第二十六話 チェーホフ
翌日水曜日。
ゲーム開始から七日目。
美冬達の通う高校は今、丁度六時限目だった。
しかし、佐々木舞は授業をサボり、文学部の部室に一人居た。
校舎から渡り廊下で繋がる部室棟に。他に人の気配は無い。
だからそこには静かな時間がただ流れていた。
舞は椅子に座り、部室中央に位置するテーブルの上の本を眺めていた。
『罪と罰』
安藤の読みかけの本だった。
『罪と罰。私の罪と…ばつ』
舞は心の中で呟いた。
それは高校一年の秋だった。
舞は読書が趣味で、大勢の人と一緒に話したり、何かをするのが苦手な女子だった。
だから文学部があるのは知っていたけれど、入らずに、いつも一人で図書室で放課後本を読んでから帰っていた。
その日も舞は一人で窓際の銀杏の木が見えるテーブルで、本を読んでいた。
そして不意に自分の背後から薄く影が被るのを感じる。
「チェーホフ?」
男性の、しかしまだ変声期を迎えていない、少し高い声だった。
舞は急な事に驚き、振り向きもせずに固まっていた。
「ああ、『三姉妹』か。人はそれぞれ、自分の事は自分で解決しなければならないんだって事がね。って」
男性はそう言うと、舞の背後から手を伸ばして来た。
「ほら、ここ」
舞の肩越しに伸びて来た手は、チェーホフの『三姉妹』の開かれたページの一行を指差していた。
-人はそれぞれ、自分の事は自分で解決しなければならないんだって事がね。ー
その一文だった。
そこで初めて舞は振り返った。
そしてその時振り向いた先にいたのが、安藤だった。
腕を伸ばした安藤の顔は、舞の頭部の近くにあって、振り向いた舞と安藤の距離は十センチとなかった。
「うわっ」
だからその近さに逆に安藤の方が驚き、仰け反る。
「ご、ごめん」
驚いた安藤は離れてからとりあえず謝った。
その間舞は、放心状態だった。
全身の毛が、静電気か何かで逆立った様な感じだった。自分の体の表面が、ホワッと暖かくなった様な気がした。
そんな舞の固まった表情に気付くと、安藤は悪い事でもしたと思ったのか、そそくさと去って行った。
その日以来、舞は安藤の姿を目で追う様になっていた。
そして見ているうちに、安藤と仲の良い、美冬の存在に気付いた。
実際には美冬の後を、安藤が付いて行っているという感じに見えてはいたのだが。
美冬は色白の綺麗な美人だ。どう見ても安藤を追いかけている様には見えない。多分それは、学校中の人が皆そう思っていただろう。
そして二年になり、三人は同じクラスになった。
元々舞は美冬とは同じ中学で顔は知っている。
舞は少しずつ美冬に近づいて、一緒に帰る様になった。
『それが私の罪。安藤君と親しくなる為に、楽しそうな二人の間に自分も入りたい為に、私は美冬に近づいた。例え美冬がその事に気付いていたとしても、今こうやって気付かぬ振りをして仲を取り持とうとしてくれている。やはりこれは私の罪なんだ。そして美冬が死ぬという事が私への罰。私は決して美冬を死なせはしない。だって、私は、もう、あなたの事が好きなんだから』
ガラガラガラッ
「なんだ、ここに居たの? 授業さぼって」
授業が終わり、安藤が文学部部室に入って来た。
「うん、ごめんね。部員じゃないのに」
少しだけ笑顔を見せて舞は言った。
「いいけど、どうかした?」
雰囲気を察知して安藤が尋ねる。
「ん、何でもないよ。ただ、美冬の事どうしようか、考えていただけ」
「そう。それがさ、また
安藤がそこまで言った時だった。横から美冬が顔を出した。
「何の話?」
「また付いて来ちゃった…」
美冬の言葉に続いて、安藤は苦笑いで言った。
舞は美冬の姿に、大きく笑顔を見せた。
つづく