序章:セシルとマールの縁
人間の記憶ほどいい加減なものはない。ほんの数分前のことを忘れることもあれば、何年も前のことを覚えていたりする。
どうでもいい事ほど良く覚え、覚えなくちゃいけないことを忘れる。実に不器用なものだ。
だが、いつまでたっても覚えている記憶というのもある。
自分の最古の記憶は何だろうか。
「お前にこれを渡そう」
父は言った。
それが何なのか、子供には初めて見るものだった。
「お守りの指輪だ」
「ゆびわ?」
父親からの最初で最後の贈り物。
まだ子供の指には大きすぎる、大人サイズの指輪。
「まだお前には大きいだろう、いつか大人になったら使いなさい。それまで大事にとっとくんだ」
その言葉に、素直に頷いた。
曖昧で、今にも消えてしまいそうだけど、ずっと心の奥にある最古の記憶。
彼は、手のひらの指輪を転がしながらそんなことを考えていた。
○月△日、晴れ。
雲一つない空が広がっている。
今は夜なので、青空は見えない。
でも、満天の星空が見えた。
それをぼーっと見つめていた。男が一人。
「あいつどこいったんだろ」
連れとはぐれて山の中を彷徨っていたが、開けた場所に出て空を眺めていた。
このまま先に帰ろうかとも思ったが、さすがにそれはまずいと思い直す。
その時、
遠くの方で獣の雄叫びが聞こえた。
どこかの山中。月の光だけが輝く夜の闇の中、一人の女が立っていた。
背中まで伸びた茶髪が風に揺れ、珍しいエメラルドグリーンの瞳が、闇のさらに深いところを見据えていた。
「さっさと来なさい」
挑発的な笑みを浮かべ、女は言う。次の瞬間、暗い森の奥から、闇色の獣が現れた。犬とも猫ともつかない不気味な獣。
カゲとよばれる魔獣が三体、向かってきたが女はそれに慌てることはない。
手も足も動かさない。動かしたのは、唇だった。
「……招雷」
魔法の言葉が紡がれる。雷が女の周囲を包みこむと、間を置かずに炸裂して四方八方に飛び散った。青白い光に貫かれ、黒い獣は悲鳴を上げることもなく粉砕された。
魔獣にはほとんど知能はない。
ただ本能のままに、獲物を見つければ襲いかかって食らうという生き物だ。統率された動きというものはなく、一匹一匹が好き勝手に襲いかかってくるだけだ。
続いてまた何体か現れるが、結果は同じだった。女が対処に困ることはなかった。
「これでラストね」
最後は、腰に付けていた銃を抜き、撃ち抜いた。パシュッ、と空気の漏れる音がしたかと思えば、カゲは跡形もなく消えていた。
全部で13体のカゲの討伐は完了した。
「ふぅーしんどかった」
全然しんどくなさそうに呟いてから、近くの切り株に座って一息ついた。
女の名は、マール・アイボリーと言った。
マールは生まれてからずっと同じ事を繰り返してきた。魔法を操り、銃を使い、敵を仕留める。
先祖が大魔法使いだったらしく、昔から魔獣の討伐やら戦争やら何やら、物騒なことを家業としていたらしい。
そんな家に生まれついたマールも当然のように、何百年も前の先祖と同じことをやっている。
昔と変わったことと言えば、学校に行くようになったことだ。
といっても、普通の学校ではない。
「おーい、マール。ここにいたんか」
カゲがいたところとは反対側の森の奥から、男が現れた。手に銃を持っているが、別に怪しい者じゃない、マールの知ってる男だ。
「うん、終わったから休んでたのよ」
「んじゃ帰ろうぜ。こんな危ないとこにいつまでもいたくねえよ」
「ん、怖いの? セシル?」
からかうように問う。それに一瞬苦い顔になって
「そりゃ怖いさ。どっから魔獣が出てくるか分からんし。お前ぐらいだろ、何が来ても怖くねえってのは」
マールは少し困ったような顔をし、笑った。
「本気出しなさいよ、あんたも」
「……俺はいつでも本気だよ」
気のない返事で口元だけ笑い、マールより先に森の出口へと進んでいった。学園への帰り道を。
ただし、普通の学校ではない。魔獣狩りや兵士を育成する、国立の軍事訓練校だ。
毎年、この国の正規軍に何人も輩出され、卒業生は皆高い実力を誇っている。兵士にならなくても、傭兵や魔獣の駆除など、荒事の処理を専門にやっている者は多い。
「でも、ま。魔獣が相手ならまだましよね」
「戦争よりかはな……」
そんな物騒な学校に通う、マール。そしてもう一人の男。
男の名は、セシル・クラフトと言った。
これから頑張ります。