善意の限度 悪意の限度
北城塞を根城にした救護活動は、まだまだ続くことになるだろう。クレアとセロンが賢人の塔に帰ってくるのも先になる。
であれば二人を求めてやってくる娘もまた、しばらく顔を見せない。
と、思っていた。
「セロンが遊んでもらえって」
「なるほどなぁ」
大小二人が歩くのはクレヴァシア西地区。
ただし先日とは打って変わって白昼の太陽の下、人通りのど真ん中だ。
今日日のレナーシアは靴を履き、さらにキールの外套を深々と被ったことで少なくともその正体は露見しない。同衾するには広すぎる歳の差も、身の長に合わない外套も怪しい他ないが、クレヴァシアはもとより他国からの訪問者が多い国。特に祝祭の期間中は異邦人とは見られても、特異な外見程度では人の目を引かないもの。
キールは貴重な外着を奪われて、肌寒い風に身を固める。
「絶っ対に、顔を出すんじゃないぞ」
「ねえねえキール、これちゃんと洗ってる?」
すんすん、と匂いを確かめる音に、キールの口元がへの字に歪む。いい歳の男が険しい旅路に使った外套だ。当然、汗と泥にまみれてひどいだろう。
「………」
罵倒の代わりに遠慮なく剥ぎ取ってやろうと伸ばした腕は、見事に空振ってつんのめる。斜め後ろにいたはず娘は、手を挙げた瞬間にはもう正面にあった。いくら腕を振り回しても指先一つ擦ることもないだろう。
「嫌なら返せ」
「嫌?」
剣呑なキールに対しレナーシアはあくまで朗らかだ。踊るように身を翻せば、外套も本来の主を忘れて、従順につき従う。
「ぜんぜん。悪くないよ」
雨風と日光に焼かれてゴワゴワだろうに、レナーシアはまるでお気に入りの毛布のように頬を擦り付ける。確かに北の民の五感の価値観が、ただの娘と同じとは限らないとはいえ……。
「だったら、まあ、しっかり隠れておけ。いや、そもそも今日はついてきても何の得も無いぞ。フロイストの連中に会いに行くんだ。当然、お前には離れていてもらうからな」
調査結果の報告が、キールが再び西地区に出向いた理由だった。北の民の潜伏に使われていた館の存在と、痕跡から推察した情報を受け渡し、報酬を受け取るために。
もちろん、レナーシアを同衾させるなど正気の沙汰ではない。
「この辺りで待ってろ。おとなしく。すぐ戻る」
「キール、これちょうだいっ」
漆黒の毛皮に首を埋めながらの、娘の上目使いのおねだりを――
「ふざけんな。じいさんの形見だぞ」
一蹴する。
月下で見せてくれた慎ましさはどこへやら、むくれた小娘を尻目に、キールは朝日を受けて白の眩しい商館へと足を向けた。
「いない?」
「そうだ」
だが結果、キールはフロイストの商館に入ることもできなかった。
入り口に立ち塞がるのは身なりの良い、まだ成人もしていないであろう青年だ。
彼が身にしているのは、紅基調に金細工の施された華美な制服。それ自体はデズモンドのものと同種だが、ただあからさまにキールを値踏みする姿に、デズモンドのような大人らしい余裕は見えなかった。
「なぜ不在なんだ」
「シルバストリアの件だ。緊急ということで、教官はクレヴァシアから招聘を受けている」
見窄らしい田舎者相手に言葉を交わすもの控えたい。そんな内心が透けて見える口ぶりに、混じって出てきた『教官』との呼称。軍としては聞き慣れない呼称だが、恐らくデズモンドのことだろう。
「いつ戻る」
「異人共に聞いてくれ」
にべもない対応に、しかしキールは憤るどころかむしろ冷え冷えとしていた。あの賢しさ全開の男の部下にしては、言葉に思慮が無い。予定が定まらないほど状況に振り回されていると、公言しているようなものだろうに。
ならば別に隠しているのではなく、本当に知らないのだろう。
キールは早々に懐から書状を取り出す。白封筒にはキール自身の身の汚れが目立ち、青年はあからさまに顔をしかめてみせた。
「アングィス殿の依頼について、回答をしたためた。危急のためお預けする」
「……ふん」
だが飼い慣らされた犬は主の匂いだけで尻尾を振るもの。デズモンドの名には十分その効果がある。
「確かに」
書状を受け取る手先は、表情に反し慎重なものだった。
「……参ったな」
もっとも、若造相手に遊んだところで状況が変わるわけではない。
キールは人目につかない路地裏で今後を悩むばかりだ。この上戦いが起こるようなことがあれば――いや、起こるわけだが、いよいよ国から出られなくかもしれない。
「ああ、参った」
「ゆっくりしてけばいいのに。遊んでいけばいいよ」
一方隣のレナーシアは実に楽観的で、ぱっと両腕を広げると、どこか自慢げにキールを仰ぎ見る。
「ほら!ここにとっても暇なお友だちがいます!今なら遊び放題!」
「お前と?何やるんだよ」
「高いとこから飛び降りてね、こう、柱のそばをシュバって!」
「できれば死なないやつにしてくれ」
「どんなの?」
小首を傾げたレナーシアは、特段おちょくっているわけでもなく純粋に疑問らしい。
「俺の故郷では、そうだな……追いかけっこばかりしてた」
森の中を延々と駆け回ったものだ。
相手はネズミに、リスに、ウサギに、鹿に、猪に、熊に、四肢の牙獣と、神代の――
「ん?そういえば人間と遊んだことないな」
もちろん狩人流のかけっこのおしまいは、弓矢で射殺だ。
「キール、もしかしてお友だち少ない?」
「無愛想でな。表情が読めないとよく言われる」
「そうかな。私分かるよ。目線良く動いているもん。あと不安なとき右のわき腹に力入るの」
「そこまで読んでくる奴とは距離を置きたい。選べるほどいないけどな」
「何人くらい?」
「お前を抜くと、二人、か」
キールの回答に、ちら、と一瞬右のわき腹を見てくるレナーシア。
「当然のように疑ってるんじゃねえよ」
「すごい!多いね!私キールしかいないもん。キールがはじめてのお友だちだよ」
数えられないセロンとクレアは、もはや兄妹姉妹、家族扱いだろうか。
とすれば、生きている者が多い分、レナーシアの周りの方が賑やかだ。
「残念ながら、ここまでの道中で一人欠けてな。もう一人もどっちかといえば商売相手。今は友人なんて、お前だけだよ」
「私だけ!?そっかー、私だけかー」
レナーシアはなぜか上機嫌に、両手で頬をこねるようにして笑いを零す。
まあずいぶんと、無防備に感情を晒すようになったものだ。会話の方も、内容に目を瞑ればなかなかよく続くもの。
これまでは気まずさやら気恥ずかしさやらの奇行が目立っていただけで、どうもこの娘は一度心を開くと、ぐいぐい近しい距離まで入り込む性格らしい。
ただ今のキールは取り巻く状況もあり、おしゃべりよりも有益な情報が欲しいところだった。
「なあレナーシア。シルバストリアっていうのは、それほど重要な立地だったのか?」
「知らなーい」
「住んでる土地の周りくらい……いや、俺も人のことは言えないか」
見知らぬ土地で、情報は命綱だ。戦いに赴く傭兵団の移動を知らず、鉢合わせして略奪を受ける商人の話は絶えない。だからこそ異邦人は宿場などに居を構えて、同類と情報を共有する。
しかしほぼ無一文のキールは東城塞を寝床に借りたために、セロンやクレア無しだと情報の収集も――
「『しんこうは、にじゅうまで、せまっている』」
「……あ?」
不可解な呟きに目を向けると、白い視線が瞬き一つなく凝視してきた。
「『じょうもんは、あすには、ぼうえいのために、へいさされる』『きょうかんは、どこへいかれたのか』」
きょうかん。教官。
つい先に耳にしたばかりのフレーズに、キールは娘の行動の意味に気がついた。
「なるほど、盗み聞きか」
「違うもーん。勝手に聞こえちゃってるだけだもーん」
「ほぅ」
確かにフロイストの商館はまだ近いが、その間には扉も壁も通りの喧噪もあるのだ。
ならば――
「そうか、聞こえるなら仕方が無いな」
声がデカすぎる奴が悪い。
……
………
…………
五人ほどあったデズモンドの連れは、良い具合に相談という形で機密漏洩をしてくれた。
曰く、迫る北の軍勢は今は多くはないが、各地で合流し膨らみ続けている。
曰く、敵軍の到達は一週間後である。
曰く、クレヴァシアは戦力を特に北城塞に集結させて迎え撃つ。
曰く、宰相バルバスが近く北城塞で演説を行う。
……
………
…………
「――大局に差し掛かったとき、人の行動は三者三様だが、結局は二つの選択肢に行き着く」
キールの語りは視線こそ宙に置かれるものの、確かにレナーシアを相手としたものだ。娘は外套に顔を埋めるのを止めて、素直な瞳で見上げてくる。先のからかい半分の会話とは違って、平静に話の先を待っていた。
「つまり、留まるか、逃げるかだ」
キールが冷たい壁から背を放し路地から出れば、小柄な靴音もぴったりとついて来る。
朝の時点では噂の域を出なかったシルバストリア陥落の報が、午後に入り現実味を帯びたのだろう。未だ祝祭の期間ではあるが、人の流れはこれまでと毛色が違っていた。
「北の大城壁を信頼している奴――愛国心を持つ奴――北の民の力を軽視する奴――他に行き場が無い奴――そんな連中は身の回りを固め、武器と鎧を準備する」
通りには、大声でまくし立てて歩く若者の集団があった。天井裏で埃を被っていたような武器を掲げ、街の人々から喝采と声援を受けるのは、志願兵の一団だろう。
キールはさりげなくレナーシアを抱き寄せて、集団から距離を取る。
「他方、城壁の厚さを疑う奴――自分の命が何より大事な奴――北の民の実力を知っている奴――そもそもクレヴァシアの住人じゃなく、他に帰る場所がある――そんな奴らは荷物をまとめて、とっとと逃げ出す」
キールが避けた若い集団が、唐突に行く先を変えた。商館前で馬車に荷を載せる身なりの良い商人連中が、あっというまに包囲されて怒号を浴びせ掛けられる。
散々利益を享受しながら、危険と知れば尻尾を巻く――賢明であり、同時に愚かだ。
殴打音が、女の悲鳴と混ぜこぜに奏でられる。
「あは、なんだかお祭りみたいね」
キールの影で喧噪を眺めるレナーシアはたいそう愉快そうだ。この娘には血なまぐさい粛正も、煌びやかな祝い事と変わりないのだろう。
間違っても踊りに出ぬように、キールはうずく獣をしっかり抑える。
「大体は同じだ。皆、地に脚がついていない。酒じゃなくて、戦意に酔っている」
どちらも劇薬だ。雰囲気の海に混ぜ込まれて、集団を侵す毒だ。確たる自己が無ければ、すぐに呑まれてまともでいられなくなる。
暴動に巻き込まれないよう、キールは帰り道を大通りから狭い小道へと切り替えた。
話の方も、前置きはこの辺にして本題に入ろうか、と。
「で、だ。レナーシア。お前は選択肢、どちらを選ぶ?」
「んぇ?私?」
唐突な問いにレナーシアは頓狂な唸りを上げた。よほど現状が、自身と無関係だと思っているのだろうか。
「お前も選ぶんだよ。もっとも他の連中と違って、その力があれば大抵のことは何とかなるな」
「私はセロンと一緒にいるだけだよ」
「いずれは国を出るつもりだと言ってたろう。そのセロンを連れて」
本人が空を見上げながら語った夢を、キールはしっかり覚えている。
「む」
「この戦争は、丁度いい機会になると思う」
戦いとは混乱だ。乗じて国を脱するタイミングとしては申し分ない。城壁の庇護を失うことも、獣の娘には大したリスクではないだろう。
「んー……あー……」
レナーシアは喉を鳴らしながら、所在なさげにキールの腕に纏わり付いた。首を大きく捻る姿は葛藤というより、考え悩むということ自体に困惑しているよう。
「まだ、だめ――かなっ?」
言葉を濁し曖昧な笑顔で小首を傾げたのは、誰に何を誤摩化したのか。「自分自身」であるキールに気兼ねすることは無いはずで、であれば誰かもっと他の、見えない第三者への遠慮か……
と、キールはそれきり視線を外す。子どもを見下ろして、追求する図にしても仕方が無いと。
「まぁ、そもそも。あれが国の危機を放って離れるはずもないか」
「そうそう。それよりも、キールこそどうなのさ?」
するとどうだ。用意された逃げ道を当然と享受して、レナーシアは反撃とばかりに食って掛かってきた。カチカチと牙を鳴らし、瞳の螺旋を引き絞り、今にも首元に噛み付かんと。
「逃げるの?それともまだお仕事するの?」
「……聞かずにいてくれるんじゃあなかったか?」
約束が違うとの非難の視線にも、レナーシアは愉快に体を揺らすだけ。特段真相を追求したいわけではなく、興味本位で突つき遊びたいだけなのだろうと、キールは適当に受け流す。
「迷うところだな。よりによってこのタイミングに開戦だ。まともに動けない」
「『ちょうどいい機会』、なんでしょ?」
「あ?」
しかし直後に言葉を返されて、キールは思わず立ち止まっていた。顎先に手を当ててみれば、そう。それこそ、まるで自問自答だ。つい先に自分で語っていたじゃないか。
外的な要因で国が混乱に陥っている。クレヴァシアでは建国以来の出来事だ。
誰にとっても、行動を起こしたい者にはチャンスになる。
「………………………。」
「キール?」
「………………………。………………………。」
「キールぅー?」
「………………………。………………………。………………………。」
そんな長考に耐えられず、頭尾でキールのふくらはぎをパシパシと叩いていたレナーシアは、やがて――
ずぼ!
「……は?」
思考にのめり込んでいたキールが妙な音に目を向けると、そこには細い首と――華奢な肩甲骨の隙間に――腕を手首まで突っ込んだレナーシアが――……
「え、何やってんの?」
キールの平凡な頭はついていけず、ぽかんと開いた口から思考を駄々漏れにした。
呆然とする男を尻目に、ぐりぐりー、ごそごそー、人で言えば肺か心臓かその他もろもろが詰まっている場所を、レナーシアは腕先でかき混ぜ続ける。
「あ、違った」
ぼ!
「―――――ィ!?」
さらに側頭部に手首が突っ込まれれば、さすがにキールも悲鳴を上げる。
ぐりぐりごそごそ。レナーシアはまるで脳みそをかき混ぜるかのようにひっきりなしに腕を回して、その影響か、左の眼球だけあらぬ方向を向いているのが、あまりにおぞましい。
「あ、あった!」
繊維質を散らしながら抜き取られた手には、きっと体内に収めていたのだろう、見覚えのあるブリトーの包みが握られていて。
「はいどうぞ!」
「食えるか!」
スッパアァァン!
あまりにえぐい光景を見せ付けられて、キールは差し出された品物を勢い任せに叩き落とした。
「あ痛ってえ!」
もちろんレナーシアの腕はびくともせず、キールは大事な商売道具を痛めただけ。
悶えるキールなど歯牙にもかけず、レナーシアはずいと身を乗り出した。
「ん」
「……いや、だからいらねえって」
「ん」
「腹も減って、いない、し」
「ん!」
レナーシアの三白眼は、確かに睨み付けられると結構な迫力だ。
ただキールは娘の目つきよりも、むしろ瞳孔の螺旋が気になっていた。やや回転が速いのは――憤り。回る向きが定まっていないのは――不安?
ああ、なんだ。
(こいつ、拗ねてるのか)
少しでも無視されるとこれか、昨日はそっちが散々振り回してくれたくせに――などとは間違っても口にせず、キールはおとなしく包みを手に取った。
そしてさすがは糸編みの身体、布に包まれていたのと同じ扱いか、妙な体液がついていることもない。モノ自体は、昨日セロンに進呈されたうちの一つだろう。すっかり冷めきって固くなった生地を、キールは雑に千切って二分した。
「ほれ」
「ん」
あとは男も娘も、ただもくもくと咀嚼する。
「……美味いか?」
「別に。わかんないし」
「味が?」
「味は分かるよ。でもおいしいおいしくないとか、わかんない」
「そうか。ちなみにコレは冷めててものすごく不味い。食わないほうがマシだな」
「そー」
「さてレナーシア。今から俺がクレヴァシアに来た目的を話す」
「え?あ、うん。いいよ」
キールの文脈を無視した突然の宣言に、レナーシアは生返事で返す。顔色一つ変えない暴露など、聞く方も反応に困るもの。それでも話を聞くために、レナーシアは口角を裂いた大顎に食事の残りを丸ごと投げ入れた。
「んっんっ、ん~、でも早かったね。もっと先だと思ってた」
「お前も言った通り、状況が変わったからな。今のうちに話しておこう」
月下での意味深な取り決めから、まだ二日も経っていない。秘密とは熟成させるほど高値のつくものだが、果たしてキールの真実とはいかほどか。
「旧王の遺骸を知っているな?」
「お祭りで見られるヤツでしょ?あのおっきいの」
クレヴァシアで知らない者はいないだろう。公表される漆黒の棺と、そこに納められた巨躯だ。継ぎ接ぎじみたシルエットに、ひとつとして尋常ではない化物の亡骸――
「俺の目的はな、その遺骸を奪うことだ」
「へぇ〜」
端的な暴露と、淡白な反応。
他が聞けば絶句するような発言を、レナーシアは気の抜けた語尾で受け止めるだけだ。
「なんで欲しいの?」
そして無法への非難も無しに、素直な疑問をぶつける。
「じいさ――俺の師匠のじいさんの遺言だよ」
「じいさん?……あ!」
レナーシアはまさに顔を埋めていた外套に目を落とす。キール曰く、これはその人の形見の品だ。
「ある日突然いなくなって、帰ってきたと思ったらすっかりおかしくなっていた。ただ『クレヴァシア』だの『遺骸を取り返せ』だの叫び散らして、そのままぽっくり逝っちまった」
死者を揶揄するような語り口は、しかし遠慮がなく砕けきって、壁が無い。
「で、無念だったろうから、それを晴らすために来ている」
「なあにそれ、欲しい理由も分かんないのにやってるの?」
「お前、もしセロンが息も絶え絶えに必死に頼み事してきたら、いちいち理由なんて聞くか?」
「聞かないけど……あそっか、おんなじだ」
「そう、同じ」
納得するに十分。歳も経験も離れた二人は、どうしてか大切なものを前にしての価値観は近しいようだ。
「でも大変だね。あれ宝物だもん。みんな守ろうとするんじゃないの?」
「そうだ。そこでひとまず、フロイストと関係を築こうとした。今のクレヴァシアは連中に弱いからな。そこから手を伸ばせないかと」
「そのためのお仕事?」
「そう。金は二の次。フロイストに、俺を有益と思わせるために受けた仕事だ」
「成功?」
「おかげさまでな。ありがとう」
ぴょん、と外套の下で頭尾が跳ねる。
「んぅ。どういたしまして」
無骨だが素直な感謝に、先までの不満はどこへやら、レナーシアはフードの下で恥ずかしげに唇を綻ばせる。
そんな初々しい娘の反応に、キールはそれ以上の礼の言葉は呑みこんだ。あまり感謝しすぎると小躍りでもしかねないのでは、と。
「ええと、ただな。ここに来て状況が変わって、方針も変えられるかと思ったんだ。うまくいくかどうかも知れない搦め手より、単純に混乱に乗じて盗み出せないかと。ただ、そもそも大きな問題がある」
「分かった!おっきすぎて運べない!」
「……確かにアレはデカすぎて手に負えないな。本当なら。実はなレナーシア――」
「公開されてるあの遺骸、真っ赤な偽物だ」
「へえっ!?」
出会ってから初めて目にするレナーシアの驚き顔。くっきりとした三白眼がさらに見開かれて、螺旋も激しく渦巻くという、なんとも愉快な表情だ。
「えっ、そうなの?ほんとに?」
キールの前に躍り出たレナーシアは、話の続きをせがむお子様そのものだ。
「本当だ。襲撃があった夜、実物が見れると思ってすぐに中央に行ってみれば、俺が聞いていた姿形とまるっきり別物だった。獣の骨を組み上げた作り物か。北の旧き王は、あんな姿とほど遠い」
「なんだ、そっかぁ……クレア、頑張ってアレのこと勉強してたのになぁ」
「より恐ろしく化物らしい方が、いろいろ使えるんだろう。ほら、歩こう」
後ろから人の気配を感じて、キールはレナーシアの背を押しつつひとつひとつ解説してみせた。
――つまり世紀の大敵には、それに相応しい姿形が必要なのだ。民への敵意の植え付けや、そんな異形を滅した英雄への敬意に繋げるために。
あの紛い物は、北の民への先入観を掻き集めそれらしく仕上げた、外向けのモニュメントだということ。
「じいさんは大戦に従軍していた頃、戦場で実際の姿を見ている。いかれちまう前に何度も聞かされた自慢話だ。『呵々大笑しながら戦場を掛ける美丈夫。巨獣を自在に操り、地を裂き天を割る』、だと」
「かか……びじょ……?」
「悪い。戦場で大笑いするほど豪快で、外見の優れた男ってことだ。確かに情報としては乏しいけれどな、少なくとも、あんな木偶じゃない」
レナーシアは口伝の物語に中空へ視線を巡らせた。幼い想像力で編まれた北の剛勇は、もしかするとよく知る金糸の姿をしているのかもしれない。
さて、とキールは狭い通りに軽く周囲を伺って、衆目から距離を取ったことを確認した。
「話を戻そう。問題は、奪うにもそもそも在処が分からないということだ。だからこそお前には目的を話すことにした。レナーシア、お前、遺骸の在処知らないか?」
「知らなーい」
「だろうなぁ」
遺骸が偽物と聞いてあれほど驚いたのだ。実物など知りようも無いと、キールは落胆も無く顎先を掻いた。
「北の旧き王はな、出身も経歴も不明だが、恐らくお前と同じ『獣の民』なんだ」
「そうなの?」
「まるで強靭な糸を束ねたような身体で、鋼鉄を掌に握り潰すほどの異様な筋力を発揮していた、と。だから最初にお前を見たときから、何か知ってるかもしれないと――」
「『ヒアリクス』?」
「……何だって?」
突如差し出された謎の単語に、キールは思わず立ち止まっていた。振り返ったレナーシアは、自分の瞳を指し示してみせる。獣の民の特徴たる螺旋を。
「旧王とかは分かんないけど、ヒアリクスなら知ってるよ。多分私とおんなじ人」
「っ誰だそれは、どこにいる?」
「知らない。よくわかんない。一度も会ったことないの。もういないんじゃないかな」
「!」
キールは背筋を震わせる。もういない、レナーシアと同種の存在――そんな言葉足らずな情報だけでも、あまりに色濃い繋がりが見え隠れしているじゃないか。
「故人――まさか旧王の真名か?いや、だったらじいさんも何か言ったはず……」
「あ、私とそっくりだってさ」
「女じゃねえか」
もっとも、拍子抜けするには早い。レナーシアの家庭環境など分からないが、泥から生まれたわけでもあるまい。近親の人物はあるはずで、ならばヒアリクスとは母親や姉、もしくはその他か。その繋がりから旧王の影も見えてくる。
「………」
キールは本人を前に決して言葉にはしないが、レナーシアは旧王の血筋であるとすら考えていた。しかしそれを直接問いただすのは、何より危険だ。
踏み込めば、その先どのような事実が顎を開いているかわからない。今現在レナーシアとの関係は良好であり、それを外から咎められる気配もない。
「……ヒアリクスとやらは、置いておこう。知りたいのは、あくまで旧王本人についてだ」
ならば今の距離感を、できる限り維持したい。禁忌に触れて、どこかの何かの怒りを買うことの無いように。必要最低限だけを集めなければ。
「そうだな、遺骸の『在処』に絞ったら。レナーシア、目星だけでもつかないか。人目がなく、奪われないように守りやすい場所。一般の人間が立ち入れない、知ることもできない秘密の施設――とかな」
言ってはみたもののキール自身、口にするほど馬鹿馬鹿しかった。そんな場所が実在して、しかも偶然に知り合った相手が所在を抑えていたら、なんとも都合のいい話だろう。
ただレナーシアは探し物に関して実力を示している。気が付いてないだけで、核心をつくような情報を持っているかと期待して――
「あっ!あるある!」
「いいな。どこだ」
「王宮の下!」
「おおうっ」
予想外――いや、予想できていた回答だからこそ、鉄面皮が能面となる。
「下の方の、地面の下ね。すっごい広いとこがあるの。音が響くことあるから、大きな空洞があると思うんだ。入れてくれたことないし、見たことも無いんだけど」
「……………お、ぅ」
怒濤の暴露に呑まれて、相づちもまともに打てない。
何度でも言おう。本来……本来ならば、レナーシアの出自や立場は不明にしておくに越したことはない。
しかしあえて避けていた言葉をこうも容易く使われては元も子もないではないか。「口止めされている」とはクレアの談だったが、これでは隠していないのと同じでは?
いや、ならば本当に、ここまで口が軽いのはキールの前だけなのだろう。あくまで影への独白なのだから。
それに良いことではないか、ここまで簡単に情報が手に入るなんて。
(何だ?)
しかしキールは、どうも据わりが悪いことに気がついていた。ぐらぐらとした不安定感だ。
レナーシアの正体や立場、後ろにいる高位の存在――そういった危惧とはまた別に、大事なことを失念してしまっているような。
「……いや、助かる。話してよかっ、た」
そんな引っかかりを覚えながらの、心ここにあらずな礼の言葉に、
「!」
またしてもぴょこり。抑えの利かない頭尾は振れるのだ。
小さな唇がにんまりと弧を描いた次の瞬間、レナーシアは勢い良く踵を返す。
「ようし!じゃ行こっ!」
「っ!?」
まるで「仕事」の始まりを髣髴とさせる唐突さに、しかしこれまで散々振り回されて鍛えられたのだろう。キールの腕は弓を取るより素早く、レナーシアの襟首を掴み取っていた。
「待ておい!どこ、いや、何を言っている」
しかし呂律までは訓練されていない。回らない。
駆け出しを止められたレナーシアは、進みたがる身体をふらふらと迷わせながら、不思議そうにキールを見上げた。
「うん?遺骸欲しいんでしょ。行こうよ」
「いや待て待て、いや、違、違うんだ」
「?」
すっかり遺骸探しの冒険気分だったレナーシアは、目の前にきっと遺骸より珍しいモノを見つけて、ぱちくりと瞼を瞬かせた。
それは初めて目にする、崩れきったキールの表情だった。陰鬱だった双眸は見開かれて、闇色の瞳が陽光を弾き、困惑を隠せない眉がぐんにゃりと歪んでいる。硬くて冷たい鉄のお面が、岩壁への彫刻にでもなったかよう。僅かな、しかし確かな変化。
「っそういうつもりじゃあ、ないんだ。そこまでお前に求めちゃい、ない」
「え、でも」
「俺は多少の情報があればと思って――っいや、もう多少どころじゃないがとにかく――」
「でもっ、一人じゃ大変でしょ?」
興奮と期待に目を輝かせ詰め寄ってくるレナーシアは、最初からその結論に持って行きたかったのだろう。キールを行動させるように煽ったのも、その目的に興味があったわけではない。
「だから、手伝ってあげる!」
ただただ、協力したがっていた。大切な人の命への恩返しに、成果の向こうにまた感謝の言葉を期待して。
なんとも幼く、お手伝いできる家事を探すかのような無邪気さで。
「…………」
――そうか、助かる、ありがとう。
そんな簡単な言葉を、キールはとても吐けなかった。
『引っかかり』の正体に気が付いてしまっては尚更だ。
キールは善人でもなく、むしろ嘘吐きの俗物の類で――それでも、だ。
悪い大人であるにも限度がある。
「レナーシア」
「あ……」
結局、娘に返されたのは望んだものとはほど遠い、抑揚の消された声だった。
北の戦士相手にも一歩も引かなかった獣が、どうしてか遥かに弱く、拙い狩人に気圧される。
腰を落とし、目線の高さをレナーシアに揃えたキールは、ゆっくりと頭を振るった。
「レナーシア。それは、良くない。自分から恩を肥大させるのは避けるべきだ」
「ひ、だい……」
聞き慣れない言葉に、齢十二の娘は戸惑うだけだ。キールはなかなか伝わらない言葉がもどかしく、ガリガリと首を掻き毟る。
「あれだ。善意や恩返しで人になにかしてやるのにも、限度があるということだ」
「クレアが……お礼は大事、って」
「礼は大切だ。だがお前のはもう、礼の域を超えている。それはな、献身というんだ。そういうのが許されるのは、家族とか長い付き合いの友人とか、そうだ、大切な相手だ」
「でもキールは――」
「キールは、大切だよ?」
「っ……」
思わず視線を逸らしてしまう。
気恥ずかしさ?そんな生優しいものじゃない。
あまりに幼く純粋な親愛だ。まともに受けるには重すぎる。潰される。
なんとか受け流さなければ。
「ああ、クソ。とにかく。俺はもう受け取りすぎた。これ以上は割に合わないんだ」
引っかかりの正体は、失念していたものは、これだ。
無防備な幼い許容に油断して、大の男が、まさか「支払い」を忘れるとは。
月夜の追跡に、先の盗み聞き、さらには遺骸の在処までも。そもそも最初の最初、キールはレナーシアに命を救われているではないか。
一つ頼めば十が返ってくる……気がつかぬうちに、借金が膨大に膨れ上がっていた。
厚顔無恥に、与えられるだけ掴み取れるなら楽だったろう。しかし不器用な男は貪欲になりきれず、今からでも返済しようと、娘に語りかけていた。
「レナーシア。お前は優秀で、力も持っている。大抵のことはなんとかできるだろう。それをどう使うかは自由だが、程度は考えるべきだ」
「…………」
先まで呆けていたレナーシアは、しかし男の不格好な必死ぶりに気がついたのだろう。今やじっと注視している。
キールが捻り出す言葉は兄のような青年や姉のような女史、どちらとも違う色がある。くすんで褪せているが、ほのかに暖かい「教え」の色だ。
「世の中の大概の連中は、セロンやクレアのように利口じゃない。善意を受けるのを良しとして、当然のように要求してくる輩もいる。そんな奴らに利用されることは避けるべきだ。仕事には、等しい報酬を求めろ。自分を安売りするな。ただ使われるだけには、なるな」
「わかったな」
「はい」
「よし」
教育を終えたキールは、そのまま腰の物入れに手を突っ込んだ。僅かな躊躇いを小さな嘆息に変えて、ようようと取り出したのは、布を幾重にも巻いた小さな包み。
「金も無い、荷も無い。技もさして役立たない――今の俺が支払えるのは、これくらいだ」
穏やかに布を開きながらのキールの独り言は、どこか歌っているようにレナーシアに響き――
「あ……」
娘の前に露になったのは、小さな小さな、夜だった。
「きれい」
白い瞳に映るのは、どこまでも深い闇と、ちらつき煌めく光の粒子。澄み切った夜空を切り抜いたような、漆黒の結晶だった。
自然と持ち上がったレナーシアの両手に、黒結晶は収まった。狭い掌で包める程度の取るに足らない大きさだったが、金より銀より、何より美しい。
「元々はでかい塊だったが、ディルバに吹っ飛ばされたときに砕けた。一応それでも、二番目の大きさなんだ」
ぴくりと見開かれたレナーシアの瞳は――一番大きいの――と、如実に訴えてかけてくる。年相応に遠慮のない要求に、キールは誤摩化すように鼻先を掻いた。
「一番でかかったのは、もう無い。クレアの腹に収まったよ」
驚きに丸まった双眸が、結晶とキールを交互に映す。
「じゃあ……」
「そいつが、あの時クレアに使った救命手段だ」
元の姿は、立体感の無い闇色の鉱石だった。
東城塞に持ち込んだ荷の内、唯一懐にしまったおかげで手放すことがなく、さらに直後使うタイミングが来た奇跡の一品だ。
「特に名前の無い石だが、とにかく強力な癒しの力が備わっている。あの傷は……傷というよりも『穴』だったが、それでも塞ぐことができた」
キールもはっきりと覚えているわけではない。
轟音でぐらついた頭に、炎と煙に巻かれてわけも分からぬまま、金属片に横腹を持ってかれたクレアを引き摺った。そして粉々になって懐からこぼれ落ちた破片から、考えも無しにとにかく大きいものをひっ掴んで、振るったのだ。
「そのサイズなら、命一つ分くらいは担保できるだろう」
壊すことはできても、治すことはできない……確かレナーシアが語った言葉にそんな一節があった。既に強大な力を持ち、金銭を欲するわけでもないならば、報償としてこれほど相応しい物は無いだろう。
「……………」
しかしレナーシアは、表情も止めて手の内を見つめるだけだった。気に入ったならば口に出す性格なのだから、この支払いでは不満ということか。
「悪い。他の破片はもう加工しちまって手元にあるのはそれだけだ。もう手に入らない品だから、足りないならまた別で――」
「っキール!!」
唐突に弾けた声にキールは仰け反った。熟考から戻ったレナーシアは、目をぎらつかせてキールに迫ってくる。
「これ、これさ!病気にも効くかな!?」
「っバカ、声抑えろ……!」
通りの向こうから集まる視線に、キールは跳ねる娘を抱えるようにして立ち上がった。騒ぎにならないうちにその場を離れようとして――
「っう重!?」
まるでサイズに見合わない娘の体重に、危うく腰を痛めかける。
「お前っ、なんでこんなっ……重、い!」
血肉ならざる構造体を、ほとんど呻きながら引きずる努力などどこ吹く風。レナーシアは身をよじって質問を止めようとしない。
「ねえキール!どうなの?これ病気とかにも――」
「っ効く。効くから静かにしろ」
その一言でふわり、と腕の中の身体は弛緩する。
なんとか衆目から脱し建物の影に入ると、キールは息をついてレナーシアを開放した。
しかしどれほど器用に制御しているのか、擦ったつま先が土を彫るほどの重量が、いざレナーシアが自立した姿にはまったく感じられない。
「っ、はぁっ。いいか、この石の本質は『有るべき姿に戻す』ことにある。傷だろうが、病気だろうが、異常であれば何にでも通用すると聞いている。ただし――」
一旦言葉を止めてレナーシアの反応を流し見ると、先までの騒ぎぶりはどこへやら、外套の下でじ、と動かず、表情も隠れて読み取れない。
「――ただし、有るべき姿というのは曖昧だ。何が正しくて何が悪いのか、決まった答えは無い。妙な話だが、病や傷が受け入れられてしまうと、通用しないかもしれない」
あえて例外的な条件を語ったのは、レナーシアの想いを汲み取ってのことだ。
この娘が黒結晶を使うとすれば、相手はあの青年以外にないだろう。しかしクレアが病と呼び、キールが呪いと称するあの「声」に、神秘の石が通用するかは分からず――
「……?」
おもむろに持ち上がった外套に、キールの目は訝しげに細まった。垣間見えた娘の表情が、さっぱりと乾いた熱の無いものだったのだ。
これは――焦がれる金色を臨む目ではない。
直後、さらり、と空になった外套が地に落ちた。
「ありがと」
打って変わって平静な声音は、頭の上から聞こえてきた。すぐに見上げたというのに娘の姿はとうに無く、残された外套には熱も残っていない。
突然の変化の意味を問うこともできず、まるでそよ風のように、獣の娘は立ち去ったのだった。