南 剣山の探求者
クレヴァシア王宮。
主を失って間もない宮殿は、国に広がる動揺に反して平然と鎮座していた。ひんやりとした夕の空気と伸び始めた影の世界に、人の気配は無い。
それもそのはず。近衛の兵や使用人、下水の掃除夫に至るまで唐突な暇を出され、誰一人として立ち入っていないのだ。今や門扉も窓も深く閉ざされて、物取りもが入る隙間も無い。
その密閉は今は亡き宰相の采配であり、戦いを控えた士気への影響を鑑みて、王の死を隠そうとしたのだろう。北城塞陥落の報が民にまで広まれば、恐慌に駆られた市民が主君を求めて集結するだろうが、少なくとも今は王宮は平穏だった。
外から見る限り、は。
門扉を抜け、五十柱の回廊をくぐり、国是の刻まれたアーチを抜けた先が、王宮の中央――四方に極太の柱を携えた大広間だ。
時に宰相が訓示を述べ、時に貴賓のために宴を開く。人々の足裏を受け止め続け、どの部屋よりも年期が入る床面は――
いまや死体と血の海に沈んでいた。
全て、北の民の亡骸だ。
「――次から次へと、よく沸いてくるものだ」
ガツン、と振り下ろされた刃が、伏した胴を断ち切った。噴き出した返り血を受ける前に飛び退いたのは年若い青年だ。大仰な紅の制服に着られる若輩な彼は、ほんの数日前、見窄らしい狩人に応対した人物だった。
「王宮だけでこの数。外は一体どうなっている」
「――気になんなら見に行けよ。教官には怖くて逃げたと伝えとく」
「勘弁してくれ」
軽口の出所は別の人影だ。死体の海には、他にもいくつか立つ人の姿があった。やはりどれも年若い、異色の部隊だ。
「そもそもなぜ通信が使えない」
「――観測しましたが、ここは光彩の渦の中心になっていますね」
「……ん」
「王宮を丸ごと包むデカさだぜ。信じられるか」
「通信網の妨害か?」
「んなわけあるか。強すぎる。これじゃ奏術も使えねえ。カラパイスでなんとかか?」
「出所は」
「……ん」
「地下です。今教官が調べておられる」
「教官は一体何を探してんだ。いつものあの人なら、とっくに前線に飛び出してる。俺もそうしたいところだね」
「逸るな。探し物なら決まってる」
「旧王の遺骸……いよいよ、クレヴァシアとも敵対ですか」
「……ん」
「仕方が無い。もうこの国は保たない。なんとか南へ持ち帰らねば」
「んでもよぉ、ラウル王はよぉ」
「王のことですが、居室はもぬけの空でした。相当数の従者のものらしき衣類があったので、ご尊体は既に彼らが移したものかと。バルバス様の計らいでしょうか」
「だが教官の言葉だと、宰相殿も今頃はきっと。ラウル王だけでも、お助けはできないか」
「盗人がやることじゃあねぇだろ」
「言葉を慎みなさい。我らは陛下の剣として、成すべきことを成すだけです」
「陛下への土産が一番、か。へぇへぇ」
「……ん」
「……っん!」
「っ!さっきからなんなんだよおま――……おい、あれ」
「ああ、まいったな。子どもか。どうする」
「私が行きます。今、教官の手を煩わせるわけにはいきません」
……
………
…………
「――――…………」
デズモンドは、悩んでいた。
ヘルゼの正体を掴むまではいったものの一足遅く、北城塞の陥落を許してしまった。既に北の民の浸食は国全体に達しており、時間稼ぎならまだしも巻き返しは難しい。
だからなんとしてでも、遺骸は確保したかった。
勝利の証。奪われるようなことになれば、フロイストの宗主としての力量に疑義が生まれ、そして北側の戦意高揚にも使われかねない。
そのような動機で踏み込んだのは、教え子に任せた大広間から長い階段を降りた先、恐ろしく深い吹き抜けだった。
円柱状の地下空間は壁に這う幾本もの柱に支えられ、階下に降りる螺旋構造が延々と続いている。見下ろせば高さだけではなく、螺旋が目を回してくるほど。
そんな用途不明の空間だが、しかし螺旋を下りつつ壁を眺めればその役割を知ることができる。均等に配置された石盤にびっしりと刻まれた――「名前」に。
「墓石、か」
そう、ここは巨大な墓所だ。
あくまで一国の王宮の地下だ。一般の人間は踏み入ることも、死者を弔うことも出来はしない。そもそも刻まれる名の数は数千――いや、まだ桁が足りない。クレヴァシア建国からたった十五年で、そこまでの死人は出ていないはずだった。
ならば、この墓標は誰のものか。
決まっている。ここは、クレヴァシアは、かつての戦場。
全て大戦の犠牲者だ。
「丁寧なものだ」
デズモンドは大戦を知らない。当時既にカラパイス兵として十分な力量を持っていたものの、前線に出ることが許されなかった。カラパイスの天敵、アントラー=カームルートの台頭のために。
待機命令の最中、伝わってくる戦況は悲惨の一言。国が住民ごと消え去り、一族郎党が巻き込まれ、死体が一つとして残らなかった戦いもある。墓標の裏にも、きっと棺は収まっていないはずだ。
それでも、名だけは残した。
デズモンドが、姿の見えない墓所の主に敬意を払う理由としては、十分だった。
やがて階下まで降りきって、重厚な扉を前にする。白磁の構造の内、ぼっかり空いた穴のような黒鉄の扉だった。
上階は十分に探った。遺骸が納められているとすればここ地下墓所だろう。だが果たして犠牲者の眠る場に、その命を奪った首謀者を安置するだろうか。
ならば答えを求め、両開きの扉に手をかける。
「……ふむ」
そこでデズモンドは、ふと振り返ったのだった。
音も気配無い。しかし精緻に組まれた床面に小さな影が落ちていた。
天からの光を受けてならが、下界に落ちてくる「何か」の影は僅かずつ広がっていき――
やがて、ふわりと降り立つ。
はためき落ちる純白のスカート。四肢はしなやかに地を捉え、後からゆるゆると長い髪の毛が弧を描く。
デズモンドは扉から全く興味を失ったように向き直り、掌は流れるように剣の柄を握り締める。確かめるまでもない、登場の仕方がもはや異様だ。シャリリ……と銀光を露にしつつ、「ソレ」の周りをゆっくりと、探るように歩む。
するとその北の民は翼のように華奢な両腕を広げ、見せつけるかのように、血濡れの指先を開いたのだった。
からん――赤銅色の、破片が落ちた。
ころん――銀色の、破片が落ちた。
ぽとん――空色の、破片が落ちた。
ごとん――黒鉄色の、破片が落ちた。
全て、デズモンドのよくよく見知った色だった。子の顔より見た色だった。
白い瞳がぱちりと瞬いて、伺ってくる。整った顔で小首を傾げる。
愛らしく笑う。嗤う。嘲笑う。
「―――………」
彼らは、役目を果たせなかった。
修練を、鍛錬を、活かしきれなかった。
教鞭をとった身として湧き出る無念は、やがて沸々と熱になる。
切り刻まなければ。
目の前の、小娘の形をした何かを。
デズモンドの両腕がゆっくり持ち上がり、二振りの剣先は、白い獣に向けられた。
対峙する乙女は踊る。よっつの死の上で、ふたつのステップ。腕を堂々と振るって、膝を曲げて腰を落とし、両の腕は腿の内へ。四肢で地を捉えて、胸を張って大きく息を吸い込んだ。
ギリギリギリギリギリギリ……縄を捻るような、布を絞るような音が迸り――
「来い、化物」
――弾けた。
「ギシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァ!!!!!!!」
獣の脚がパンと弾け、姿が丸ごと消え失せる。遅れた音が衝撃波として床を割り、人の目では捉えられない速度で、鋭い爪先が男の顔面に達し――
「あ――」
宙を切る。
「――れ?」
ゴッ
ガッ
娘の耳元に、鈍い音が響く。目の前を白磁の破片が、時間が引き延ばされたようにゆっくりゆっくりと通り過ぎた。世界がぐるぐる回って玩具のよう。
「―――」
「――――――」
「―――――――――え?」
衝撃と同時に、空転していた娘の視点はビタリと収まる。逆さまに映った風景は、割れた床面と砕け散りゆく柱、そして降り注ぐ破片の雨。
一歩として、動いた様子の無いデズモンド。
その足下に串刺しに縫い付けられた、細い腕。
細くて白くてビチビチ跳ねる、二本の前腕だ。
「――へぇ?」
首を傾げて見れば、両肘から先が無い。初めて目にする真っ白な断面が、割れた珪石のようにキラキラと光っていた。
(あ、綺麗……)
ゾ――と、真っ赤な残像が走る。
「―――――――――――――――――――――!!!!!!!!!!!!」
それはレナーシアにとって初めての「死にもの狂い」だった。全身を跳ね上げて、壁に埋まった身体を周囲の石塊ごと吹っ飛ばし、脱出する。
(離れろ離れろ離れろ離れろ!)
反射的な動きに思考は追いつかず、床を踏みつけようとしてようやく――右脚が無いことに気がついた。壁ごと断ち切られた脚のオブジェが、身を翻したデズモンドの後ろで、ぶるぶると気色悪く震えている。
「!?―――づっ―――づっ――づ―――っ!」
残された左脚が、パン、パン、パン、と身体を運ぶ。だがおかしい。変だ。こんなに飛んでも距離が、距離が離れない。
どこか茫洋とした思考の端に赤い影がちらついて、ザクりと、首に異物がめり込んだ。
「っあああああああああっ!」
ただ銀光から逃れたい一心で、レナーシアは身体を捻り回した。そんな考え無しが通用するはずもなく――しかし、デズモンドの剣先は硬い感触に弾かれる。
刃を撥ね除けたのは、無造作に振られた髪の毛。いや、強固な尾の一振りだった。
「ずいぶん硬い髪だ、手入れしてるか?」
警戒に距離を置いたデズモンドの目の前で、ぼて……と白い塊が地に転がる。
牽制に向けられた蛇の挑発も、しかしレナーシアにはただの雑音にしか聞こえなかった。
「嘘、うそうそ」
無様な獣から漏れるのは意味不明な繰り返しだ。脚を見ようとドレスとたくし上げ――しかし動く手が無く――腕の切断面に触れようとして――逆の手が無い。
「あれ、あれ、あれ、あ――あれぇ?」
空回る思考はそのまま肢体へ反映される。先までの回避は本能的なものだったのだろう。改めて意識するほど失ったパーツを使おうとして、無為に蠢くだけになる。ねちねちと地べたを這いずる、白い芋虫のように。
(……ふむ)
そんな相手に様子見など。デズモンドは初撃で仕留められなかったことを不満に思いつつ、次こそ確実に首を断つために踏み出した。
カツン、と。
「――づっ!?」
それは小さな足音だ。しかし死を運ぶ無機な音色は、耳元の手拍子のごとく一撃でレナーシアの夢を覚ます。
(っうで!)
肘から上、繊維の半分を「そのまま伸ばす」。
(あし!)
脇腹から下へ下へ、必要な分だけ「持ってくる」。
四肢の切断面から真っ白な糸が飛び出した。煙かと見紛うほどに繊細な無数の繊維質は、それぞれの意志で自在にうねり、編み合って形を成す。
その造形は針金細工のようにスカスカで、しかし確かに失われた機能を補完するものだ。
右前腕、左前腕、左脚と。
「ッチ!」
四肢の再生を目の当たりにし、舌を打ったデズモンドが危急に突き出した剣は、しかし硬い床面を弾くのみに終わった。頭を上げて見れば、高みの壁を駆け上る獣は五体満足へと戻っている。
「……っ逃がさんぞ」
そんな遥か下界の呟きを、レナーシアの耳はしっかりと捉えていた。そしてこの声の遠さならば態勢を立て直す時間も、と……
(ビ、ビックリした――!)
いや、とても冷静な分析なんてできやしない。螺旋の通路を無視して、ひたすら壁を穿ちながら垂直に駆けるレナーシアの表情は、両の瞳を大きく見開いたまま固まっていた。
(ウソだ。切られた。私の身体)
簡単だと思っていた。敵はたった一人、武器は普通の剣二本。
なのになんだ、この見事な返り討ちは。
(おかしい。ぜったいおかしい)
純白の目が捉えられない速さ、正確無比な位置角度、抵抗なく断たれた肌。レナーシアにとっては全て初めての体験だ。長らく失念していた「剣は切れる」という常識が、いまさら蘇ってしまうほどに。
(どうしよう、もう『上』に……ダメ、だいじょうぶ!あいつは上ってこられないから!)
自分と違って、人は垂直に壁を駆け上がれない。一飛びに移動も出来ない。目も眩む高さから落ちれば危ない。だから大丈夫。
狭く浅い考えだ。
(え)
音が届いた。
(何、何……何これ)
遥か下から、ガツンガツンガツンガツンと、音が追ってくる。
近づいて、来る!
「なにっ――」
確認も間に合わず、音が達する前にレナーシアは壁を蹴り宙に舞った。肢体はしなやかに弧を描きふわりと風に乗り上げて、
ヒュン――
ヒュンヒュンヒュンヒュウゥゥ……ン――
壁に柱に幾本もの円弧が描かれ、直後、細断された無数の瓦礫がゴッ!と爆ぜ散った。隠れる壁も無い空中で、石の散弾がレナーシアに襲い掛かる。
だがレナーシアは宙に身を晒したまま、身じろぎ一つしなかった。いまさら石の欠片で傷つく身体ではないと、眼球に当たる破片すら跳ね返しながら、ただ爆発の中心を凝視する。
そうして回避を捨てて視線を固定したのは、正解だった。レナーシアのまなじりが、細く細く絞られる。
石塊に飛び込み、反動に起きた爆発をそのまま追撃とした男。彼の纏う衣は、既に紅ではなかったのだ。
紫色の鎧。
既存の鎧とは一線を画す姿だった。
全身の光沢はびっしりと並ぶ菱形の鱗であり、筋肉の流れに沿うような装甲と、可動域に巻かれた帷子が噛み合って、身体の線が出てしまうほどに余計な間隙が無い。
兜の頭頂部はなだらかに丸く、顎下の造形は皮下に骨格が浮かんだように生々しい。血管じみた赤黒い模様がのたうつ中、ずらりと並んだ牙の装飾は二つだけが特に長かった。
さらに鋭い牙はもう二本。男が新たに手にした刀剣は、先のものよりはるかに細く、表層に刻まれた溝のために叩けば脆く折れそうだ。しかし紫がかった銀色が、ただ金属であるはずもない。
デズモンド=アングィス。
彼がフロイストより与えられた甲殻の真名は、『剣山の探索者』。
その意匠は、狡猾で柔軟、密やかに美しい――「蛇」である。
煙の中、白と紫が向かい合う。浮かんだ瓦礫は未だ重力に捕らわれない。
「――――」
「――――」
娘は宙に踊り、男は壁に張り付いている。
両者間合いにはまだ遠く、しかしレナーシアは鎧の所作に、蛇の思惑を覗き見た。
「ふっ!」
ギャリッ!
煌めいた銀光を、細い腕が跳ね退ける。引き絞り硬化させたレナーシアの前腕は削られて、しかし今度こそは断たれはしない。正体不明の攻撃は勢いを削がれ、弛み――曲がっていた。
(っ剣じゃない!)
デズモンドの手元から伸びたのは、長く、柔らかな刃だった。
レナーシアは防御の衝撃にバランスを崩し、重力に掴まれる。
落ちゆく獣の肢体を追って、デズモンドは壁を蹴った。一息、右手の「鞭」を引き、左手の「剣」を振りかぶる。
しなり、振るわれる腕。カラパイスに強化された肉体は音より速く刃を繰り出し、ガガガガガガガガと淀みない擦過音とともに、刀身を「引き伸ばした」。
レナーシアは看破する。紫銀の刀身は、短い刃の集まりだ。
鱗状の極薄の刃を無数に重ね、刃の内に刃を納めている。その全長はいかほどか。
ヒュン――
「い……ッ!」
剣先では届かない間合いを「蛇腹」は容易に飛び越える。撥ね飛ばされた娘の肢体から、裂かれた繊維が飛散した。
「地に着くまで、まず百発」
「――ッ――か……!」
横、縦、薙ぎ、上げ、袈裟。風切り音が鳴るたびに、パンパンパンパンとリズミカルに、幼い身体が跳ね回る。白い肌が削られて、繊維質が剥がされる。
「――っ――ぎっ……!」
まるで球を蹴り上げる遊びのようだ。抵抗なく裂かれ散るドレスが、さながら燃え落ちる紙切れのようで、あまりに容易い。
(抵抗も無しか)
故に腕を振るうデズモンドは、肩すかしを嘆息まじりに呟いたのだった。
「つまらん」
「そお?」
ガ、と。
蛇腹が止まる。
「っ!?」
掴み取られた。
デズモンドは咄嗟に身を翻して飛び退さり、直後、ゾ――と。元居た空間が柱ごとえぐられた。
レナーシアは蛇腹を素手に捕らえ、手繰り、一息に迫ったのだ。喰いちぎった瓦礫を咀嚼しつつ、さらに隙だらけのデズモンドに横一閃、蹴りを繰り出す。
「がっ!」
まさしく不意打ち。ディルバの胴を薙ぎ切るほどの一撃が、見事紫色の装甲に吸い込まれた。
「か―――あ―――」
メキメキメキメキ……穿たれた鎧に亀裂が走り、他愛も無く陥没へと変貌する。
しかしデズモンドは宙に跳んだことが功を奏す。踵によって鎧の中身が両断されるより前に、男の身体は衝撃で丸ごと吹き飛ばされた。
「おっ、おおおおお……!」
(なんという、膂力―――!)
油断ごと逆さまに投げ出され、しかしデズモンドはただでは転ばぬと、伸ばした蛇腹を獣の胴に引っ掛けた。そんな道連れの策に、レナーシアはむしろ抵抗なく宙に躍り出る。
「――――――っ!」
「――――――た!」
空中の闘技場に蛇腹が次々突き出され、しかし牙が貫く獣の影は、ことごとくが残像だ。
レナーシアはくるくると風に乗り、空中を移動する。ドレスをなびかせ、指先踊らせ腕を振るい、脚を薙いで背を反らし、無音のステップをまたひとつ。
紫銀の蛇は、ふわふわ曖昧な挙動を捉えきれない。
宙の舞踏は、ほんの僅かな時間だった。
――ダンッ!
重なる二つの着地音。床面が浮き破片が舞う中、両者に停滞は無い。デズモンドが地を蹴り、一息で獣への距離を詰め切った。蛇腹は刀剣へと戻り、直角に閃く二本の銀光がレナーシアに迫る。
ふ……と幼い脚の力が抜けて、二本の牙は宙を薙いだ。
小さな身体はするりと器用に、デズモンドの胸下に滑り込む。ボロボロの衣装を見せつけるようにグルリと回って薙ぎ蹴れば、紫色の脛当てもまた飛んで躱した。
上に男、下に娘――二つの姿は重なり合い、互いに腕を大きく広げる。
両者地に水平のまま身体を捻れば、それは世の理に逆らう摩訶不思議な回転となる。
ギャギャギン、ギャギン――
刃の螺旋と爪の螺旋。ぶつかり削りあう衝突音に、デズモンドは三つほど娘の指を切り離したはずだった。しかし回り戻れば、夢のように生え揃った指が再び伸びてくる。
「きりがっ――ないっ!」
剣を振るうよりも早い修復に、デズモンドは次の手を探る。隙あらば鎧ごと捻り潰さんと伸びてくる腕を剣先で弾いて、回転の勢いそのまま、デズモンドはレナーシアの横腹を蹴りつけた。
しかし丸太でも蹴ったかのようにびくともせず、むしろ反動に弾かれたのはデズモンドの側だ。
(っいや、これでいい)
狙い通りに距離を離したのは、立て直しのためだ。
(なんという硬度。刃がガタガタだ!早すぎる!)
幾度となく鉄塊に叩き付ければ、どんな業物、カラパイスの刃でもたまらない。獣の四肢が床を離れた一瞬を見極め、距離を取って刃を造り直そうとしたのだ。
だがこの敵相手に、常識的な対応は失策。
(っ!?)
パンッと、白い肢体が肉薄してきた。
手足を使わずどう跳べる。驚愕に浮かんだ疑問は、大きく振られる漆黒の弧に明かされた。
(髪、ではないっ!)
垂れ髪を模した第五の腕、頭尾の正体に気がつくと同時に、折れた紫銀の刃が飛び散った。
守りに交差した剣が、鋭い踵落としに断ち切られたのだ。連撃の負荷が堰を切ってしまった。
紫銀を砕いた脚は、勢いそのまま床面に突き立てられる。
脚を楔とし全力で振るわれた獣の拳が、無防備なデズモンドの胸元へ、
「っだ!!」
――ゴッ、と直撃し、
――しかし、通らない。
鎧は穿たれ、砕けた。しかし中身には届かぬまま、間合いの外へ脱される。
(硬っ!)
レナーシアは振り抜いた打撃で床を砕き、楔を抜くと悔しげに牙を鳴らす。
肉であれば貫いていた。板金でも光彩の壁でも同じく、内臓を掴み取れていたはず。しかし紫色の甲殻に与えられたのは陥没だけ。
もっと引き絞るべきだったと、レナーシアはほぞを噛みながら後ろ後ろへと後退する。
「………つぅ」
デズモンドもまた幾度かのステップで大きく距離を取り、そのまま円形の闘技場を大きく回り込んでいた。
獣から目を離さずに損壊した外殻を放ると、紫色の板金は落ちる前に粒子となって消え失せる。中途でへし折られた剣もまた、柄だけを残してぼろぼろとこぼれ落ち、光に溶けた。カラパイスは光彩から生まれ、光彩へと還る鎧だ。
(愚かしい。見誤ったか)
兜の下のデズモンドの表情には、僅かな焦りがあった。
最初の突進に反撃を決めて、力量は見えたつもりだった。カラパイスを起動させて、勝利は確信していた。にもかかわらずだ。
(なぜだ。先と動きがまったく違う)
二撃以降は全て防がれた。逆襲を許し「重傷」まで負わされた。
(数撃受けただけで、これほどとは)
甲殻の裏に隠した骨折、骨の断裂と内臓破裂に、急ぎの鎮痛と修復を施す。防御の衝撃で切れた腱と筋繊維も、無理やりに繋ぎ合わせて歩を繋いでいた。
足取りだけは確かにして、不調を嗅ぎ付けられないようにしなければ。
(最初は手を抜いていたのか?あれが奴の底か?それともまだ――)
デズモンドと対極になるように駆けながら、レナーシアはスカートを叩き、纏わり付く邪魔な切れ端を落とした。幾重にも裂けたドレスと、その下の傷一つない肌がミスマッチだ。
「……っ音、うるさいなあ」
埃が落ちる音が耳に響く。光が九色に分けられて、ギラギラギラギラ。肌に触れる空気は細かく分けられて、重さが色づき、匂いが踊り、頭の後ろの景色までいちいち視界に映りこむ。
(もう!うっとうしい!)
レナーシアは普段、全ての感覚を抑制している。
視覚聴覚触覚嗅覚味覚、被覚に喪失覚、加えて名もない二十覚。万全に機能すれば時間すら伸びる鋭敏な感覚は、同時に「死ぬほど煩わしい」。耳元で四六時中轟音を鳴らされるようなものだ。いつもは生活のために不要な分を眠らせている。
それを先ほど、全て解放した。
手痛い技術の洗礼を受けて、レナーシアは初めて身体の制限を取り払ったのだ。
デズモンドの剣筋を見切り、躱し、反撃できたのはそのためで――
(――でも、倒せなかった)
同時にここが、今のレナーシアの限界だ。
(硬かった。初めてだあんなの)
重たい焦燥が沸き上がる。知らない世界を前にして。
壁に沿うように駆けていけば、やがてその場所へ辿り着く。根元から砕け散った柱の向こう、大きく凹んだ壁面の前で拾い上げたのは、「切り落とされた自身の右脚」だった。
出血もない作り物じみた脚を眺めれば、その切断面は歪み無い平面だ。いったいどうやれば、人の手で誤差ゼロの角度を編み出せるというのか。
(速くて、鋭くて――)
レナーシアは瞳の螺旋を蠢かせて、広場の対極に駆ける、研ぎ澄まされた戦意を睨みつけた。
(あの人、強い)
「――化物、め」
デズモンドはなんとか狼狽を隠し切る。
獣が不気味な脚を掴み上げると、瞬く間に、手と脚の接触点が消えたのだ。数秒足らずで白い塊は丸ごと失せて、獣の肢体が僅かに膨らみ、その密度を増してしまう。呑み込んだとでも形容できる光景だ。
(まるでダメージに、なっていない)
確かに北の民には高い回復機能を持つ種があるが、せいぜい傷が塞がりやすい程度だ。さらに体液の流出が落命に繋がるのは、他の生物と変わりない。
だが奴は違う。切断が意味を成していない。あまりに乾いて水気が無い。
ならば――不死。
(っ下らん!!)
戦場において最も荒唐無稽な言葉だと、デズモンドは吐き捨てるように否定する。
(違う。奴は断たれた分を回収した。失いたくないということだ)
デズモンドは刃の失われた剣柄を、腰のベルトに差し込む。紫色の鎧に刀身を納めるような鞘はなく、しかし装甲の内部で、ガチリと接続の感触が伝わった。
(ならば、もっと細かに刻むまでっ!)
一気呵成に引き抜けば、再び鋭い擦過音が響く。鎧の内に巻き付くように納めらていた「替え刃」が、柔らかな弧から直線へと姿を変えた。
カラパイスは鎧であると同時に、そのまま武器の工場だ。欠けても折れても、替えはいくらでも生み出せる。修繕した外殻にも、既に傷一つ残ってはいない。
片や不死身の身体、片や無限の鎧。時間稼ぎなど無駄にしかならない。
両極の二人は、示し合わせたように立ち止まっていた。
紫色の剣士は鎌首をもたげるように両腕を手向ける。紫色の板金からジラジラと、酷薄な殺意を放ちながら。
欠けたドレスを揺らすのは華奢な乙女。その構えは四肢を地に伏し、獲物を狙う野生の様相。高らかに揺れる黒き尾が、今か今かと待ち受ける。
遺骸を差し置き、両者踏み出しに躊躇は無い。
衝突に、再び大気が揺れた。