賢人の塔
【中編】あらすじ
狩人キール、獣の娘レナーシア
二人は短い冒険の結果、奇妙ながらも近しい関係となりました。
仕事も終わって順風満帆――しかしそんな中、北方から不穏な気配が迫ります。
とある砦の陥落と同時に事態は急変し、開かれようとする新たな戦端。
セロンとクレアが忙しく救いに走る中、キールはレナーシアに小さな教えを示します。
そして権謀術数交じり合う大きな世界にも、変化が。
クレヴァシアの宰相、バルバス
最大の城塞の主、ヘルゼ
宗主国フロイストの使者、デズモンド
そして南の英雄、ラウル王
各々の思惑が小さな世界を呑みこんだ時、
四人の若者はときにその意志で、ときに偶然に巻き込まれてゆくこととなります。
キールがその塔を訪問するのは二度目となる。初回は襲撃騒動の直後、本国へ移動する準備に大わらわで、とても景観を見渡す余裕などなかった。
東城塞付近の森の中。狭くもよく手入れされた菜園を備える、円柱の尖塔だ。石材はメディウスの山肌から切り出したままのくすんだ灰色。そのみすぼらしさから塔の主を想像するのは難しい。
クレヴァシア建国の中心人物。南の諸国に聞こえ名高い、最高の奏者。
緋色の『賢人』――ナタリア。
「正確には、主だった。ですけれどね」
そう言ってセロンが見上げたのは、塔の内壁に隙間無く備え付けられた書架だ。びっしりと並ぶ書物はどれも分厚く、背表紙の飾り文字はもはや解読不能の粋だ。
「本の壁とは、ずいぶん豪奢な景色だな」
キールの半生は書とは無縁だったが、常識としてその価値は知っている。手作業での転写で生産する以上、どうしても供給量が少ないのだ。印刷や光彩記録という技術も生まれたが、原本を貯蔵する学術都市が書籍外への転写を禁じているために、未だ本は高級品だ。
「故郷の崖よりも険しい。押し潰されそうになる」
紙の質量のみならず、知識に重ねられた歴史もまた重い。
安直だが正鵠を突くキールの感想に、年期の入ったテーブルの向こうで金髪の青年は笑い、無地の女史は静かにカップを傾ける。
月夜の疾走から一夜明け、穏やかな午前。庭園で収穫したハーブを漉したお茶は、食後の一杯。キールが手がけた肉料理が三人の腹を満たして間もなく、空の皿を囲む談話は充足感の内、眠気を誘う程に安穏なものだった。
もっとも、頭上でパタパタやかましく駆ける音に目を閉じることもできないが。
「キール!」
幼い呼び声に、男は遥か高みの梁の上、白いドレスを見る。
どうやって登ったのか――などと野暮だろう。レナーシアだ。
「矢!矢ぁちょーだい!」
求めの意図は分からないが、両腕を振って必死にアピールする小娘から、キールは保護者二人に目を移した。
双方言葉は無く、クレアは肩をすくめ、セロンは愉快そうに身を揺らすだけ。
「失礼」
言外の許しを受けて、キールは立てかけていた大弓を取った。背を大きく逸らし、狙いもまばらに一本、適当な所作で天空に放ってやる。空気を切り裂く矢は垂直に塔を駆け上り――
「んむっ」
まさかレナーシアの唇に捕らわれた。まるで砂糖菓子でも放った気分だ。
「レナーシア!手を使いなさい!」
クレアのどこかズレた説教に、レナーシアはキャーと笑って書架の陰に消えた。気配が遠ざかれば、残ったのはクレアのじっとりとした視線だ。
「あー……すまない」
果たして許可があろうが、屋内の射的は許容されるか。いや、幼い子どもに武器を向けること自体がちょっと非常識――と、キールは気まずさを隠すようにどっかりと腰を落とす。
しかしよく見れば、クレアの眉根は随分と柔らかいものだ。天井に隠れた獣を追う、慎み深い眼差しだった。
思案に潜ってしまったクレアから、セロンが話の種を引き継ぐ。
「レナーシアが人の名前を呼ぶのは、珍しいです」
「そうなのか?」
「ええ、僕ら以外をうまく個人として捉えられないようで。他の人々は、大きな一個の塊として見ているようです。巨木の葉を、総じて『葉』としか見られないようなものかと」
なるほど生き物としての在りようが違えば、価値観も異なってくる。教育なども一筋縄ではいかないはずで、だからこそセロンはキールという新たな視点を欲したのだろう。
「だから、僕は正直驚いています。あなたはこんなに短い時間で、すっかりレナーシアの特別に――『その他大勢』ではない、友達になってしまった。素晴らしいことです」
「……ああ」
昨夜の出来事のあらましは、当然彼らにも伝えていた。
もちろん不用意かつ無許可で行動したことは咎められたが、キールとレナーシアの間の、さながら旧来の知り合いであるかのような距離感――新たな人間関係の芽吹きを、セロンもクレアもおおいに……片方は仏頂面ではあったが、喜ばしく捉えてくれたのだ。
「まあ、な」
だからこそキールの歯切れは悪い。
保護者両名への報告は、事実を大きく削ったものだったから。
要約すれば「ただの追いかけっこ」として伝えた。
レナーシアが追った匂いを、キールが必死に追いかけただけだった、と。
諍いの覗き見など無かった。不安を孕んだ独白など無かった。獣の試練も狩人の挑戦も無く、虚偽への追求もなかった。獣からの無防備な感謝も霞かかった夢に過ぎない。
レナーシアはキールだけに、本音を吐露した。
キールは多くの嘘を、レナーシアに黙された。
全ては、娘と男――獣と狩人――実像と影だけの、秘め事だ。
残ったのは、レナーシアがキールに懐いたという結果だけ。疑われているわけでもないが、この話題を続けて薮蛇になるのも避けたかった。
「っそういえば、昨日捕まえた連中はどうした」
「もう国外に退避されましたよ」
「っ!?」
セロンの返答にキールは唖然する。
取り留めない逃げ道としての質問であったつもりが、まさか。
「退避?まさか、逃げられたのか」
「はい、逃げていただきました。兵士長を通して夜間に東城塞から」
「っいや、意味が分からない」
敵勢を一体どんな理由で、と当然の疑義をぶつけるキールに、答えたのはクレアだ。
「彼らを国に渡すと、直前まで追いかけていたあなたやあの子のことも、クレヴァシアに伝わってしまう可能性がありました。口止めするにも人数が多すぎるので、いっそまとめて故郷に帰っていただこうかと」
そうクレアは言葉上では肯定しているが、口調はいかにも不満げだ。
「まったく本当に……一晩中走り回って後処理して。おかげであの子を迎えに行くこともできなかったじゃあないですか」
「猟団の皆さんも被害者だよ、クレア。キールさんみたいに、ほとんど騙されて雇われたって言っていたじゃないか」
「その言葉を鵜呑みにするのもいかがかと言っているのです」
連中もフロイストの威光を盾に、危険な綱渡りをさせられていたということか。ならば彼らにとっても、問題を避けられるならそれに越したことはないだろう。
「フロイストから追っ手は――まあ、出ないか」
「可能性は低いでしょう。そこまで手を回す余裕があるとも思えません」
クレアの首肯は、フロイストが使える手駒の数が根拠だ。外から人員を雇い入れている以上、裏切り者へ弾劾を向けるような人的余裕も無い。猟団も、雇い主に気づかれぬうちに安全に城壁を超えられるならば、と受け入れたのだろう。
道理だ。確かに道理だが。
キールはセロンをちらと見て、嘆息交じりの言葉を吐いた。
「――本当に、筋金入りだな」
「え?」
「いいや。なんでもない」
キールは傾けたカップの裏に強張った口元を隠す。
敵勢まで手を差し出し、そのために幼い娘に迎えを寄こさない。レナーシアがただの子どもでないのは重々承知だが、それでもこれまでの娘の苦労がしのばれるというものだ。
だが言葉を呑みこんだ以上、話を続けはしない。
別にセロンに尋ねたい疑問もある。
「それにしても東城塞経由で脱出とは、ずいぶん好き勝手やるじゃないか。フロイストも本国も無視して、そこまで手を打てたのか」
「東城塞は、色々な面で蚊帳の外ですからね。立地として重視されていませんし、兵士長も本国とは距離を置いています。あとは未だに先生の存在が大きくて、他があまり関わりたがりません」
「先生……賢人ナタリアなら、俺でも知っている。とんでもない奏者だったと。あの奇怪なものも賢人が作ったのか?」
キールが顎先で指したのは、積みあがった書籍に隠れた金属の塊だ。木の根のように四方八方に絡み合った金管群と、無数の弁。なかなかの存在感だが、その黄金色は鈍くくすんで影も無い。
「ずっと気になっていた。光彩の生成機に見える。随分と古いようだ」
横目に黄銅色を映したセロンは、どこか懐かしげな表情で微笑む。
「ええ、演奏型の光彩生成機です」
「演奏?それはまた、随分と……」
「――骨董品、でしょうか?」
キールが言いよどんだ言葉を引き継いだのはクレアだった。金管のお化けには見向きもせず。おもむろに食器を片づけ始める。
「クレヴァシアは河川が豊富なので、水流を使っての光彩生成が一般的。これは先生が、その、趣味で作ったものです。遺品として整備はしていますが……出力ばかり大きくて細かな制御ができなくて。駆動音も大きすぎて日常生活ではとても」
まるで包丁の大きさに悩む主婦のような愚痴に、セロンとキールはなんとも言えず顔を見合わせる。
ふと、クレアの目は部屋の片隅に向けられる。どうも使われている様子の無い机に、何かの影を見ているかのように。
「ええ、そうです。先生は古い技法でも、演奏型を好んでいました。派手で煌びやかで騒がしくて、戦場では一番に目立てたと。あくまで専門は、舞踊型だったのですけれどね」
「舞踊?」
初めて聞く言葉だ。キールに奏術の知見は無いが、それでも基本的なものは知っている。
演奏型は、もちろん音を用いて光彩を操るもの。今の主流である記述型も、音階を書くことで光彩を制御するのは変わりないはずだが――
「音を使うというのは、やや古い表現ですね」
クレアはテーブルに積まれていた本に手を添えて、まるで表紙を覗き見るように目を細めた。かつて目にした知識を反芻するように。
「私が光彩について最初に学んだのは『始まりと終わりを繋ぐ矢印』という定義でした。また別の本では『現象を流し、原因から結果まで運ぶ水の流れ』との記述があります」
キールは唇を引き結び、目を細める。
……もちろん、まったく理解できない、という意味で。
不勉強な男に対し、クレアはキールの傍ら、弓をじと見つめて言葉を捜した。
「そう、ですね。石を叩けばひび割れて、やがては土へと還ります。火をつければ物が燃え、形を失い灰となる。生き物の命も同じ。生まれてから老いという流れに従い、やがては死を迎える。それらの現象は全て、光彩という水に乗り、流されるように、止め処なく進んでいます」
「――まあ、なんとなく、理解できる」
自然の摂理からの比喩は、山暮らしの狩猟者であるキールにとって受け入れやすい。
「では光彩の、流れる水の向きや速さを操り、別の場所まで流すにはどうすればよろしいですか?」
「……溝を掘るかな」
「そう。溝を組み上げれば、流れを制御し運べます。池を設ければ一時流れを止めることができるでしょう。この溝、池が、かつては『歌』でした。調子や音階といった音の繋がりが、向きが、緩急が、光彩を導き制御して、望ましい終わりへと繋げたのです」
手を叩いて、火花を散らす。火打石を叩いて、拍手を鳴らす。
流れ付く場所を、別へと捻じ曲げる技術。
「奏者」や「奏術」という名称がついたのは、潮流が歌から音楽へ移った時代だ。
さらに技術は常に発展し、名付けの理由も過去のものとなる。
「今では何も音に限りません。『開始』と『終了』が明確で、それらを繋ぐ一連の流れがあれば何でもいいのです。あなたが弓を引く動きひとつでも、理論上は奏術が発動します。先生のような舞踊――剣舞でも」
剣舞。その言葉にキールは訝しげに眉間を寄せた。賢人という名から最も遠く感じられたのだ。
そんな言葉にもしなかった問いに、答えてくれたのはセロンだ。
「実は先生の肩書きは、奏者ではなく剣士です。剣を振るうその音を、動きを、あるいは剣先で刻んだ傷を、あらゆる行動を奏術に繋げることができました」
「ああ、そうか。あんたの師でもあるわけだものな」
ずっと違和感はあったのだ。剣を得物とするセロンと、奏者であるクレア。二人を弟子とするには分野が違いすぎるではないかと。
「剣が振れて、奏術も使える。あんたらを二人を足したような人と思えば、よほどの実力者だったんだろう」
「……いいえ」
――この日のキールは、やや饒舌に過ぎたのかもしれない。
どれだけ優しく穏やかに見えても、相手はあのレナーシアと並ぶ青年だ。
キールの何気なく他意もない感想に、ふと、セロンの声質が変わる。
「『そんなもの』では、ありません」
「づっ!?」
唐突。
キールはその身に、ズンと、重圧がめり込むのを感じた。
青年のたった一言の否定は、これまでと打って変わって好戦的な色に染まっていたのだ。その声色はおそらく、かつての師に向けていたもの。
「あの人は、ただ高みにおりました。どんな手を使っても触れることすらできない。僕とクレアが並んだところで、いまだ爪先一つ届かない」
「――――――」
「あの人さえいれば東城塞は無傷だった。街の問題だって、そもそも起こらない。本当は弟子だなんて、名乗るのもおこがましいんです。僕は、あの人の役割を、何も、一つも、継げていないのだから……」
滔々と語る青年の言葉は、しかしキールの耳にはまるで入ってこない。
碧眼に渦巻く感情の嵐が、身体に圧し掛かって離してくれない。
果たしてクレヴァシアに来てから何度目か、キールを襲った新たな恐慌は――
「セロン、顔怖いわよ」
「……っ」
呆れ顔のクレアがセロンの鼻を摘んだことで、とたんに消え去った。
キールはもう隠すこともせず、溜め込んだ息を大きく吐き出す。セロンは何事かという表情を浮かべていたが、すぐに無意識の圧に気が付いたのだろう。
「す、すみません」
「いや……いい。なんというか、慣れた。レナーシアといいあんたといい、よく視線だけでそこまでできるもんだ」
娘は突き刺し、青年は押し潰す。どちらも敵にしなくて正解だったと、キールはフロイストを裏切った過去の自分を改めて評価した。
そして気まずさに身を縮めたセロンに、キールはいいタイミングだと、気を取り直すように革の包みを取り出した。
「折角だ。その賢人直伝の知識を貸して貰いたい」
元より振舞った料理も手土産に過ぎず、本来の訪問目的はこちらだ。
開いた包みの中身は、掃き溜めたように乱雑な、一言で言えばゴミの山だ。
ただし埃に巻かれた毛も、薄汚れた破片も、乾いた薄皮も――紛れも無い「北」の痕跡だ。西地区に紛れた古い館から、そう、不法に頂戴した証拠品だった。
なれば、今度はクレアの瞳がギラリと輝く。
例えば、硬く太い体毛。
「――黒色で幅広。金属に近い展延性。強靭な耐熱性。『赤光の民』――エンベルトです。体表面の鉱石から圧縮した光彩を放出する生態機能を持ちます」
例えば、はがれた爪の破片。
「紋様が刻まれた跡があります。舞い化粧でしょうか。ダンサー、あるいは『百肢の民』のものかと。全長2〜3メートルの節足甲殻種です。擬態と隠密性に優れ、かつ集団行動に長けています」
例えば、雲母のように薄い鉱石。
「『褐色の民』――トルケルロスの外骨格の薄利でしょう。背から肩、腕にかけて褐色の装甲を持ちます。種別は無機生命体。硬度、耐久性、耐光彩、全て最高値の強大な民です」
そして、色褪せた群青の鱗。
「もうご存知でしょうが、『天上の民』――ドラコルネ。彼らは非常に、厄介です」
「聞いている。鉄を溶かすとかいう、あれか」
「それは生物的な性質に過ぎません。重要なのは社会的な立場です。元来の天候予測を下界にもたらす役割から転じ、天上に立つもの、調停者、裁断者の役目を請われてきました。求心力が非常に高い」
北の民の敵性は広く知られても、文化的・歴史的側面を語るのは難しい。
しかし流石は大戦で活躍した人物の弟子。クレアは一般にも知られない知識に満ちている。
「カラパイスを圧倒した、森の民の『枝角の王』カームルートも重要ですが、北の旧き王はさらにドラコルネの首長『紺碧の王』を従えたことで、北の民全体の信任を受けたとされています。その眷属が国内に入り込んでいるとなれば、フロイストの無茶も頷けますね」
そんな分析も交えつつ、クレアは最後の品目に手を伸ばした。恐らく中では一番大きい痕跡だ。
「これは、薄くて柔軟な表皮ですね。色は薄白で、多少の伸縮性、ゴム質のような……特筆できる点が少ないです。耐火耐水、は今は実験できないから――」
脳内図鑑と照らし合わせるも芳しくないようで、クレアはコツコツと指先で顎を叩きながら頭をひねる。
その間に、傍観していたセロンがふと閃いたらしい。
「ねえ、クレア」
「なんですか。ああそうですね、光彩検証もしたいけど検体が壊れると困るから――」
「それ、人の皮じゃない?」
超反応。
言葉も無くバッ!とクレアの両腕は胸元へと跳ね戻り、物証は宙に舞う。
「おっ、と」
ヒラリと落ちる「生皮」を、セロンは器用に指先で掬い上げた。そのまままじまじと目元で観察を始めるセロンに、クレアは能面となってずざざざ――と身を離す。
「?クレア、なにを怖がってるんだい。君、人体解剖もしたことあるじゃないか」
「っこういうのは心の準備が必要なんです!ちょっと、近づけないで!!」
「わかったわかったから。う~ん、大枠は近いと思うんだけど。僕も人肌ってあまり切ったことないからなあ。キールさんはどうです?」
「さすがに剥いだことはないなあ」
「人、皮を――剥ぐ――はぐ……あふ――」
「あークレア、そんなに想像したら。っレナーシア!」
「わはあい!」
セロンの呼び声に応え、すぐさま降り立つは獣の娘。
横掛けの椅子、クレアとセロンの隙間にレナーシアはふわりと舞い降りた。腰を下ろせば三人合わせて凹型のシルエットに収まるのが小気味良い。
「クレアをよろしく!」
「はいっ!クレアほらほら!ぐるぐる目~!」
「……ああ、可愛いわねレナーシア」
螺旋の瞳でなにやら始めたレナーシアを、何の逃避か、クレアはぼんやりとした表情でわしゃわしゃと愛で始めた。レナーシアは実に心地よさそうにクレアの胸元へ頬を擦り付けるが、人前でみっともないとは誰が言った言葉か。
少女への愛慕へ沈んだクレアはさておき。
「で、実際のところどうなんだ?」
「ううん、違いないとは思いますが。あるいはどの部位か目星がつけば――レナーシア」
「んあぁ~にぃ?」
「これ、僕らみたいな人の皮だと思うかい?」
「むん!」
まさか齢十二を相手にする質問ではなかろうが、レナーシアは両頬をクレアにモチモチと愛でられながら顔も向けずに首肯した。
「っぷう。――血の匂いがするね。なまっぽい香り、色も。たぶん手触りも。きっとセロンとかクレアとおんなじ。背中のかな。もにゅ――クレア~、だっこして!」
「よしよしいらっしゃい」
「むふー」
クレアの細腕に包まれて満足げなレナーシアを脇に、男どもは真面目に議論を続ける。
「レナーシアが言うなら間違いないだろうな。本物か」
「住民が犠牲になった、と」
セロンの口調は犠牲者への想いか、沈痛に沈んでいた。
もっとも探究心は姉弟子と同じなのか、目線だけは絶え間なく観察を続けている。
「誰かを殺めたとして。そう、どうしてこのように皮膚を、剥がして残していたのでしょう……」
「皮――革、か。なあセロン」
キールはふと思い立ち、物証を指差して一言――
「北の民も、人皮かぶって人間に化けたりするのか?」
「…………はい?」
何となしのキールの発言に、セロンはぽかんと呆けた顔を浮かべる。らしからぬ表情にむしろ驚いたのはキールの方で、結構な失言だったのだと気が付かされる。
「あ、いや、すまない。神代には、獣の皮をかぶると欺ける奴がいるんだ。だからほら、人の皮を剥いで南の民に擬態する奴もいるかと、な」
「す、ごいことを考えますね、異文化というものは。人皮を被る、ですか……?」
「――人、剥がして――かぶ――かぶ――」
「ああほらクレア、そっち見てそっち」
「クレア、ぎゅーってして!」
「ぎゅー!」
「ぎゅううっ!」
姉妹の世界に戻った二人を尻目に、男どもは話を戻す。
「それにあれだ。北の民は南の民の姿を真似ると聞いたことがある」
「それはきっと『映し身』のことでしょう。擬態とは違うものですね」
セロンは傍ら、スンスンとクレアの香りを堪能するレナーシアを指し示した。明らかな異物で構成されながら、大枠では南の民と変わらない「すがた」と「かたち」を。
「北の民は『映し身』という、最低限の『顔』と『四肢』を再現する機能を共通して持ち合わせます。これは表情や身振り手振りといったコミュニケーションの手段でして、あくまで共通言語に過ぎません」
表情が無ければ笑えない。言葉を語るには喉と唇と舌が必要だ。両手が無ければ、今のレナーシアのように他人を抱き締めて親愛を表すこともできない。音としての言語より、ときに直截的な意思の表明となるものだ。
「北の民は、言語も文化も種ごとに固有ですから、異種間での意志疎通手段として『映し身』があると考えられています。特段、南の民を真似ているわけではないのですよ」
「まあ、本来の用途はそうだとしても――」
「私が答えましょう」
「あ?」
二人の間に唐突、平坦な声が差し込まれる。
がば!とセロンの握る物証を会話の主導権と共にもぎ取ったのは、レナーシアに溺れていたはずのシスコン……いや、クレアだった。
「この子のように厳密な『南人型』を取れるのであれば、その上に人皮を重ね、南の民に擬態できるのでは?――クレヴァシア国内へ進入し、人知れず活動ができるのでは?――そうおっしゃりたいとのですね」
「まあ、そうなんだけどな……突然どうした」
「そろそろ私の出番かと、切り替えました」
「極端すぎる」
人皮へのドン引きも、レナーシアへの溺愛もどこへやら、クレアは表皮を鼻先まで近づけて無機質に観察している。そういえば、広場に散乱した死体を前に「切り替えた」ときも、同じような顔をしていたか。
「さて――」
クレアはレナーシアの手を引いて、その手を指を絡ませるように繋ぐ。こそばゆそうに首を縮めるレナーシアの「映し身」の動きは、その仕草も表情も、確かに感情が読み取れるものであった。
「まずこの子のように、ここまで映し身を『我々らしく』整えられることは稀です。見てください、繊維質の群を緻密に編みこんで指の一本、爪の先まできれいに再現しています。多くの北の民の身体はここまでの柔軟性を持ちません」
説明に目の前のサンプルを使うのは実に女史らしいが、説明中にやたらとレナーシアの手を撫でるのにどんな意味があるのか。
「例えばディルバ。全身の空気を抜いて身体を縮めるまではできますが、特徴的な表皮や口唇は変化させられません。例えばドラコルネ。元の身体が巨大なため、映し身も三メートルを超える巨躯となります。資料から見られるエンベルト、ダンサー、トリケルロスも同様に『映し身』は南の民と大きく乖離します。ならば表皮をかぶせただけでは擬態は難しいでしょう。また逆説的ですが、そのような擬態がこれまで戦術として使われていないことが、技術的に未確立なことを証明するとも言えます。大戦でも戦後各地での襲撃でも、そのような工作は確認されておりません。既に擬態技術を持っているならば、とうにクレヴァシア以北の要塞は落ちているでしょう。さらには南各国は入国時に身体検査が義務付けられます。わざわざ擬態して城門をくぐるには成功率は低い」
「……まとめると?」
三メートル云々時点で理解を諦めたキールは、総括を促した。
「人皮を使っての擬態は可能かもしれません。しかしまだ実現しておらず、実現しても国内への侵入は難しく、実用性はありません。以上です」
「じゃあこの証拠を残した連中は。どこから入り込んだ」
「進入経路などいくらでも。監視はあっても水路、各方の城壁、あるいは輸入経路から。メディウス自体も、山肌の豪風のために普通は突破できませんが、ドラコルネのように強大な民であればそれも分かりません。クレヴァシアは世界の門として『行軍』は抑えますが、隙間風までは防げないのです」
「ということは、これは隙間風に吹かれたどこぞ犠牲者、か」
思い当たるとすれば、一時的に北の民の隠れ家になっていたであろう、あの屋敷だ。
古くからある建物のようだが、果たして本来の住人はいずこへ消えてしまったのだろうか。
「……頼めるか?」
「ええ、こちらで弔っておきましょう」
国の人間ではないという意味で、フロイストに渡すには忍びない。クレアが丁寧に人皮を畳む傍ら、ペンを走らせていたセロンは紙面をキールに差し出した。
受け取る側の指の汚れが目立つほどの白だ。紙というのはなかなかに高価なものだが、セロンが気を利かせて用意してくれた。
「助かる。文字が書けるのは羨ましい」
「僕もこれくらいは。滞在はいつまで?」
「報酬で旅装を整えて、早めに国を出る。他の連中がこぞって逃げ出したからな、この成果もあれば捨て駒から子飼い程度にはなるだろう。信用を担保に俺もとっとと脱して、身を隠す」
切り捨てるより、手元にあったほうが有益。そう信じさせればこちらのものだ。
「ならべく早めがよろしいかと。クレヴァシアはこれから騒がしくなります」
「どうなる?」
「フロイストはクレヴァシアとの直接交渉に乗り出すでしょう。内政干渉ではなく、正規の協力体勢に繋げるために。今はバルバス様主導ですし、これらの証拠で反対派を説得できれば、早々に大規模な一斉捜索に入ることになります」
セロンの説明は淀みなく、感情の色が濃いこと以外はクレアと似通っていた。両者を育てた師の性格が分かるというものだ。
「ことが起こるタイミングは、早くて今週末。祝祭が終わり外からの注目が薄れれば、すぐにでも」
「早いな。大丈夫か?」
大規模な捜索。獣の娘に向けられるものではないが、敷かれた網は十分に危険だ。
「そうですね。もしものときはレナーシアをお願いしますよ」
「笑えない冗談だ」
そう、笑えない。この二人がレナーシアに関して失敗するということは、それはもはや、キールの手に負えるような事態ではない。
いかにも青年らしい冗談だと、キールは書面を胸元に仕舞い込んで――
直後ふと、セロンの表情が歪んだことに気がついた。
「――――………?」
笑みばかりの青年だからだろうか、キールはほんの一瞬の、痛みに耐えるような唇の強ばりに気がついた。この表情、どこかで見覚えたか――そんな曖昧な既視感は、クレアの呟きに流される。
「本当なら引き止めたいところですが、残念です。せっかく……」
レナーシアの貴重な出会いをまだまだ伸ばしたい、といったところだろう。
しかしキールはあくまで部外者であり、これ以上の関わりはリスクが大きい。繋がりさえ保てればいずれ再会はできる。ましてやレナーシアならば、キールを追うなど容易いこと。
だからこそ、別れは端的に済ませる。
そのつもりだった。
「……レナーシア、おいで」
「なあにセロン。そうだ、これ見て!」
見れば娘は頭尾の先端で、先に手に入れたキールの矢をくるくると回していた。手慰みにされた矢軸はどんな加工を施されたのか、あちこちに蝶結びが作られて悲惨な有様だ。
セロンは遊びの成果に頷き返しながら、す、とさりげなく、娘の肩辺りに指を滑らせる。
ゴミでもついていたのかと思いきや、彼はおもむろに、摘み取った指を掲げて見せた。
「キールさん。次の機会がいつになるか分かりませんので、レナーシアについてお話ししておこうと思います」
訝しむキールに向けセロンがピンと張って見せたのは、なんとか視認できる程の、キラリ光る極細の糸――東城塞で目にした、レナーシアを構成する繊維質だった。
ただしその実態は、キールの想像とは少し違っている。
「この一本が『獣の民としての一体』にあたります。正確には、これだけでもう数千と纏めたものですが。レナーシアは、群体なのです」
唐突な解説も、その意図も、理解の外。戸惑うキールを置いてけぼりに、どうしてかセロンは淡々と言葉を緩めない。
「『彼女ら』一つ一つに、明確な意志はありません。周囲の状況にイエスかノーかを決める単純な反射しかできません。しかし単純な回路も、数千億と揃えば一貫した振る舞いを見せることができる。蟻の大移動、小魚の群衆行動、我々もまた社会に群を成すように」
繊維質がセロンの指からうねり離れると、綿毛のように宙を回遊してやがて再び娘の肌へと消える。その向こうでレナーシアをあやしていたクレアも、弟弟子の変化に気がついたようだ。
「セロン、あなた……」
「中枢が無いため、容易に活動停止には至りません。しかしそれでも限界はあります。群として行動できなくなると、即ち危機となりうる。ディルバの咆哮を正面から受け止めてしまったように、彼女は傷を気にせず無茶をしがちです。その点だけは、お気を付けください」
最後の締めはどこか口早に、必要な情報を詰め込んだよう。息をついてレナーシアの頭を軽く撫でると、小さな頭が見上げたセロンの顔には、じっとりと妙な脂汗が滲んでいた。
だがキールには、何一つ読み取れない。
「お気をつけ、って……」
これから別れようというのに『気をつける』?
「あんた、何を言っ――」
「ねぇねえ、セロン!」
無邪気な割り込みに、キールの言葉は抑え込まれた。大人の会話を気にかけず、身体をセロンに預けリラックスしていたレナーシアだったが――
「誰か来るよ」
――もたらされた報告は、場を凍らせる。
ぱっと立ち上がったクレアが、レナーシアをセロンから引き剥がす。
「隠れてなさい。天井に戻って」
「まだおはなし……」
「いいからっ!」
「むぅ」
レナーシアが不満顔で天頂に再び消えるのと、扉が激しく叩かれるのは同時だった。無作法な連打には切羽詰まった焦りが伺えて、吉兆ではないことを知らしめる。
「キールさん。少しの間忙しくなります」
セロンは突然の訪問にも慌てることなしに立ち上がった。
そんな予期してたかのような落ち着きぶりに、キールはレナーシアの言葉を思い出す。
彼だけに届く、声があると。
『音無き悲鳴』
この男、一体何を聞いた?
「レナーシアを、お願いします」




