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しぶとい世界

  HEY、これは何の冗談だ。

  レーガン大統領はSDI(スターウォーズ計画)にスーパーマンの製造方法でも盛り込んだのかね?


       ―――――――ホワイトハウスの会議録にて、石油ジャンキーの大統領


  YES、ミスター・プレジデント。

  ただし、少々予算不足だったようで。


       ―――――――同会議録にて、国防長官


         ※


 宇宙人が本当に攻めてくるなど、ハリウッドの脚本家ですら思いもしなかっただろう。


 そいつらは古典的グレイと宇宙怪獣と使徒とG細胞をごちゃごちゃに混ぜてゲッター線と光子力で仕上げたような代物で、どこからともなく現れたと思えば手当たり次第に近くの人間を親の敵のように皆殺しにして行った。

不幸中の幸いは都合よく電力水力武力政治力という各国のインフラや中枢に攻め込んだ宇宙人が皆無な事であるが、これが三流ゴシップ誌の邪推の種になってしまうのは人類有史以来不変の鉄則に基づいているのは疑いようのない事実だ。

 グルジアガザにシリアなど、宇宙から落っこちてきた大義名分と比べばガキの遊び場も同然だった――急速繁殖(スタンピード)の起きた被災地は、正義という名を付けられたあらゆる兵器の実験場と化した。

 結果は散々である。拳銃弾、傷一つ付かない。小銃、あめ玉扱い。対物狙撃銃、人間を撃つのとは訳が違う。戦車砲、なんとかよろけるが、ひっくり返った戦車は死んだ蛙に似ている。極めつけに対地ミサイルを撃ち込んだ戦闘機(120億円)が縦に真っ二つになり、ついでに国防長官の首をスポーンと切り飛ばすに至って時のアメリカ大統領はこれ以上の攻撃を断念したという。

 世界的な急速繁殖(スタンピード)が起きた四日目。宇宙人に対して最初で最後の燃料気化爆弾(キノコ雲)が廃墟と化しつつあったロシアの町一つ丸ごとと瓦礫に埋もれた生存者ごとふっ飛ばした。結果は大金の無駄。ピンピンしてやがったのである。

 流石に自国に核をぶち込む度胸のある国は一つもいなかった。

 捻りすぎて頭の中身が一周回った若手漫画家が海千山千の業界に切り込むために考えたような、シンプルこの上ない無敵のパブリックエネミー(人類の敵)。空想上のそれと違うのは、現実のそれに救いがあった事だろう。

 三ヶ月後、数多の軍事予算と兵士の犠牲の末、重大な事実が末端から指揮の世界樹を駆け上がった。

 蜂の巣をつっつかない限り、ナマハゲは追っかけてこない。

 そんな事、早く気付けよと言いたい所だが――核を落っことしてもなんとかなるかがわからない謎のタケノコが存在感を主張し、尻を世論という名の蝿叩きで叩かれてはそうも簡単に行かないらしい。もっとも現場では周知の事実だったらしく、その頃に死傷者はほとんどなくなっていた。

 なぁんだ――世界中の大半が脱力した。くたびれ儲けどころか骨折り損の儲けなしである。が、こうなると人間だろうが国家だろうが緊張感を保つのは難しい、それは宇宙人による犠牲者が大地震や大型台風よりも少ないという統計で実を結び――結果、各国の法令が平均して三百条程度増えた。これがもう眺めるだけで目の痛くなる代物ではあるが、言わんとするところは万国で共通している。


 一つ、死にたくなければ近寄るな。

 一つ、追っかけてくるので挑発するな。

 一つ、近くにいるのは勝手だが、女子供を巻き込んだ奴は万死に値する。


 かくして各国の軍事予算を三倍に跳ね上げた税金災害(バジェット・ハザード)は一年目で戒厳令と共に収束し、そこから更にすったもんだの三年。

どうしようもない宇宙人の群は、観測する限り、これ以上増えなかったらしい。めでたしめでたし。何時動き出すかわからないと主張する方の出口はあちらです、てめえがなんとかしてくれるのかよボケ茄子野郎。

 全滅した衛星群の後釜は試験的な発射を間近に控え、空から落っこちてきた災難にてんやわんやとなった各国は早くも他人をカツアゲするという日常を取り戻しつつあった。それでも落っこちて来る前よりも国際情勢が安定してしまったのは皮肉という他ない。

 公式名称・ヒューマノイド。

 実はこいつらが宇宙からの侵略者というのは確証がない俗説に過ぎない、という事を弁えている人間は政府筋の中でも意外と少ない。が、確かなのはこいつらがあらゆる兵器が通用しない有史以来人類最強の天敵であり、地球生物の猿真似をした二足直立野郎という事である。

 宇宙人がしぶとくも立ち直りつつあった人類にもたらした教訓――それは人間にとって最大の敵は、結局は人間であるという事だった。


 今は、まだ。


       ※


 ある日。

 これ以上、どうにもならないほど、嫌になった。

 生まれ立ちが嫌だ。名無しの黒孩児(ヘイハイオー)として生まれ、戸籍のない商品として売り飛ばされたくせに贅沢を言うなと人は言うかもしれない。工作員として必要な教養、語学に時代遅れの共産主義を詰め込まれた自分はまだ豚の餌よりは少しは位が高い、だから我慢しろと仲間は言う。しかし普通の子供は、生きている方がむしろ珍しい地獄のシゴキの中、腹に力を入れるのにも躊躇してしまうほど血の小便とお友達になる事はない。

 頼りにされるのが嫌だ。仲間内で一番出来るというのは厄介事をそれだけ担うという事でもある。仲間に評価されるのは悪くないが、それで霞を食うような日々が変わる訳ではなかった。働き口がない訳でもなかったが、未成年で何時任務に駆り出されていなくなるかどうかもわからない子供にまともな収入を恵んでくれるほど世の中は甘くない――白でも。(裏社会)でも。

 名前がないのが嫌だ。便宜上、名乗る名は与えられているが、生まれてこの方一度も名乗る事も呼ばれた事もなく、自分でも覚えてない単なる文字の羅列は名前とは言わない。普通の人間は番号で呼ばれたりしないし、呼び合う事もないというのがむしろ当然だという事に気付くのにかかった時間はなんと驚け十二年。あまりにも脳天気すぎて泣けてくる。

 その呼び名は言葉に言い表すのすら嫌だが青春十四号という。考えた奴は真面目も大真面目だっただろうが、聞いた奴はまともなら口をつぐんで肩を震わせるか腹を抱えて大笑いする。抗生物質にミサイルの如き雄々しい名前を付け、漫画のタイトルに科学と付けなければ気が済まない恥ずかしいお国柄とは言え、我慢袋の緒をぶち切るには十分だ。

 アダムとイブは知恵のりんごを食べて神に楽園を追放されたという。

 きっとせいぜいした事だろう。

 だから人民解放軍総参謀部第二部第二処所有(、、)、ごにゃごにゃ十四号は、五年もの間に任務でちょろまかしたなけなしのへそくりとなけなしの人脈(マフィア)でどこか別の誰かに成り済まし、こっそりと台湾海峡の密漁船に乗り込んだ。

 やっちまった――船の間を板渡しされて乗り換えた台湾の密漁船の、座るスペースしかない奥の一室。やたらと色素の多い、主成分が人間の血液だと言っても納得しそうな赤いチョコバーをかじる。カロリーだけは本物で、それだけが目当てだった。

平時とは言え、定時連絡を欠かせた時点で脱走がバレバレなのは間違いない。

 松山国際機場(空港)で補足された事に確信はある――台湾(フォルモサ)という国が表面上はアメリカの腰巾着、水面下で中国の制圧下にある島だというのは、客観的に見て余程の脳が天気以外は周知の事実だからだ。しかし世界は想像以上に狭かったらしい――羽田空港に辿り着いて僅か半日後、都心の片隅で追っ手が現れたのには些か意表を突かれた。

 真っ昼間でも人がまばらな、上が吹き抜けになった地下道の一角、公道を走り抜けるエンジンの連なりがこだましている。通行人は全くいない。扉を両手で押し開くような開門見山で上から降ってきた二人を両側に吹き飛ばし、

 身のこなしに見覚えがあった。

 技を()める気にはなれなかった。それでも十分な意思表明にはなった。

 地べたに這った二人が胸を押さえ、呻きながら身を起こす、地下道の向こうから三人、ゴーストタウンのような無人のテナントから一人、後門に狼が二匹。男が六、女が二。全員が手ぶらで、全員がコンビニの前でうんこ座りしているような未成年で、全員が素手の二秒で人を殺せる。自分が一番よく出来た。お互い手加減していても一度に相手できるのはせいぜい四人までだった。その倍の人数もある全員が、居もしない親の仇を見るような目でこっちを射抜いていた。


 そこから先の事は、全く記憶にない。


       ※


「あんたって暴力よね」

「え?」

 焼きパン(ピロシキ)を引き千切った所で、口に運ぶ手をタマラは止めた。

 人の弁当からたかったコトレータ(カツレツ)を頬張りながらいきなり何を言い出すのだろうか。とりあえず言い訳くらいは聞いてやろうと弁当箱の蓋に手をかけ、机の向こうに座った桐島依子をタマラは目で促す。シーザーサラダの入ったタッパは既に白旗を挙げていたが、弁当箱の中には区切りに入ったロールキャベツが丸々無傷で残っているし、更に横では冷製のスープがうだるような真夏の一時を極楽にせんとばかりに待ち構えている。舐めた返答をしたらこいつらを意思表明として何時でも封印するという必殺の構えだった。

「ほら」

 そう言って依子が差し出したのは彼女のスマートフォンだ。学園支給のCタイプ、イエローカラー。宇宙人とは全く関係のない所で少子化にどこの学校も喘いでるこの時代、このような代物がバリエーションに富んでいるというのは世界広しと言えどもこの学園だけだろう。充電口にくっついたアクセサリを学内で販売しているのも、とてもではないがカタギの芸当ではないとは依子の弁。

 そこに表示された画像を見て、タマラは目をぱちくりとさせた。隙ありと箸を閃かせ、カマイタチみたいな勢いで依子がロールキャベツを掻っ攫って行く。

 お前はどこの武芸者だ。

 桜花学園。新設四年目。小中高を合わせた学生数は三千で、驚くべき事に空き教室数はそれの半数に登るマンモス校。

この歴史でこの規模だというのはちょっと珍しい――というか世界初だろう。それもそのはず――創立目的は日本各地にある被災地の高校生の受け入れであり、主導は政府である。

 土地は急遽決まった国有の埋立地、学園のフェンスに登れば羽田空港が見える、そのせいで建物から一歩出るとカン高い飛行音がひっきりなしに聞こえる。防音建材の値段を統計すれば、それだけで有権者の血の気が顔から失せるだろう。

 つまり、この学校では金が余っている。

 では金はどこから来た――普段ならこんな空き教室の数、税金の無駄だと言われる所だ、しかし誘致された数多の教育機関のみならず、外国のコングロマリットまでが何故ここまで集まったというくらい出資者に名を重ねている事に比べれば小さな問題らしい。役者上がりの与党議員がツイッターに書き込んだ「口を出したきゃ金を出せ」という言葉は、壮大なブーメランの乱舞と共に年度流行語大賞に選ばれた。

 建設当時から外国の学生を受け入れる計画が発表された。実にグローバルだ。しかしそれなら各方面への配慮が必要となる。流石はお役所が絡んでるだけあって「中央防波堤外側埋立地に建設中の学園名を考える会議(原文そのまま)」が十六回も開かれたのは特筆すべき学園の暗部と言えよう。全くもってローカルである。

 会議の結果、学園名が実に無難かつローカルにまとまってしまった逸話はあまりにも有名だ。賢明な判断であった。なお最終候補の対抗馬は聖ゲオルギウス学園である。会議の迷走ここに極まり。

 それでも現時点での学生はほとんどが学校を占領した宇宙人に追い出された現地人であり、パツギンの生徒は他にいない――今、スマートフォンに写っているのは制服姿の横顔、腰まで伸ばした髪の色は言うに及ばず、即ち桜花学園高等部・一年D組の神崎タマラという事になる。

 あれ? とタマラは思った。写真ぐらいどうって事もないが、高校になってから出来たこの親友が、相手の了承なく横から写真を撮るような性格ではないのは半年の付き合いでよくわかっている。

「それ、男子達が広めてるのを見かけたんだけど」

 言っている依子の顔は気まずそうであるが、見かけた以上、本人に知らせない訳にはいかないと思ったのだろう。

 ふーん。

 タマラはスマートフォンを依子の前に置き、おしぼりで手を拭いた。千切ったピロシキを口に運び、何時の間にか一つになった最後のロールキャベツを箸で摘み上げて二口で処刑。用意しておいたお椀で冷製スープを二つに分けた後、白い液体をひと垂らし、その片方を依子に差し出す。

「はい、どうぞ」

「ありがと――ってそれだけ?」

「うん」

 依子は手元にあるスープを見る。当初はシチーとオクローシカの違いがわからなかったが、飲んでみれば一目瞭然だった。お椀を口にしながら周りを伺うと、少なくとも三人の男子が遠巻きにこちらを見ているのが確認できた。今日の具は発酵したキャベツ、シチーだ。この夏場でサワークリームに中和された酸味がたまらない。

 一気飲みしたスープを机の上に置く。

 かー、うめー。

 無論こんなおっさん臭いセリフ、人前で声に出す訳にはいかないが。

 そもそも二人の馴れ初めは、学食のパンをもそもそと食べていた依子がタマラの手作り弁当を褒めた事である。焼きそばパンとビーフストロガノフだった。悪いとは思いつつも依子がその好意にズルズルと甘えてしまったのは、美味そうにおかずを摘む自分を見て、タマラが嬉しそうに微笑んでいるからだと依子は思う。

 丁度、今のように。

 先ほどの画像について、何とも思ってないような表情。

 依子は突っ伏した、机に垂れ下がるぶっといポニーテール。

「やっぱ暴力だわ、あんた」

 だから首を傾げるな。

 タマラに他の友達がいないのは、決して誰かが悪いせいではない。


 例えば今中央防波堤外側埋立地に急速適応不良(スタンピード)が起こり、慌てて逃げる時に依子がその場でコケたとしよう、タマラはコンマ秒でも迷わずに助け起こして一緒に逃げる。

 では成り損ない(ヒューマノイド)が目の前に立っている。依子は崩落に巻き込まれて動けない、死にたくないと瓦礫の下で涙と鼻水を垂らしている。

 タマラは、かつての被災者として迷わずに最適なルートを選ぶ自信がある。人類の天敵は薄情かどうかなんて考慮してくれない。それは立場が逆になった時の依子もそうだろう――のどかな風景と恵まれた環境で忘れがちになるが、この学園にはトラウマを抱えた生徒専用のクラスやカウンセリングセンターまであるのだ。それが人の常というものだ。

 人間の心には大小の穴が空いている、それは他の誰かでないと埋められず、穴を埋めるのは形が整った石ころほどいい。宝石なら尚更申し分がない。料理が上手かったり優しかったりしたらマーベラスだ。

 見かけが綺麗なら男も寄ってくる。

 普通は。

 タマラは初めてソーシャルサイトを覗いた時の事を決して忘れないだろう。写真を載せた記事。雨の後で空気の澄んだタイミングを狙い、顔面をフル武装してカメラに向かって最適の角度でピースサインを決めた女の子。法定安全距離ギリギリを定めるフェンスの中で、豆粒より少し大きいヒューマノイドが崩壊した校舎の前で突っ立っている。忘れないとか感謝してるとか、そんな後付けのようなしおらしい文章も書いてあった気がする。コメントでは男達が必死に心配したり褒めていた。誰も彼もが校舎の中で同じ年頃の欠片が眠っているのを忘れていた。

 それを咎める気は、タマラにはない。

 記事のタイトルは、私の母校。


 神崎タマラに桐島依子以外の友達がいないのは、


 決して誰かが悪いせいではない。


       ※


 忘れもしない、あれは五年と四ヶ月前。


 タマラは小屋の中で目を覚ました。

 まず目に入ったのは干された赤いファーコートとコサック帽――湿った様子がなくてほっとする、水洗いすると毛皮も色も駄目になるのだ。背が伸びてきたのでそろそろ買い替えようとパパとママが話していた。建物は狩人小屋らしく、煙で黒くなった丸太に囲まれた空間の中、やたらと立派な石製の暖炉(ペチカ)が、パチパチと微かな火花を立てている。

 上半身を起こす。絨毯の上に寝かされていたらしい。毛布のこすれる音に気付いたのか、室内に座っていた人物が立ち上がった。椅子が床を叩く。こっちに来る足音。白い迷彩服の二本足が目の前でしゃがみこむ。

 タマラは隣のハンスを思い出した、しかし悪ガキが抜け切れてないような大人は、悪ガキの抜けた表情で大真面目に指を立てる。

「言葉は話せるか?」

 滑らかなロシア語。タマラは頷いた。

「指は何本ある?」

「……一本」

 二本。四本。クイックイッと上下左右に動かし、パチンパチンと耳元で指を鳴らす。ニッコリと笑って……は無理か。はい、あー。舌を左右に動かして。首を左右に振って。

 お医者さんのような検査を一通り。まるで状況の飲み込めてないタマラはまるで操り糸に吊らされた人形のように動く。

「よし、俺の名前は訳あってまだ言えない、だがいずれ教えると約束しよう。とりあえずはフォックスと呼んでくれ。君の名前を教えてくれるかい?」

「……タマラです」

 施設の中でも黒いのとお話をしていたのだ、言葉は案外スルリと滑り出た。

 ハッとした。それが単なる暗闇とお喋りしていたのではない保証はどこにも無いのだ。急に不安になって周りを見渡す。

「ではタマラ、連れなら外にいるよ――まずはこれを飲みなさい。いいかい? 決して急いでは駄目だ、ゆっくりと飲むんだ」

 本当にいたんだ――感想を言葉に出しても、頭がおかしくなっていると思われるだけなのは今のタマラにもわかる。差し出された白湯を受け取ってズズッと啜ると、フォックスが頷いて暖炉(ペチカ)で温めていたミルク粥を装った。

 滅茶苦茶熱くて、滅茶苦茶美味しかった。必死にスプーンに息を吹きかけてもなかなか冷めないのを、フォックスは満足そうに見ている。噎せるのと防ぐためにわざとそうしていたらしいのを、随分と後になって気付く。

手を繋がれて外に出る。

 世界は静止していた。

 人がいると雪は汚れる。三百六十度首を回しても、真っ白な雪、雪、雪。紙の上に垂らした一滴の薄い墨汁のように、小屋ですら色が淡い。屋根の下にスノーモービルが止めてある。流石のタマラもここまで見事な銀世界は見た事がない。体感する――日々の生活の上に学校の知識で上塗りされた、森も動物もナポレオンも沈黙させるロシアの冬将軍。

ロシアに住む人間にとって、気温とは数字だ。ツララは地面と繋がってなく、雪の壁はタマラの背より少し高いと言った所。マイナス十五度――タマラが見当をつけて呟くと、感心したようなフォックスの顔。

 雪をくり抜いた空間、地面に刺さったスコップ。デンと置かれたドラム缶。タマラすら目を瞠るような薄着で、背中を向けた黒いのがドラム缶に薪をくべていた。

 フォックスが呆れたような顔で呟く。

「寒くねえのか」

「いいえ」

 ニュアンス的には別に、と言った所だろうか。つい最近、毎日耳に入っていたガラガラ声。喋り慣れてないロシア語。タマラがその場に硬直していると、ポン、と分厚い手袋が頭に置かれる。

「話の前にまずは命と体の洗濯だ。レディを急かすのは野暮かもしれんが、小屋の持ち主に悪いからちゃっちゃっと済ませてくれ」

 薪を止めるとお湯はたちまち氷に変わる。こっちの方が素なのだろう。先ほどの優しい――安心させるような口調よりもこっちの方がむしろしっくり来た。いくら冬とは言え、流石に何週間も石鹸のない生活をしていると体の匂いが気になる。タマラは耳の先まで真っ赤になった。

 男二人の前で真っ裸になるというのは存外気にならなかったが嫁入り前である。石鹸で体を洗う時はドラム缶の陰。シャンプーなどという気の効いた物はなかったが、久々に浸かる熱いお湯は極楽そのもので思わず声が出る。クマはお風呂にもうるさかったのだ。

 二人は見なかったフリをしてくれた。


 一段落したところで、小屋の中に緊張感が満ちる。

 話はこうして始まった。

「んじゃ改めて。とりあえずフォックスって呼んでくれ、生まれはアメリカ、他は当面秘密だ」

 暖炉を頂点に陣形は三角、タマラが少年に抱きかかえられているのはなんとなくだった。施設での生活でなんとなく癖になっている。頭から被っているのはダブダブのTシャツ。残ったお湯で洗った下着がまるで御神体のように暖炉(ペチカ)の前で干されているのが落ち着かない。勿論代えはないので乾くまでこのままだ。

「タマラ・カンザキです」物足りないと思って付け足す「じゅ、十歳です」

 沈黙。

「お前は?」

 フォックスがタマラの頭上に目を向け、タマラが黒いのを見上げる。

「十二だ」

 三秒遅れて、ようやくそれが少年の年齢だという事に気付く。自己紹介にもなってない。会話もできないほど言葉が不自由な訳ではないのは二人とも知っている。

気まずい沈黙。

「おい……」

 そこでフォックスが言葉を切った原因を、その時のタマラはまだわからなかった。すぐ真下にいたので、少年の表情がよく見えなかったというのもある。

 先ほどまでの薄い感情とは裏腹に、そこにあったのは生まれて初めてここまで愕然としたような表情だったのだ。

 フォックスがぽつりと呟く。

ヤンキー()……」

 え? と子供二人。

「……はあんまりか、まだガキだし、ピーター()でどうだ?」

 反射的に頷いた少年の仕草は、宇宙人を蹴っ飛ばしたとは思えないほど幼かった。


 三人の旅が始まった。


 シベリア鉄道は使わなかった。スノーモービルで向かった町の中、どこからか調達してきた車の運転はフォックス。夜間警戒がピーター。身の回りの世話がタマラと自然と決まっていた。

 大人一人と子供二人のチームは案外上手く行った。年長の二人はカタギではなかったし、農家に生まれ落ちて働かない子供はこの世にいないのだ――ママに火を使うのも許可されている。子供は物覚えがいい、タマラに色々教えるのが楽しいらしく、休憩の間は決まってフォックス先生のABC。

 なんだ、英語はまだ習ってないのか、よし、雪の上に書いてお勉強だ。世界は広い、俺の国に行きたきゃここから東か西に目一杯行って船に乗れ、コロンブスって食べ物を粗末にした罰当たりを知ってるか? そっちの坊主の国は南に行けば船はいらねえ――ってピーター、何こっち見てんだ、その肌色で豚肉食えないもクソもねーだろ。おう、イスラムは知ってるな? タイヤの模様が神様の名前に似ているからクレームを入れた、思い込みが激しい奴等の事だ。いいか、いい女、美味い食い物、温かい家――その三位一体で落ちない男はどこにもいねえ、簡単だろ? 実は意外と大変らしい。そうか親父は日本人(ジャポネ)か、じゃあその髪と目はレア物だな、毎日大切に手入れしろ。

 なるほど、パパがママに頭が上がらない訳が分かった。そう言うとワッハッハと大笑い。この男はやたらと喋りまくる――こなれてきたタマラがちょっと料理に一工夫を加えた後は特にそうだ、二時間くらいは口が止まらない。それなのに車を止めて外に出る時、辺りを無言で警戒する時、途端にどっちがFでどっちかPか一瞬わからなくなる。オンオフのない農家の娘には未知の生き物だった。

 最初は張り詰めていたピーターも、気がつけばどこか緩くなっているのがわかる。車の中ではタマラをカイロ代わりにしたままほっぺをつねっても起きなかったし、無人の廃墟に泊まった日の翌朝、天然の冷蔵庫と化したトランクで冷たくなったボルシチを燃やしたC4(爆弾)で温めていると、何時の間にか横で餌を待つ犬のように座り込んでいた。今となってはどうでもいいのだが、それ(C4)が燃やして料理に使えるのを教える前に、もっと言うべき事があったはずだとタマラは思う。

 旅の後半、ロシアで一番長いアムール川が凍りついていた。前も後ろも左も右も大型トラックだらけ、川の上で立てる轟音は滝のようで、雪の上に作られた轍は人一人が中に寝転んでも余裕がある。生まれて初めてみるスケールの違う光景を、タマラは口を開いて眺めていた。他の二人が平然としているのが信じられなかった。


 始まりがあれば終わりもある。

 まずはピーターからいなくなった。朝、起きた時、都市に入る前に黒竜江(アムール川)を渡って行ったらしい。

 二人の生きる世界が違うのは、十歳の子供でもわかる。あれは今生の別れを告げていたのだと悟った。

 毛布の中にいるタマラが目を開けると、何時の間にか黒いのが座り込んでいる。

 タマラは何も言わなかった――少年が何か言葉を絞り出そうとしているのは一目瞭然だったからだ。

 気の利いた言葉など何一つ思いつかなかったのだろう。

 ありがとう。

 タマラはうん、と頷いた。


 フォックスとの別れはもっと湿っぽかった。

 ズボンにしがみ付いたタマラの自慢の髪を、毎日ブラッシングの手伝いをした手でとかす。困ったように言い付けを一言、おしゃべりなこの男らしくまた一言。

 覚えてるか? 美味い食事、温かい家、幸せになれ。

 本を読むんだ、世界を広げてくれる。

 …………。

 そうだ、笑うんだ、お前はそれが一番綺麗だからな。あ、でもやたらと男に振りまくなよ、多分困った事になる。

困ったら、何時でも俺を呼べ。


 今までの人生が全て色褪せてしまうような、濃密な一ヶ月だった。


       ※


 温室で育った花が温室でしか生きられないように。人肉の味を覚えた獣は、人間の間で生きられない。

 風の便りで日本にいる事だけは知っていた、だからなんとなく足が向いた。

 運良く見つけて遠くから一目見たら、宛てもなく死に場所を探すつもりだったのだ。


       ※


 桜花学園はその規模や地理の関係上、生徒と教員が構築する一つの小さな町みたいな様相を呈じている。

 東京湾一つを隔てて空港が見えると言っても、当然ながらそれが桜花学園と直通されている訳ではない。ちょっと根性入れて首都高に入り込めば近いと言えば近いのだが、単なる高校生が空港にそこまで用事がある訳ではない。せいぜい休みの帰郷に使うのが関の山。

 本土との数少ない接続は橋が一つに海底トンネルが一本。それでも食うものにこまる事は基本的にない。夜中に小腹が空けばコンビニがあるし、放課後や昼飯時に寄れるようなスーパーまである。多少お隣のジェット音が気になるが運動設備は完備だし、ゲームとエロ本以外のほとんどは手に入ると思っていい。全国から集まった生徒のほとんどが一般住宅地と見分けがつかない寮で眠り、週末になっても学園を出ずに安穏と惰眠を貪る輩がやたらと多い。

 だから平日の放課後、用事がなければ週末ですら都心に滅多に行かない神崎タマラが一時間もかけて都心への定期バスに乗り、そこを通りかかった時にふとビルの間を覗き込んだ事も、当の本人にすら後で説明がつかなかった。


 アザの無い所を探すのがむしろ難しかった。ただでさえ着古した服はこれ以上なくボロボロで、服を切り裂いてその下まで達する切り傷まである。意識を失った手からは、泣きたくなるほどささやかな私物の詰まった小さい巾着。どんなに金に困った賊でも盗むつもりになれないそれが、まるでこぼれ落ちた命のように転がっている。


 どう見ても行き倒れか傷害事件の被害者だった。

 どう見ても――記憶の中の姿と重なった。


 五年前に失ったと思っていたものが、手の中に戻ってきたのだ。

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