わたしが消えた日
救われない話
政略結婚ばかりの貴族社会の中で、心から愛した方に嫁げた私は幸せだった。
たとえ、彼が私のことを愛していなくても。
「ウェスティン公、娘のアンネマリーです」
「お久しぶりです、公爵さま」
「…ああ」
王弟、ギルバート・ウェスティン。
その端正な容姿と身分の高さから社交界の人気を一身に集める彼が、妻として私を選択したのは、兄である国王陛下が婚姻された3ヶ月後のこと。
幼馴染であった私を昔から生涯の伴侶として求めていた、というまるで夢のような出来事などあるはずもなく、彼が私を選択したのは、明らかに政略的なものー私の父が宰相という国の要職についており、彼の兄である国王陛下にとって最も重要な臣下の一人であるからだった。
それでもよかった。
私はずっと、ずっと前から彼のことが好きだったから。
前国王の代から側近として遣えていた我が家は、必然的に殿下方ともお近づきになる機会があった。
その頃からずっと、朗らかな兄ディオンと物静かだが優しいギルバートのことが大好きだった。
特に、ギルバートのことが。
「マリア様は陛下とではなく、ギルバート様とご結婚されるのかと思ってましたわ」
「やめろ」
いくらお前でも、不敬だ。
と、幼い頃は一度も見せなかった冷たい目で睨まれた。
そして悟った。
ギルバートは、やっぱりまだマリアのことが好きなのだ。
王妃になってもなお。
半年間の婚約期間中、ギルバートはきちんと婚約者としての勤めを果たしてくれた。
舞踏会では、ファーストダンスを踊り、毎週のように大輪のバラが届けられる。
「さすがはウェスティン公爵さま。見事なバラですわ。お嬢様は愛されていらっしゃいますわね」
「そうかしら」
私は、大輪のバラよりも素朴なガーベラが好きだわ。
「お嬢様、舞踏会のドレスですよ。まあ、可愛らしいデザイン。お嬢様が着たら、ピンクのバラが会場に咲き誇ったように見えるでしょうね」
「そうかしら」
私、明るい色は似合わないの。
青が好きよ。夜明け前の空のような。
「観劇のお誘いですよ。期待の若手演出家が手がけた、話題の悲劇ですわ。チケット取るの大変だったでしょうに」
「そうかしら」
私、喜劇の方が好きだわ。
悲劇は現実だけで十分だもの。
どれもこれも、彼がプレゼントしてくれたものはとても嬉しい。もちろんお礼の手紙は欠かさず届けた。
嬉しい、と。
けど、少し悲しいの。
どれもこれも、昔々、幼い私が彼に一生懸命伝えた自分の好きなものと真逆だったから。
かつての私のことなど忘れ、プレゼントさえ、与えていればいいだろうと言われている気がしたから。
そうして、私たちは婚姻した。
国王陛下を賓客に迎えた、大々的な結婚式。
やっぱり彼は、国王夫妻をみて、泣きそうな顔をしていた。
巷では、「氷の王弟」って呼ばれるくらい、無表情なのに、不思議ね。
「マリア」
夜もきちんと彼は来てくれたわ。
一週間と空けずにきちんと来てくれるから、メイドたちにも「お幸せそうですね」っていわれる。
けど、メイドたちは知らない。
彼はベッドの中では絶対に私の名前を呼ばないの。
ベッドの中では、私は「マリア」なの。
「アンネマリー、少し痩せた?」
「そうかしら?」
久しぶりの姉とのお茶会。
この姉のことが大好きだから、嫁いでもなお、ついつい会いにいってしまう。
「まあ、昔から大好きだった人と結ばれたんだもの。どきどきしてあまり食べられてないのかしら?」
昔からギルバート様にくっついて一生懸命話しかけてばかりいたものね、と。
「そうかもしれない」
お茶目な発言にふふっと笑みがこぼれる。
そうね、いつもどきどきするわ。
「…ねえ、アンネ。本当に何か悩みがあるの?」
「いいえ?私は幸せよ」
だってずっと好きだった人と結ばれたもの。
そう伝えたのに、リリーはやっぱり浮かない顔。
どうしてかしら。
「アンネ、嫁いだとはいえ、何かあったらいつでも実家に戻ってきてもいいのよ?お父様もお兄様もあなたのことをすごく心配してる」
「ふふ、みんな心配性ね。ありがとう。そう言われると気持ちが楽になるわ」
なんだか本当に呼吸が楽になった気がする。
リリーもようやくほっとした顔になった。
「そうだ、今日サロンで話題になっていたお店のケーキを買ってきたのよ。一緒に食べましょ」
フルーツが売りなの、とメイドに指示を出し、ケーキの用意をする。
「アンネはこれかしら?甘酸っぱいの好きでしょ、あなた。こっちは王妃様の大好物って話題になっているケーキなんだけど…ちょっと甘すぎるのよね…」
オレンジ色の甘酸っぱいケーキと、真っ白なあまーいケーキ。
「じゃあ、白いほうにするわ、私」
「え?」
だって。
「だって王妃様の大好物なのでしょ?それなら私白いケーキにする」
「そう…」
リリーはそれからずっと浮かない顔だった。
なぜかしら。
社交シーズン中、最も大きなイベントは、王宮で催される王家主催の舞踏会。
「今日の舞踏会で、私はずっとあなたのそばにはいられない」
「はい」
今日の、なんて嘘。私のそばにずっといたことなんてないじゃない。
けど、仕方ないわ。臣下に降ったとはいえ、旦那様は王家の一員だった方。
主催者側としてやらなければならないことがたくさんあるもの。
「ウェスティン公、会場警備の件で…」
「ああ、いまいく」
頭ではわかっていても、こちらを見向きもせずに仕事に向かってしまうあなたの背中を見ると心が痛いの。
華やかな舞踏会はどこか緊張感を孕んでいるものだった。
それは、側近たちの顔が一律こわばっていたからかもしれないし、近衛兵の数が例年より多いせいだったからかもしれない。
あるいは、城下で流れる物騒な噂のせいかも。
それが噂ではなく、現実のものだと知ったのは数時間後。
「きゃああっ」
舞踏会に暴漢が侵入してきた。
しかも何人も。
すぐに近衛騎士が国王夫妻のそばを固める。
そしてギルバート様も。
大切な兄上ディオン陛下と、そしてマリアのそばに。
「公爵夫人、あなたもすぐに避難してください」
「…ええ」
そばにいた近衛騎士の一人が私に声をかけてから、自身も戦いに身を投じる。
あちこちで悲鳴と怒号が聞こえる。
剣が閃く。
近衛騎士や暴漢だけでなく、先ほどまで踊っていた貴族たちも血を流し、我先にと出口へ向かう。
ギルバート様はどこかしら。
ああ、やっぱりマリア様のところから離れない。
指揮をしている国王陛下の隣で青くなっているマリア様を支えてさしあげている。
ねえ、ギルバート様。
なんでかわからないけど、脇腹が熱いの。
まっすぐ歩けないの。
立つのが辛いの。
ねえ、たすけて。
たすけて、ぎるばーとさま。
そうして手を伸ばした私と、ギルバート様の視線が交わった。
交わってすぐ、ギルバート様は興味を失ったように視線をそらし。
傍にいるマリア様を見つめた。
ああ、幸せなんて嘘だ。
私は、マリア様になりたかった。
好きなものを覚えてもらえるマリア様に。
名前を呼んでもらえるマリア様に。
命の危機にそばにいてもらえるマリア様に。
ねえ、ギルバート様。
脇腹は熱いのに、身体は寒くて寒くてたまらないの。
けれど、アンネマリーの手を取ってくれる人は、もういない。
結婚して初めて、頬に雫がつたうのを感じつつ、私は私をそっと暗闇に押し込めた。
「アンネマリー」
目覚めてすぐ、目に入ったその人は、とっても怖い顔をしていたけれど、同時にとてもほっとした顔をしていた。
「よかった…。一時はどうなることかと…。目を覚ましてくれて本当によかった…」
とっても綺麗な顔をしたその人は私の手をぎゅっと握る。
ちょっと痛いな。
それだけ心配してくれていたということだろう。
不謹慎だけれど、ちょっと嬉しい。
彼の愛を感じる。
「まだ熱があるな。すぐ医者を呼ぼう」
そばに控えているメイドに何事か指示する。医師を呼びにいかせたのだろう。
そのメイドもまた、感極まったように涙ぐんでいた。
ぽつりと彼が続ける。
「…あの暴動のなか、君のそばを離れて本当に申し訳なかった。何か必要なものがあればなんでも手配しよう」
なにがほしい?アンネマリー。と続けられる。
私は首をかしげた。
「とくに…なにも…。それよりもひどいわ、旦那様。私の名前を忘れてしまったとでもいうの?」
「…え?」
「もう…。死んでしまったアンネマリーが恋しいのはわかるけれど…」
私も彼女とは幼馴染だった。
いつも寂しげに、旦那様と一緒にいる私をじっと見つめていた女の子。
「冗談にしても面白くないわ。私はマリアでしょう?」
早く名前を呼んで。
彼が呆然と私の手を離すのと同時に、メイドに呼ばれた医師が扉をノックした。
「奥様、お名前をお伺いしても?」
「マリアです。みんな、さっきから名前を聞いてばかり。おかしいわ」
「申し訳ありません。大変な怪我をされておりましたので、身体だけではなく、記憶の確認も必要なのです。記憶の中でも皆からマリア様と呼ばれていたと?」
「いわれてみれば…定かではないわ。なんだかぼうっとするの」
けど。
「嫁いでからは奥様だけれど…。旦那様から名前を呼ぶれるときは、マリアと呼ばれていたわ」
私の手を離してから一言も発していない彼が、再び硬直したのを感じた。
どうしてそんなに硬い表情をしているのかしら。
あなたはあんなに私を愛してくれたのに。
「旦那様は素敵なのよ。マリアが好きなものをたくさんプレゼントしてくれるの」
婚約時のことを思い出して、思わず笑顔になる。
私が笑顔になるのに比例して、なぜかみんなは渋い顔になった。
その後も、医師はいくつか質問し、そのまま退室した。
入れ違いに、兄と姉が入ってくる。
「アンネマリー!」
「リリー!お兄様まで!」
旦那様もメイドたちもどこか様子がおかしくて、不安でたまらなかったから、久しぶりに見た兄姉の顔は想像以上に私に安堵感をもたらした。
けど、なんでリリーまで私をアンネマリーと呼ぶのかしら。
前までは、マリアと…いえ、前までは…なんとよばれていたのだっけ…
「アンネ、これお見舞いよ。ガーベラ。あなた好きでしょ?」
「可愛いわね。けど、リリーったら、私が一番好きな花間違えてる」
名前だけじゃなくて好みまで間違えるなんて。姉なのにちょっと薄情じゃない?
失礼かなと思ったけど、思わず言っちゃったわ。
「アンネ…?なにをいっているの?」
「リリーこそなにを言っているのよ。私が一番好きなのはバラじゃない」
ああ、でも、香りがきつすぎてバラはお見舞いにむかない。やっぱりリリーは気を使ってくれたのね。
そういってちゃんと謝ったのに、リリーの顔は晴れない。
「アンネの好きな色は?」
「ピンクよ、ドレスはいつもそればっかり」
「甘酸っぱいケーキと甘いケーキはどっちが好き?」
「もちろん甘いケーキ。なに?さっきから変な質問ばっかり。それにアンネじゃないって言ってるじゃない!」
誰よアンネ、アンネマリーって。ひどいわ、妹の名前間違えるなんて。
からかっているにしてもひどすぎる冗談だわ。
「私はマリアよ。忘れたの?」
なぜか、部屋の空気が凍りついた気配がした。
変なの。
そのあとすぐ、お兄様が固い声で「家に帰るぞ」っていったわ。
なんだかよくわからなくて怖かったけど、いつも優しくにこにこしているお兄様が、とっても真面目な顔でそういうのなら、私は帰った方がいいのだろう。
さっきから旦那様も固まったままだし、怪我をして、身体に傷のついた私なんて嫌いになってしまったのかも。
もしそうだとしたらとっても悲しい。
私は旦那様が大好きなのに。
だから、お兄様が連れて帰るっていって、私が頷いたとき、旦那様に「待ってくれ!」ってすがりつくように言われてびっくりしたわ。
それと同時に嬉しかった。
まだ私を妻として認めてくれるのかしらって。
けど、それ以上にお兄様が怖かった。
お前が妹を蔑ろにするから。
マリアの身代わりにするから。
恥を知れ。
とか。温厚なお兄様にしては珍しくとっても怒っていた。
けど、いっている言葉の意味の半分も理解できない。
みんなはなにをいっているの?
「マリー」
「こんにちは、ウェスティン公爵様」
「…っ、ああ…」
あれから、旦那様はまめに会いに来てくれる。
お兄様は「離婚させる」といって、とても怒っていたから、私ももう気軽に「旦那様」なんて呼べなくて、ウェスティン公爵様と呼ばせてもらっている。
本当は私も離婚なんて嫌だけど、傷のことも気になるし、なにより旦那様はアンネマリーのことが忘れられないみたいだから。
かわいそうなアンネマリー。
小さいときは、いつもいつも旦那様の周りをくっついてまわって、博識な旦那様のお話を目をキラキラさせながら聞いていた。
いつ亡くなったのかは、はっきりと思い出せないけれど。
あんなに若くして亡くなってしまってかわいそう、と思ったのは覚えている。
私が旦那様と結婚したことがきっかけになったのだとしたら悔やんでも悔やみきれない。
だから、旦那様も私をアンネマリーなどと呼ぶのだろう。
私にアンネマリーを重ねても、アンネマリーが戻ってきたりはしないのに。
旦那様はどんなにお兄様に冷たくされても、毎日うちを訪ねてくる。
忙しい人だから、今日みたいにゆっくり世間話をするときもあれば、時間がなくて挨拶とプレゼントだけ置いて帰っちゃうときもある。
けど、とっても不思議なの。
お兄様たちと4人であったあのときに、私の好きな物はっきり教えてあげたのに。
お花を持ってくるときはガーベラを。
ドレスを持ってくるときはブルーのドレスを。
お菓子を持ってくるときは甘酸っぱいものを持ってくるのよ。
まあ、どんなものでも嬉しいんだけど。
私の好きなものを覚えてもらえないのは悲しいわ。
「マリー」
そうそう、私の呼び方マリーになったの。
私の名前はマリアだって私自身が言っているのに、みんながアンネマリーと呼びたがるから、間をとってマリー。
お兄様が考えたのよ。頭いいわ。
「マリー、今日はこれを持ってきたんだ。付けてくれるか?」
「わあ、綺麗なネックレス。透き通る色をしているのね」
ほんのりブルーが入ったワントップのネックレスは、とっても綺麗。
まるで湖面みたいだわ。
「昔、君が小さい頃は一緒に湖の前に座って、読書をするのが大好きで…。湖を見ながら、『みずうみに日の光があたるときれいだわ!おもちかえりしたい!』と言ってね…湖は持ち帰れないから、代わりに、これを」
「私がそんなことを…」
一生懸命思いだそうとするけれど、なにも思い出せない。
幼いアンネマリーが旦那様の後ろをついて回っていたのは知っているけれど、私もそんなことをしていたかしら?
けれど、私自身、自分の記憶には自信がない。
みんなが私のことをアンネマリーと呼び始めるようになってからずっとそう。
記憶のあちこちが虫に食べられちゃったみたいに、なにも思い出せない。
それに何かを思い出そうとすると、ベッドの上で「マリア」と呼ぶ声と、胸の苦しさを覚えるから、思い出すことを放棄してしまう。
忘れたままだと、みんなちょっと悲しい顔をするけれど、ずうっと楽に空気が吸えるんだもの。
「ごめんなさい。ロマンチックな話だけどなんにも思い出せない」
「いや、いいんだ。これは私への罰だから」
本当にすまない、アンネマリー。
そういって、とても痛そうに微笑む。
「ウェスティン公爵さま、あのね」
「うん?」
「私の名前は、マリア。好きなものはバラ、明るい色のドレス、甘いお菓子なの」
「…っ」
「今度は、覚えてね」
そう茶目っ気たっぷりに笑ったら、公爵さまはさっきよりもずっとずっと痛そうな顔をした。
どうしてかしら。
そのうち夫視点も上げるかもしれません。
そちらでは、ハッピーエンドの予定。