第十一話 彼女の愛情のすべて
光男と祥子は高校の先輩後輩の関係で、その頃からの付き合いだった。
そして祥子の夢は、二人でいつまでも若々しく、いつも愛し合っている夫婦でいる事だった。
二人で旅行に行ったり食事に行ったり、映画を見たり、兎に角いつも二人きりで愛し合い続けたかったのだ。
だから、祥子にとって美冬の誕生は想定外だった。
たった数度の油断で、祥子は妊娠してしまったのだ。
当時光男は運命だ、神のお導きだと喜んだが、祥子は激しい運動をして、流産を企んだり、中絶をしようと考えたりしていた。
しかし、最終的に美冬は二人の間に生まれた。
そして彼女は光男の愛情の一部を間違いなく祥子から奪って行く事となった。
「貴女なんか生むんじゃなかった」
「貴女さえいなければ、あの人と旅行に行けたのに」
「貴女さえいなければ、貴女さえいなければ…」
幼いうちから美冬は祥子にずっとそう言われ続けて育って来た。
しかし中三の頃に形勢逆転のきっかけとなる出来事が起こる。
ちょっとしたいざこざが原因で美冬の腕が祥子に当たった時があり、美冬はその時にある事に気付いたのだった。
『私の腕力も、脚力も、拳も、もうあの女に勝てるくらい成長してる。時間が経てば経つ程、私達の関係は逆転していくんだ。もうあんな女なんか怖くない』
そしてその日から美冬の家庭内暴力は始まった。
それは祥子にとって地獄の二年間だった。美冬の暴力だけでなく、荒れた家庭の中で仕事も忙しくなっていた光男との接触も殆ど無くなって行ったからだ。
ところがである。そんなこの家庭にとって、半年程前光男が突然メニエール病で倒れるという事件が起こる。
これは祥子にとってはある意味ラッキーだった。
何故ならば光男が倒れてから、美冬の家庭内暴力がパタリッと収まったからだ。
それから祥子は倒れた光男の代わりに、夕方からパートの仕事に出る様にもなった。
その事で美冬と顔を会わせる回数もめっきり減る事となる。
また美冬のいない昼間を、病気で休んでいる光男と二人で過ごす事で、新婚当時の様な、祥子の夢見た生活を送る事も出来た。
だから祥子は、光男の病気が治っていたとしても、このまま家に置いておきたいとすら考えていたのだ。
「なるほど、そうでしたか。それではメニエール病は銀行業務だけじゃなく、家庭にも原因が」
「ああ、あったかも知れません」
光男は渡辺の質問に、項垂れて答えた。
「妻祥子は、美冬を激しく憎んでいます。そして彼女の愛情の全ては、私に注がれている。美冬は、あの子は可哀想な子だ。妻の事を憎みながらも、やはり子供だ。母親を慕いたい、愛されたいと思ってもいる。それに私が病気になった事も自分の所為だとすら思っているんです。その証拠にに暴力を止めて、祥子とはなるべく関わらない様に生活しようとしている…」
光男は、伏し目がちで言った。
「それが分かっていたなら何故?」
「分かっていてもどうしようも無い事もあるんですよ。私の知らない所で起こる事は、私にはどうしようも出来ない。そのうえ美冬は私に告げ口とかはしない。それから私の中の愛情も同じだ。私は妻も美冬も同じ位愛している。だから強く妻に言い続ける事が出来ない。美冬はそんな私の事も分かってる。私の前では泣かない。弱みを見せない」
光男はうなだれたまま、訥々と語った。
「そうか…だから私は、あの場所に居たのかも知れない」
光男の話を一通り聞いた渡辺は、何かに気付いたかの様に突然言葉を発した。
「え?」
それに対して光男は思わず顔を上げて渡辺の方を見る。
「これは運命です。私があそこに居合わせたのには意味がある。あの家が瀬川さんの家で、娘さんが放火しようとしている所に私は丁度居合わせた。私は五年間独りぼっちで、寂しい、人と関わりたい、誰かと関わりたいと、ずっと思っていた。これは運命だ。五年前の失敗の様に選択を見間違えてはいけない。このまま知らん振りしちゃいけない。私は美冬さん、お嬢さんと関わらなくちゃいけない。娘と過ごせなかった時間の穴埋めをしなきゃいけない。瀬川さん、娘さんと関わらせて下さい。無論、変な事をしようていうじゃない。貴方方家族を救いたい。あの時のお礼もある。お願いします。瀬川さん」
そう言うと渡辺は、テーブルに両手を付いて深々と頭を下げ始めた。
「そ、そんな、頭を下げないで」
突然の事に光男は狼狽した様子で慌てて答える。
しかし渡辺はその格好のまま、顔だけ光男の方を向いて、光男の目を見ながら更に続けた。
「起こった出来事は全て、貴方に連絡します。お願いします」
「そんな、貴方の言う通りならこっちは藁をもすがる状況です。何か変わるんなら、寧ろこちらからお願いしますよ。渡辺さん」
「瀬川さん」
次の瞬間光男と渡辺は、お互いの手をテーブルの真ん中でガッチリと握り合った。
つづく
いつも読んで頂いて、有難うございます。