プロローグ
清らかな風が駆ける。山肌を抜けた先、渓谷の草原に波を生みながら。
広い草原にはぽつんと一つ、石塔が佇んでいた。どれほどの雨風にさらされてきたのか、幾重ものヒビと苔に覆われ、しかし精緻な石組みにかつての堅牢な姿を見ることができる。そんな孤独の塔だった。
石塔の根元に、一人佇む少年がいた。
小さな背丈は石塔の前でちっぽけで、ふわふわと風に遊ばれる金髪も年相応に乳臭い。しかしピンと伸びた背は、どこか強い芯を感じさせるものだ。
少年の瞳は夕日に染まらない澄んだ青色を保って、まっすぐ石塔の上へと向けられている。
長いまつげの下に、深い思慮を漂わせて。
「……よしっ」
決断は唐突だった。少年は澄んだ声音を残して、朽ちて大穴となった扉をくぐり抜ける。塔の中は乾いた空気と埃っぽい瓦礫ばかり。壁の亀裂から差す光に石段が浮かぶものの、年月に削られてすっかり傾斜だ。
だが少年はそんな石段に手を掛けて、おもむろによじ上り始めた。
「はっ…はっ…あ」
幼い身体には酷な道だ。真っ白だったシャツは薄汚れ、上質な靴に傷が刻まれる。額に汗がにじみ、息は瞬く間に荒くなる。
だが彼は一時も止まらず上を目指していた。その背中に「ここしかない」とでもいうような、強い決意を刻みながら。
――果たしてどれほど時間を要したか、やがて擦りむいた掌が最後の石を掴み取る。力を振り絞って引っ張り上げた身体は、カッ、と暴力的な光に包まれた。
石が、空が、大地が、鮮烈な赤に染まっている。
沈みかけの夕日が輝いて、世界を紅一色に塗りたくって支配している。
だが――しかし。
少年ははっきりと捉えたのだ。
赤に染まらない、ただ一つ。
小さな小さな「白」がひとつ。
頂点に座する、少女が一人。
「――――――――」
少年は、一目で心奪われた。華奢な背中を取り巻くように、風に波打つ白いドレスに。純白のキャンパスに長い垂れ髪が描く、黒い弧に。
そう。白であると、黒であると、はっきりと分かった。目も眩む光の渦にあるというのに、真っ赤に溶けた世界にあるというのに、決して染まっていなかった。
何にも呑まれることのない、確かな一つだったのだ。
「――――――――ぁ」
息を呑んだ少年は、しかし唐突な強風にあおられる。
「!」
よろめきが生んだ微かな靴音に、しかし少女は跳ねるように振り返る。
そして少年を見据えたのは異形の――純白の瞳であった。
銀板を合わせた細工か、白金を編み込んだ刺繍か。その色も、造形も、人のものではありえない。
だが螺旋の瞳孔に夕映えがチラチラと迸る様はあまりに美しく、少年は言葉も忘れて立ちすくむ。
だが幼い感動が許されたのは、ほんの一時だけだった。
異形の瞳は少年を捉えるや否や、ギュルリと収束したのだ。
少年の耳朶を叩く、地鳴りのような唸り声。風が不自然に渦巻き始め、美しかった夕映えが鮮血のごとく上塗られる。
娘の口元は敵意に歪み、頬の皮肉がブチブチと、薄い布を裂くようにぱっくりと割れた。露になったのは、もはや歯とも呼べない鋭い刃の羅列だ。
きっとこの石塔は彼女だけの、他の誰にも許されない不可侵の領域だったのだろう。
侵入者に叩きつけられたのは、透き通るほど純粋で、突き抜けるほどに鋭い敵意だった。
しかし当の少年は。
恐れを抱いた様子も無く、じ……と獣を見つめて、
「泣いてたの?」
そう、なにともなしに声をかけたのだった。
さらにそのまま足すら踏み出す。赤い警告を易々と越えて。
『――――!!!』
瞬間、大気が轟音をあげ石が爆ぜて飛び散った。爆発寸前の熱と振動が場を支配した。
獣なら一目散に逃げ出しただろう。幼子は泣き喚き、大人は恐怖に身を凍らせる。歴戦の戦士であれば剣を抜いたかもしれない。
しかしそのどれでもない一人は、ただの少年は、進み続けた。
もう距離はない。獣の爪は地を掴み、顎は獲物を砕く命令を今か今かと待ち構えて――
「う」
――結局、ただ待ち構えただけだった。
気がつけば少年は少女の隣に腰を下ろしていた。先の嵐は霞のように消え、しんと音の消えた世界で、青天の瞳が銀細工の瞳に映りこむ。
「う、ううう、う」
少女の唸りは、いつしか嗚咽へと変わっていた。
少年の手に、しゃらしゃらと金属のような感触が伝わる。少女はされるがまま、伏せた頭をゆっくりと優しく撫でられていた。
「だいじょうぶだよ」
言葉はそれが最後だった。
あとは時の流れるまま、二つの影が寄り添っただけだった。
始まりは、それだけだった。




