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想いは純粋なれど  作者: 宿屋
16/28

ここから終わる物語


 ――ロ――――――ば―――


 夢を、見ていたような気がする。でも本当に夢だったのかも分からない。風景も、熱も光も、匂いも、あまりにリアルにこびり付いていた。


 ――――ロン――――ねえ―――と――


 僕はあそこに何を置いてきたのだろう。どうして忘れていたのだろう。忘れてしまってはいけなかったはずなのに。


 ――――ロン―――セロン――――――


 あれは僕の、罪なのに。 




「セロン!」

「あ……」


 甘い呼び声に、セロンはふと戻ってくる。

 北の喧噪は収まって、次は西の方が騒がしい。そんな建国以来の争乱を目の当たりにしても、丘の上、忘れられた石塔はやはり静かに佇むだけだった。

そして少年と少女が絆を交した聖域は、今も変わらずにその役目を果たしてくれる。


「っ――セロン!大丈夫!?」


 塔の主、レナーシアは開口一番に絶叫を上げ、姿を現した青年に掴みかかっていた。

 セロンの身なりはほうぼうの体だ。上等な上着は消え、顔も服もどろどろに土に汚れ、ぐしゃぐしゃに暴れる金髪は目元にかぶって表情も読み取れなかった。


「うわまっ赤!あ、でもこれセロンのじゃないね。なんか嗅いだことあるけど、誰だっけ」


 レナーシアは血糊のこびり付いたセロンのシャツを引っ張り、その下が無傷であることを確認する。

 青年は先からフラフラとされるがままで、伏せきった頭を上げる素振りも無かった。


「レナー、シア」

「ほら疲れたでしょ。こっち、座って座って」

「レナーシア、僕、北、城塞で」

「知ってる。ここからずっと聞いてたよ。いいからほらもう、座ってってば!」


 レナーシアはすっかり前後不覚のセロンの手を引き、いつもの彼の場所、欠けた台座へと導いた。

 腰を降ろしても青年はまるで人形のようにがっくりと背を曲げたままで、娘はそんな彼をかいがいしく支える。


「怪我は――多いね。切ってるしぶつけてる。でも小さい。大きなのは、ない。中身、ぶじ。骨、折れてない。音聞こえてる。あったかい。すごく汚れてるけど、お風呂入ればだいじょうぶ!」


 レナーシアはぺたぺたとセロンの身体に手を這わせて、乱雑な、しかし間違いの無い診察を終える。そして青年の命に別状が無いことを知ると、ハフーと大仰な一息をついてから、


「よかったぁ、もう、心配したんだよ」


 これまでの不安を開放するように、しっかりと青年を抱き締めたのだった。


「……ごめんよ」

「ずっと音聞こえてた。でも名前呼ばれなかったから、きっと大丈夫だって。待ってた」

「う、ん」


 セロンの頭はやはり上がらず、相槌もか細く消え入るよう。

 レナーシアは一通りの抱擁に満足すると、青年の顔を覆う髪の毛を避けようとして、しかしふと手を止める。小さな掌とセロンを見比べて頭を揺らし、思い出すように中空を仰ぎ見て――


「――よしよし」

「……っ」


 ふわり、とセロンの髪が柔らかに包まれる。

 わしゃわしゃと、青年の頭を撫で回すレナーシアの手つきは、ぎこちなく両の手まで使うあたりまったく慣れていなかった。

 だが、優しかった。

 純真な労わりが伝わってくる、慰めだった。


「お疲れ様。大変だったね。がんばったね」

「レナーシア――僕はっ」

「負けちゃったね」

「っ!」

「残念だったね。悔しいね」


 娘の言葉は柔らかく温かくとも、夢までは見せてくれない。

 失意に汚れた拳がぎゅ、と、レナーシアのドレス握り締めた。

 やがてフルフルと震え始めたセロンの身体を、レナーシアは再び、胸に包み込むように抱き止める。

 これは真似事だ。これまで青年から与えられてきた教えを、レナーシアは真似るように実践する。


「嫌だね。負けるのって悔しい。私、負けたことはないけど分かるんだ。できないこととか、できなかったことは、たくさんあるから」


 例えば、大切な人を止めることができなかったこと。

 例えば、大事な人を助けられなかったこと。


「セロンはできることを、できるだけがんばってる。いつもそう。ずうっとそう。そんなに力いれなくてもいいのに、いつも一生懸命にさ」

「そんな、こと」

「分からないの?覚えてない?私は全部覚えてる。たくさん助けて、守ってきたでしょ。困った人も泣いてる人も、怒ってる人も失敗した人も、ちょっと落ちそうになったのだって捕まえて。一つも残らずやっつけちゃう。私だってそうしてもらった」

「――うん」

「私、いっぱい感謝してる。絶対みんなもおんなじ。セロンにしてもらったこと、もうお返しできないくらい大きいんだ。だからだれも怒んないし、だれもダメなんて言わない」


 レナーシアは胸元の青年の頭に顎を乗せ、できるだけ彼の近くで、囁くように言葉を紡いだ。


「だから、もう行こう。セロン」

「……君、も」


 そんな誘いの言葉に、セロンは未だ背を曲げて、娘に抱かれた頭をゆるゆると振るった。


「君も僕に、逃げろって、そう言うんだね」

「ン、んー……」


 自罰的なセロンの言葉に、レナーシアは訝しげな唸りも束の間。娘はトン、と青年の肩を押して、踊るように距離をとった。 


「セロン、それ多分違う。よくわかんないけど違うよ。だってセロンに逃げるなんてぜんぜん似合わないもん」


 知った風な口ぶりを残して、レナーシアはステップ一つでくるりと回り、大きく腕を広げる。胸中に秘めた大きすぎる何かを、青年に披露するように。


「セロンはね、出発するの!」

「っ」


『出発』。

 娘は壊れゆく日常を背に置いて、それでも尚、前を向く。


「新しくて楽しくて、でもすっごく大変かも知れないところに、誰よりもいちばんに行くんだ!」


 それは「おしまい」を乗り越えた、娘の確固とした価値観だった。何かが失われれば、また先に、得るものがあるのだと。


「だって私が最初にここからから降りたとき、セロンは手を繋いでくれてたよね。セロンが立っててくれたから、私、怖くなかった。出発できたよ」


 レナーシアはその身に刻んでいた。

 引かれるままにたどたどしく、世界の片隅に踏み出した瞬間を。月夜に流れる風の香り、流れて遊ぶ草の音、湿った土に触れた足、握られた手の温かさを。全身に走った感触に、最初の空白が埋められた瞬間を。


「私はセロンに前を見ていてほしい。前を歩いててほしいよ。そうすれば後から来る人も安心できるんだから」


 彼がいる、前にいる。だからそこは踏み出しても大丈夫だと、後ろの誰かに伝わっていく。娘は爛々と煌く純白に、そんな青年の力を信じていた。


「クレヴァシアはなくなっちゃう。セロンのお仕事も終わっちゃった。でもまだあるよ。まだまだあるよ。世界はずっと広くて、いろんなものがあるんだから!」


 娘は手を差し伸べる。かつて狭い檻から連れ出された足先を、今度は自ら向けながら。

 娘の未来だけを見る。はるか遠くの景色を、経験したことの無い冒険を心待ちにして。

 あとは隣に、一緒に歩く人がいればいい。



「だからセロン、遊びに行こう!遊んで楽しんで、探しに行こうよ!」



 それはあまりに子ども染みた誘い文句だった。

 そしてレナーシアにとって、これほどに「言葉」を並べたのは初めてだった。

 ずっと仕草で、態度で触れ合うばかりの日々でも想いは伝わってきた。それで十分だと思っていた。

 でも、


 ――今ぶちまけたその言葉、大事に取っておけ。

 ――お前の言葉なら、きちんと伝わる。


 あの影がそう言ってくれたから。

 セロンはきっと立ち上がって、一緒に前を見てくれるから。




 そして青年は、頭を上げた。




 古びた石塔に、赤みかかってきた空。目の前には自分を――今は自分だけを見てくれている、少女の姿。


「……レナーシア」


 昔よりも大きくなった背丈に、風になびくドレスは白い花弁のよう。黒い尾は振るうたびに違う表情を見せてくれる。大きな瞳は期待に満ちてキラキラと煌き、螺旋の銀細工は変わらず美しかった。


「セロン」


 レナーシアはしっとりとした笑みと共に、小さな掌を差し出してくれる。これまで引いてばかりだった手が、初めて導いてくれようとしている。前へと、未来へ踏み出す入り口へと。


「君は、僕を」


 セロンはおずおずと手を伸ばし、迷いに揺れる指先が、迷い無い娘の手に触れた。

 今は彼女だけ見ていればよかった。彼女だけを見ることができていた。彼女の声だけを聞くことができていた。今だけはこの純真な想いに浸って、縋って、引かれるまま踏み出せばいい。




 ああ、この塔はなんて見晴らしがいいのだろう。

 世界が開けて、いっぱいに広がっている。


「――――――――――――――。」


 どうして見なくていいものまで、見えてしまうのか。




 ――レナーシアは朗らかに笑っていた。

 

        ――黒煙立ち上る国を背にして、笑っていた。


                ――とおくで、たくさんの、ひめいが






 ――あ。


 レナーシアは、変わったことに気が付いた。


 ――ちがう、これじゃない。


 灰色の曇天と、くすんだ金色。鈍く照り返す黄土色。適当に選んだ絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜて、塗りたくった下手くそな肖像画。


 ――こんな顔、知らない。


「っセロン!」


 レナーシアは触れたきり止まった青年の手を、自ら掴み取った。根拠の無い焦りに追われて。


「ほら行こ!準備もたくさんあるんだから。クレアと一緒に、ナタリアの家に戻ろう!」


 どうしてだろう、こんなに近いのに。どれだけ強く喉を震わせても、陽炎に吸われて消えるだけ。


「っ、出口もさ。ずるっこだけど勝手に超えちゃお。私なら城壁なんてひとっ飛びなんだから!」


 やがてすり抜けるばかりの言葉に、娘は見つけた。月明かりの下で手を繋ぎ、肩を預けて頬に触れ合った――あの瞬間には無かったはずの隔たりを嗅ぎ付けた。

 この匂い、嫌な匂いは――


「だからっ、セロン、早く……!」

「――まだ」


 しかし、レナーシアは間に合わない。


「セロン?」

「まだ、残ってた」


 青年の想いがどろりと溢れ出す。


「っセロン!」

「終わってなかった」

「終わったよ!もう、ねえ」


 どこか遠くに響く小さな否定の言葉は、しかし夕映えに溶けて消えるだけ。セロンは掴まれた手を忘れたように、お構いなしに視線を巡らせた。

 北に落ちかけの大城壁。南に王が不在の宮殿。西には襲撃を受ける城塞。そして東は――


「そう、そうだ。東城塞なら施設がまだ残ってる。一時的な分くらいなら賄えるはずだ。大城壁が落ちる前ならまだ!だったらまずは士気が大事だ、通信網の回復から入らなきゃ。クレアは今――」

「セロンッ!!」


 今度こそ耳をつんざく絶叫が、青年の妄想に噛み付いた。


「っまだ分かんないの?まだ分かってくれないの、ねえ!?もう終わったんだってば!」


 ガチン!と牙が鳴る。レナーシアの強烈な眼光は、怒りの形相となって青年を貫いた。表情だけではない、ガリガリと全身の繊維が逆巻き擦過音が響き渡る。

 レナーシアの全てが、想いを映して暴れだす。


「私は分かってる!全部聞こえてるし見えてる!ずっと取られた場所から撃たれてるっ。でもやられっぱなしで、ぜんぜんやり返してない!だって兵隊さんたちもぐちゃぐちゃで、あっちこっちでうろうろしてるだけなんだから!」


「誰も何もわかってない!でも私は分かる、今五人死んだ!今も七人死んだよ!死にかけがいっぱいいて、そいつらもすぐに死んじゃう!これまで何人やられたか分かる!?もうとっくに数えてないよ私も!」


「光彩作る場所もぜんぶやられた!壁も消えて武器も動かないし、奏術も使えない!王宮にも変な足音がたくさんあって、でも誰も止められてない!カラパイスの人たちも出てこない!もう誰もいないんだよ!」


「っその血、思い出した!バルバスのでしょ!どうせあいつも死んだんだ!ラウルもいない!ナタリアもいない!何かできる奴なんて、もう誰もいない!」

「まだ僕がいる!」

「っ!?」


 レナーシアは、あまりの答えに絶句する。ここまで間違いない状況のどこに、人一人の力でどんな希望を見ることができているのか。


「だって、僕が戦えば勝てるじゃないか!」


 いいや彼は希望など見ているのではない。ただ現実が見えていないだけだ。

 レナーシアから真摯にぶつけられる想いも叫びも、表面をなぞるだけで全部すり抜けてしまっている。さきから青年の視線は眼下の街しか見ていない。


「こ、の」


 レナーシアは掴んだセロンの手を引き寄せて、顔をぶつけんほどに近づけた。ガリガリと渦巻く螺旋で串刺しにして、叫びで届かないならばもっと近く、もっと大きく吼えてやろうと。


「セロンは!もう!負けたの!」

「違う!僕は負けたことなんて無い!」

「違わない!」

「そんなことを!」


 そこには聞き分けの無い子どもが二人いた。分不相応な力を振りかざして、我を通そうとする二人がいた。

 だが両者の間には、一つだけ大きな違いがある。


「……ねえ、約束は?」


 そう、レナーシアはずっと待ち続けてきた。贈り物を待つ子どものように。告白を待つ乙女のように、純真な心で抱き止めてきた。


 ――戦いは終わった。まだ続いているみたいけれど、とっくに終わってる。

 ――彼はしっかりと支度を整えて、私の手をとって、一緒に広い世界へ飛び出してくれる。

 ――いつも通りの、素敵な笑顔で。


 娘は一度も違えずに、ただただ信じ続けてきた。


「だって私、ずっと守ってきたよ。約束だからって、大事だからって。苦しかったけどいつか、って」


 大丈夫、彼は一緒に来てくれる。笑ってくれる驚いてくれる。

 一緒に、一緒に、一緒に!


「ねぇセロン。約束……破る、の?」


 青年との旅路に見た夢を――閉じられた日々に差し込まれた光を――一度知ってしまった温かさを、また失ってしまうことの恐怖を――レナーシアの全てを込めた最後の「言葉」を。


「――ごめんよ、レナーシア」


 彼はどうしてこうも容易く、裏切れるのだ。


「どう、して」

「約束、守れなくて、ごめんよ」

「どうして……なんでぇ……」

「見捨てられないんだ」


 セロンには分からない。触れる全てを受け止めて、多くで満たしてきた青年には。

 娘はその大きな器を、不自由な日々に出会った、数少ない愛情で埋めてきた。「たった一人」を失うだけで取り返しが付かないほどに、まだ娘の宝物は少なかった。


 レナーシアには分からない。愛を込めて呼ぶ名を、片手ほども持たない娘には。

 青年には大切なものが多すぎる。抱えているものが多すぎる。有象無象と比べて「まだ大丈夫な」少女を後回しにできるほどに、青年は平等だった。



 一を望む者、多を取る者。

 始まりから、そして今に到るまで。二人は一度も、本当に相容れてなどいなかった。



「……やだ、やだよ」


 レナーシアは言葉を詰まらせ、呆然とかぶりを振るうしかできない。

 連れ去ろうとしている――餌食にされるだけの弱いやつらの叫びが、音なき悲鳴が、彼の耳元で囁いている。かつてレナーシアにセロンを与えて、今度は無慈悲に奪い去ろうとしている。


「ずるい」


 かつて叫びに叫んだ言葉が、無気力に腐って、今は空しく響くのみ。


「約束守んないセロンも、セロンばっかり頼ってるみんなも、全部ずるい」


 だって、言葉は通じないとわかってしまった。レナーシアにはもう、駄々を捏ねるように思いつく感情を吐き出すしかなかった。


「ずっと怖かった。ずっと嫌だった。セロンばっかり傷ついて、でもぜんぜん無くなんない。一つ終わったらまた、また、またって。いつかきっと本当に、取り返しがつかなくなっちゃう。だから約束したの。こんな場所から、セロンを連れ出したかった」


 約束もまた、獣の打算の一つだった。

 いつか青年を連れ去るために準備していた道だというのに。


「もう、全部放っておけばいいじゃない。みんな自分でやればいいんだ。セロンはもう自由なんだよ。私とおんなじ、どこでも行けるしなんでもできる。なのに、どうして――」


 ――仕事には、等しい報酬を求めろ。

 ――自分を安売りするな。

 ――ただ使われるだけには、なるな。


「何にも貰えないのに。誰も、何にも返してくれないのに」


 献身に身を費やせば、その先には滅びしかない。影からの教えは、幼く無邪気に踏み外しかけた娘には必要不可欠な教えだった。

 しかしレナーシアはまだ知らない。

 この世には、献身と滅びを天秤にかけてしまう愚か者がいることを。


「……貰ってたよ」

「なに、を」


 セロンの瞼が、眠りからの目覚めるように開かれた。青年の瞳は夕日に染まらない澄んだ青色を保って、まっすぐと前を向いていて――しかし未来は映さない。


「僕は貰ってた。僕は幸せだった。目線も感謝も、心地よかった。おかげでずっと忘れることができていたんだ。お返しをしなくちゃならないのは僕のほう。あの時はとても、できなかったから」


 子どもだったから。力が、無かったから。


「でも、僕はもう、大人なんだ!」


 あのときできなかったことを、今なら!






「……やだ。やだセロン」


 おかしい。この人は、おかしい。

 一体どこを見ているの、誰を見ているの?

 そこには何も無いじゃない、壊れかけの国があるだけだ。 

 クレヴァシアの向こうに、一体何を見ているの?


「だめ、待って、行かないでっ」


 レナーシアはもはや導きのためでなく、縋りつくためにセロンの腕を握っていた。胸元に青年の腕を抱きかかえ、喉元に噛み付くように顔を近づけて、その表情に絶望を映して。


「――連れてって。一緒に行こう、一緒に戦おうよ。私、何でもできるよ、何でも捨てられる。言ってよ手伝ってって。一緒にって、そうすればっ……!」


 絶対に一人では行かせないと、決して離すまいと力いっぱいに握りしめて。

 ――握りしめた、はずなのに。


「レナーシア。ありがとう」


 どうしてこんな細い指に、簡単に解きほぐされてしまうのだろう。



 ――飼い慣らされた獣の反抗など、所詮は甘噛みにしかならない。

 ――檻はとっくに壊れて、首輪も鎖も錆びている。でも結局、主がすげ変わっただけだった。



「今までずっと、ありがとう」


 糸編みの頬を撫でたセロンは、とても穏やかな顔をしていた。優しい温かな笑みだった。

 でもそれは、いつも誰かを救うため、幸せにするために張り付ける、鍍金の笑顔だった。


 レナーシアに初めて向けられた、偽物だった。


「さよならだ」



……

………

…………



 ―――少女の元へ向かう、少し前―――



「逃げるんだよ。もちろん、お前らも一緒に」


 さして張ってもいない兵士長の声が響くほど、東城塞はしん……と静まり返っていた。

 昼まで詰めていた数百人の兵員は影もかたちも無い。とっくに身内と最小限の荷をまとめ、通商路から東方へ逃れていたのだ。


 残るは兵士長と、彼に近しい十人程の小隊のみ。

 彼らはセロンとクレアが戻るや否や、周囲を隙間無く取り巻いていた。

 ぐしゃぐしゃの髪に顔が隠れて、考えを読めない青年を。その後ろで顔を伏せっぱなしの女史を。

 両者とも、決して逃がさないように。


「どんな馬鹿でも分かんだよ。北城塞が取られた時点で、負けだってな」


 実際、東城塞は事態をどこより早く察知していた。かつて賢人が築いた情報網から吉報は一つももたらされず、兵士長は早々に決断を下す。


『逃げんぞ。家族連れてこい。荷物まとめろ』


 戦力は無くとも、集団としての活動能力は随一。

 賢人が育て、その弟子らに技能を維持されてきた東城塞兵は、西城塞が襲撃を受けた頃には、偵察におとりに本隊、合流日程に補給地点、全てを定めて出立していた。

 城塞を離れていた二人の仲間を、兵士長に任せて。


「なあ、セロン。今更お前が気張ったところで、何も変わらねえ」


 兵士長はいつものように軽薄に嗤う。ただしコッコッコッと鞘を叩く指には、抑えきれない苛立ちが滲んでいた。


「あの方も亡くなる前に、俺に任せてんだ。親代わりの言うことは聞くもんだろう。なあ?クレアちゃん」


 兵士長は、セロンの後ろで顔を伏せる、表情を窺い知れない娘にも矛先を向ける。


「お前からもコイツに言ってやってくれよ。戦うなんて、マトモじゃねえって」

「ええ確かに。正気じゃない」


 なんともぶっきらぼうな声色に、兵士長は心中で胸を撫で下ろした。これこそクレア=シュタイン。いつも通りの彼女なら、正義感に狂う青年も留めることができるはず。

 しかし持ち上がったハシバミの瞳は、それ以上に理性的だ。


「ただし、逃亡も正解とは言えません。クレヴァシアの城壁の外で、東城塞の面々だけで、どのように生きていくおつもりですか」


 ピンと伸びた背から放たれる問いは、誤魔化しを許さない鋭い刃だ。


「んなもん、そこいらの村でも襲うしかねえだろ」


 だからこそ兵士長は正直に、真正面から笑って受け止める。周囲を囲む兵らも、賛同するように下卑た嗤いを上げた。

 笑いの裏側に、酷薄な眼光を潜ませて。


「それだけじゃねえぞ。必要なら奪う。邪魔してくるならぶっ殺す。自分のために、仲間と家族ために、これからは他を食いもんにやってくんだよ」

「国を守ることより、無法者の道を選ぶと?」

「ああ、それが正解だ」


 一歩前に出た兵士長は、セロンを挑むように睨みつけた。


「いいか。大切なのは生きることだ。どんなに卑怯でも無様でも、まずは生きなきゃならねえ。この世に生まれた以上、それは義務だ」


 若造に教える。栄誉でも名誉でもなく、命こそが第一だと。


「法が守ってくれねえのに、なんで法を守るんだ。フェアじゃねえぜ。奪わなきゃ生きていけねえような奴まで縛るルールなんざ、この世にはねえ。一つとしてな」


 教える。一歩城壁の外に出れば、そこは法の支配の外なのだと。


「獣の嬢ちゃんのことも心配すんな。連れてこいよ。なぁに、これからキツい生活になるんだ。最強無敵の嬢ちゃんをありがたがる奴はいても、疎ましいなんていう奴はいねえ」


 教える。力こそが必要であり、獣の娘は誰もが大切にしてくれると。


「これからは、正義とか、道理じゃねえ、立ち回りの時代だ。だったら全部、俺が責任をもってやる。逃げたことへの批判も、無法への罪も、嬢ちゃんへの偏見も、全部だ。俺がなんとかしてみせる。誰にも、お前らを攻撃したりさせねえ」


 そして宣言する。大人の俺が、お前たちを守ってみせると。


「俺がおっ死んじまうまでは、全力で、なんとかしてみせるさ」


 酸いも甘いも知る男は、狩人が放った悪意すら喰らって咀嚼し吞み込んで、自分のものにしていた。

 普段は調子に乗っていても、その立場は違いなく城塞の長。部下から信認を受ける理由も、必要なときには必要な分だけ真っすぐになれる、その性格が故だ。


 彼が真顔で語るとき、嘘や誤摩化しは無い。


「――――――――――――――――――はあぁぁ……」


 そんな面倒な性格を誰よりも知るからこそ、クレアは熟考の末に深く息を吐き出した。心身の摩耗が伝わってくる、重たい吐息を。


「ねえセロン……悔しいけれど、私も彼らに賛成です。正解ではないけれど間違ってない。なにより、利口。私たちが取るべき道もこちらでしょう」


 言われるまでもなかった。ここまでの道のりで、クレアも同じような内容を絶えず言い聞かせてきた。何かを守る権利すら、まず自分の面倒を見られて初めて得られるものだと。

 兵士長に説得を任せたのは、二対一なら曲げられるかもという希望から。

 これでもダメなら、残るは小さく純真な砦だけ。だから――


「ああ、もぅ……」


 青年が深々と頭を下げた瞬間、彼女はもう、全てを諦めるしかなかった。


「ごめんなさい。僕は――」

「行かせねえぞ」


 問答無用。ドスの効いた声を皮切りに兵士長は肉厚の剣、その柄に手をかけた。

 彼だけではない、囲む十数人の兵もまた各々の得物に触れる。たった一人に対峙し――救うために。


 一触即発の緊張に、セロンは曖昧な笑顔を向けるだけだ。影の色濃い、心労の刻まれた表情を。


「あなた方を巻き込むことはしません。そのまま東の行路を――」

「黙れクソガキが!ぶん殴ってでも連れて行く!」


 的外れな言葉に兵士長は怒号で返し、刃を抜こうと腕を膨らませて――


「……っ……かっ……」


 ――ビタリ、と静止する。

 筋肉質な腕がブルブルと震える。柄頭に添えられたセロンの手の平に、剣がまったく動かない。


「ッテメエ、そいつは……!」


 その異常な力の源は、セロンの肌に刻まれた黄金の模様――最古の奏術に他ならない。青年の指先に散けて回る黄金の欠片に、兵士長は目を剥いた。


「そいつは、『太陽』、の……っ」

「あなたでは、僕は止められません」

「んなもんはなぁ、分かってんだよコラ。それでもやんのが大人だ」


 元の実力で敵わず、さらにカラパイスまでついてきてはどうしようもない。それでも尚挑もうとするのは、脅威に背を向け、挙げ句の果てに国を捨てようという男の、しようのない最後の矜持か。

 血走った瞳の奥に計算高さも追いやって、兵士長は前に出る。


「やるぞテメエら!この分からず屋に!」



「――兵士長」



 瞬間、挟み込まれた平坦な一声。

 兵士長が、迎撃に構えたセロンが、その他誰もが――均される。

 身体を動かす熱ごと氷漬けにされたかのように、動きを止めてしまう。


「もう十分です。これ以上は損失にしかなりません」


 セロンと兵士長。両者の合間に割り込んだクレアは、両者の腕に手を添えていた。

 女史は分厚いレンズの向こうから、冷や汗でドロドロの兵士長の顔を、穏やかに揺らめく瞳で捉える。


「あなたが怪我でも負えば、皆を纏めることもできなくなってしまいます。確かに私たちへの責任もあるでしょう。しかし、多くの兵員にそのご家族、そして財産……決して私たちと釣り合うものではありません」


 今まさにメディウス山脈を抜けようとしている、数百の人々がいる。東城塞に長らく根ざしてきたクレアには、彼らを指揮できる人物がただ一人しかいないことを知っている。

 剣もまともに振れないか細い女の腕は、その端的な宣言でもって二人の男を容易に引き剥がした。


「クレ――」

「あなたを必要としている人は、私たちみたいな向こう見ずなんかより、他にたくさんいらっしゃいます。どうか……見てください。ご自身の周りを、もう一度」


 理論でセロンと競い、理屈で兵士長とやり合ってきたのが、他ならないこの娘。いかに二人を連れ出すか、それだけに頭を支配されていた兵士長は、女史の導きに初めて周りを見回すことができた。


 ――付き合いも長く信頼もおける、家族同然の部下達だ。確かに彼らは手を貸してくれた。

 据わった目で、恐怖と興奮に息荒く、震える腕で武器を握って。今この瞬間に北の民が襲ってくるかもしれないという状況で。


 こんな内輪揉めのために。

 我が侭のために。

 ああ、彼らのうち、妻を、子を持つのは、何人だった?


「ぁ………」


 そう思いを巡らせたが最後――ふと、兵士長の力は抜けてしまった。

 腕は柄から離れてだらりと垂れ、そのままがっくりと膝を落として。

 必死に膨らませて取り繕っていたのだろう。心を満たしていた責任感がしぼんで、残ったのは、吹けば飛ぶような抜け殻だけだった。


「………」


 セロンは崩れ落ちた恩人に深々と一礼を置いて、踵を返した。歩みはまるで足を引きずるかのように重たく、それはただの疲労ゆえか、それとも未だ残る葛藤の嵐か。

 だがその足先の向きだけは、頑なにぶれない。

 囲んでいた兵らの足は自然と下がり、まるで門のように開けた。


 小さくなってゆくセロンを背に置いて、クレアは言葉もなくゆるゆると腰を落とした。そして呆然と脱力した兵士長の頬に、優しく手を添えたのだ。

 未だに燻る熱を、ひんやりとした体温が僅かに奪う。娘の柔らかな肌には、無精髭がちくちくと痛い。


「……クレア……なぁ」

「私も、行きます。あれ一人では本当の本当に、あっさり死んでしまうから」


 弟弟子と同じ道を行くことは、城塞に戻る前から決めていた。自棄になったわけでも、雄志に燃えたわけでもない。自分が一番必要とされる場所に行くだけだと。

 賢人の技は、二つで一つなのだから。


「やめろ……ダメだ、そんなよぉ」

「ありがとう」


 最後の懇願にも応えることはできない。クレアは軽やかに腰を上げ、つ、とスカートを摘み、上品に一礼する。持ち上がった表情は、実に朗らかに笑っていた。

 密かに想いを寄せた男だけに見せる、愛らしい笑顔だった。


「またいつか、お会いしましょう」


 さようならと永別ではなく、またいつか、と希望を混ぜ込んで言い放つ。世界を操る奏術の源は、歌であり、物語であり、言葉なのだから。

 それが最後。片割れを追って駆け出した背中に、悲鳴じみた怒号が届く。


「クソ!クソ!クソ!くそがああああああああ!」


 叫びとともに地に拳を叩き付ける音は痛々しく、しかしそれだけでは、死に行く者を止めることはできなかった。



……

………

…………



「………………」

 クレアが石塔の入り口を眺める時間は、そんな別れの記憶を反芻するのに十分だった。

 では隣に立つ狩人は、この間に何を思っているのか。何も読み取らせない表情の向こうで。

 乾いた泥と皺にまみれたスカートが、相変わらずの漆黒の外套が、共にバタバタと風に煽られる。


「あんたは――あぁ」


 石塔の頂点からかすかに届いた叫びを聞き流して、キールは億劫そうに首を鳴らす。聞こえよがしなため息すら吐いて。


「最初から思ってた。頭でっかちだってな」

「あの子なら、可能性がありました」

「ガキの説得を子どもにやらせてどうする」

「先達の言葉が通じないならば、別のやり方を。それだけです」

「誰が尻拭いすると思うんだ」

「それこそ、たった一人のお友だちの権利ですよ」


 クレアはかくり、と首を傾げてキールを見上げた。薄い微笑みは疲れのせいか、結いが崩れて顔にかかる髪の毛のせいか、妙に妖艶なものに見える。

 だがキールは、舌打ちと共に不快感を吐き出すだけだ。


「投げやりな顔しやがって。どうせ死ぬなら、二番目にしときゃあよかった」

「は?」


 意味不明な単語に怪訝な顔をするクレアを、キールはまったく無視して石塔に向き直る。

 やがて薄暗い石塔から出てきたセロンは、強ばり歪んだ笑顔で――もはや笑いとも呼べない奇怪な表情で、キールに頭を下げたのだった。


「レナーシアを、お願いします」


 青年を見下ろす漆黒の瞳は空虚だった。哀れみも蔑みもなく、ただ向けていただけの視線もすぐに外される。


「確かに」


 キールは端的な一言を残し、憐れな青年の脇を触れることも無くすり抜ける。

 震える青年には一瞥もくれずに、そのまま無造作に石塔の奥へと消えてゆく。


 狩人が消えても、青年の頭はまるで石でも吊り下げたように上がらない。背中を曲げたままふらりと出した足取りは覚束なく、それでも足先だけは執念染みて、真っすぐ本国に向き続ける。

 小さく萎んだ背中から、きっちり一歩分を開けて、クレアはぴたりと着いていた。


「――……っ………っ…………」


 駄々のような、ふらふらと情けない悲嘆。

 遅々として進まない歩みに、クレアの決断は速かった。


「っ!!」


 落ちきった肩を引っ掴み無理矢理振り向かせると、パアン!と、小気味良い音が響き渡った。


「しっかりなさい!フィロスタリア!!」


 頬を張った手はそのままセロンの腕を掴み取って、引き摺るように歩き出す。レンズの向こうで顔を歪め、瞳を潤ませ、それでも最後の堰は守り通そうと、声を荒らげて意識を逸らす。


「っだから、だから何度も忠告したでしょう!いつかこうなるって、そのときになっても遅いって!もっと早、早くに別れておけば、こんなっ……!」



 ―――何を考えてるのですか―――ペットでも飼っているおつもり―――無事で済むと思っているの―――あなたも、この子も―――いずれ―――



「こんなこと、に……なんてっ」


 初めて幼い獣と出会った日、軽率な少年を責め立てた言葉を、かつてぶつけた正論を免罪符にする。結局は自分も幸せな日々に浸かってしまったことを棚上げにして。

 棚上げしなければとても耐えられなくて、叫ぶのだった。


「ごめん、ごめんよ、ごめん……」


 青年のそれは誰に向けた、何に向けた謝罪だったのか。

 繰り返される声はやがて丘の向こうへと遠ざかり、消えていった。


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