殻を破る者
元は石塔に無く、後から作られたものなのだろう。しっかりとした木組みの段差を上り、キールは獣の聖域へと足を踏み入れた。薄暗く雲が掛かり太陽が隠れ、石塔の頂上は肌寒い。狩人の陰鬱な姿には、おおよそしっくりくる光景か。
「………ふん」
キールは無感情に、その置物を眺める。
かつて幾度も目にした命の躍動が、感じられない。元より呼吸も鼓動も持たない糸編みの身体だ。何かに追い縋ったように掌を握りしめてそれきり静止した姿は、出来の良い人形にしか見えなかった。
「レナーシア」
風が運んでくるクレヴァシアの喧噪を裏に置いて、名を呼ぶ声もまた、風に流されて霧散するよう。
「二人からお前を頼まれた。領地を出て東に向かう。行くぞ」
娘に当たった音は、しかしコツン、と無機質に跳ね返る。いくらぶつけようが染み入ることはないだろう。
「………」
最初から返事など期待していない。キールは早々に会話を捨て、躊躇いなく娘の黒髪を粗雑に鷲掴んだ。針金のような感触に耐えて、力任せに持ち上げて――目にしたモノに、男の鉄面皮は容易く崩れる。
白く、白く、白く、濁った眼。
茫然。自失。いや、感情の名で表すのもおこがましい、腐り膨れあがった水死体の色だ。
拒絶に迫り上る吐き気に、キールは顔を引き攣らせる。
だが、しかし。
「っ鏡でも、見ている気分だ」
色は真逆なれど、キールもまた同じ汚濁を抱いている。
だからこそ、自分の目を覚ますやり方ならいくらでも思いつくのだ。
「あれは死ぬぞ」
まったく期待以上。
ガギッ!と鈍い金属音を響かせて、キールの掲げた分厚い鉈が、獣の鋭い指先を受け止めた。
太く肉の盛り上がった腕が、震えながらもレナーシアの一撃を押さえ込む。
しかし喉元直前、猶予は首の皮一枚だ。
「―――――――――――――――――!」
虚空が唸りに満たされる。
振動は地鳴りのように深く低く、床の石材に亀裂が走り、次々と剥がれて浮かび上がった。石塔全体が巨大な爪で掻き毟られるかのように、ガリガリガリガリと異音を放つ。
愚者が土足で踏み込んだのは、紛れも無く獣の逆鱗だ。
それでも男は狩人の名を背負い、一歩として引きはしない。
「この国は終わりだ。今更何を足掻いても、どうにもならない」
パキン、と肉厚の鉈の刃が欠けた。爪の先端が首に僅かに切り込んで、ぷつりと赤い球を生む。
「それでも、奴は立ち向かうそうだ。自分の命なんて勘定に入れず、血で支払える限り、何度でも救いに向かうのだろうさ」
ゆっくりと、爪先が肉に分け入ってゆく。鮮血も玉から筋となって流れ始める。
「お人よしどころじゃあない、正義感に飼われた忠犬だ」
直後パン!と鉈が真っ二つに割れ、鋭い破片がキールの頬を切り裂いて、
「……なあ、レナーシア」
しかし獣の爪は、男の首を切り裂くことなく丸ごと掴み取っていた。その指先を迷いに震わせて。
「あんな狂人相手に、何が出来る」
「私、が、」
娘が絞り出す声色は嗚咽で、しかし跳ね上がった瞳は乾ききっていた。糸組みの瞳は涙を持たない。どれほど泣いても、濡れることはない。
「私がああああ!」
そして今、狩人が命がけで呼び起こした感情の波が、腐った白濁を押し流す。
大切な宝物を手放した、取り返しのつかない後悔の泥を吹き飛ばす。
「っ私がいれば!私がいればあっ!きっと!」
「無理だろうな」
「どうしてっ!」
「お前も気づいてるだろ。それでなんとかなるなら、あれはちゃんと助けを求める。東城塞でそうしたように、お前の名を呼ぶだろう」
「っ!」
そう、彼はいつだって頼りにしてくれた。出来ないことがあれば、手伝ってくれるかいと、優しく尋ねてくれたのだ。
しかし今回は。敵の数、南北が入り乱れる状況。
そしてレナーシアの、北の民でありながら南に与するという曖昧な立ち位置に、セロンは彼女を無用か、むしろ邪魔になると判断したのだ。
「――っ嘘つき!」
「俺がか?」
「通じるって言った!私の言葉、セロンに通じるって、馬鹿なこと止められるって!」
自らの非力さの原因を、目の前の男に求めたかったのだろう。叫びに近い八つ当たりを、しかしキールは眉一つ動かさずに受け流した。
「悪いのはタイミングだ。こじれる前に伝えりゃよかった。お前は遠回りして、足踏みしすぎたんだ」
「じゃあいっ――いつ、なら」
「今更遅い。セロンを止められなかったのは、お前のせいだ」
「〜〜〜〜〜〜っ!」
何より聞きたくなかった一言に、食いしばった牙が音を立てて砕けた。繊維質がギリギリと無理に絞られて、破断してゆく。レナーシアは渦巻く激情を、他でもない自身の身体にぶつけ続ける。
壁に頭を打ち付けるように、自分自身と諍い合う。
腕の制御も頭から離れて、男の顔も赤く引き攣り始めた。
「っ……愛する相手の、隣で、っ戦って死んでいくのも、それはそれで趣がある」
それでもなお、男は高みから言葉を投げつけてくるのだ。生殺与奪を握られながら未だふざけた獲物の姿に、獣の頬は苛立ちに歪む。
――なんなんだ、こいつは――
――よくもそんな、そんな平気そうな顔で――
――セロンにも、クレアにも、興味が無いから――
――私じゃないからって、勝手なことを――!
「もしくは、だ。もう無理やり、連れ去るか?国は滅びる。確実に、恨まれる。だ、があれは、生き残る」
「っできるならあああああああああああああああああ!」
「他人」からの止まらない口撃。終わらない自傷行為。
どれほど強い身体を持っても、心は十二歳の小娘のもの。
感情の高ぶりはすぐに臨界に達して――
「できる、なら」
――そしてゆっくり、萎んでゆく。
「できるなら……やってるよぉ」
檻の中の日々にも、傷つく青年にも耐えてきた娘の心。すっかり分厚くなった感情の膜は、膨れ上がった身体も、立ち籠めていた唸りも抑えてしまう。
「セロン……」
心のまま彼に戦意を向けられたならば、とっくにそうしていた。
しかし現実は?飼い慣らされて、牙も爪もすっかり抜かれて、動くことすらままならなかったじゃないか。
男の喉から離れた腕が、力なく床に落ちる。白濁を流した激情すら消えれば、後に残るのは寂寥だけだ。置いていかれたと、何もできないと、たった一人寂しく座り込む。
「ごほっ……で、きるなら、か」
キールは赤みの残る首を撫でながら、遥か遠く、敗北した北城塞の方角を見透かした。
西の城塞もそろそろ落ちた頃合いか。次の戦場は大城壁、続けて国内、クレヴァシアの市街へと移りゆくことになる。
果たして青年の死に場所はどこになるのか。
「……なぁ、レナーシア」
「やだ」
駄々を捏ねて、騒ぎ求めれば望みのままになる――そんな甘い世界でないことは、理不尽な離別によって教えられた。
「いやだ。私は、どこにも行かない」
それでも幼い心は他にやり方も知らず、取り留め無く呟くしかない。
「行きたくない」
「行きたくないもん」
「逃げたく、ない」
「見捨てたく……ない、よ」
「セロンも……クレアも……やだよ」
「いや、だよぉ」
飾らない欲望も、ありのままの願望も、この男には――大人には届かない。
いつも、我が侭と断じてはぐらかすのだ。望ましくないからやめろと言ってくるのだ。恥だから隠しなさいと迫ってくるのだ。利口ばかりが大切なのだ。
みんなみんな、幼い殻を外から割って引きずり出そうとする。
バルバスも、ナタリアも、ラウルも、キールも、クレアも、セロンも。
大人たちはいつも外側ばかりしか見てくれない。
幼いばかりの欲は、ときに奥底で、誰かを願っているものなのに。
――これほどに純粋な想いなど、無いというのに。
「おい」
「うるさい」
「レナーシア」
「だまって」
明確な拒否を最後に、娘は耳を塞ぐように腕に顔を埋めた。お前の言葉なんてもう聞かないと、殻に篭って座り込む。
だって動く必要が無い。彼無しではもう、先へ踏み出すような理由もない。あんなに光って見えた世界にも、何の興味も沸かなくなってしまったから。
――放っておいて。捨てていって。おしまいまでずっと、このままでいさせてよ。
どうすればいいか分からないなら、無関心を装って先延ばしにしてしまおう。
先のことを考えるのが怖いなら、自暴自棄に全部投げ出してしまおう。
「……ああ。そうかよ、わかった。よーくわかった」
でもレナーシアは知っている。この男はそんな言い訳、薄くて脆い殻なんて、見逃してくれない。閉じこもることも許してくれない。泣きじゃくる子どもにも、逃げずに不器用に向かい合う。
「お前がやりたくないってことはよくわかった。もう十分だ」
だってずっとそうだった。私から一度も逃げなかった。怖がってたくせに、あんなにボコボコにされたくせに。私の目をまっすぐに見て話しかけてくれた。いろんなことを教えてくれた。
だから私は逃げられない。
――やだ。怖い。
私を引きずり出すために、
――外は、怖い。
キールは叩いてくる。
――やめて!
殻にヒビを入れようと強く、強く、強く……っ!
「じゃあ、何をしたい?」
――『内側から』、レナーシアの殻は叩かれる。
「……あ」
――どうして、ここにいるの。
――私の、私だけの殻なのに。
雲がはけ、傾きゆく太陽が縮まった娘の背中を照らす。伸びた娘の影はまっすぐ男に繋がって、それはまるで――まるで影がそのまま、立ち上がったかのようだった。
「全てと引き換えに、一つだけ得られるなら」
――私が、私の影が語りかけてくる。
「『一つ』だけだ。何を成し遂げたい?」
「私、は」
唇は自然と動いていた。だって低い男の声は、影の問いは、そのまま私の言葉だから。
「一緒に世界を見たいか」
「……ううん」
「また一緒に暮らしたいか」
「……違う」
「ただ隣にありたいか」
「いらない」
「もう一度会いたいか」
「違うよ」
「心から愛されたいか」
「ぜんぜん違う」
「幸せになってほしいか」
「そんなんじゃない」
「無事なら、それでいいの」
――殻が、音を立てて弾け飛ぶ。
瞬間、鋭く跳ね上がった娘の腕は、影の胸ぐらを掴み取っていた。
「ぐっ!」
「……そっか、そうだよね。それだけだ。『それだけ』でよかったんだ」
ギリギリと、絞られる肌に糸編みの紋様を蠢めかせ、黒い尾がしなやかに振るわれる。
ドレスは無風のうちにたなびいて、低く重い唸りが再び場を支配した。
「なんでもいいから。ただ、生きてて欲しい。約束?旅行?一緒?暮らす?隣で戦う?馬鹿みたい。そんなの全部どうでもいい」
これまで築いてきた全てを足蹴にして、娘の心は立ち上がる。命の躍動を携えて、獣は有るべき姿へと還る。
捕らえた獲物を引き寄せて、見せ付けるように牙を打ち鳴らした。
「教えて。セロンを、クレアを、助けるの。私は何をすればいい?何を知ればいい?ねぇ――」
煌々と輝く白い螺旋で、漆黒の瞳を睨み上げて。
レナーシアは月夜に秘めた最後の問いを口にした。
「――あなたは、だぁれ?」
その一言に、囚われの影は、眉をくいと愉快げに持ち上げた。
瞬間、汚れた漆黒は鮮やかに色づいたのだ。
「『キール=カームルート』」
男が浮かべた小さな笑みは、新芽のような緑だった。
「枝角の王の、忘れ形見だ」
想いは純粋なれど【中編】 終わり
後編に続く




