戦いの痕
「次の襲撃に向けて、ゆっくり休んでくれ」
そう言って、キーツはイチの肩に手を伸ばしかけた。しかし、いつものようにそれは少女の細い肩に届くことなく途中で止まる。この少女を拾って以来、彼女に触れたことはない。
キーツ自身、何故彼女に触れることができないのかよく解らなかった。
自分で拾ったものを、恐れているのだろうか。
この身の奥底にある、隠しておきたい全ての事を暴かれてしまうことを…?
キーツの中のお馴染みの戸惑いをよそに、イチはこれまたいつもどおりに短い返事で彼の言葉に従った。
視線を逸らした瞬間にキーツの存在を忘れてしまったかのように、イチは扉の中に姿を消す。
ここで少女が最後に視線を合わせたりでもしたら、また何かが変わるのかもしれない。そうは思っても、キーツには少女にそうさせる為の手段など考え付かなかった。
ほんの数秒、イチと自分を隔てる扉を見つめた後、キーツは今回の首尾を王に報告する為、通信室へと向かう。
あの少女のことでは彼が全権を任されていた。ということは、即ち、現在の軍事力の殆どが彼の手に握られていると言ってもよい。少なくとも、一個中隊ぐらいでは彼女の相手にはならないのだ。現に、彼女独りでバルディアの特殊部隊をいとも簡単に壊滅させてしまったのだから。
廊下で擦れ違う人々は、誰もがキーツに敬礼を向けた。五年前の下っ端兵士の身分では決して味わうことのできなかったものだ。
あの少女を見つけた時に予感したとおりのものを、今、彼は手にしていた。
裕福な暮らし。皆から払われる敬意。
そして──
王直々の言葉。
これも、イチのお陰で手に入れたものの一つだ。
一際警戒厳重な扉が、王の元へ直通の通信回路のある部屋だった。ごく限られた者しか持つことのできないIDカードでのみ、それは開かれる。
足を踏み入れた室内には、キーツの他には誰もいなかった。
スクリーンを前に、キーツの指はコントロールパネルを叩く。
数秒の画面の乱れの後に、通信が繋がった。
「陛下」
画面に映し出されたその人は、冷ややかな眼差しをキーツに注いでいる。どんな時でも彼のその表情が変わることはなかった。
「反乱軍の撃退は成功しました。再び公然と戦いを仕掛けてくるだけの兵力は、もう奴らには残っていないでしょう」
「あの娘の働きは素晴らしいな」
「は、確かに。今回もあまりに圧倒的でした」
「まあ、そうであろうな。バルディアの特殊部隊も歯が立たなかった者に、寄せ集めの軍隊が敵う筈がない」
薄く笑みを浮かべて王はそう言った。その笑み一つで、キーツのような小物は圧倒される。
「反乱を企てる者はもう現れないでしょう。今回のことで、イチの話は更に広まる筈です。彼女がいる限り、陛下に良からぬ考えを抱こうという者は存在しなくなることでしょう」
我が手柄のように胸を張るキーツを、王はしばし眺めてから口を開いた。
「まあ、そうかもしれんがな。取り敢えず、明日、こちらに戻れ。敵がどういう行動を取るのか、様子を見ようではないか」
「は、仰せのとおりに」
さっと腰を折ったキーツの前で、通信は一方的に打ち切られる。
頭を下げたままの格好で、キーツは王の最後の言葉に何か引っ掛かるものを感じる。まるで反乱者どもが再び何か行動を起こすことを期待しているような、そんな響きが、王の声には含まれている感じがしたのだ。
「まさか、な」
そう呟いて、キーツは顔を上げる。スクリーンに残っているのは砂嵐だけだった。
*
通信を切り、王は深く椅子に身を任せ、目を閉じた。
リオン・a・レーヴ。
滑稽なほど真っ直ぐな男。
国内でも屈指の家柄に生まれ、小奇麗な都だけを見て育った、こども。
そのこどもが、ある日突然現実を見せられ、何かに目覚めた。
かつて王の側近くに仕え、この身を護る為なら命すら惜しまなかったあの男が彼の下を離れてから、すでに一年程が過ぎていた。
「あなたのやり方は間違っています」
去り際の言葉は、確かこうだった。
雲上の存在ともいえるだろう彼を臆することなく真っ直ぐに見返し、まだ少年の域を出たばかりの潔癖さで、言い放った。
「まったく、何を仕出かすのかと思えば……」
王は呟き、薄く微笑む。
彼の記憶するリオン・a・レーヴのままであるならば、この程度の敗北では決して諦めることはないだろう。必ず、もう一度彼の前に立つことがある筈だ。
離反したあの男を、王は疎んじてはいない。いや、むしろ、好意を抱いていると言ってもよいかもしれない。彼は、自分にはない――持つことを許されない青さを、若さゆえの愚かさだと笑い飛ばすことができなかった。
一年間。
一年間、ままならない現実を目の当たりにしてきたはずだ。
それでもなお、こうやって己の主張を突き付けてくる――一年前と変わらずに。
「それとも、多少は成長したのかな、お前は」
遠く離れた地で己の無力さに打ちひしがれているであろう男に向けて、王は囁く。
「一人一人は、確かにお前が信じるものを持っているのかもしれない。しかし、群衆は愚かなものだよ」
青臭い、男。だが、決して不快ではない。
果たして彼は、この王の元まで辿り着けるのか。
それを予想するのは、いっそ愉快ですらあった。
瞑目した王の耳に、控えめに扉を叩く音が届く。
「入れ」
王の声に応じて姿を現した侍従は、隣国ザヤルツクからの使者が謁見を求めていることを告げる。用件は、聞かずとも判った。
ザヤルツクは、この秋も不作だった。そして、ザヤルツクの隣国で他国に援助ができるほどの蓄えがあるのは、ここグレイステンだけである。
「また、か。我が国の蓄えは、我が民の為のものなのだがな」
穏やかな声でゆっくりと身を起こした王に、侍従は深々と頭を下げた。
前回のザヤルツクからの使者の訪問から、まだ三ヶ月ほどしか過ぎていない。王の口から物憂げな息が小さく漏れたのを、侍従は確かに聞き取った。
*
キャンプは惨憺たるものだった。逸早く少女の攻撃に気付いた四人を除いて、無傷な者はいないと言ってよい。だが、それにもまして無残なものは、士気の衰えである。
五十名ほどいた傭兵たちの実に四分の三は逃亡、また、リオンに命を預けると誓った者も、流石に逃亡した者はいないとはいえ、戦いに出られるほど傷の軽い者は十二名中皆無だった。
「随分人が減っちまったもんだな」
明かりと獣除けを兼ねて燃やされている篝火をぼんやりと眺めていた省吾の隣に、酒瓶を持った勁捷が腰を下ろす。
省吾はチラリと視線を走らせたが、すぐにまた炎へと目を戻した。
全く変わらぬ少年の様子に、勁捷は訊ねようとしたことを再び呑み込んでしまう。
「何だ?」
酸欠の金魚よろしく口をパクパクさせるむさ苦しい男に、省吾は視線をそのままに問う。
まさか省吾の方から会話を促してこようとは思わず、勁捷は気まずそうに二、三度咳払いをしてからようやく喉に引っ掛かっていたものを吐き出した。
「お前、何だって『あの時』泣いたりしたんだ? ブルッちまったわけでもないようだしな」
問われた省吾は炎から目を離さない。返答までに時間を要したのは、考えていた為なのだろう。しかし、その返事はいささか拍子抜けするものだった。
「……判らない」
「判らんって、お前……」
お粗末な返事に、勁捷は省吾に振り向く。だが、その答えを選んだ本人が、誰よりも途方に暮れているようだった。
「判らない。ただ──」省吾は胸元を掴み「ここが、苦しくなったんだ。あの子を見た時」
炎を見つめたままのその横顔は頼り無さそうであり、また、不思議と大人びているようでもあった。
勁捷は思わず頭を抱えたくなる。
――もしかして、これは、誰もが一度はかかるという、あれか……?
「よりにもよって、あんな厄介なのを……」
「どういう意味だ?」
「ああ、いや、お前も一つ大人になったのねってことだよ」
一人で納得している勁捷に、省吾は納得がいかない。不満を顔中に表していた。
「まあまあ。それより、お前これからどうするんだ?」
答えは予想できたが、一応勁捷はそう訊いてみる。
そして、省吾はと言えば。
「あの子に、もう一度会う」
思った通りの返事に、勁捷はがくりと肩を落とした。
「やっぱり、そうくるか。だが、会わせてくれ、で会える相手じゃねぇぞ?」
「リオンと行く」
「それは名案かもね」
勁捷は、駄目だこりゃ、と言わんばかりにグルリと目を回す。
確かに俺も初めての時はのぼせたもんだがな、と勁捷はかれこれ二十年ほど前を思い返して溜め息を吐く。もっとも、彼の場合は省吾より少なくとも五年は早かったが。
「しょうがねぇな、俺も行ってやるよ」
「別に頼んでない」
「いいじゃねぇか、俺が行きてぇんだよ」
省吾の背中を手の平で三回叩き、勁捷は持っていた酒瓶をぐいと差し出す。省吾は少々むせながら片眉をひそめ、それでも酒瓶を受け取った。
「呑んだら大将んとこへ行こうぜ。どうせなら貰うもんは貰った方がいいからな」
大雑把なわりに妙にせこい勁捷の言い分に、省吾は、呆れたような感心したような何とも複雑な顔をする。珍しく見せた仏頂面以外のその顔を、勁捷が面白そうに横目で見た。
「なぁ、ショウ。食う、寝る以外のことがあるってのも、いいもんだろ?」
ニヤニヤと、満面に浮かべた勁捷の笑い。一人で何でも解っているようなそれに、省吾はいささか居心地の悪い思いをする。彼は、この広い世界に飛び込んで以来初めて、自分がこの上なく無知なような気にさせられていた。