新入社員、エリザベス!
今更ですけど、オースティンの小説「高慢と偏見」から登場人物の名前結構とってます。
ベネットは馬車に乗り、彼の務めている会社、《クローバーズ》への本社へ急いでいた。交通費は基本的に経費で落ちないとの決まりなので、ダーシーを恨めしく思いつつ、新聞を読みながら馬車の旅を楽しんだ。
スラム街を出ると、並木道にさしかかり、電灯が並んでいた。ベネットはそれを見てようやく安心した。もうすぐ電車のプラットフォームが近いからである。
辺りを見回しても、シルクハットを被った紳士や、酒場で荷台を運んでいる男、ベンチに腰掛ける中年男性など、男ばかりであった。ベネットは最初この風景にうんざりしていたが、もう慣れっこだし、イヴが酷い目に遭っているのを見て仕事にとりかからねばならないことを思うと、気が楽だった。
クローバーズは、大陸に残された99人のイヴをシェルターに無償で匿う慈善事業をするのが主な法人だ。だが、表向きは女性愛護だが、本当はイヴの中のギフテッドを集め、ジョーカーズに戦争を仕掛けようというのが狙い。戦前に出たくないイヴもいるだろうが、いざというときは心を鬼にして追い出さなければならないのが、社長のダーシーの一番心苦しいところであった。だが、ジョーカーズを野放しにしておくと、自分たちの立場もおいやられ、世界は完全に彼らに掌握されてしまう。ダーシーは気丈に見えても、いろいろ思い煩っているのだ。
そしてタイムマシンに乗って文明が進歩したかのように、ベネットの視界は、バラック小屋だらけのスラム街から、オフィス街に変わった。ビルが立ち並び、アスファルトを浮いて走る次世代の車が行き来する。アスファルトの下には強力な磁場が敷かれており、リニアモーターカーの要領で移動するのだ。
そして20階建てのガラス張りのビルの前に、ダーシーと、エリザベスが立っていた。ダーシーは上着を脱いでエリザベスに被せていた。
「よう」
ベネットが声をかけると、ダーシーは手を挙げた。
「彼女のエスコートを頼む」
ダーシーは一歩下がり、ベネットはエリザベスの手を取った。相変わらず、腕はぷるぷる震えている。
ダーシーは声帯認証を済ませ、彼らをビルに招き入れ、エレベーターに乗り込んだ。ダーシーは最上階のボタンを押した。
「これダーシーさんのビルなんですか?」
「ん、まあ、所有者は俺だよ。他の企業にも部屋貸してるけどね」
エリザベスは手を口に当てて目を見開いた。ベネットは面白くなさそうに、唾を床に吐いた。それを見たエリザベスは、何か彼らの間に因縁があるのかと疑り、ちょっと意地悪そうに、
「ダーシーさんは、すごいお金持ちなんですね」
するとダーシーは胸を張って、
「ま、大陸の長者番付では五年連続ベスト10だね。だが俺の部下のウィッカムという奴も、申告をきちんとすれば相当な資産家だ」
ますますつまらなそうな顔をするベネットを見て、くすりとエリザベスは笑った。
そしてエレベーターを出てドアを開けると、広い部屋にデスクはたった6脚しかなかった。
「え……どうしてこんなに少ないの……?」
視線の先には、パソコンに向かっている、炎髪で猫背のポロシャツ姿の青年と、眼鏡をかけひっつめにしているスーツ姿の女性──漏れなく彼女もイヴの生き残りの一人なのだろう。その二人だけが座っていた。女性はパソコンの手を止めてこちらに身体を向けると、ぱっと笑顔を見せて駆け寄った。エリザベスは最初彼女がキツそうな雰囲気を出していたので、意外だった。
「いらっしゃい!クローバーズへようこそ!」
女性はベネットと反対のエリザベスの手をとって、温和に応じた。
「この方は……」
「ああ、彼女は俺の部下のコリンズ・キャメロンだ。尊敬の意を込めてコリンズ女史と俺らは呼んでいるよ」
するとコリンズ女史は何故かきつい目でダーシーを一瞥し、
「いやですわダーシーチェアマン。まるで私が威圧感を普段から醸し出しているみたいじゃあないですか」
「いや嘘じゃねぇだろあいたたたたたた」
コリンズ女史はベネットの腕をひねった。
「……コリンズ女史は《オーラ》と呼ばれる、体術使いのギフテッドだ。能力を使わなくとも、空手10段、柔道10段、その他テコンドー、合気道、護身術にも長けており、格闘で彼女に敵う人間はアダムでもいないだろうね」
エリザベスは苦笑した。
「で、君を助けたベネットは《ポインター》と呼ばれるギフテッドを持つ。うちの企業の最大戦力だ。俺はというと、恥ずかしながら《フライング》という飛ぶだけが取り柄のギフテッドなんだ」
そしてダーシーは炎髪の男の方を指差した。すると炎髪の男はそれを察知したのか、いきなりくるくる回りながらこちらにやってきて、エリザベスの前にひざまずき、
「これはこれは麗しのエリザベス嬢。私はウィッカム・コルネリアと申しまする。私は大陸大学ランキング1位のハルジオン大学の大学院で数学の博士号を取っており、統計学で私の右に出る者はいなーい。そう、私は偉大で雄大な、エンプティなのであーる」
ダーシーとコリンズ女史はずっこけた。こんな拍子抜けた自己紹介があるだろうか。
「彼は確かにエンプティだが、経理とかまあ事務に関してはかなり有能だ。だから大抵事務所は彼一人に任せていることが多い。大学の客員教授をやっており、著書も多数出版してバカ売れ、そして株でかなり稼いで、兼業で投資信託をやっている。そしてあまり声を大にして言いたくないが、かなりのギャンブル狂だ。しかし、ほとんど勝ちまくって、彼曰くギャンブルは趣味だとか。どうやら裏カジノでディーラーもやって、そこでも資本を蓄えているらしい」
エレベーターでの会話を思い出し、エリザベスはまた苦笑した。
「ところでダーシーチェアマン、ベネット氏の自己紹介はまだであーるか」
ベネットは七面倒くさそうに後頭部を掻き、
「俺はいいだろ。《ポインター》のギフテッドだ。年齢は28。童貞。エリザベスとは婚約した」
「「婚約!?」」
「童貞!?」
ダーシーとベネットを除いた三人が同時に声を上げた。エリザベスは彼が童貞であることを知らなかった。
「そうかそうか……ついにベネット氏も童貞を卒業するのであーるか。うーむ、もったいないぞこんな美少女。披露宴は壮大に行おうではないか。チェアマンの経営する《トラストグループ》の社員を全員出席させてはどうだろうか、ねぇ?」
「エリザベスちゃん、本気にしちゃ駄目よ、あなたは年をとらなくとも、ベネットは勝手にじいさんになっちゃうのよ? 私のようにキャリアウーマンになりなさいな」
エリザベスはうろたえ、視線をあっちこっちに向けている。
「……まあ女史の言う通り、うちの社員として採用するのも、確かに悪くない。何より、なるべくベネットの近くにいる方がいい。エンプティでなければ、迷わずシェルターに匿ってもらうところであったが」
ダーシーはエリザベスに、事業の内容を話した。自分たちがイヴたちをシェルターに匿う慈善事業を行うことを。ただし、戦争の駒として利用することは伏せて。
「わ……わたし、お茶くみくらいなら、できそうです!」
「ふーむ、では給湯室に女史と共に行ってもらおーかね。女史よ、指導を頼む」
「言われなくとも」
コリンズ女史は、嬉しそうに彼女の肩を抱いて、給湯室へ向かった。
「さーて、どう責任をとるつもりだねベネット氏。あーんなかわいこちゃんを、本当に手にかける真似をするつもりかね」
「さーな。でも、嫁にするって言っちまったからにはしゃーねーだろ」
「しかし、彼女の心の傷は深いに違いない、慎重に扱うことだ。それから女史にカウンセリングを受けさせるべきだと、俺は思うがね」
ダーシーは、背伸びをしてそう述べ、コリンズ女史の方を見た。
コリンズ女史も大学を出ており、臨床心理士とセラピストの資格を得ている。普段は出張カウンセリングに週二回ほど出かけることもあるが、ダーシーの事業の一環として、傷付いたイヴのケアも用意されていた。見たところエリザベスは女史になついており、カウンセリングも抵抗なく受けてもらえそうなので、彼は楽観視していた。
「すごい!ありえない!」
給湯室の方から、甲高い声が聞こえた。三人は給湯室の方を振り向くと、盆に四人分の緑茶を載せたエリザベスが歩いて来た。どこかはにかんでおり、皆の前に出るのを抵抗しているようにも見えた。
「ありえない、四つのコップ全部が茶柱立ってるの!こんなこと、ありえないわ!」
「あはは……わたし、運がいいってよく言われるんです。奴隷になっちゃったけど」
四人は墓穴を掘ったかと思った。エリザベスがしゅんとしたからである。ところがウィッカムが機転を利かせて、
「うむ、彼女の期待値を算出しよう。今オフィスにある全ての茶葉を淹れてみたまえ」
「ちょっと、あなたいきなりパワハラするつもり? ……でも、試してみたい気がする」
「よし、じゃあ俺たちも対抗して交代で入れて、俺たち四人とエリザベスさんのどちらが多く茶柱を立てられるかどうか競ってみよう」
「えっ……えっ……」
エリザベスは半泣きになってまたきょろきょろした。
結果。
「どぉーしてぇー!? なんで私らの茶柱が1本しか立たなくて、エリザベスちゃんのは全部立つのぉ!?」
「ふーむ。私たちのなかで唯一立てたのが私であることをお忘れなくいたたたたた」
調子に乗ったウィッカムの頭をコリンズ女史がグーでぐりぐりする。
「ははは……どうするかな。申し訳ないことをしたね、エリザベスさん。いや、うちの社員になったから呼び捨てでいいか、エリザベス。せっかくだから、何かしてほしいことをひとつ言ってごらん。できる限りのことならなんでもするよ」
「ん? なんでもするって言ったよね?」
ふざけたベネットに女史がアッパーを喰らわせる。
エリザベスは戸惑い、そしてもじもじし、指をいじいじし、悩んだあげく顔を紅潮させて、
「わ……わたしを、ベネットさんと同居させてください!」
その夜、ベネットの住むマンションで、エリザベスはシャワーを浴びていた。
なんであんなこと言っちゃったんだろう……。
確かにベネットのことは、ようやく好きだということがはっきりした。
けれど、レイプされ続けた恐怖が、彼女の心を離れない。
彼女にとってのセックスは、暴力でしかないのであった。
あらっぽい口調を常にするベネット。そんな彼を信頼しないわけではない。ただ、やはりあの矢印を思い出すと、きっと気性も荒いのだろうと決めつけてしまう。
そう思いつつ、久しぶりの風呂で、全身をいつもより丹念に洗っている自分がいる。
バージンだったら、どれだけ幸せだっただろう。
もしバージンなら、それをささげて、また路傍に捨てられても構わないのに。
ベネットの用意したバスローブを身にまとい、リビングに出ると、ベネットは床に肘をついてテレビを見ていた。手元には落花生の殻が散らかっていた。
「べ、ベネットさん、お風呂あがりました!」
「ん? ああ、じゃあ俺も入るわ。先寝室行ってな。狭いけど二人で寝ようや」
やっぱりこの人、私を抱く気だ。俯いたまま、寝室へ向かうエリザベス。
電気を消して、ベネットの枕を抱く。
煙草の匂い。
何故か父親のような人物が、自分にもいたのではないかと思い起こし、安心する。
布団をかぶり、丸まって、震える体を必死でおさえる。
しばらくして。
「上がったぞ」
エリザベスがちらとベネットの方を見ると、彼は上半身裸、下半身はズボンで、筋肉隆々の肉体には、大きな傷跡があった。
「その傷……」
ベネットはどっかりとエリザベスの横に横たわり、じっと彼女の目を見つめた。エリザベスは固く目を閉じ、何をされるかの恐怖に耐えた。
なにかやわらかいものが唇に触れた。そして、それは離れ、彼の胸に彼女の頭はおしつけられた。
「ごめん……キス、しちまった。でも、何もしねぇよ。俺がやりたかったのは、添い寝さ」
「そい……ね?」
何故だかエリザベスの中に悔しさが込み上げて来た。
「抱いて……くれないの?」
このとき、ベネットは、一切てんかんの発作が起きなかった。しっかりと、大事そうに、エリザベスの頭を抱きかかえた。
「お前を犯すほど俺は非道じゃねぇ。怖がってたんだろ、ずっと」
「……大丈夫……です。わたし、ベネットさんに抱いてもらって、今までの傷を……」
「傷を真水で洗っても痛えだけだ」
ベネットが肩で息をしているのがわかる。彼も緊張しているのだ。
「いいか。これだけ聞いて、眠ってくれ。花はめしべは一本しかないが、おしべは無数にある。卵子は一個しかないが、精子は一億もある。俺は高卒だから、それ以上のことはよく知らねえが、男は一億の争いに勝った気でいるから、プライドが高いんじゃねえかと思う。いいか、生殖ってのはそういうことだ。俺はそんなつまらない人間にはなりたくねぇ。だから女を拒んできた。だが」
ため息をつく。エリザベスの耳にかかった青色の艶のあるかみが震え、彼女に官能を生じさせた。
「お前がそれを望むなら、心の傷が完全に癒えてからにしろ」
「……そんなの、納得いきません」
はあ、とベネットはため息をついた。
「俺はお前が嫌いなわけじゃねぇ。俺が大っ嫌いなのは、腐れ切ったジョーカーズ、特にその女ボス、イライザだ」
イライザ……? エリザベスは顔を見上げる。ベネットの顎が見えた。
「本当に、これだけ聞いたら眠ってくれよ。俺はもともとフランクリン財閥の御曹司だった。自分がギフテッドであることに気づくまでは、高校でやりたい放題やったさ。女には手は出さなかったが、財産があるのをいいことにわがまま放題した。ところが、親父の不正が発覚し、財閥は解体。首を吊った父親の遺産を全部独り占めにして母親は逃げ、俺はあてもなくさまよった。そこで幸運にも、ギフテッドであることに気づき、たかりをする日々。だが、テラスモールで、ある女がコーヒーを飲んでいた。あれはホットで、砂糖はひとかけらしか入れていなかった。それぐらい鮮明に覚えている。その女は黒い稲妻のマークがプリントしてある白無垢を着て、日傘を差していた。白くてさらさらした髪をし、八重歯が印象的で、白い肌をし、赤い唇が魅惑的だった。そして、その女が立ち上がり──」
「テラスモールを、爆破した」
エリザベスは言葉を失った。
爆裂異能のギフテッドはこの大陸にただ一人、そう──。
ジョーカーズの女首領、イライザ・サクラダファミリアただ一人。
大陸最強の爆裂異能の使い手だ。
「それから気が付いたとき、俺は病院にいて、一人の青年に看取られていた。そう、そいつがダーシーだ。俺はそこでダーシーのわけのわからない事業にスカウトされた。ダーシーはIT企業グループの会長で、多額の資産を持っていた。それで、もともと金持ちでプライドが高かった俺は、あいつと金のことでよく言い争ったもんだ。ま、翌日には酒飲んで肩組んで千鳥足で帰ったもんだがよ。喧嘩するほど仲良くなってく仲でな。どうやら俺は、イライザ相手に互角で戦ったらしい。結果はイライザの勝利だったらしいが、彼女は能力値が下がったらしい」
「能力値?」
「いいか、ギフテッドには第一形態、第二形態、第三形態、最終形態まである。イライザと俺は第三形態まで上昇したらしいが、そこで戦いが終わり、今俺たちは第一形態だ。いいか、エリザベス。どちらか選べ。イライザから逃げ、お前の訳の分からない幸運に頼って俺から離れるか、それとも、俺と一緒についていき、イライザの恐怖と立ち向かうか──」
そんなの。
はなから決まってる。
「……寝やがったな、こいつ。明日くすぐりの刑にでも処すか」
実はエリザベスは寝たふりをしていた。
心の中ではとっくに決まっていた。
聖書にも書いてあるではないか。
私たちは婚約者。
私たちはもう、二人でひとつ。
離れる理由なんかない。
くすぐりの刑? 上等。
コリンズさんに言いつけてセクハラのお仕置きを喰らわせればいい。
エリザベスは、穏やかな笑みを浮かべて、ベネットの胸の中で、眠りについた。
翌朝、エリザベスとベネットは街中を歩いていた。
エリザベスが、無くなった茶葉を買いに行くと言い、それならベネットも一緒に行くべきだと、三人が勧めたのである。
まあ、事実上の初デートになるわけだが。
「エリザベス、なんか買って欲しいもんあるか」
エリザベスの服装は、おしゃれになっていた。
胸に布を巻いたへそ出しルックは変わらないが、長袖のカーディガンをまとい、ミニスカートを履いている。全部コリンズ女史のコーディネートだ。女史は大人ぶってハイヒールなんかどう、と言ったが、ベネットが、敵に襲われたときどうするんだ、と抗議して、渋々スニーカーを履かされているのであった。
二人は恋人つなぎで歩いているが、ベネットは顔を背けている。耳が赤くなっているのを見て、恥ずかしがってるんだな、と、エリザベスは心の中で笑った。
「そうですね、じゃあ、定番のマフラーを買って、二人で巻いて歩きましょう」
「馬鹿言ってんじゃねえ」
にこにこしながらエリザベスが歩いている。今までのエリザベスとはもう、別人だ。エリザベス自身も、それが例えようもなく嬉しかった。今、奴隷としてではなく、立派な女性として、それも恋人を得て、幸せに満ち満ちているのだから。
「ねえ、ベネットさん、あの人、すごくきれいですよ」
「あ?」
二人がその女性に目をやると。
二人とも硬直した。
その女性は、白い日傘を差して、純白の着物のようなものを着ており……。
「お久しぶりですわね、ベネット・フランクリン」
黒い稲妻が、彼らにそう語りかけた。