恋女房~剣客・本多藤九郎 弐~
その日は芯から冷える朝であった。藤九郎は布団の中で身震いをすると、もう一度目をつぶろうと試みた。土間からは米の炊けるいい匂いと、小刻みに鳴る包丁の音。おかねが忙しなく動いているのが目に見えるようである。いつもとかわらぬ穏やかな朝に藤九郎はしみじみと感じ入ってしまう。
かつて剣に燃え、人の生き死にばかりを見ていたころの自分が今の自分を見たらどんな風に思うだろうか。そう思う自分すらも、藤九郎はこそばゆかった。もぞもぞと布団から上半身を出して、煙草盆を引き寄せる。火をつけ、再びごろりと横になるのが冬の朝の楽しみだった。
「…先生?もうお目覚めですか?」
ふすまの向こうからお雪の声がした。涼やかな声に藤九郎は自然と顔を綻ばせる。
「わかるかね?」
「寝煙草をなさっておいででしょう?匂いでわかります」
お雪は笑いながら入ってくると、温かい火鉢を運んできた。目が見えないとはいえ、お雪にとってこの家は慣れ親しんだものであるから、こういう動作も苦ではない。
藤九郎がここに住むようになってから一年。春夏秋冬を共に過ごし、お雪の優しい心根に、自分の身体に沁みついた血が洗い流されているのを感じる。どうしたものかと考えながら縁側に目をやると、近くの百姓が大根を持ってやってきた。お雪が丁寧に礼を言うと、百姓は嬉しそうに帰って行く。何度も見慣れた光景だが藤九郎はいつもそれを見て微笑ましく頷いていた。
「先生、今日はお嬢様とお酉様へ行かれたらいかがです?」
「おお、もうそんなになるか」
「でも、おかね…」
「お嬢様も、家にばかりいては気がふさいでしまいますよ。いってらっしゃいまし」
おかねが強く勧めるので、頑固なお雪も折れたのだろう。少し考えた後に頷いた。早速駕籠の手配をしてくれ、外出の準備だとお雪の髪を整えた。いつもは隠居しているかのように巣鴨を出ないお雪だが、まだうら若いお雪に色々なものを感じさせてやりたいと、おかねは常々思っていたのである。
藤九郎がお雪の用心棒になってからは、お雪の身の安全も保障され、おかねも安心して送り出せるというものだった。
「さて、参ろうか。お雪どの」
「…はい」
駕籠かきはいつも呼んでいる者たちであったので、藤九郎は横を守りながら歩いていても丁度歩調があって快適であった。金沢屋がよく使う駕籠屋であり、お雪の祖父にあたる伝兵衛翁から特に愛用されているため、駕籠屋からしたらお雪は特に上客でもあった。
お雪の心は娘の頃のように高鳴っていた。いつもは金沢屋か、父である殿様に会いに行くためだけの外出であったが、今日は違う。縁日を藤九郎と連れだって歩けるのだ。それがこれほどに喜ばしいとは想像できなかった。とうに自分には無縁だと思っていた気持ち。それがお雪の心を暖かくしてくれる。
しかし同時にずっと心の奥に封じておかなければならないことだとわかっていた。自分と藤九郎では身分が違う。それに自分のような女よりもっとふさわしいしかるべき相手が藤九郎にはきっといるはずだ。藤九郎は今でこそ浪人姿で用心棒などやってはいるが、お家のきちんとした武士なのだから。
「ついたぞ、お雪どの」
駕籠が止まり、筵があげられると、藤九郎の大きく温かい手がお雪の細い手をとった。駕籠から降りるときにいつもこうしてくれる。それがなんとも言えず恥ずかしくて嬉しくて、お雪はその白い首をほんのり赤く染めるのだ。
縁日は賑わっていた。そこかしこに人の気配があって、それだけでもお雪は尻込みしてしまう。やはり帰ろうかと藤九郎に言おうとしたとき、藤九郎がお雪の手を握ったままふふと笑ってみせた。そして駕籠の乗せていたお雪の杖を握っていないほうの手に持たせる。
「…先生?」
「今日はこのまま握っていよう。人が多くて危ない故な」
「……恥ずかしゅう…ございます」
「なに、誰も見てなどおらんさ」
悪戯している子どものような口調で、藤九郎はお雪の手を引いて歩き始めた。実際のところ、それは道行く人の注目を集めてもいたが、お雪にはそれは見えない。藤九郎もにこにこと笑みを浮かべたままなので、誰も何も言えないでいるだけだった。しばらくするとお雪の緊張もとけたのか、飴屋が歌う唄や、竹細工の笛の音などを聴きながら、藤九郎はあれはなんの音かと尋ねてくる。楽しそうにしているお雪に、藤九郎までもが嬉しくなるようだった。
その時だった。何者かが自分たちを見ている。そんな気配を察し、藤九郎が繋いでいないほうの手を刀にかけた。これは殺気だ。あきらかに自分に向けられている。お雪の手を引いて参道から少し外れた場所に身を隠した。お雪は不思議そうについてくる。ようやく殺気と視線が消えたところで、藤九郎は立ち止まった。
「先生?どうなさいました?」
「いや…昔、金を借りた相手がおってな。見つかる前に退散したところだ」
「まぁ、返してらっしゃらないのですか?」
「いやいやまさか。返したには返したのだが、きちんと返す俺に気を良くしてまた貸そうとするのでな」
「そうでしたか」
咄嗟についた嘘だが、お雪は信じたらしい。寒くなってきたから帰ろうと促し、お雪も素直にそれに従った。あの殺気、一瞬ではあったがとても鋭いものだった。おそらくかなりの剣の使い手だろう。自分に恨みのある人間を思い返してみたが、諸国放浪の折にそのような恨みは逆恨みも含めれば相当な数にのぼる。そんな相手を覚えてもいなかった。
手近なところで駕籠かきを拾い、巣鴨へと急がせた。途中細心の注意を払ったが、あの殺気の相手がついてくる様子はなかったので一先ず安心する。
家に戻るとお雪がおかねへの土産を広げながら嬉々として縁日の話をしていた。藤九郎はしばらく縁側で
様子を見ていたが、やがて家の中に入った。
この時はその殺気の持ち主が藤九郎とお雪の家を別のものに確かめさせているなど、微塵にも思わなかったのだ。
藤九郎が本源時の和尚に呼ばれた日、お雪は藤九郎の煙管入れを縫っていた。先月金沢屋へ行った時に、藤九郎が喜びそうな柄を祖父に見立ててもらい、縫い始めた。藤九郎がいない隙を見て縫っているので遅々として進まなかったが、どうにか新年の祝いには間に合いそうである。そんな時、おかねが悲鳴のような声をあげた。思わず立ち上がると、どたどたと中に入っておかねがお雪を抱きしめる。おかねを追って何者かが中に入って来た。お雪の身体が強張る。
「…久しぶりだな、お雪」
「………その、声は…」
お雪は驚きのあまり喉がはりつくような嫌な感触に襲われた。おかねが震えながらお雪をかばってくれる。
「お帰りくださいまし!!人を呼びますよ!!」
「そう邪険になさるな、乳母どのよ。儂はただお雪が恋しくなって顔を見にきただけじゃ」
「………小島……弥三郎…」
「おうおう、覚えておいてくれたか。そなたは相変わらず天女のごとき美しさよな」
近づいてくる小島の匂いに、お雪は吐き気を覚える。この声は忘れようと必死になったのに、結局忘れることはできなかった。
まだお雪が十四の頃、この男はお雪が道で難儀しているところを助けた。金沢屋は総出でこの男をもてなし、数日滞在してくれと請い、了承したのだった。まだその頃この男は月代を剃り上げ、生気の漲る若侍であった。おかねがまるで役者のようだと褒めていたのを覚えている。小娘だったお雪はほのかに彼に憧れめいたものを感じていたのかもしれない。今のお雪がその時のお雪に会えるのならば頬を叩いていたことだろう。
彼は伝兵衛翁が不在の夜、お雪を手籠めにしたのである。嫌がるお雪に当身をくらわせて蔵に運び込み、散々嬲りものにしてその夜のうちに金を盗んで逃げたのである。
そんな男に少しでも隙を見せた自分が憎くて堪らなかった。毎日泣いて泣いて、尼になりたいとすがっても誰も許してはくれなかった。
そしておかねと巣鴨の田舎に引っこみ、穏やかに暮らし、やがて藤九郎と出会った。もしやこの男もとはじめは随分藤九郎に警戒したけれど、話せば話すほど藤九郎は雲のように穏やかで、春の日射しのように優しく暖かかった。
なのに
「先日そなたを縁日で見つけてな。一緒にいた男は今の情夫か?あいかわらず侍が好きと見える」
「な…!」
「恥ずかしげもなく手など繋いで…その男にはもうそなたのあの美しい身体は見せたのか?」
「お帰りください!!本当に人を呼びますよ!!」
「儂とのことをあの男に知られてもよいなら呼ぶがいい。洗いざらい話してくれるわ」
「……何が望みです」
お雪が震えた声で聞くと小島は嬉しそうに笑みを深め、手を伸ばそうとしてくる。おかねが決死の覚悟でその手を払いのけると、小島がおかねをお雪から引き離して突き飛ばす。おかねが悲鳴を上げた。
「おかね!」
「お雪、そなたは金沢屋に戻れ。あの男には上手く誤魔化せよ。またこちらから連絡をつける」
「…私に何をさせるつもりです!」
「なに、儂の仕事の手伝いだ。できないというのならその身体、また堪能させてもらうことになる」
「なん……」
「今度は儂の仲間の相手をしてもらうことになるぞ」
「……そこまで落ちぶれたのですね」
「どうする?あの男に話すか?『小島に再び嬲られます。助けてください、守ってください』とすがるか?お前にそれができるのか?」
「……っ…」
「明日には金沢屋に戻っておれよ」
小島はお雪の顎を指で撫でると、乱暴に出て行った。お雪の頬にはあとからあとから涙が伝い、畳に沁みこんでゆく。おかねがお雪の細い肩を抱きしめた。やがてひとしきり泣いたあと、お雪がおかねの方を向いた。
「…おかね、畳を拭いてちょうだい…先生に小島が来たことが気づかれてしまうわ…」
「お嬢様…」
「お願い。先生には知られたくない…」
おかねにはそれ以上何も言えなかった。本当なら藤九郎に事情を話して守ってもらうなり、小島を追い払ってもらうなりするのが一番いいのだろうと思うが、お雪の気持ちを考えるととてもではないが話せるものではない。おかねは悔しさで涙が滲んでくるのを堪えた。以前も今も、乳母として一番身近にいたのに守れなかった。お雪がこんなにも苦しんでいるのに。
やがて戻って来た藤九郎に、明日から金沢屋に泊まることを伝えた。不思議そうに自分もついていくという藤九郎をなんとか誤魔化して振り切る。ぼろを出しそうになったところにおかねが茶々を入れてくれて助かった。
お雪は翌日の朝早く、おかねを伴って金沢屋へと帰って行った。お雪の申し出に伝兵衛翁をはじめ、伯父夫婦も快く受け入れてくれて、藪入りで奉公人たちが里へ帰ってしまうのでおかねがいてくれるのはありがたいと喜んでくれもした。手放しの歓迎にお雪もおかねもうしろめたさを感じつつ、新年をここで迎えようという一同に曖昧に頷いていた。
翌日、藤九郎が金沢屋を訪ねてきた。藤九郎も一緒に新年を迎えようという伝兵衛に、旅支度姿の藤九郎が申し訳なさそうに辞退する。
「…武州ですか?」
「ああ。懇意にしていた剣客の墓がある寺に滞在するつもりだ。お雪どのもこちらにいるようだし、思い切って行ってみようと思うてな。…もう何年も墓前に立っておらぬゆえ」
「そう…ですか」
お雪は安堵すると同時に心細さと寂しさに駆り立てられた。だが小島のことを藤九郎に知られるわけにはいかない。それだけは絶対に嫌だと思い、お雪はいってらっしゃいませと言うほか途はなかった。
藤九郎を見送った日の夕刻、おかねが夕餉の支度に奔走しているころ、お雪のいる部屋の庭先に一人の小物売りが入ってきた。それならどうぞ勝手口のほうへと言おうとしたお雪に、女はそっと耳打ちをした。
「…小島さまからの言伝です。明日の八つ刻、稲荷の裏にて待つと」
「…!」
「くれぐれも変な気を起こさないでくださいまし。この店は仲間に見張らせてありますので」
「……わかりました」
翌日、お雪はおかねを伴って稲荷へと行った。一人で行こうとも考えたがそれだけはやめてくれとおかねが泣いて頼むし、お雪一人では近くとはいえ外にも出してはもらえないだろう。
稲荷に行くと、社の裏に小島はいた。おかねが警戒して小島とお雪の間に立つ。
「…あの男はどこかへ出かけたようだな」
「……武州に行くと言ってました」
「そうか。よかったな、知られずに済んで」
「……私に何をさせるつもりです」
「なに、簡単なことよ。儂の合図があったらそっと店に引き入れてくれればよい」
「……!!」
「店の者にも手は出さぬ。ほんの少し金を分けてもらえれば儂はまた姿を消そうではないか。な?お雪」
お雪のそばに寄ろうとする小島におかねが身を張って守ってくれる。小島は舌打ちをしたあとに少し後ろに下がった。
「わかっているであろうが店は見張らせてある。お前が役人に届けたりすればすぐにわかるからな」
「……本当に店のものに手は出さないのですか」
「ああ。儂も武士のはしくれだ。二言はない」
そう言って小島はその場から離れていった。お雪は震える自分の身体を抱きしめてその場にしゃがみこむ。小島があんな約束を守るとは思えない。金を奪ったら皆を殺すかもしれない。けれどどうすることもできず、お雪はぼろぼろと涙をこぼしていた。
こんな時藤九郎だったらどうするだろうか。助けを求められたらどんなによかっただろう。
思いつめたお雪が首をくくろうとしていたところをおかねと伝兵衛に見つかったのはその夜のことだった。
「お雪、どうか話しておくれ。何故あんなことを…儂がどうにかしてやる。な?」
「…おじいさま…ならば私を尼にしてください」
「な…」
「今すぐに私を寺に預けて尼にさせてくださいまし…!」
そう言うとお雪はわっと泣き出した。伝兵衛がどんなに聞いてもそれ以上は答えてくれず、おかねもまた貝のように口を閉ざしたままだった。おかねは娘時分からこの金沢屋に奉公し、伝兵衛は親同然で面倒を見てきた。良い縁談を見つけて嫁がせ、亭主が早死にしたというおかねをお雪の乳母として再びこの金沢屋に迎えたのは伝兵衛自身だった。そのおかねですら話してはくれない。これはよっぽどのことだと思い、伝兵衛は駕籠を用意させた。
「ご隠居さま、どちらへ?」
「なに、遊び納めじゃよ。ほっほっほ…」
店先で笑ってみせる伝兵衛に、小僧がいってらっしゃいましと頭を下げた。しかし駕籠の行き先は遊郭ではなかった。門番に仔細を話すと、しばらくして中に通される。最近は商いの用向きでここに来るのは息子に任せていたので、久方ぶりの伝兵衛の訪問に相手も何かを感じ取ったらしい。
畳に頭をこすりつける伝兵衛の前に、その男は座った。品の良い香の薫りが漂ってくる。本来なら一介の商人が会える相手ではなかったが、伝兵衛だけは特別だった。
「…なに?雪が自害を?」
「はい…手前が寸でのところで見つけたからよかったものの、ほんに胆が冷えました」
「あれは命を決して粗末にするような娘ではなかろう。何があった?」
「それがとんとわかりませぬ。どんなに聞いても答えてくれず、乳母のおかねも口を割りませなんだ」
「…では儂が聞いても同じであろうな」
「…このようなことをお殿様にお聞かせして申し訳ございません…」
「いいのだ。儂にとっておぬしは父親のようなもの。よう話してくれた」
「…では」
「この件は儂に少し任せてくれぬか。おぬしは雪がまた自害などせぬよう見張ってくれ」
「ありがとうございます!ありがとうございます!」
伝兵衛が帰ったあと、その人は難しい顔をしてしばらく考え込んだ。そして程なくして手を叩くと、すぐさま家臣が顔を見せる。その家臣の顔は強張っている。なぜなら主の表情は最近ではあまり見ない険しいものだったからだ。
「伊織を…村井伊織を呼べ。今すぐ内密にな」
「は」
お雪は日を追うごとに痩せてゆき、おかねも伝兵衛も心配が募るばかりだった。二日に一度はあの小物売りの女が現れてお雪に何かを売る振りをしながら連絡をつけてくる。そのたびにお雪はひどく落ち込み、口数も少なくなってしまう。このままではお雪が倒れてしまうと、おかねが工夫を凝らして色々なものを作ってくれるのだが、お雪は薄く笑って首を振るばかりだった。
ある日、伝兵衛に呼び出されたおかねは平尾の下屋敷の道場へ、炊き出しを手伝いに行くように言われた。こんなことは初めてで、何故かと問うと道場の大掃除と稽古納めがあるらしく、沢山の家臣一同が集まるので、手伝ってほしいと頼まれたというのだ。自分ひとりで何が変わるのだろうと首を傾げたが、お雪は家の者が見ていてくれるので安心するように言われた。
平尾の下屋敷に行くと、門番に取次を願う。するとすぐに胴着姿の伊織がいつもの笑顔を見せた。
「やぁ、おかねさん。わざわざすみません」
「いえ…それであの…私は」
「ああ、ご案内しますね。こっちです」
道場ではなく屋敷の中に通されおかねが戸惑うのが背中越しにわかる。しかし伊織は他愛もない話をしながらずんずん中へと進んでゆく。やがて通された一室でおかねに座るように促した。伊織はおかねの向かい合わせにに座ると、ふと笑顔を奥にしまい込み、真摯な表情を見せる。
「あの…村井様…?」
「さて、ここなら誰にも聞こえません。…話していただけますか?」
「な…何を…」
「…少し調べさせていただきました。金沢屋を胡乱な男たちが遠巻きに見張っていますね?」
「……」
「ご安心を。我々が調べていることに奴らは気づいていません。さらに申せばお雪様に二日に一度小物売りの女が訪ねてくる。女はその男たちに何事か囁いて立ち去っています」
「…村井様は何故…」
「私の独断ではありません」
「では九郎先生が?」
「いえ、藤九郎も知らぬことです。私は…」
「伊織に調べさせたのは儂だ」
入ってきたのは威厳のある声だった。伊織がすぐさま上座を譲り、おかねの隣に移動する。反射的に頭を下げたが、この声はおかねも初めて聞く声だった。恐ろしくて顔を伏せることしかできないおかねの前にその人物はしゃがみこんだ。真っ白な足袋が見える。
「…顔をあげてくれ、おかねとやら」
おかねが声に従いおそるおそる顔を上げると、その人物は目元の皴を刻んで笑って見せた。
「そうか、そなたが雪の乳母か」
「…お殿…様…でございますか…」
「ああ。そなたは雪を実の子以上に慈しんで育ててくれていると聞いている。嬉しく思うぞ」
「勿体ないお言葉にございます…」
「で、何故雪は自害などしようとしたのか話してくれぬか」
「……」
「儂は雪を助けたい。それはそなたも同じであろう?どうだ、儂に話してはくれぬか」
おかねはその言葉に逆らえるはずもなかった。自分だってお雪を助けたい。おかねは泣きながら事の仔細を話した。小島とお雪の始まり、お雪の藤九郎への思い、金沢屋への恩義。どうか助けてほしいと何度も何度も頭を下げる。殿は穏やかにおかねをなだめ、お雪には話さないよう口止めしてからおかねを金沢屋へと帰した。
「…伊織」
「…は」
「その小島とかいう野良犬は、殺すでない」
「…と申されますと?」
「儂が手で息を止めねば気が済まぬ」
「殿…」
「…その他のものは殺して構わぬ。火付盗賊改めには儂から手をまわしておこう」
「かしこまりました」
「雪に決して気とられぬよう、細心の注意をはらえ」
「は」
伊織には殿の顔を直視することは出来なかった。幼い頃から小姓として仕え、江戸屋敷詰めの家臣となってからも、殿は常に優しく公明で賢君と評判の人物であった。その殿のこんな怒り方は見たことがない。声を聞いているだけでビリビリと痺れるようだった。
その日は大晦日だった。連絡役の女からその日付を聞いたとき、いよいよ小島はあの約束を守る気がないとわかった。店のものを傷つけずほんの少し金をもらうだけ。一年のうちで金が一番集まる大晦日を狙ってくるあたりでこの店を根こそぎ荒らす気だろう。あとでどのような仕打ちを受けようとも決して店に入れまい、そうお雪は決心を固めていた。
しかしお雪の決心が固まっていたまさにその頃、小島たちが隠れ家にしていた千住の農村の空家を見張るものがいた。何人もの目がかわるがわる見張っては通り過ぎてゆく。その見張りたちの報告はやがて伊織に入るようになっていた。
「…今何人だ」
「15人。最後の男が入ってから半刻が過ぎております」
「よし。村への入り口をすべて見張れ。怪しいものが近づいたら難癖つけて捕らえておくのだ。よいな」
「農民に変じていたらいかがします?」
「目つきで判断しろ。空家に近づくようなら捕まえてかまわん」
「…は」
伊織は数人の手練れを連れ草むらから立ち上がった。その誰もが免許皆伝の腕前である。伊織は小さな神社の方に向かって一礼をすると、空家に向かって走り始めた。足音は消してある。そのおかげか、伊織が空家の扉を蹴破るまで気づかれる様子はなかった。しばらく乱闘の音が響き渡り、悲鳴を幾種類か聞いたのち、伊織の剣が小島の胸を浅く切り払った。小島は伊織をはじめとする家臣一同に囲まれ己の危機を感じ取っているらしい。
「…何者だ、貴様ら」
「貴様のような野良犬に名乗る義理はないわ」
「……それが、かの小島弥三郎か?」
問うたのは頭巾の人物だった。一同がその人物に一礼をするのを見ると、小島は頭巾の男をよくよく見つめる。頭巾の男は冷たい瞳で小島を見下ろしていた。
「…何故だ。何故貴様らのような武士が金沢屋にそこまでする!?」
「それはな…儂が雪の父だからよ」
「な…何…?」
「わかったか?そなたは儂に殺されても文句は言えぬ。儂もそうするつもりであったのだがな…儂よりもそなたを殺したいと思っている男が来てしまったからのう。…のう?藤九郎」
驚く伊織が殿の後ろに目をやると、憤怒の表情で立っていたのは武州にいるはずの藤九郎だった。スタスタと殿の横を通り過ぎると、藤九郎は小島を見下ろしていた。その姿に普段の穏やかさは微塵も感じられない。かつて剣に生き、剣で獣道を切り拓いてきたときのままの藤九郎だった。
「…藤九郎、ぬしは最初から雪の異変に気づいておったのか?」
「お雪どのが金沢屋へ行くと言った時の顔で、察しました。だがお雪どのが話さぬ以上、聞くべきではないと判じ…伝兵衛、伊織を陰ながら見張り…下屋敷で仔細を聞き申した」
「なるほど…一番の見張り上手は藤九郎だったわけだな」
「……某に譲っていただけるので?」
「かまわぬ。終わったら儂の命令を一つ聞いてもらうがな」
「…承知」
藤九郎が剣を構えると、周りを囲んでいた家臣たちが数歩後ずさった。小島は半ば自棄になったように剣を構える。その佇まいも息の潜め方も野生の獣そのものであった。おそらく、小島自身もかつては純真に剣を学んだ剣客だったのだろう。しかし長く続く浪人生活が次第に小島の心を荒ませ、このように変じてしまった。自分も一歩間違えばこのようになっていたのかもしれないと感じながらも、心の奥に燃える怒りは一向に治まる気配を見せなかった。
「貴様…ただの情夫ではないな?どこの家臣だ!?お雪は何者なのだ!?」
「お雪どのは……俺の、恋女房よ」
一閃、藤九郎の白刃が煌めいた。すぐさま、小島の鮮血が飛び散った。崩れ落ちる小島にさらに一太刀浴びせた藤九郎の表情はもう穏やかなものになっていた。遠巻きに眺めていた殿が歩み寄る。藤九郎が膝を着くと、殿は小さく笑った。
「藤九郎、雪を娶れ」
「殿…」
「それが一番丸く収まる」
雪の降る農村に、殿の笑い声が木霊した。それは、百万石に値いする朗らかな笑顔であった。
立春の頃、巣鴨の村ではお雪と藤九郎の盛大な婚儀が行われた。
伊織を媒酌人に、伝兵衛をはじめとする金沢屋が取り仕切り、村をあげて豪華絢爛に行われたのである。おかねも伝兵衛もうれし泣きに泣いて、お雪はその幸せな場で嬉しそうに微笑んでいた。