詰み手
「…………――――?」
「――――――――!」
何者かの会話が、高い空に吸われて消える。
消えた天井から覗く陽は傾き始めており、戦いを終えた北城塞を照らしていた。天井の落下や壁面の崩落、そして火災――所々の闘争の痕跡は目に入りやすい。
しかし地に立つだけでは、真の被害の全貌は知れないはずだ。
北城塞の西側一角が、跡形も無く消失していた。
何か巨大な存在がうねったように、丸ごと抉り取られている。瓦礫と呼べるものすら残っておらず、ただ石臼でひいたような細やかな砂塵が、風に巻かれて渦を成していた。
最終局面、たった一分の間に引き起こされた被害だ。
「――よくもまあ、暴れてくれたものだ」
さらり、と手掴みにした砂塵をこぼしながら、ヘルゼは見晴らしの良い景色を眺めていた。
身に着けていた軍服は大きく裂かれ、破れた肌の下から覗く鱗も乱雑に逆立っている。逆の手に握られた愛用の剣に目を向ければ、刃が根元から断ち切られ失われていた。
ため息まじりに柄だけとなった得物を放り投げると、背後に声をかける。
「どれほどやられた?」
「Zoku,,,Muse――ORoU――!」
問いに返されたのは、言語とは呼べない、石を擦り合わせたような雑音だった。
振り向けば、凹凸の無い石の能面がヘルゼの眼前に突き出される。つるりと滑らかな表層に映りこんだヘルゼの顔は、嗤いを噛み殺していた。
「何を言ってるのかわからんぞ馬鹿者。映し身をとれ、映し身を」
叱責に応え、ピシリ、と能面に一本の亀裂が生まれる。やがてバキバキと音を立てながら生まれた凹凸はまるで目鼻のようであり、成された「顔立ち」は素材こそ無機物であるものの、正真正銘副官マルネアのものだった。
「G……Ga――ガっ――わガらん。だが、影ギョ――っつ――影響はな、い」
不快な雑音はやがて言語を成し、褐色の豪腕が喉を殴るように刺激すると、音はすっかり通って壮齢の男の声となる。
「――砲台は、なんとか守りきった。だが水路が基礎ごとやられて光彩生成に難がある。賄いきれればよいが」
「あれ相手なら、十分な戦果だろうさ」
だが言葉の裏腹に、前髪を掻き上げたヘルゼの目元は陰鬱だ。先から何度見渡しても、戦場をあらん限りに引っ掻き回した紫色の姿は無いのだから。
マルネアもまた開けた風景を一望して、地形に逃げ道の目測を付ける。
「追うか?」
「行方の捜索だけだ。手負いと若造相手なら数人で十分だが、アングィスに向けるには兵が足りない」
ヘルゼは平静を装ってはいたが、無理に押さえ込んだ語調に不自然さは隠しきれていない。
「後は……予定通りだ。西城塞の攻略に入る。被害を把握し、部隊を再編成しろ。本隊は?」
「夕には先遣隊が達する。脚の良い者から順次に」
「一次作戦の成功を知らせてやれ。後続の足も速まるだろう」
「『成功』、でいいのか?」
そんなマルネアの不遜な物言いに、群青の瞳が巨躯を睨め上げる。強い苛立ちを向けられた副官が返したのは、灰色の髪にぽん――と、いや、ズンと載せられた掌だった。
「……重いぞ」
「背を曲げるには丁度いいだろう」
確かに、先からヘルゼの立ち姿は勇猛な将ではなく、しょうのない失敗に落ち込む若い兵卒のようだ。
苛立ちを抱いたとき、燃やして外に投げつける者もあれば、内に仕舞い込んでじりじりと焦がす者もある。ヘルゼは典型的な後者であった
それを知るマルネアはむしろその巨躯を壁として、ヘルゼの姿が他から見えぬように隠してくれている。
「気にするな。あの傷なら助からん」
「バルバスの奴はどうでもいい。『太陽の試練』も、奴の息の根が絶えれば使い物にならん。不安は無いさ。だが……ディルバの戦士達の命を、結局、無駄にしてしまった」
「む、ぅ……」
ヘルゼが低い声で語るそれは、数日前の東城塞における作戦行動――無計画な襲撃を装った、北城塞の頭を潰す暗殺計画――その顛末だ。
北城塞の第一司令官を、演習の名目でおびき出した。ターゲットは東城塞の襲撃に惹かれ、ディルバの戦士に叩き潰される。そして生まれた権力の空白に今度はバルバスが食いついた。そして本日バルバスを潰し、カラパイスの兵力を削り、北城塞を陥落せしめた。
大のつく成功と言っていい成果。
しかし――
「作戦通りに撤退しなかった、奴らの失態だ。お前の責任じゃない」
「しかしっ!彼らの蛮勇が、アレの存在を露にしてくれた!」
発覚は、偶然の産物だった。
撤退するはずだった七名の戦士が、全滅するという異常事態。
だが有望な若者らの命と引き換えに、国内に長く噂されながらも正体を掴めなかった「白い獣」の存在が、東城塞に浮かび上がったのだ。
「東城塞には、いまだ賢人の力が残っている。それを恐れ、これまで手をこまねいていたツケがきた。ここで正体を掴んでおきたかった。決着をつけておきたかった。つけるべきだった!」
戦いにおける最も危険な要素は「不明」に他ならない。
どれほど勇猛な戦士も、強力な軍勢も、数と中身が知れれば策を打てる。強固な城塞を内側から崩し、強力な兵器を使われる前に廃したように。
だが、わからないもの相手にそうはいかない。だからこそ若者二人を使っておびき出し、正体を暴く手はずだったというのに。
ヘルゼは副官を見上げ、失策への自嘲の笑みで嗤いを誘う。
だがそんな主の道化ぶりに、従者は眉を顰めるばかりだ。
「ヘルゼ。確かに完璧ではない。宰相は生死不明で、死体すら手元に無い。部外者に参戦を許し、エサ二人は見事に逃げおおせ、結果正体不明の相手は未だ霞の向こう側。それでも――だ!」
慰めの時間はおしまいと、男は、主人の落ちた肩を強く掴んだ。
「っ」
「胸を張れヘルゼ。北城塞を落とし、カラパイス兵を十も討ったのだ!類稀な成功だと、豪語してみせろ!それが率いる者の責務だ」
痛みは気付けの特効薬だ。ヘルゼはそれが、信の置く副官のものであったが故に、短い眠りから覚めて強く頷くことができた。
「マルネア。北城塞の陥落、カラパイス兵の壊滅。及びバルバスの死を流布しろ。敵味方関係なくだ」
流血の戦いの裏では、いつでも別種の争いが繰り広げられる。味方の戦意を維持し、敵の士気を腐らせる情報操作。言葉を剣とし、ときに虚偽を術とする戦争だ。
「行くぞ。次の獲物は、西城塞だ!」
……
………
…………
落ちた北城塞から、遠く離れた川べりで。
「っ、ふっ……」
水流の音はいまだ近く、枯れ葉は何かを引き摺ったように押し退けられ、土には真っ赤な軌跡が太く色濃く残される。垂れ流された命の量は、見た者が息を呑むほど。
軌跡の終わりには、脱力して横たわるバルバスと、全体重をかけて傷を押さえるセロンの姿があった。
当て布に使われているセロンの上着は、強く赤が染み込んで見る影もない。
流れ出る体液はとうに黄金の輝きを失って、傷口がようやく真鍮のような鈍い照り返しを残すだけだ。目に見える命の衰えは、囲む者らを一層焦らせる。
「どうして、傷が塞がらないの。カラパイスの性能が落ちてる――なんで――」
傍らに膝を降ろすクレアは、ブツブツと思考をだだ漏れにさせていた。その手には愛用の筆記具も無く、切羽詰まったようにセロンの剣を取ると、自身のスカートに刃を這わせた。使える布を増やすために大きく引き裂こうとして――
「やめぃ」
その手を抑えたのはバルバスの、弱々しくも未だ重厚な声だった。
バルバスは水と泥でグシャグシャの髭面を、口元を震わせつつ嗤いに歪める。
「年若い娘が、それ以上、肌を晒すものではないぞ」
「っ」
確かに水に濡れたブラウスも肌着が透けてしまう程。しかしクレアはあられもない姿を隠すこともなく、ただ悔しく剣を置くだけだった。状況に見合わないバルバスのからかいに、もう小手先の処置では無駄だと言い切られてしまった。
セロンはそれでも望みは捨てたくないと、手を探る。
「クレア、奏術は?」
土に汚れたレンズが傍らの河川を向いて、しかし、空しく顔が伏せられる。
「光彩が、できない。ごめんなさい……」
整備された水路ならまだしも、うねり曲がり緩急激しく、頻繁に姿を変える自然の水流はあまりに不規則だ。奏術は音楽と同じく調律が必要で、荒れ流れる水から、吹きすさぶ風から、熱に揺らぐ大気から、光彩を生み出すことはできない。
環境が整えば無類の万能性を誇る奏者は、光彩無しでは、本当に無力だ。
もはや二人にできることは、足りない手と布で、命を引き延ばすことだけ。
「若き勇士よ。二人とも、よく、聞くのだ」
荒々しい呼吸に若者は頭を近づける。最期を前にした遺言ならば一言として漏らすまいと、息も止めて耳を傾ける。
風と水の音、遥か彼方の戦いの音を背景に、バルバスは息を吐くように言葉を紡いだ。
「これを――」
ゆるゆると持ち上げられた腕の先には鈍く輝く指輪があった。バルバスの命をすんでのところで繋ぐカラパイスだ。
「――フロイストへ、運んで欲しい。すぐにクレヴァシアを脱して、南へ!」
「っ逃げろと!?」
声を荒らげたセロンは、普段からは考えられないほどの激情に震えている。民が国の危機に諦め付かないのも当然で、その上に他でもないセロンの性格だ。
が、若い情動を叱責するように、バルバスは目を剥いてみせる。
「次へ、繋げるためなのだ。これは『太陽の試練』。かつてフロイスト皇帝から賜った、太陽神に連なる、唯一無二の――決して北に奪われてはならぬ!この成否は確実に、今後の、情勢、に――」
必死に願いを紡ぐ口元から、ゴボリと鮮血があふれた。それきりバルバスの身体は弛緩し、掲げた腕もふらふらと揺れ動く。
最期を見据えた男の姿は、セロンですら反駁を呑み込ませる。
ヒューヒューと壊れかけの呼吸を乗り越えて、バルバスはさらに言葉を捻り出した。
「おうが、王が、亡くなられた」
「っ!?」
予期せぬ崩御の知らせに、クレアはヒッ、と小さな悲鳴に口元を抑える。
「北ではない。病、昨晩だ。まだ、誰にも知らせていない。知られても、いない」
「しかし!しかしでも、まだ……っ」
未だに縋ろうとするセロンに対し、クレアは冷えゆく頭で現状を受け止めて始めていた。
まだ――なんだと言うのか。
王、宰相、軍事の長、カラパイス兵――全て崩れた。ヘルゼの手引きで国内外に北の民が出入りできたならば、襲撃から漏れた残り五つのカラパイス兵も、本国で毒牙に掛かっていることだろう。
議会も、各方面の機関も、光彩の生成施設すら、果たしてどれほど生きているか。
もはやクレヴァシアは頭の無い蛇だ。
今はまだ動いていても、いずれ死が追いつく。
「まだ……そ、そうです。まだ王のカラパイスが、『北風の旅人』があります!」
クレヴァシアにおいて例外的に軍属ではないカラパイスは二つ。
『太陽の試練』を運ぶのならば、もう一柱も、『北風の旅人』も運ばなくてはならない、と。
セロンは何かしら、国に留まれる理由を欲したのだろう。
だが、
「アレは、要らぬ」
バルバスは、その熱意を真っ向から否定した。
「王の、北風は――大戦でとうに、死んだ。もう、応えぬ……忘れよ」
朦朧としたバルバスの言い回しだが、言いたいことは二人にも知れた。既に使い物にならない品よりも、今手にある方を確実に運ばねばならない。
だが、それでもセロンは。
「っ………っ………」
「若人。貴様の気概、は、分かる……だが」
未だ指輪に手を伸ばさない青年に、宰相はさらなる現実を突き付ける。
「あの女――スウィフトの家は、建国の頃から、あったのだ」
「っ」
「もう遅、すぎる」
決定的だった。
クレヴァシア建国は大戦終結と同時。ならば十五年前――二人がまだ幼児だった頃から、既に北の民は国内にあり、ヘルゼは活動を始めていたということになる。
綿密に完成させた上で敵が開いた戦端に、今更割り込めるはずがあろうか。
「外ばかり、見て……まさか内側から、食い、潰されるとは……っ戦にも、ならなかった。クレヴァシアは、滅びる!」
一国の指導者には許されない言葉だ。
しかし、そこまで曝け出したことで、ようやく頑なな若さを動かすことができる。
「頼、む!」
「っ〜〜〜〜〜〜〜〜……!」
震える青年の手が、指輪に触れる。
瞬間バルバスはにやりと大きく笑い、血を吐きながら絶叫した。
「俺の体は!やづらには、渡さん!行けい!!」
武人の宣言と同時に、パチンと指輪が閉じて、
ゴ!とバルバスの身体が炎に包まれた。
「セロン!離れっ、離れてええ!」
動かないセロンをクレアが強引に引き離す。瞬く間に巨大となった業火の向こう、バルバスの指に黄金色は無かった。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
絶叫の嵐に、地に転がった若者は身を震わせる。
「おおおおおおおお!王よぉぉおおおお!今そちらへ参ります!聞かせて貰いますぞ!」
二人はどちらかともなく手を取って、炎の海に背を向けた。
「なぜスウィフト家を受け入れたああああ!知っておられたのでしょう!俺だけですか!俺が不満でありましたか!」
何に向けられているのかも分からない、断末魔から逃げ出した。
「貴様か!ぎ様の思惑かああああ!恨むぞ、ヒアリクス!ヒアリグ――ズ――ガアアアアアアアアアアアアア……アアアァァァ……ァ……」
途切れる声、木々の向こうへ消える炎。それでも二人は振り返らない。
繋いだ手を引っ張り合って、思いもかなぐり捨てて、必死に林を駆けるだけだ。
「っセロン!まず塔へ!あのっ、あの子を連れて行かないと!」
クレアは衝撃的な死の光景を、レナーシアの存在で無理矢理上塗りした。
宰相がはっきりと敗北を宣言したこともあって、元よりクレアの性格だ、クレヴァシアに留まろうという考えは欠片も無かった。思考は冷静にレナーシアを連れる逃げ道を描く。
(タイミングは、北の大城壁が破られたとき。追われる市民の波に乗れば、あの子を連れ出すのは簡単。でもクレヴァシアが落ちればもう北へは戻れない。南の土地で、長くあの子を隠せる環境を。フロイストにまっすぐ。いえ、援軍とかち合いになる前に迂回、を)
「――痛っ!?」
しかし突然手に走った痛みに、クレアの思考は断ち切られてしまう。
そして考えるのに必死だった女史はようやく、青年からの反応がないことに気が付かされた。
クレアの手を締め付ける、白くなるほどに力が入った拳。辿るように視線を上げれば、青年は指輪を握った拳で、ゴツゴツと額を絶え間なく叩き続けていた。
「セ、ロン?」
異様な青年の姿が、クレアの背にひんやりと怖気を纏わりつかせる。
いつぶりだろうか。彼が――ここまでになった姿を目にしたのは。
前は、何が原因でこうなったのだったか。
「くれあぁ……」
不快な音が滑り込む。か細く崩れた音程は、クレアの耳に腐った泥のように纏わり付いた。
歪にひしゃげた口元、ねじれた眉。その表情は笑っていた。
壊れた、笑顔だった。
「声が、やまないんだよぉ」
……
………
…………
――覚えているのは、眼下を彩る無数の灯火だ。
いつもならば白い漆喰壁の町並みと、空色金色の旗がはためく美しい風景のはずなのに、その日だけは街も広場も、ひしめき合う民衆に埋め尽くされていた。
上級階層の門扉を破壊し、なだれ込んだ下級階層の人々はみな、口々に罵り叫び、怒りの声を上げていた。鉄と汗と血の匂い。熱気で空気が歪み、沸き上がる黒煙は空を隠すほど。
民衆の先頭、幾本も掲げられた質素な槍の穂先には、生首が突き刺さっていた。血に濡れ汚れ、暴行によって腫れ上がった肉の塊は、それでも金髪と碧眼だとわかる。
「全て、貴様の招いた結果だ」
金属を擦り合わせたような掠れた音が、背筋を撫でた。振り返れば豪奢な玉座に、厳格な父の据わった目が、瞬き一つなくこちらを睨みつけてくる。
乾いた唇は、滔々と言葉をぶつけるばかり。
「貴様の行動が、家畜どもを増長させた」
玉座の足下ですすり泣くのは、母だ。その胸に抱えられた亡骸は長兄と次兄のもの。
奴隷をいくら切っても強くなんてなれないと何度も何度も言ったのに。剣の腕を過信して暴徒に飲み込まれた。
「家畜どもの相手は、楽しかったか?面白いようにかしづいてくれたか?」
鏡を眺めるのが趣味だった姉は、乱れきった髪を直すこともなしに、呆然と宙を見ている。
高飛車な妹は行方不明だけれど、先まで見下ろしていた穂先に、見覚えのあるティアラがあった。
「あの声が聞こえるだろう。皆お前を求めている。さぞ、嬉しかろう」
そう。下界から届く民衆の怒号には、求めの歌があった。
――王を廃し、穢れた金を滅ぼせ――我らに真の金を――強き金を――救いをもたらす幼き金を与え給え――
心臓にキリキリと強烈な痛みを感じて、逃れるように母を見た。でもその眼に、ぽっかりと開いた空虚に浮かんでいたのは、憎悪と、嫌悪だけだった。
「……バケモノ」
食いしばった歯から漏れだした拒絶の言葉。それが肉親から向けられた最後の言葉だった。
父は、フィロスタリア王国の王は、仰々しく腕を上げて命を発する。
「カラパイスを出撃させよ。皆殺しだ」
何か叫んだ気がする。飛びかかろうとしたのかもしれないし、人々に危険を伝えに行こうとしたかもしれない。でも小さい身体は誰かに抱きかかえられて、そのまま暗闇へと持ち去られる。
とおくで、たくさんの、ひめいがきこえた。
――長い旅路の果て、辿り着いたクレヴァシアは綺麗な場所だった。たった一つの鞄と一緒に馬車から降りると、心地よい風が頬を撫でる。歓迎、してくれているのだろうか。
「 様」
振り返ると、ここまで連れて来てくれた老女らが頭を垂れる。
「我々がご一緒できるのは、ここまででございます」
「ええ、問題ありません。ありがとうございました」
いつもように笑う。頬の筋肉をちょこっと動かせば、大丈夫。恐る恐ると顔を上げた老女は、僕の顔を見て、ほ、と息をついてくれた。それでもまだ表情は晴れていない。もっと大きく笑うべきだろうか?
「我々は、力不足でした。お守りできず、申し訳が」
「いいえ」
彼女の手を両手で包み、優しく握る。すぐに顔が上がるから、そこでしっかりにっこりと、笑って見せよう。
「僕がもっと社会のことを、世界のことを分かっていれば、うまくできました。人を助けて起こる反目を、予想できなかった。失敗したのは僕なんです」
小さな胸を、力一杯叩いてみせる。胸を張れば、少しでも不安を減らせるだろう。
彼らの不安を。
「ありがとう!僕のことは忘れて、生きてください。知ってるでしょう。僕は絶対に、絶対に、大丈夫なんですから!」
若々しい健気な自信に、皆は相好を崩した。安心して互いに頷きあっている。成功だ。
「ええ、ええ、そうでしょう。あなた様なら、どこでも、いつでも……」
皆泣いているけれど、顔は曇っていない。これなら大丈夫、後悔に苛まれることも無いだろう。別れは朗らかに、清らかに。
国を追い出されても、やることもできることも変わらない。不安な人を見るとこうしてしまう。しなくちゃいけない。やらなくちゃならない。物心ついた頃からそうだった。
いや、でも物心なんて、そんな時期はあっただろうか。生まれた瞬間の感覚すら覚えているのに。母に向かって、大きく笑ってみせたのに。
泣き方なんて、知らない。
――皆と別れた後に、鞄は適当に放った。額だけはたくさん入っているから、拾った人は幸運だ。僕にはもう必要がない。
そのまま城壁を沿って歩くと、クレヴァシアの周りはとても広い。東西を山々に挟まれて、どこからでも荘厳なメディウスが見える。南は見渡す限り平野で、草原だ。
でも、生えている木はどれも細くて小さくて、使えない。かといって山まで行くのは億劫で、適当な場所を探して散歩した。
すると、古びた石塔を見つけることができた。あの型は砲台塔だ。大戦を生き延びた構造物なら、まだ登れるかもしれない。
足下に辿り着いて地面を靴で叩くと、こつこつと硬い音がする。土の下にかつての石畳が残っているのだ。顔を上げれば、そびえ立つ巨塔は高さも十分。
紅焼けに染まった塔はとても美しく……だからこそ、迷った。ここは汚してはいけない気がした。
でももうすぐ日が暮れてしまう。どんなことも、先延ばしにするのはよくない。
しばらく考えてみても、やっぱりここしか無いと思った。老獪な彼なら、子どもの一人くらい、きっと受け止めてくれるから。
「……よしっ」
登るのは大変だった。服が汚れたけれど、今更そんなこと気にしない。人の気配も無いし、ホントは子どもが登れるような場所じゃないんだ。
だから。
だから、先客がいたのは驚いた。
小さな女の子だった。
そして声が聞こえてきたんだ。
しばらく聞こえていなかったのに。
夕焼けに溶けた白いドレスも、波打つ黒い尻尾も、真っ白な瞳も、とても綺麗だった。
でも振り返った彼女は泣いていた。顔は怒っていたし、涙なんてなかったけど、泣いていた。
ああ…ああ…もうおしまいにしようと思っていたのに、声が聞こえる。
哀しみと不安が、音なき悲鳴が。
「泣いてたの?」
だったら、これが最後。最後の最後に一人だけ。
「だいじょうぶだよ」
最後に――一人だけ――