第三十話 ディスカッション【discussion】
渡辺は美冬の手から抜き取ったカッターを、刃を引っ込め、自分のジャケットのポケットに入れた。
カッターを押さえていた右手の掌には筋が付いていて、薄っすらと全体に血が滲んでいた。実際切れている所も所々あったが、それらは三ミリ四ミリ程の浅いものだった。
舞はテーブルの上のお手拭を集め、渡辺の前に置いた。
「ああ、ありがとう」
渡辺はその中の一枚を取り、怪我をした掌に押し当てる。
安藤は静かに黙ってその様子を見ていた。
「大丈夫?」
安藤の方をまだ睨みながら、美冬は渡辺に尋ねた。
「ああ、良かった。美冬ちゃんが怪我をしなくて」
渡辺は言った。
「おじさん、ごめんね」
「いいよ。それよりもまだ、言いたい事があるんじゃないのかい?」
渡辺はお手拭で抑えている掌を見ながら、美冬の言葉にそう答えた。
「うん、ある。私はね、ここに居るみんなは、一度は死にたいと思った事があると思っているの」
先程から、ずっと安藤の事を睨んでいた顔を、少し和らげて美冬は話し始めた。
「安藤君が初めて、『一瞬、死ねる瞬間がある』って私に言った時、目が遠くを見てて、きっとこの人は死にたいと思った事があるんだって、思った。何か死にたい位辛い事があったんだって」
安藤の顔を見てそう言った後、今度は横の舞の方を美冬は向いた。
「舞も、中学同じ学校だったよね。舞、性格凄い真面目で、正義感強かったから、正しい事言って一年の最初の頃、虐められてたよね。私も、私以外の人も、みんな見てた。誰も助けずに。何回か虐められてる舞と目が合った事もある。あの時舞、本当は死にたいって思ってたでしょ」
そこまで言うと美冬は、今度は自分の横の渡辺の方を見て話し始めた。
「おじさんは…おじさんは、言うまでもないと思う。離婚して、それでも家族の事を思って、五年間一人で暮らして来たんだもん。絶対途中で何度かはもう全てを諦めて、挫折して、死にたいって思ったと思う」
言いながら美冬は、この前の事でも思い出していたのか、少し涙を潤ませていた。
渡辺はジッとお絞りで抑えた掌を眺めながら、美冬の話を聞いていた。
そして顔を上げると美冬の方を向いて話し始めた。
「ありがとう、美冬ちゃん。俺は最初の頃君を誤解していた。君はキレ易く、気分屋な娘かと思っていた。でも違う、君は優しい娘だ。他人の事を良く見ていて、他人の事を考えてる。でも、自分に優しくする事だけは分からないでいる。美冬ちゃん、俺は一度だって死のうとは思わなかったよ。当時家族には一生会えないかも知れないと思った事は沢山あったけれど、絶対会えないじゃなかった。死んだら終わりなんだ。これは絶対の終わりなんだ。俺はまだ、自分に優しくする事を知ってる。だから死のうとは思わなかったよ美冬ちゃん」
美冬も安藤も舞いも、黙って渡辺の話を聞いていた。
つづく
いつも読んで頂いて、本当に有難うございます。