久村部長の悩み (1)
集中している時は、まるで周りの時が止まっているように感じられる。シンと静まり返った何もない空間に、自分だけが存在しているような感覚。
それは周りにも伝わるようで、「松田って絵を描いてる時に人が変わるよな」と友人から言われた。
「絵を描いてる状態のままで過ごせば、モテるんじゃね。なんか雰囲気イケメンになりそう」
「無理だし、やらない」
いろいろと突っ込みたいところはあったけれど、僕は一言で斬り捨てた。
――さて。
何故、不意にそんなことを思い出したのかというと、目の前に広がる光景が、まさにその集中した空間だったためだ。
「姫、貴女は勘違いをしているのです! あの男は――」
「分かっているわ。勘違いでも、私はあの人の傍にいたいのよ!」
壇上では、ジャージ姿の男女が、言い争っている。声、表情、姿勢、ジェスチャー。身体の全てで、他人を演じている。いや、もはや他人が乗り移っているかのようだ。良い意味で張り詰めた空気の中で、「ハイ、止めてー!」と透き通った声が響いた。
「垣本、硬くなりすぎ。この“姫”に緊張は要らないよ。もう少し柔らかい声でやろう。木谷は声はオーケィ。でも厳かな雰囲気が出せてない。表情かな」
指摘された壇上の2人は、ピシリと立って、「はい! ありがとうございます!」と返事をした。「硬いよー」と苦笑の混ざった声が返る。
「そりゃあ、お前が言うんだから、硬くもなるわな。……なあ?」
舞台袖から顔を出した男子は、山田くんに匹敵する程のイケメンだった。山田くんが綺麗系なら、こちらの彼は男前系だろう。
そんな彼に話を振られた2人は、「そんなことありませんよ!」「競馬先輩、久村先輩に失礼です!」とオロオロしている。あれ、よく見たら片方は同じクラスの男子だ。あー、そういえば、木谷って言ってたな。
「競馬、こっちに顔を出すのは良いけど、あんたは準備できてんの?」
「あ、俺? 俺ができないと思う、久村チャン?」
ニヤニヤ笑う競馬先輩(ジャージのラインが黄色だから、2年生だ)に、久村部長が眉を寄せた。「ハイハイ、あんたのことだからできてるんでしょうよ」と軽口に付き合いながらも、その表情は、どことなく暗い。
それから、チラリと、僕と……隣に立つ星野さんを見やった。
「小河原ぁ、いるー?」
「いますよー」
舞台裏から、声が聞こえた。本人の姿は無いが、声で本人と判断したのだろう。
「もーしわけないけど、ちょっと抜けるわ。その間、よろしくー」
「わかりましたー」
奥から、気の抜けた声が返ってきた。なんだか緊張感の無い声だ。
「みんなも。悪いけど、次のシーン練習、進めておいて」
「はい!」
元気いっぱいの返事に微笑み、久村部長は踵を返した。真っ直ぐに、僕たちのところへやってくる。その歩き方も洗練されており、舞台に長く立っていると、日頃から姿勢などが身に付いてしまうのかな、と考える。それとも、久村部長の性格だろうか。
「ごめん星野、呼び出しておいて待たせて悪かったわね」
「いえ」
星野さんは、スケッチブックをパタンと閉じると、笑った。
「場所を変えますか?」
「ええ、……ここではちょっと、ね」
そう言って、久村部長は舞台を窺うように見やった。既に再開されているシーン練習では、先程の色男、もとい競馬先輩が、異彩を放っていた。あの人、演技も上手いんだな。久村部長の表情は、どことなく疲れているようだった。
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美術部が出張に出掛けた理由は、目の前でホットココアの紙パックにぶすりとストローを突き刺した演劇部部長である久村部長から、要請があったからだった。要請、というか、相談かな。
実のところ、相談相手は『美術部』ではなく、星野さんだ。彼女は、久村部長とは中学校からの知り合いであるらしい。今でも仲が良いのだという。ただ、先輩後輩というよりは、友人関係に近いらしく、敬語の縛りはあるものの、2人の間には屈託の無い雰囲気が流れ出ていた。
前金代わりだと奢って貰ったホットレモンティーをちゅうちゅうと吸いながら、僕は星野さんを見た。彼女も、久村部長同様、ホットココア派のようだ。
「それで、相談というのは?」
星野さんが首を傾げる。
「ああ、うん。そう、ね」
急に言い淀む久村部長は、ちらちらと僕を見た。……やっぱり僕、ここにいない方が良いんじゃないかな。僕の同席は、星野さんの強い希望があってのことだ。
「大丈夫ですよ、久村さん。松田くんは、信頼に値する人ですから。口も堅いですし」
「堅い……かな?」
単に、人の秘密を知る立場に無いだけかもしれないけど。そして、打ち明ける相手もいない。いや、決して友人がいない訳ではないよ。ただ改めて「そういえば、知ってる?」と話す機会は無いし、わざわざ話すことでも無い。
困惑する僕を無視して、星野さんと久村部長は話をしている。やがて、ある程度の理解を得られたらしい。
「悪いわね、出て来てもらっているのに、疑ったりして」
「いえ、お気になさらず」
根は良い人なのだろう、と思う。でなければ、星野さんの友人ではない。
「自分でもね、分かるのよ。神経質になってるんだって」
そう言って、はあとため息を吐いた。
「演劇部の練習風景を見てくれたわよね。率直に、どう思った?」
僕と星野さんは、顔を見合わせた。
「皆さん、演劇に本気なのだと感じました」
「僕もです。緊張感のある稽古でした。ええと、もちろん、良い意味で」
その回答に関して、「そう……」と久村部長は、また沈んだ表情を見せた。彼女の相談は、演劇部に関するものなのだろう。これは別に、僕の観察眼が優れていなくても分かることだ。
「私、小さい頃から演じることが好きなの。私では無い私になって、表現することが楽しくて。それで演劇部に入って……結果的に、先月、部長を引き継いだんだけどね」
三年生の引退時期は、部活によって異なるが、演劇部の部長交代は、夏休み明けだったらしい。久村部長は、立候補ではなく、前部長からの指名で部長になったらしい。
「私、部長に選ばれるなんて思っていなかったのよ。貴方たちも見たでしょう、競馬を。カリスマ性もあるし、私よりもみんなを引っ張っていけるわ。それに――」
久村部長は、そこで口を噤んだ。
「ごめんなさい、後輩にこんな話。情けないわね、私」
項垂れた彼女は、「言い訳になるけど、部活では気を付けているのよ。部長がこんな顔してちゃ、みんなやりにくいでしょうし」と続けた。
気負い過ぎじゃないかな、と思わないでもない。いや、それは美術部のような緩々とやっているところだから言ってしまえることかもしれないけど。我らが部長に、久村部長の爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいだ。そういえば、部長、今日はどこをほっつき歩いているのだろうか。
僕が美術部部長の行方を頭の中で探っている間に、星野さんが、「相談というのは、そのことですか?」と訊ねる。正直、そういった相談は僕たちが解消するのは難しいんじゃないかな。
久村部長は、キョトンとしてから「違うわよー」と笑った。
「さっきのは、……そうね、ただの愚痴よ。本題は別。でも部活関連ではあるけどね」
実は、調べて欲しいことがあるの。
久村部長は、声を潜めた。
「最近ね、部活のみんながこう、よそよそしいというか、何かを隠しているというか。とにかく、そんな感じがするの」
「みんな、というと……?」
「1年、2年どちらもね。私と、副部長の小河原、それから競馬以外の、みんなよ」
演劇部は、大体1学年に、5〜6人いる。つまり、8名前後が最近、久村部長曰く、“不審な行動”をしているらしい。
例えば、円になってコソコソと話していたと思えば、近寄ると慌てて円を崩して逃げていったり、やけに部活動後の掃除に協力的になったかと思えば、久村部長が手を出そうとすると必死で止めたり……。
「大半は1年でしょ? だから、できれば星野達に、探ってもらえないかなって思ってね。あの子達のことだから、悪いことはしてないと思うんだけど」
飲み干した紙パックをべこっと潰すと、久村部長はゴミ箱にシュートした。綺麗に弧を描いたぺちゃんこの紙パックは、吸い込まれるようにゴミ箱に入った。うん、上手い。でも良い子は真似しちゃいけません。
「小河原は、心配しなくても大丈夫って言うんだけどね」
そう言って、またため息を吐いた。だいぶ参っているようだな、と思う。普段の部長職も重圧になっているようだ。責任感の強いタイプなのだろう。
僕は訊ねた。
「競馬先輩には、相談したんですか?」
ピシ、と久村部長が固まる。それから、少し肩を落とした。
「そうね。……本当なら、貴方たちを頼るより先に、あいつに相談するべきよね」
久村部長の瞳が、くるくると動く。今にも泣き出しそうにも見えた。それを、気丈に耐えているようにも。瞳には、複雑な色が浮かんでいる。親愛も確かにあった。しかし、嫉妬の色も見え隠れしている。不安定な心理なのだろう。
今回は、演劇部への出張です!
そして今回、美術部二人は空気に近いです。おそらくは。
暗躍は……するのかしら、どうなのかしら。
二人と一緒に、ゆるゆると、お茶でも飲みながら、読んでくださると嬉しいです。