第四十話 大魔神、怒る
渡辺の声に、離れた席にいた数人の客が振り向いた。
そしてマスターも何事かとそちらを眺めた。
「彼女は、美冬ちゃんはいつから知ってるんですか? まさか幼稚園の頃から」
テーブルを挟み、仁王立ちのまま睨んだ顔で、渡辺は言った。
「あ…」
光男は一体何が起こったのか分からないといった面持ちで、呆気に取られた顔で渡辺を眺めていた。
「いや、そんな筈はない。最近知った筈だ。瀬川さん、あんた、何をした」
「い、いや、私は…」
渡辺の形相に、光男は椅子ごと後ずさりをした。
「瀬川さん、…あなたの娘の話だ」
その様子を見た渡辺は、顔つきを少し緩め、腰を下ろしながら話を続けた。
「美冬ちゃん、娘さんが自殺しようとしています。今まで堪えていたものが爆発したにしても、何かある筈だ。きっとそれです。美冬ちゃんは、最近知ったんじゃないですか? ずっと忘れてた事を、最近知って、思い出して、もう耐えられない。死のうって思ったんじゃないですか?」
渡辺は言いながらまた涙と、今度は鼻水も少し流れて来ていた。
「そんな、たかが名前の改名でしょう。ある意味良くある話だ。少し落ち着いて」
後ずさりしたまま光男が言う。
「良くある話? 瀬川さん、じゃああなたは何で写真を持っているんだ。あなたが想いを込めて付けた名前だろうに、意地悪で変えられたんだぞ。悔しくないのか? 私は悔しい! 一人の少女が殺された気分だ!」
渡辺は思わず再度声を荒げた。
「待って、待って、そう興奮しないで」
光男は両手を前に出して落ち着く様に促す。
「私だってね、そりゃあ悔しかったですよ。何て事したんだって、怒鳴りましたよ。その時は大喧嘩です。でもね、私は妻も娘も愛してる。あなたの様にはいかない。美冬と言う名前も、決して悪い名前じゃない」
「いつです。いつ美冬ちゃんは知ったんです?」
渡辺はお絞りで鼻を拭きながら尋ねた。
「それは…二ヶ月前です。私が部屋で美冬の数少ない写真を見ている時、知らぬ間に後ろにいたんです。あの子は私を唯一の身内だと思い、私を好いている。だから私の部屋に入って来て、何か話したい事でもあったんでしょう。机の上のその写真を手にした。最初は写真を見て、そしてその後うしろを見た」
「美夏と書いてあった」
渡辺は口を挟んだ。
「ええ、そうです。だから今した様な説明をした」
「今と同じ様に? 何故嘘を付かなかったんです。間違えたとか。何で奥さんが意地悪したからなんて話をわざわざ言うんです」
「私は愛していた。愛していると伝えたかった」
「違う! 自己満足だ。瀬川さん、あなたは自分だけは良い人間になりたかったんだ。嘘を付いていれば、こんな事にはならなかったかも知れないのに」
「何を言う。渡辺さん、あなたは嘘を付いて失敗したんじゃないのか? 私は間違った事はしていない。本当の事を言ったんだ。正しい事をしたんだ」
光男が言った。
「それは…」
その言葉には渡辺は、その続きが出て来なかった。
つづく
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