、これ!?」


 しかしどうだ。その身に備わる感覚が、これまでに無いほど大きく鋭く警告を発してきたのだ。墓所全体がビリビリと震え、眼下から密かに迫り上ってくる予兆に、眠れる死者も慄いているかのよう。

 ガキンと、翼とスラスターが翻る。それは危険域から離れようとする賢明な「判断」だったが、


「待って、駄目っ!」


 レナーシアは、腰の装甲を叩いてそれを止めた。


「キールっ!助けないと!」


 純真な娘は、あの奇妙で暖かい影を今更切り捨てるつもりは無い。今狩人の元に向かうということは、まさに脅威の懐に入ることを意味するというのに。


「おねがいっ」

『―――――――………』


 娘の願いを受けて、スラスターは吠えることなくボフン……と弱い白銀を吹き出した。まるで諦めに「仕方が無いな」とため息をつくように。


「行って!」


 ドン!と白銀が爆ぜて、レナーシアは直下に飛び出した。


「大丈夫、場所は分かってる!」


 男が受けた傷が、心臓から少しでも離れた右半身ばかりなのが幸いだったか。未だ鼓動は続き、赤焼けた熱も見えている。

 しかし「次」はもう分からない。そう確信できるほどに赤い警告は鳴り続けている。この先に、一体どれほどの破壊が待ち受けているというのか。


 レナーシアは覚悟を決めて、下へ、下へ。

 瓦礫の隙間に捉えた黒髪に、あとほんの少しと手を伸ばす。


「キール、今――」




 直前、見開かれた真っ黒い瞳が、レナーシアを見据えた。




「―――――――っ!」


 瞬間、本能の警告すら無視した娘は、しかし男のたった一つの目配せで翻意する。

 咄嗟にスラスターを蹴り付けて、飛行の軌道を大きくずらして、




 直後、娘の右半身が消滅した。




「あ」


 半分だ。

 翼もスラスターも、脚も胴も腕も、頭すら、真っ二つ。


「あ、ああああああああああ、あああああああああああああああああああ」


 幼く愚かな選択だった。取り返しのつかない喪失感に、思考がゾワゾワと暴れて絡まる。喪失した断面から繊維質を煙のようにまき散らしながら、半身は宙にぐるぐると空転した。

 そして欠けた視界に、レナーシアは襲撃者を捉えたのだった。



 それは、天高く伸び上がる構造体だった。

 刃の鱗を数千数万と重ね組み上げた模造品。娘を喰らった牙は、一本一本が紫銀の剣。

 カラパイスは再現したのだ。「材料」のかつての姿、懐かしい肉体を。


『剣山の探索者』――その源流は、刃の鱗を持つ大蛇だったという。



 大質量の出現は床面を丸ごと陥没させ、狩人の姿も瓦礫ごとあっけなく消え失せる。


「づっ!」


 だが感慨に濡れる暇は無い。がっぱりと開かれた大蛇の顎が、喉奥に刃の螺旋を見せつけながら喰いかかってくる!


「〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」


 苦しい呻きを吐いて、レナーシアは残された左脚で壁を蹴る、蹴る。残ったスラスターもまた吠えて、半減した推進力でなんとかレナーシアを押し出した。

 しかし離れきれない翼が紫銀に触れて――触れただけで、パチンと消失する。


「づぅ!?」


 刃の壁そのものである大蛇の表皮は、這い抜けた跡に何も残さない。壁も柱も瓦礫も、一切喰らわれ削られて砂塵と化すのだ。北城塞の一角を消滅させたように。

 そして囲まれた閉鎖空間ならば尚、獲物を逃がすこともない。北がどんな大軍勢で攻め込んでこようとも、ただ蠢いているだけで一方的に蹂躙できる。

 デズモンドが、この墓所で北の民を迎え討とうとした理由であった。




 まさしく最終宣言(ラストワード)

 カラパイス流の「終わらせる」という処刑宣告。

 幸か不幸か、レナーシアはそんな一撃を使うべき好敵手だと、デズモンドに認められてしまった。




「――――っ――――っ――――づ――――!」


『北風の旅人』も、たった一本の翼では飛行もままならない。激しくスピンし、ガツガツと壁に柱にレナーシアの身体が打ち据えられた。


「お願――速――」


 大顎から逃れたい一心で、レナーシアは両断された喉で叫ぶ。ボロボロの鎧に無理な要求だとは分かっている。それでも旅人はその身を軋ませながら、上へ上へと突き進んでくれるのだ。

 しかし、足りない。



 パチン……と最後の翼は、レナーシアの下半身ごと消え去った。



「 あ  ふ   。」


 そして呆然とまろび出た吐息を最後に、糸編みの身体はあっけなく限界に達したのだった。


(あ……消えちゃう)


 身体を構成する群体が、必要量を下回って動かせなくなる。残った左腕もしびれたように指先が震えるだけで、あんなに快活だった螺旋も動きを止める。


(うすい。とけちゃう、わたしが)


 あんなに騒がしかった世界が、しんと静まり返っている。音が遠く、視界が狭い。白黒の世界はつまらなくて、重さも匂いも感じない。自分と世界の境目が曖昧になって、どっちがどっちだか分からなくなる。


(まだ、だめ だめ だめ)


 いくら否定してももう遅い。

 痛みを感じない、傷を気にしない、欠けた部分も元通り……蛇の思惑通り、その程度ではやはり不死にはほど遠かったのだ。生まれ持った力を振るうに任せる無謀では足りなかった。



――じゃあどうすればよかったの?

――何が足りなかったの?

――そんなの、誰も教えてくれないじゃない。



 能面の顔はもうそんな後悔も映してくれず、ただ世界の下に待ち構える蛇を見る。娘の右半身、下半身と喰らった大蛇は、最後の食べ残しを見上げて舌なめずり。

 窪んだ空っぽの瞳が、刃の蠢く鼻先が、ぱかりと空いた顎が、牙が舌が喉が、目の前に広がった。


(あのひとは)


 落ちゆく身体に、呑まれゆく身体に、微かに残る想いが香る。


(あのひとを、わたしは ぜったい)


 そんな決意も世界に溶けて、このままでは深い眠りに落ちてしまう。



 ――でもその前に。

 ――起きろと、頭をぶん殴られた。



「っあう!?」


 バゴン!と、強烈な衝撃がレナーシアを跳ね上げた。


 ぐるんぐるんと回る視界の向こうで、間一髪、大蛇がばくりと顎を閉じ切る。蛇が噛み砕いたのは、後に残された白銀の煙だけだった。

 食われる寸前、レナーシアの身に残る僅かな装甲が爆ぜたのだ。白銀の煙に持ち上げられるようにして、娘は死の淵から脱出させられていた。


「――――っう――――!」


 レナーシアを土壇場で救った白帯は、しかし力任せの爆発に巻かれて、レナーシアから解かれてしまったよう。黒髪から外れて宙に舞った相棒は、しかし使い手から離れても尚しつこく、ガチャガチャガチャガチャ、喧しい叱責を残してながら落ちてゆく。


(っ怒ん、ないでよ!今やろうとしてたのに!)


 幼い屁理屈を言い放ち、眠りから戻ったレナーシアはガチリと牙を鳴らす。そうだ、白銀と同じくレナーシアも諦めない、身体を奪われようが振り回されようが、絶対に諦めたりはしない。


 彼を、彼女を救うため、私はここまでやってきた。


(終わらない、終われない!まだっ!)


 再びもたげられる鎌首。失われた白銀、欠けた手足と腰と胴。

 そうだ、何をしようにも身体が足りない。


(探して見つける!なんでもいいから!)


 とにかく動かせるだけを左目に集めて、瞳を必死に四方に巡らせた。螺旋は激しく渦巻いて、上下左右、近く遠くと、貪欲に求める。どんな小さなものでも構わない。この場を抜け出す鍵を!


(なにか、なにか、なにか、なにか――!)




 そうやって誰よりも足掻いたから。意地汚く、生き汚くあったから。


 欲しいものに、幼くしがみついて離さなかったから。


 彼女には見つけることができたのだろう。




「あ……」


 レナーシアは遥か高みに、天上の向こうに、もっともっと上に見透かした。


「なんでまだ、いるの?」


 もうおしまいだって言ったはず。みんな自由になって、私みたいにどこでも行けるし、私みたいに大事なお友達も見つかるんだから。外に出れば楽しいことが山ほどあるから。


 でももし、

 もしも、


「いらないなら、おねがい――」


 刃の大顎へ落ち行く身体に、最後の最後、舌足らずな求めの言葉を!


「その身体、私にちょうだい!!」


 答えはすぐに示された。

 ズドン!と、墓所の天井が砕け散る。沸き立った白煙を裂き、飛び出したのは九つ分の影だった。幾重にも重ねたローブをはためかせ、表情すら読み取れず、それでも真っすぐ真っすぐ向かってくる。

 かつて別れた、王の世話役が!


「おいで!」


 風に開かれたフードの中身は、空っぽ(・・・)だった。

 最初から、動かなければ衣服でしかない存在だったのだ。

 ブワリと人のカタチが溶け落ちる。薄布が時を戻すように広がり散けて、自在に蠢く繊維質へ。

 九つが集った繊維の渦は、獣の娘を――いや、クレヴァシアの王女を呑み込んだ。


「っ本当に、気に食わないけど!」


 大嫌いだし、他のほうがもっと楽しい。

 でも生まれて、暮らし、遊びに出ても毎日毎日帰る場所――クレヴァシア王宮。


「ここ、私の家だもん!私の場所だ!」


 口元を綻ばせながら、合わせて纏めて編み直す。ぼろぼろのドレスも千切り捨てて、その身の糸から新たな衣を編み上げるのだ。両椀を背にかけて露にした、ふわりと緩やかな腰巻きのドレスを。


「っ着替えくらい、あるもんね!」


 いつもの慣れ親しんだ格好で、落ちゆく四肢を大きく広げて、迫り来る豪風を受け止めて。

 だが真っすぐ落ちてくる餌に向かって、蛇は大顎を開いて待ち受ける!



 さあ、どうすればいい?



「――セロン」


 強くて優しい彼は、ここにはいない。


「――クレア」


 知恵を与えてくれる彼女も、いない。


「――キール」


 導いてくれる影もまた遠く。

 白銀も離れていってしまった。


「だったら、ねえ。教えてよ」


 だけどまだ、「彼」がいる。

 これでもかと言うほどの殺意を持って、私だけを見てくれている。


「どうしてあなたは、そんなに強いの?」


 狂い無く身体に分け入ってくる刃。決して追いつけない足取り。翻す身体は死角を抉って、無駄な動きは一つも無かった。


「どうすればできるようになるの?」


 決まってる、きっとたくさん練習したのだ。毎日毎日、何度も何度も繰り返して。

 セロンの剣も、クレアの筆も、キールの弓も、白帯の翼も、彼の牙も。誰にもできない誰にも真似出来ない特別なんだ。

 でも、それなら!




「私にも、ある!」




 ガツン!と閉じられた大顎の先、レナーシアは止まっていた。

 白銀の咆哮無しで、ほんの一瞬、静止していた。



 ――直前に、流れるように伸ばした腕、宙を掻く指先、腰を落としてステップを二つ、逆に一つ。

 ――腕がしなやかに空気を逸らし、スカートが柔らかに風を受け、肢体はふわりと空気に降り立つ。



 ゴオッ!

 実に紙一重。風に乗った娘の身体は大顎を躱し、刃の海原を滑り降りた。巨躯が巻き起こす気流に乗って、優しく優しく撫でるように。


 ――ギイイイイイイイイイイイイィィィィィイイイイ!


 奇妙な餌の動きに、ならば逆立つ鱗で削ってやろうと、蛇は巨躯を大きくうねらせた。四方から迫る消失の壁に、


「ほっ」


 レナーシアは巻いたスカートを引き戻して受ける風を切り替える。大気の上をコロコロと、草の坂道かのように転がり落ちる。そんな無茶なスピードも、頭尾を一陣振るうだけで空気の掌が受け止めてくれる。

 さらに揃えた両の足裏に、大蛇の蠢きが生んだ暴風を踏んで、急加速!


「っだ!」


 一息に突破し、レナーシアは大蛇に背中を見せ付ける。鼻歌混じりに踊りながら。


「――んったった、んったった」


 誰もいない柱の森で、駆け跳び踏んでまた跳び駆けて。手も足も付かず風に乗って、障害物を躱せるかを試していた。

毎日毎日毎日毎日毎日毎日。

見えない友と手を取った。



 ――風遊び。

 落ちながらも自在に空を歩き回るそれは、誰にも真似できないレナーシアだけの技だった。



「らんらららんっ………らんっ!」


 ゴウ!

 追いすがった蛇の顎が再び空振る。落ちゆくだけのレナーシアをまるで捉えられないのは、宙に浮かぶ綿毛と同じだ。捕えようと強く手を振るうほど、空気の乱れに逃げられる。


 ギイィイィイイイイ――――!


 翻弄される巨躯は、のたうつようにして墓所の壁を粉砕した。鱗同士が擦れ合う金属音はまるで悲鳴のように響き渡る。


「あは、窮屈だねっ!」


 降り注ぐ瓦礫を風のステップで軽やかに避けて、レナーシアは楽しげに笑った。下へ向かえば向かうほど、大蛇はその体躯を枷とする。

 そして巨躯が天上に蓋をすれば、逃げ道も失われてしまう。娘の旅路は一方通行だった。


(それでいい!)


 大蛇がどうにも出来ないならば、本体をなんとかするだけ。レナーシアが目指すのは尾の根元に潜む紫色の剣士だ。いまや大顎は遥か背に遠く、追いつかれることもないから。



 だからだろう。ギシ……と、大蛇が動きを止めたのは。



「――――――――」


 レナーシアは言葉も無く、細く細く意識を研ぎ澄ます。

 予想はしていたし、むしろ娘はこの瞬間を待っていた。突破されて邪魔でしかなくなった木偶を、あの狡猾な紫色がどうするかなんて、目に見えているから。


「―――っ―――ッ―――!」


 だからレナーシアは腕を伸ばす。軽やかに空気に踊りながら、眼下にはためき落ちる白帯へ。


 墓所を埋め尽くした蛇腹がブワリと、風船のように膨らんで――


「っおかえり!」


 パシと相棒を捕まえ取ると同時、大蛇の巨躯が弾け飛ぶ!


 面に均された怒濤の質量が、隙間無い刃の壁となってレナーシアに襲いかかった。その密度は避けることなど不可能だ。

 しかし娘は見ていない。その先しか見えていない。


「行くよ!よろしくね!」


 相変わらずの娘の無謀に、しかしもはや異論など唱えまい。バオ!と白銀は沸き上がり、胸に腰に、腕に脚に白銀の甲殻は纏われた。ぶつかることしか知らぬ主を持てば、鎧の本分とは如何なるものか。


「づ、ああああああああああ!」


 そう、工夫など必要ない。交差させた両腕を構えて、歯を食いしばり眼を見開いて、刃の海に突っ込むのだ。蛇腹の向こうの紫色に向かって、真っすぐに!



 接触し、穿たれた。



 先鋒の手甲が容易く剥がされる。内の肌も引き裂かれて、最初の衝撃は肘から先を吹き飛ばした。

 頭を守るように身体を回し、背に刃の雨を受け止める。潜り込む鱗を感じながらさらに回る、回る。

 どこもかしこも白銀は嵐に削られて、瞬く間に破片へと散ってゆく。

 しかし最後まで、腰部の装甲だけは刃をことごとく弾き飛ばした。唯一完璧に再現された外殻は、最後までその機能を失うことなく主を守り切ったのだ。



 一瞬か刹那か、刃の壁を抜けた先に、娘は紫銀の閃きを捉える。



 瓦礫の山の上で、デズモンドはしっかりと両の剣を構えていた。

 彼は予期していたのだ。最終宣言すら、その娘は突破してくると!


「デズモンド=アングィス!」


 男の名乗りは唐突だった。


「レナーシア!」


 通儀も知らない娘は、しかし確かに名を返す。

 死闘を演じ、しかしお互いの名も知らない。そんなことは御免だと、決着を前にして戦士の意志を通じ合わせて。


「来い、小娘!」

「っらああああああああああァァァァ!」


 咆哮が弾け、勢いを緩めることなく、細い脚が大地を踏み締めた。ズン――と低い衝撃に瓦礫が舞う。

 今や面影無い墓所の最下層で、白銀と紫銀が踏み出した。


 デズモンドは右から左へ合わせて二閃、大きく踏み込んで繰り出した。両腕の欠けたレナーシアでは、防ぐことも敵わない速攻だ。


「それは――」


 しかしレナーシアは迷いもなく、軽いステップを一つ踏んで体を捻る。ペチ、と簡素な音は、宙に投げ出された両脚の先が、しなやかに振られた両足の甲が、紫銀に触れた音だった。

 刃の腹に優しく優しく、添えるように。


「――もう慣れた」


 一体何度切られたことだろう。

 数え切れない反復。何度も何度も繰り返して、娘はこの瞬間にまた一つ学んだのだ。一秒たりとも放置してはならない――そんなデズモンドの危惧は証明される。

 二つの剣戟が、腕ごと大きく弾かれて。


 刃を蹴り飛ばしたまま娘の身体は横倒しに空転し、腰巻きと分厚い装甲は花弁のように広がった。レナーシアはしなやかな両脚をおおいに見せ付けて、無防備な紫色を足蹴にするように、美麗な舞踊を披露する。

 広がった八つの甲殻は、やがてゆるやかに矛先を揃えていた。


「――お」


 デズモンドは気がついた。これが予兆であることを。

 最大の隙に叩き込む価値のある、一撃が来ることを!


「お、おおおおおおっ!」


 喰らってはならない!

 両の剣を手放してでも、回避を!



 そして彼は、脚が動かないことに気がついた。



「―――」


 擬音符は付かない。ただ視線を足下へ向けると、目が合ったのだ。


 それは白い白い繊維の塊――最初の激突で切り落とした両の腕。

 放置された両腕。いつの間にか消えていた両腕。ずっと潜ませていた、両の、腕。

 がっちり獲物の脚を捕まえて、手の甲に新しく作られた螺旋の瞳は、たいそう楽しそうに笑っていた。




最終宣言(ラストワード)



「――化物め」



大咆哮(ブラスト)



 

 爆ぜたのは、宙を飛び回るための空気の噴出――もはやその程度ではなかった。

 装甲そのものが内側から爆散し、使用者の繊維質すら撒き散らす、咆哮だ。

 自壊と自傷を伴う最終宣言に、デズモンドの世界から音が消え去った。


「――――――――――………」


 甲高い無音の世界だ。大岩と岩壁に挟まれればきっとこうなる。

 全身の外殻が砕けて、内の内までめり込んでくる。肋骨も肺も押し潰され平らに均される。

 兜の破片に顔面を撃ち抜かれて、チカチカと光が瞬いた。平衡感覚が上下左右、滅茶苦茶に空転して、動いているのか、止まっているのか。


 腕も脚も何も感じない。何も見えない、何も聞こえない。


「ぐ――」


 それでも、まだだ。


「おおお――」


 まだ終わらない。


「おおおおおおおおおおおお!」


 最後の、足掻きを!




 瞬間、全ての蛇が一斉に目覚めた。

 墓所のあらゆる箇所に打ち込まれ捨てられていた蛇腹達が、主の最後の意志に応える。彼らは場所も向きも考えず、ただ我武者羅に飛び出した。


 幾千の擦過音はそのまま、騎士も獣も関係無しに、全てを飲み込んだのだった。



……

………

…………



「――く、お、おおお」


 もう、何を引き金に目覚めたのかも分からない。起こる事象はどれもこれも規格外れで、キールの意識を奪っては引き戻しての繰り返しだった。

 全身激痛に襲われて、無事な箇所を探す方が難しい。揺れる視界に像を結ぶのにも、やけに時間をかけてしまった。


(クソッ)


 とてもそんな、悠長な場面ではないというのに。


 場は静やかに収まっていた。柱も壁も床も階段も廊下も、壊れるものは全て壊れ、崩れるものは全て崩れ、元の景色を思い返せないほどだが、それでも剣戟も爆発もなく実に平穏だった。

 しかしキールは奥歯までも噛み締め、激痛に耐えて身をよじる。我が身への配慮など塵のように消し飛ばす、そんな光景だったのだ。


 ギ……ギ……ギ……ギギ……


 呻くような唸るような軋みは、縦横無尽に張り巡らされ、場違いにキラキラ輝く蛇腹のものだった。まるで適当に伸ばしたように調和もなく、それでも中央に向かうほどに増す密度に、射手の意志を感じさせる。

 そしてその成果は、確かに実っていたのだ。


「―――――――」

「―――――――」


 あらゆる角度から貫かれ、地に縫い付けられた、二つの人影。


 一つは紫色。鱗の鎧が崩れた内に、紅の布地が垣間見える。自滅覚悟の一手を受けてドロドロと流れ出す紫色の液体が、床に落ちると同時に鮮血へと色を変えた。


 一つは純白。華奢で小さな体に、白銀の外殻は欠片しか残っていない。前腕を失った腕を、脚を、腹を、胸を蛇に貫かれながら、しかしその肉体は今にも縛めを振り払う力を秘めて震えている。


 二つの影は折り重なるほど近く、しかしそれ以上動く様子がなかった。

 娘を引き裂こうという蛇腹は、繊維の塊に締め付けられてびくともしない。

 男の喉の寸前で、娘の頭尾は絡みついた蛇腹に留められていた。


「―――――――」

「―――――――」


 言葉もなく、ただただ睨みあって相手の命に刃を押し込む。それは均衡の極地であり、崩せるのは第三者のみ。天秤を傾ける権利は他でもない、キールに与えられたのだった。


(最後、だ)


 右の掌を見ればどこかで無理に剣が抜かれたのだろう。傷は縦に伸びて掌をパックリと裂き、中指は根元から消えていた。グロテスクな傷だというのに痛みは無く、どころか、そもそも右肩から下に感覚が無い。

 失血死を免れたのは、肩周りにきつく巻き付いた繊維質のおかげだろう。壊すことしかできない娘が残した、不器用な救いだった。


(レナーシア――)


 最後まで手離さなかった大弓ごと左手を矢筒に伸ばすと、指先に触れた感触はたったの一つ。正真正銘、最後の矢尻だ。

 弓を引く右手は、無い。


「ギッ」


 ならばと狩人は獣に学ぶ。弦と矢羽根を食み、噛み締めて。


「ギ……ぐ……ギィ……」


 ギリギリギリと弦を軋ませて、腕を伸ばしてゆく。顔を真っ赤に染め、両の目を剥いて、残った精力全てを顎に預けて。

 娘が整えたこの好機、死んでも逃すわけにはいかない――!


(っく、ソ!)


 しかしこの土壇場になんという不運か。標的に覆い被さるように、あろうことかレナーシアの身が壁となるとは。


(探せ!)


 霞む視界、腕が震えて揺れる矢先。


(穴を見つけろ!)


 顎の力は今にも限界に達しかけている。


(急げ、早く、早く、早く――――っ!)


 唯一のチャンスと限られた手数。足りない時間と心身の限界。


「………っ!!」


 そして、追いつめられた狩人は見誤ってしまう。

 心もとない狙いを、起死回生の一手と違えてしまう。

 普段なら絶対に選ばない不確実な狙いを選んで、


 ――選び、かけて。


(あ……)


 直前にふわりと、小さな頭が振り返った。

 その頬は楽しげに持ち上がり、朗らかに笑っていた。

 凝り固まった心身を溶かしてくる、小首を傾げた、なんとも愛らしい笑顔だった。


「―――――――――――――――――――――――――――――――ああ」


 そして、脱力と同時に矢は放たれたのだ。

 二つの頭のすれすれを抜けてしまう、何にも当たらない、何も成さない、見当違いの狙いに。





 デズモンドは、笑う。

 均衡を崩した娘と、それに乗せられた狩人。勝者は常に最後の正解を引く者、最後まで耐え切った者だ。

 娘が動いたことで蛇腹が自由になる。そのまま無防備な頭を千切り飛ばそうと、細い首に蛇が巻き付いて――




「んむっ!」


 そこには、デズモンドの預かり知らない、歪な二人が過ごした時間があった。

 ほんの少しの理解。たった一度きりのやり取りでも、きっと繋がるものはある。

 どんな曲芸でも、おふざけでも――意味はあったのだ。



 トン、とこめかみに突き刺さった矢尻に、デズモンドは最後まで気づかなかった。

 ただ勝ちを確信し、レナーシアが振るった頭も、その唇が捕らえた矢の姿も見えていなかった。



 彼はただ大きく眼を見開いて、皮肉な笑みを浮かべながら、

 ――深く静かに、消えていった。


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