プロローグ
数日ぶりの光だった。
部屋の隅っこで体育座りをしていたタマラは、立て付けの悪いドアが軋む音に顔を上げる。廊下からの光は雲に窓に遮られて灰色の光沢を帯びているが、それでも窓一つない上にランプが割れた部屋の暗闇に比べると百倍はマシだ。差し込んだ光に照らし出されるのは円筒帽、くすんだ赤でお揃いのコート。
ドン、と、開いた扉の前にいた人影が部屋の中に突き飛ばされてたたらを踏む。
扉が閉まる僅かな時間までの間、まるで穴開けチーズのように逆光を浴びた黒い人影は四角い光を繰り抜いていた。
こうして、三日ぶりの太陽は再びタマラの目の前から行方をくらました。
目を凝らせば前に伸ばした腕が辛うじて指まで見える部屋の中。タマラは声一つ出さずに半日間、部屋に入ってきた人物の気配を伺う――こっちを一瞥ぐらいはしたかもしれないが、何も言わない黒いのは、そのまま部屋の反対側にある地面に座り込んで微動だにしない、先客でなければただの置物か何かだと思っていたかもしれない。
そして寒そうだった――毎日冷たいスープとカビも食わないカチカチのパンが差し入れられる時の光から察するに、この部屋はコンクリートの無骨な正方形でベッドの一つすらない。ロシアの冬は厳しい。凍死されては困るだろうから最低限の暖房と毛布だけはあるがそれだけだ――それは今の所、先住民たるタマラがかき集めて独占している。
一応はちゃんとしたトイレがあるのだが、便座がない上に掃除もされてない、トイレにうるさい片親を持つタマラにとって、それは拷問以外の何物でもなかった。シャワーは一週間に一度だけ、暖かくないお湯というよりは凍死しなくて済む水を頭からぶっかけられて戻され、コートの上から臭い毛布を被ってガタガタ震えて半時間――昼夜もわからない麻痺した時間が経った今、タマラはもう何も感じない。毛布すらもう臭いとも思わない。しかしそんな部屋に放り込まれた黒いのがやはり同じ洗礼を受けるのだろうと思うと可哀想だった。地面を半場引きずるように毛布を抱え、部屋の反対側に持っていく。
言葉の代わりに声にならない息が乾いた口から吐き出される――一体どれほど喋ってなかったのだろうか、舌がもつれて一言を発するだけでも苦労するほどだ。
「あの……」
黒いのは反応がない。
まさかこんな短時間で死んでる訳ではないだろう――タマラがそうだったように、その気力が湧かないのかもしれない。
「毛布、寒いから、寒くなるから」
これだけ喋ったのはドアを叩いて泣き喚いた時以来だ。
初めて動きがあった――黒いのが顔を上げたのだ。毛布を受け取る。
「……ありがとう」
男だった、声変わり中の男の子に特有のガラガラ声。はて、とタマラは首を捻る――変なロシア語。発音はともかく、聞いてて違和感のあるイントネーションだ。
タマラはそのまま彼のペタンと横に座る、部屋の反対側に戻れる気になれないのは、これが久々に出会う人間だったからかもしれない。
「寒いだろう」
毛布に包まっているはずの黒いのが変なイントネーションで話す。タマラが何かを答える前に毛布が被さった。
あったかい。
二人だと、何もかも冷たい部屋が随分マシに感じた。
シベリア抑留。
おじいさんとおばあさんはその生き残りだとパパは言っていた。何故日本に帰らないのは知らなかったが、今や別のおじさんが店を引き継いでいるパン屋さんと、小さい頃遊びに行っては頬張ったアップルパイの味はまだ舌に残っている。
まるで冬の森のような二人とは裏腹に、パパは黒い目と黒い髪のクマだった、地平線の向こうまで伸びる畑の上でトラクターを乗り回して、家に帰ればビール缶を片手に古ぼけたソファでテレビを見る。よくタマラを膝に乗せて、母親譲りの銀色をした髪をくしゃくしゃと掻き回す。最後のプレゼントはわざわざ隣町に遠出までして取り寄せた大きなテディベアで、タマラの十歳の誕生日に家の扉を開けて得意気な表情でそれを前に突き出した時、ママの呆れた笑顔は忘れない。
そんなパパも幼馴染のママには頭が上がらない、一度は日本に帰ったという話なのに、またロシアに戻ってきているのがその証拠だ。ママがその話をしている間、パパは必ず部屋の中に閉じこもってるし、決まって翌朝はママの機嫌がいい。
朝、ママがボルシチを魔法瓶に入れなければパパはなかなか家を出ないし、母親譲りの紫色の目はタマラの自慢で、幼稚園では三回もプロポーズされた。最後の誕生日は一緒にオーブンでケーキを焼いて、ママが一緒にいる時はようやく火を使っていいというプレゼントを貰った。
一家でバースデイソングを歌い、ケーキを切った後、パパは自分の分をタマラの皿に移してくれた。
久々に家族の夢を見たのは、一緒に寝ている誰かがパパみたいにゴツゴツしているからなのかもしれない。
二人っきりで三日目――多分。
食べる、寝る、起きる。他にやる事もなかった暗闇の中で、体温以外を共有しないのは至難の技だ。自然、今見た夢の事を話す。
最後に祝った誕生日。
その先は話さない。
ただ聞ききたい事だけが一つあった。
「ねえ……」
記憶の中にあるパンとは比べるのすら馬鹿馬鹿しいカチカチのパン、それを人肌程度のスープでほぐしながらタマラは聞いた。
「あなたも見たのかな、あれ?」
「ああ」
簡潔だった。タマラには全く歯の立たなかったパンをボリボリと噛み砕きながら、黒いのは一言だけ。
それっきり。ゴキブリでも殺せそうな沈黙が満ちる。
※
今でも夢に見る幸福が終わる直前、夜中に目を覚ましたタマラはふと窓の外を見た。
大雪が晴れた後、透き通った夜空に見える満天の流星群。
翌日、興奮しながら両親に話すとそれを見れなかったとパパは悔しがった。
ママも、隣のおじさんおばさんも、村長も、入りたての小学校の先生も、それを見た覚えはないと言った。
ただ、学校の生徒達の間だとその話題で持ちきりだった、話を聞くと、皆はうん、と頷く。
世界が変わったのはその数日後だ。
その日、風邪を引いた生徒が一人休んだ以外は何時もの一日だった。タマラはパパの国のだという変わったミソスープを二回お代わりし、お昼のボルシチはやっぱりママのと比べるとイマイチで、
後から聞く話によると、それは急速適応不良と呼ばれていたらしい。
騒がしくなった村の中にいきなり出てきたそれは腕の一振りで畑仕事をしていた隣のおじさんおばさんを引き千切った。風邪を引いたという隣のハンスの行方は、少なくともタマラは知らない。
そして何時の間にか、そいつらは村のあちこちを我が物のように闊歩していた。
丁度放課時間になった頃、学校に駆け込んできた大人達にまず先生が身構えた。学校を狙った暴漢の群にしか見えない彼らは顔色を変えた生徒達の親達で、それぞれの食い違う言い分が混ざり合って何を言っているのかがわからないが、自分の子供を連れにきたという点で一致していた。
大小の生徒達の手を引いて車で、あるいは両足で走り去る大人達、あっという間に積もった雪と無数の黒い足あとだけが残る。パパ、ママ――タマラの呼び声に答える大人はいない。同じような子供達がまばらに残る校庭で皆を見送っていたタマラは突如、背中から両肩に手を置かれてビクッと振り返る。
タマラ・カンザキ、あなたの両親は!?
ここまで取り乱し、叫ぶナターリャ先生は初めて見る。
いない、いないんです。
タマラが負けじと叫び返すと、先生は頷き。
いい? 今すぐ家に帰りなさい、でももし何か変わった事があったらすぐに逃げるのよ。
何か変わった事って何ですか、どこに逃げるんですか、と聞き返すが答えはなかった、先生は忙しい、他の泣いている子供の方に既に駆け寄っている。
一人で学校から飛び出す、村の大通りを走って外れにある家に向かう途中、悲鳴が上がった、タマラは足を止めてその方向に
四階建てのマンションの半ばの高さまでに影を落としながら、それはいた。
後にヒューマノイドと称されるそれは名前の通り、人型をしていた。
手足がやたらと長い半透明の体、微かに見える胸の脈動、脈動と共に伸縮する指に合わせて、そこにぶら下がった人間が力を失った手足を揺らす。血色のない上半身が隣のおじさんだと気付いた直後、タマラの両足はその場に釘付けられたかのように一歩も動かなくなった。
目が合った――瞳孔のない、白濁した球体。
タマラは金切り声を上げそうになり、ヒューマノイドはそれをトリガーに飛びかかろうとしていた。
動いたのはただ一つ――頭が真っ白になったタマラの目の前で、突如見覚えのある軽量トラックがヒューマノイドに衝突したのだ。
見覚えがあった、すごくあった――テディベアが乗ってきた、土に汚れたスカイブルー。
運転手の呼び名を叫んだ。
「パパ!」
まるで赤ん坊がこぼした食事のような血で胸板を真っ赤になったクマはしがみつくように回していたハンドルから体を離し、隣の座席に置いたガソリンタンクを掴む。
「ばじれだまら!」
叫びと一緒に血泡が吹き出す、タマラには見えない速度でヒューマノイドの腕が軽トラの前ガラスに突き刺さった、変な方向に曲がった赤いクマの左腕が根本から消し飛ぶ。
父親は、止まらかった。
「うおおおおおおおおおおおおお!」
テレビで見た野球選手のような、渾身のオーバースロー、反射的にヒューマノイドの切り裂いたタンクから飛び散る可燃性の液体。最後の力を振り絞るようにクマが座席を蹴る、ヒビの入った前ガラスが体を切り裂くのにも構わず軽トラから飛び出しながら右手を後ろポケットに突っ込んだ、ポケットの縫い目すら引き千切って腕を振りかぶる、
怪物相手にはなんとも頼りない小さなライターは、クマにとっての聖ジョージの剣だった。
ひっくり返ったどころの衝撃ではなかった、タマラが怪我をしなかったのはそこに雪が積もっていたからに過ぎない、爆音が耳をつんざく、目玉が焼き付きそうだった、雪の上に叩き付けられたタマラが顔を上げると、煙のように燃え上がった炎の中で見上げるほど巨大な黒いシルエットが棒立ちしていた。
そいつは、何かを探すように動いていた。
呆然としながらも足を動かしたのは、パパの最後の言葉に従ったのか、恐怖に駆られたのかはわからない。
遠目から見た、畑の真ん中に建てられた家には、ツルリと新品のようなヒューマノイドが首を突っ込んでいた――その様は食事する犬が皿に向かっているのを思い出させた。
それからの事はあまり覚えていない。
ただ一つ。
村を振り返った時。
まるで雨後春筍のように、脈動を抱える巨人が建物の間からポコポコと生えていた。
ビクリと、跳ね上がった上半身が重たい毛布に押さえつけられる。もう撥ね退ける力すらタマラには残ってなかった。暗闇の中で液体が頬を伝う感覚。
「うぇぇ……」
まだ涙を流せると自覚した途端、感情のタガが外れる。パパ、ママ――二人を呼ぶ声は嗚咽に混じって言葉にならない。
後頭部を抱えられ、ゴツゴツの胸板にしがみつくように、タマラは何時までも泣き続ける。
それからも一緒に冷たい食事を食べ、冷たくない水の後に温めてもらい、冷たく重い毛布の中で体温を分け合う日々が何度か続いた後。
タマラは怖くなった。
何故黒いのは顔もわからないのだろうか、何故父親みたいにゴツゴツしてるのだろうか、何故無口なのか。
何故、冷たくない水を浴びるのが自分一人なのか――扉の開く時、廊下の小さな窓から見える灰色の太陽に照らし出されのは自分だけだ。そんな時、黒いのは迷彩服を着たおじさんに見つかるのを避けるように、何時も部屋の隅っこに引っ込んでいた。疑問にも思わなかった。
ひょっとして黒いのは孤独に耐えかねた自分が作り出した幻覚なのかもしれない、そう思った。
私、もう死ぬのかな、と呟く。
黒いのは魔法が解けた人形のように何も言わなかった、微動だにしない。
彼に向かって手を伸ばす。
空を切った。
やっぱり、とタマラが呟いたその時、
廊下を反響しながら突き進む悲鳴が部屋を通りすぎ、立て付けの悪い扉を叩いた。
あの日を思い出した。
幸せという意味を知っているか否かの違いはあるが、何の変哲もない毎日に乱入してきた不穏な空気、爆音は銃声に、泣き声は怒号に取って代わられる。あの日の醜悪なカリカチュアとすら思える。
鉄のひしゃげる音が聞こえた、悲鳴、すぐ近くの廊下で湿った音。廊下を走り抜ける足音。
足音が全て遠ざかり、何かが蠢く音だけが残る。
その後は、あれが目の前に出てくるのだ。
扉が内側に吹っ飛んだ。
タマラはパパが見ていた映画を思い出した、ちょっと昔のカンフースターが出演している愛蔵版、ママは悪趣味だと言ってタマラを遠ざけようとしたが、アチョーだのホアアという叫び声は耳に残っている。どうやったら空中であんなのが出来るんだろうと思った飛び蹴りは隣のハンスにも再現できなかった。
立て付けの悪い扉が物凄い勢いで内側に回転してひしゃげ、鉄の塊と化す音にタマラは思わず両耳を覆う、それがもう二度とタマラを閉じ込める事は出来ないという事は理解できる。飛ばない蹴りの一発だと後で聞いたが、映画とは違って戻す蹴り足すらタマラには全く見えなかった。
文字通りに人間技じゃないのはタマラでもわかる。
「無事か?」
ポカンとしたタマラの前で、聞き覚えのあるガラガラ音、イントネーションがちょっと変なロシア語。
灰色の太陽を背に、無言で手を差し伸べた少年は、自分と比べても大した年の差がないように見えた。
タマラがいたのは実験都市百七十八号という、アホみたいだが名付けた本人達は大真面目という名前の研究施設だった。それは世界各地で起きた急速適応不良の生き残りを収容した、ソ連崩壊前から古くある非人道的な施設の一つ。ロシアの実験都市然り、アメリカのエリア51然り、地図に載ってない施設に良識など期待できる訳がない。突如各地に現れた化物に差し向けた軍隊が次々と壊滅して行く混乱の真っ只中である――急速適応不良の生き残りを、猛毒を撒き散らす害獣の如く扱うのが大間違い中の大ハズレなんて、誰も気付いてはいなかった。
二人がどこから飛び出してきたのかは自明の理であり、だからこそ疑問はずっと後になって、思い出話として語られた時に噴出した。
それは理解不能の現象だった。
タマラは黒くて胸板のゴツゴツした少年は牢屋の中にいたと言った。名無しの水無痕であり、ウェーブレスであり、神崎達矢でもある少年は、タマラをとある片田舎で拾い、攫われた彼女を助けに行ったのだと首を捻る。
はしっこい少年兵がアホみたいな名前の施設に大人しく拉致される訳がないし、故郷から逃げ出してからすぐに全身防護服のおっかないおじさん達にとっ捕まった幼女が、凍死も餓死もせず数百キロも先の片田舎に辿りつけたはずがない。
考える事も論ずる事も出来ないので不思議と言う。話も理解も噛み合わず、通らない両方の言い分に本人達もが混乱した中、ただ一人、ソファの上でふんぞり返って言い放つ。
話は簡単じゃねえか。
お前らは、最初から赤い糸で繋がってたのさ。
※
白い迷彩服のそいつは、実験都市の警戒網から少し外れた森で白いテントを張っていた、警戒網とは言っても名ばかり、偶然迷い込んだ人間を追い払うだけで、もっぱら雪かき要員に駆り出される警備は粗末と表現するのすらはばかられる、望遠鏡を使えば施設の細部を観察できるくらいだ。
クソ不味いレーションは持ってきているが、そいつはわざわざ現地で調達した食材を煮込んだシチューをズズッと啜り、腹と体温を満たした。
あー、うめえ。やっぱ天才だわ俺。
ロシアは大地も空も広い、だから轟音を伴うそれも、そいつに届く頃にはほとんど霧散して衝撃の余韻しか残っていない、それでも素早く身を起こし、望遠鏡を施設の方に向ける。
二階建てのコンクリートと雪を突き破ったヒューマノイドの頭がタケノコみたいだった、下の階から生えたそいつらはフロアというフロアをぶち破ったので、まずは動きの邪魔になる建物を押し崩す事から始めたらしい。
多分中国系アメリカ人辺りが言い出したのだろうが、雨後春筍とは実に言い得て妙だ。そいつは落ち着き払って鼻を鳴らす。
ふん、一体どこから生えてくるんだろうな、こいつらは。
まだ余裕があった――短時間で収集した情報だが、目についた人間を厨房に現れたゴキブリの如く丸めた新聞紙で叩き殺すだけで、手持ち無沙汰になったヒューマノイドがその地で居住権を主張して屁をこく事についてネタは上がっている。さもなければ我が愛しき合衆国も悠長に工作員をあちこちに派遣して情報収集しているどころではない。ID4だ。
歩兵による偵察は情報収集の基本だが、戦争をやっている訳でもないのに衛星カメラでパシャッと行かないのは訳がある。
現在各国に戒厳令を敷かせ、世界各地を賑やかにしている現象と、大人には見えない流星群との関連性は不明だった。大気圏での燃え残りの一つもない事からして実体があるかどうかも疑わしいのだが、大層な予算を年々食い散らかして打ち上げた衛星や宇宙ステーションが軒のみデブリと化した事だけは確からしい、衛星電話などは宇宙も地上も壊滅状態だろう、お陰で海に近づくまでは味方との連絡も取れない。
ここに来る前、上司は連日の激務でゲッソリとした顔を鉄仮面のように固めて聞いてきた。
こいつらはなんだと思う?
さあ、少なくとも宇宙人の類ではない事は確かですね。
よし、行ってこい。コードネームはそうだな――フォックストロットでいいな?
は?
フォックスの答えは上司のお気に召したらしいが、不幸な事に上司はほとんど寝ていなかった――F言葉の代わりにもなるフォネティックコードに悪意を感じる。挙句に海から数千キロも離れたロシアの内陸で情報収集だ、世知辛くて泣けて来る。
タケノコが人間以外に興味を持たない事、そして人間のいる所にしか生えない辺りから、およその推測は誰にでもつく、問題はその原因ときっかけだ。
――都合よく急速適応不良の生き残りでもいりゃいいネタになるんだがなぁ。
その時だった、都合良く施設から黒い点が白雪の上に飛び出してきたのは。
膝まで埋まる雪の上をザクザクとブルドーザーのように動かせる足取りは明らかにカタギのそれではない。三百三十六度どこから見ても同業者。いくらガキとは言え、そんなのがアホみたいな名前の非人道施設から飛び出してきたのだ、普段ならシカトするかシカトする所だが、問題は背中にへばり付いているちっこいのだ。
親から愛されていたのがわかる、後生大事に被っているコサック帽と赤いファーコート、おかげで腰元まで伸びたプラチナブロンドが望遠鏡の中でも映えている。
個人の都合で他国に戦争を吹っ掛けたクソみたいな大統領のせいで世間では胡散臭いだの嘘っぱちだのという評価を不動にした合衆国の正義だが、それでも疑問の余地のない正義が一つだけある。
罪のない子供を見捨てる事は悪に値するのだ。
少なくともこの場において、それは事実だった。
※
廊下の向こうを見ると、半透明の何かが扉二つを隔てた部屋から扉を突き破っていた。後から聞くと暗闇の監禁生活は長くても数週間ぐらいだったらしいが、そこから出たタマラは歩くのもやっとの有様だった。
廊下に突き出た半透明が暴れるように蠢いた、ぶち破られた扉を中心に、壁にヒビが入る。すごい力で手を引かれてその場にコケかけたタマラの体を少年は掬い上げ、おんぶすると廊下を何も背負ってないような速度で走り始めた。
あちこちで爆発の音と震動する建物に疑問を感じるもクソもない。タマラは必死で少年にしがみつく。角をいくつも曲がり、階段を一つ駆け上た。時折見かけた迷彩服の兵士は明らかにパニック状態で、二人よりも建物を崩すように暴れるヒューマノイドの先っちょに向けて構えたAK47をジャムらせては叩いてる。
触手のように伸びた半透明が軽く払われた。兵士が真っ二つになる現在進行式は隣のおじさんの上半身より現実味がなかった。あちこちに開いた穴の一つから二人は飛び出し、ラジオ放送だけが残った警備室を通り抜けて実験都市百七十八号の外へ出る。
施設とは別の方向からエンジンの音がしたのはその時だった。
白い迷彩服のゴーグルを乗っけた白いスノーモービル、分厚いパウダースノーをものともせずに突っ走ってくる、タマラをおんぶした少年の背中が一斉に緊張するが、スノーモービルは横にターンしながら二人の前で急停止。
迷彩服のゴーグルが叫んだ。
「乗れ!」
少年はスノーモービルを睨みつけている。ぶんどるか相乗りするか考えているのがタマラでもわかった。
「話は後だ、死にたいのか!?」
背後で建物が完全に崩れる音にタマラは思わず振り返る。黒目のない、白濁した二つの目が三人を向いていた。ひっ、と締め付けられたような声が喉から漏れ、衰弱した小さな体のどこからそんな力が出たのか両腕が少年の首を締め付ける。
瞬間、脳みそが片方に偏るかと思った。
背負ったタマラをかばうように、目にも止まらない後ろ回し蹴り、背後から長く伸びてきた触手を蹴り飛ばす。その勢いで赤いコートの小さな体は迷彩服の後ろに乗っけられ、少年がタマラを前後で挟むように跨る。
「頼んだ」
銃弾どころか戦車砲も受け付けず、大人一人を引きちぎるようなヒューマノイドの触手を生身のガキが文字通り一蹴した――あまりの事態に呆然としていた迷彩服だが、その一言で我に返る、体重をかけてスノーモービルを回し、スロットルを底まで捻る。
「おい黒いの! そのガキ落とすなよ! 安全運転でかっ飛ばすぜ!」
再び振るわれた触手が分厚い雪を薙ぎ払った、雪の底に地雷でも埋め込まれていたような白い爆発を背に、スノーモービルはどこまでも走って行く。
死が急速に遠ざかって行く。
かつてのように振り返っても少年の胸板しか見えないので、タマラは上を見上げ、思わず口をあんぐりと開く。
青かった。
空が。