その9
初恋はいつだっただろうか。自分の欠点を気にするようなことのない小さな子供だったのは間違いない。告白してどうのとかいう感情もなく、三歳年上の兄と、兄の友人に交って楽しく遊ぶのがフェリスの特別だった。
レティ家に生まれた人間は巫女の力を分け与えられ神殿聖騎士となるのが定めである。武術や剣技の基礎を学び神殿聖騎士として生まれたばかりの巫女の側に上がったちょうどその頃、フェリスは年上の少年に恋をした。少年は年下のフェリスを妹のように可愛がってくれたが、少年が好きになったのはフェリスではなく同じ歳の少女だった。フェリスには幾つか年上の二人がとても大人に見えて、置いて行かれそうになるのが嫌で姿を見つけると必ず駆け寄った。するとそれを鬱陶しく感じていた少女がフェリスを見上げくすりと笑ったのだ。
『おっきい。まるで男の人ね。』
大好きな年上の少年の身長を早くに追い越していたフェリスに向けられたその言葉は、フェリスに己が周囲と異なるという状況を知らしめるのには十分だった。
思えば十歳にして年上の兄よりも背が高かった。背の高い男性が多い聖騎士の中にいて気付けなかったが、大人の男性の中に交じってもそれほど違和感がない。この日よりフェリスは背中を丸めるという事を覚えて両親に叱られるようになった。
それから二十のこの年齢まで、幾度か淡い恋心を抱いた異性が幾人かいた。皆誰もがフェリスに優しくしてくれる男性で同じ聖騎士もいた。
初めて告白した同じ歳の同僚には『君は綺麗だよ。本当に綺麗で、美人過ぎて私には勿体なさ過ぎる』と断られた。異性の友人たちの様に『でかすぎる』と正直に言われなかったが、告白した相手の視線はフェリスを困った目で見上げていた。フェリスよりもほんの少し背が低い逞しい粉屋の青年に告白した時には『神殿聖騎士のお前は俺なんかには勿体ない』と苦笑いされながら断られた。二人ともそのすぐ後に小さくて可愛らしい彼女を作っていたのを覚えている。その次に告白したのはかなり仲の良い先輩騎士だったが、細身な神殿聖騎士の特徴と異なり立派な筋肉を持ったかなり年上の離婚歴のある青年だった。『お前なら選り取り見取りだろう』と袖にされ、それでも食らいつけば『私の好みは小さくて守ってやりたくなるような繊細な女性なんだよ』と、本当に申し訳なさそうに断られてしまった。
二度と恋はしないと経験談を巫女に話して聞かせれば、床を転げまわって大笑いした後に笑い過ぎて滲んだ涙を拭った後で、『見下ろされて自尊心傷つけられる小っちゃい男なんて願い下げ。フェリスに相応しくなかったのよ』と幼いながらに笑いを堪えながら慰めてくれる。
「また笑って慰めて下さるだろうか―――」
二度と恋なんてしないと決めていた。けれどここへきて出会ってしまった人に惹かれる想いは止められなくて、応援してくれる巫女に背を押される様にして前に踏み出してしまったのがそもそもの間違いだ。
フェリスは城内にある巫女と同じ建物の中に設けられた自室に戻ると、寝台に倒れ込み零れる涙を布団に染み込ませる。けして声は上げないし嗚咽も漏らさない。身の程を知らず挑んだ結果がこれだ、自業自得なのだと言い聞かせ、無様に感情を押し付けず深追いできずに舞い戻った。
誉れ高い聖騎士。綺麗すぎて。選り取り見取りだろう。君の様な相手が自分を相手にするなんてありえない―――謙遜の言葉全てが断り文句。同じ言葉を聞かされ過去の記憶が蘇り踏み込む勇気は塵と化した。
うつぶせるフェリスの頭に小さな手が乗せられる。その手がゆっくりと頭を撫でると最後に両腕に抱き込まれた。
「大丈夫よフェリス、わたしの愛しい騎士。」
「良いのです。解っていましたから―――」
「違うわ。彼は自分をわかっていないから勇気が持てなかっただけよ。」
「いいえ巫女―――自分を解っていないのはわたしです。」
何時もの様に笑い飛ばしてくれない小さな巫女にフェリスの腕が縋る。巫女は抱き締める銀色の髪に唇を落とした。
「おやすみフェリス、愛しいわたしの愛する人。」
*****
どういう訳かとアルフレットは開かない扉を前に思い悩む。無理矢理やれば開くだろうがここは城内だ、自分の家でも部屋でもない。無理にやれば壊れそうになる扉を前に考えあぐねていると、突然目の前に小さな愛らしい存在が姿を現した。
「巫女?」
何もない空間から人間が現れるという現象は心臓に悪いが、現れた巫女の様子が常と異なり何かあったのだろうかとアルフレットは眉を寄せる。笑顔で元気よく抱き付いて来る巫女が行儀よく佇み、どことなく怒ったような表情でアルフレットを翡翠色の瞳で捉えていた。
「如何なさいました?」
「何を言ったの?」
何時もの子供らしい元気のある声ではない。低く抑えられた声色は間違いなく怒りを孕んでアルフレットに向けられている。無邪気さは存在せずアルフレットは正確な主従関係の壁を認め巫女の前に跪くと深く頭を下げた。
「礼などいいわ、それよりわたしのフェリスに何を言ってくれたのか答えなさい。」
「フェリス殿、でございますか?」
巫女は不可思議な力を有している。この部屋で行われたやり取りを把握しているのかも知れないが、フェリスとのやり取りを報告しても信じてもらえる自信はなかった。なにせフェリスがアルフレットに告白してきたのだ。結局最後には悪戯と判明したが去り際の様子が気になるし、巫女を守る神殿聖騎士が馬鹿げた悪戯をしたと巫女に告げ口するのもどうかと躊躇する。すると明らかに怒気を孕んだ巫女が一歩前に踏み出し、硬質な床に硬い靴の音が響く。アルフレットが忠誠を誓い直接仕えるのは国王だが巫女は同等の権力を有した王の伴侶だ。このまま口を噤むのは許されない。
「私のとった行動が彼女に不快な思いをさせてしまいました。巫女の大切な騎士に対して許される行為ではなかったと深く反省しております。」
女性を庇うのは美徳とされるがアルフレットはその美徳に溺れているわけではない。自分がフェリスを不快にさせたのは事実なので、誤解を与えるような言葉ではあるが自分を貶めてもフェリスの名誉は守りたいと感じたのだ。
すると巫女はもう一歩踏み出しアルフレットの前に立つと、小さく細い人差し指でアルフレットの額を押し顔を上げさせる。恐れ多いと感じたが視線を合わせると、細められた巫女の目は子供ではなく大人の、支配者の眼差しでアルフレットを見据えていた。
「お行儀の良い答えなんて求めてないのよ。」
誰だこれはと目を瞠る。子供の器の中にいるものの正体を垣間見て動揺するアルフレットに、巫女は口角だけを上げて笑って見せた。
「告白されて襲われたでしょ?」
思わぬ言葉に息を飲めば巫女の口角が更に上げらる。だが目は少しも笑っていない。
「どうして美味しくいただかなかったの?」
顔を寄せられ三白眼が点になる。
「お前が不真面目な軟派野郎ならタマ潰してでも阻止したけど違うでしょ。その顔で、その形で、罰ゲーム以外でこんな好機が今までなかったのなんて知ってんのよ。見た目おっさんでデカくて怖がられて泣かれて卑屈になってるからってフェリスの純情踏みにじる権利があると思っていて?」
にこりと口元だけで笑って答えを求める巫女にアルフレットは唖然として言葉を失う。
「その顔と形でこの機会を逃したら二度とやってこないって解ってんの? 解ってて拒絶したの? わたしの大事な愛しい騎士に何を言ってくれたのよ?」
事実なだけに傷つくことを言われているが少しも辛くない。それよりも巫女の態度に衝撃を受け言葉を無くすアルフレットを前に、巫女は鼻と鼻が触れるほど顔を寄せめんち切る。裏通りのごろつきがやるような仕草を子供がやっても迫力はないが、纏う雰囲気が子供とはまるで異なる巫女の様子にアルフレットは瞳を瞬かせ慌てて視線を反らした。つまり負けだ。
「さあ、わたしの可愛い騎士に何を言ってくれたのか正確に白状してくれるかしら?」
視線を反らしたアルフレットに勝ったとばかりに鼻を鳴らした巫女を前に項垂れる。なんだろうこの威圧感は。出会いで助けた愛らしい巫女はまるで作り物か夢物語であったかに感じられてならない。
あらかたを予見していた巫女が所望するまま、アルフレットはフェリスに向かって何をして何を言ったのか、動揺していたので正確ではないにしろほぼ間違いなく報告した。報告が進むにつれ怒っていても何処となく楽しそうに聞いていた巫女の表情が悲しく曇る様にアルフレットは引き込まれる。
「あの……巫女?」
アルフレットを罵り啖呵を切った巫女は何処へやら。小刻みに体を震わせ今にも泣きだしてしまいそうな表情にアルフレットはどうしたらいいのかと慌ててしまった。
「アルフレット―――」
「はい。」
呼びかけられ様子を窺うアルフレットを前に、巫女はついに鼻をすすらせ翡翠色の瞳からぽろぽろと涙を零してしまう。
「あなたねぇ、強面でデカくておっさん顔で卑屈になってるくせに、相手が自分の何処に劣等感を抱いているか想像すらできない馬鹿なの?」
馬鹿なの、馬鹿よね、馬鹿なのよねと泣きながら馬鹿を連呼する巫女に諭され頭があげられない。ここに来てようやく自分の仕出かしてしまった事態に気付き始めたのだ。たとえ事実だとしても、悪戯を仕掛けられたとしても羨ましくても、相手の気持ちになって物事を考えてみると見えてくるものがある。特に見た目で悩み続けたアルフレットであるなら、例え相手が羨望の眼差しを向けられる存在であっても気付いていておかしくない問題だった。
「アルフレット、あなたは言ってはいけない言葉の全てをフェリスにぶつけたのよ。」
涙できらきらと輝く翡翠色の瞳が強くアルフレットを睨みつける。
「神殿聖騎士だ、若くて美人で持て囃される、強くて勇ましい、素敵過ぎて自分には相応しくない、選り取り見取り……そう言って男はフェリスを拒絶し続けた。でも本当は自分よりも大きい女なんてごめんだって意味なのよ。」
付き合う好機すら与えてもらえない。そんな男はこっちから願い下げだと笑い飛ばしてきた。フェリスを解ってくれるような男なんて現れないと思っていた時に現れたのがアルフレットだったのだ。
「だがそれはっ―――あれだけの器量で実力があるのだから、多少の背の高さなど気になりはしないのでは?!」
フェリスは素晴らしい女性だと繕うアルフレットに、冗談はよしてと巫女は睨みを強めた。
「アルフレットからすれば多少かも知れないけど、大抵の男はでかいって見上げるのよ。それに自分よりはるかに強い女ってどうなの。女に守られて喜ぶ男なんて極稀よ。正直わたしは出会った事ないわ。フェリスだってどんなに強くても女なんだから守られたいって感情があるのよ。それをアルフレット、あなたは過去にフェリスをふった男たちが残した文句を全部まとめて言ってくれちゃって。いくらおっさん顔だからって乙女の心が読めなさ過ぎるのもいい加減にしろっ!」
身体的な悩みを持っているからこそ理解してくれると、だから許したのにこの様だと、声を張り上げ泣き出してしまった巫女を前にアルフレットは狼狽える。あまりに大声で泣くので騒ぎを聞きつけた警備が扉を叩き開こうとするが、巫女の力によって扉は固く閉ざされ開く気配はない。
「うわぁぁんっ、あるふれっとがぁぁぁぁぁぁぁ!」
酷い酷いと泣きわめく巫女に扉の向こうから警備が声を上げる。
「巫女っ、巫女なのですか?! 如何なされました巫女っ。アルフレットとはファーガソンか? ファーガソン貴様っ、幼気な巫女に何をしているんだここを開けろっ!」
「あるふれっとがアルフレットがぁぁぁぁっ!」
「私は何もっ、ああいや、確かに私が悪いっ。巫女っ、あなたの望まれるよう何でも致しますのでどうか泣き止んで下さい!」
「詫びてぇぇぇぇ、フェリスにごめんなさいして許してもらってきてぇぇぇ!」
「承知しましたっ。だから巫女、何卒どうか泣き止んでくれっ!」
「うわぁぁぁぁんっ!」
「巫女っ、只今扉を破りお助けにッ!」
正義感溢れる騎士が扉に体当たりすると呆気なく扉は開き多くの騎士らが雪崩れ込む。幼気な巫女に不義を働く輩として拘束されるアルフレットを、巫女は声を上げて泣きながらちらりと見やってほくそ笑んだ。