第三十九話 美夏と、愛情の在り処
瀬川邸。
祥子が二階の廊下を雑巾掛けしている。
しゃがみ込み、脇に水の入ったバケツを置き、顔を床一杯に近づけ、汚れを確認しながら。
喫茶店。
渡辺は差し出された写真を手に取った。
そして表を眺める。
それはドレスオールを着せられた赤ん坊の写真だった。
続いて渡辺は写真をひっくり返し、裏を眺めた。
『美夏』
と、そこには書かれている。
光男は静かにブレンドコーヒーを啜っていた。
「やはり、美夏さんと言う人はいるんですね?」
渡辺は写真から目を離し、光男の方を向いて静かに言った。
「美夏? 美夏はいません。美冬だけです」
光男は特に興奮したり、緊張したりすることもなく、普段通りの口調で言う。
「つまりそれは、…死んだという事ですか?」
だから渡辺は少し躊躇しながらもそう尋ねた。
「死んだ? はて、死んだのかな? ん~名前的にはそうなるのか」
「名前? それはどういう事ですか」
光男の発言に渡辺は更に身を乗り出して尋ねる。
「美夏とは美冬の事です」
光男はこれも、いつも通りの口調で普通に言った。
瀬川邸
相変わらず二階の廊下を雑巾掛けしている祥子。
美冬の部屋の前の廊下を、やはり丁寧に、顔を床に近づけながら、ゆっくりと掃除をして行く。
あたかもそこに扉があり、美冬の部屋があるという事知らないかの様に。
全く関心もなく、ただひたすら廊下だけを掃除して行く。
喫茶店。
渡辺は周りに客がいない事と、マスターがカウンター内にいて遠い事などを確認してから、更にテーブルを挟んだ光男の方に身を乗り出して小声で尋ねた。
「どういう事ですか?」
しかし相手を気遣い神経質な渡辺とは対照的に、光男は椅子に奥深く座り、先程までとなんら変わらない格好のまま話し出した。
「大丈夫ですよ。そんなコソコソしなくても。名前の話です」
そう言う光男の顔は少し微笑んでさえいた。
「八月に生まれたので、私が美夏と名付けました。美冬の事です。それが三歳になり、幼稚園に入る時に気付きました。美夏は美冬になっていたんです」
「え?」
一瞬渡辺は言葉を失い、五秒程してから口を開いた。
「それは、どういう事でしょうか」
「祥子。妻ですよ」
「妻?」
「はい。妻がやったんです。意地悪ですよ。私の愛情が美冬に持って行かれるのではという恐れや怒りから。私はあの頃新店に移動したばかりで忙しかった。一緒に役所に出生届けを出しには行けなかった。そこで妻は一人で出しに行った。その時に美冬と書いた」
「それは何故です。間違えたとか?」
ここで光男はため息をついて、何かを哀れむ様な目をした。
「さっきも言ったでしょう。意地悪です。『貴女なんか冬で十分、暖かい太陽の光を受ける夏なんて勿体無い。寒くて凍えそうな冬でいいのよ』と、まあ、そんな感じです」
「酷い…」
「確かに酷い仕打ちです…で、まぁそういう訳で美冬は幼稚園にあがって私が知る事になるまで、二つの名前で呼ばれる事になりました。妻からは美冬と、何も知らない私からは美夏と」
渡辺は下を向いたまま、黙っていた。
「あの子には可哀想な事をしたと思いますよ。しかし三歳の時点で気付いたからまだ良かった。以降は美冬として育てていますし、この件は妻とも喧嘩をして終っています。まあ何と言うか、なんだかんだ言っても、たかが名前の話ですから」
光男は子供の頃の美冬でも思い出して懐かしんでいるのか、また少し微笑んで言った。
「じゃあなんで、写真を持っているんですか?」
下を向いたまま、いつの間にか溢れ出ていた涙に若干咽びながら渡辺は言った。
「えっ?」
それが予想外の質問だったのか、若干うろたえる光男。
ガツッ!
そして渡辺はテーブルに足をぶつけながら、急に勢い良く立ち上がると怒鳴り声を上げた。
「あんた達のした事は、人を一人殺したのと同じだ!」
つづく
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