このきもちは…
後日譚、三話目。
小夜、ちょっと成長しました。
小夜は野菜を洗う手をふと止めて、視線を上げた。
見つめる先にいるのは、省吾と――ミヤだ。
小夜と省吾がこの村に落ち着いて、そろそろ一年ほどになる。小夜もずいぶんと人に慣れ、今では六十名ほどのこの村の住人のことも、全て頭に入っていた。ミヤは、省吾よりも一つ、二つ年上で、村一番の美人らしい。最近、省吾の周りでよく彼女を見かけるようになっていた。今も、二人のやり取りが小夜のいる井戸の辺りまで聞こえてくる。
「ねえ、省吾ぉ。今度、あたしの部屋においでよ」
「なんで」
「なんでって、そりゃぁ……」
続く忍び笑い。
それを聞いて、小夜の胸の中には、何かがモヤモヤと込み上げてくる。何なのか解らないけれど、胸を掻き毟りたくなるような、大きな声をあげたくなるような、とにかく、イヤな感じのものだ。
見ていたらイヤな気持ちになるのに、小夜は見ないではいられない。
手が動いていない彼女に気付いて、井戸の周りで一緒に夕飯のための食材を洗っていたサランが同じ方向を見やり、苦笑した。
「ミヤ、またやってるんだ。ムダなんだから、止めときゃいいのに。省吾はあんたのことしか目に入っていないからねぇ」
訳知り顔で首を振るサランに、小夜は首を傾げる。
「やってるって、何を?」
「そりゃぁ……ああ、あんたには、まだ早いか」
「? 省吾は、『わからないことは、教えてもらえ』って」
そう言って、小夜はジッとサランを見つめた。
深紅の眼差しを真っ直ぐに向けられて、サランは口ごもる。
「だけど、ねぇ。なんか、あんたに『そういうこと』教えるのは……」
「『そういうこと』?」
小夜には、抽象的なことは、あまりよく解らない。曖昧なことを言われても、何のことなのか、さっぱりだった。けれども、解らないことを解らないままにはしておきたくない。言われることだけを聞いていたかつての彼女とは、違う。省吾と出会って色々なことを知り、知れば知るほど、もっと知りたくなっていくのだ。
小夜のひたむきな視線を注がれて、サランはそれでもしばらく迷ったが、やがて力強く頷いた。
「そうだね、あんたも女の子だもんね。知っておかなきゃだよね」
サランはそう言うと、もったいぶって咳払いをする。
「ミヤはね、省吾に気があるんだよ」
「気がある?」
――空『気』がある?
さっぱり、解らない。
サランは微妙に変化した小夜の表情を見て、彼女の頭の中には疑問符しか浮かんでいないことを察する。
「好きだってことだよ」
「わたしも、省吾のことが好き」
小夜の率直な答えに、サランは声を出して笑う。
「そうだね。でも、あんたの『好き』とミヤの『好き』は、多分違うよ」
「ちがう『好き』があるの?」
『好き』は『好き』ではないのだろうか。
小夜は省吾のことが大好きだし、ロイのことも好きだし、このサランのことも好きだ。他にも、たくさんいる――たくさんに、増えた。
「ミヤの『好き』はね、省吾と子どもを作ってもいいかなっていう『好き』さ。多分、まだ、そんなにしっかりした気持ちじゃないだろうけどね。ま、一回ぐらいはやってみてもいいかなぁ、とか、その程度じゃないのかね」
「なにを『やる』の?」
「んー、ああ、それはもうちょっと成長してからね」
そう言うと、サランは二カッと笑って、濡れた手のままワシャワシャと小夜の頭を撫でた。
肝心なところをごまかされて、小夜の疑問は不完全燃焼のままだ。
サランの考えを読むことは、小夜にとっては造作もないことだ。けれど、やらない。彼女のその力は、本来、使う必要のないものなのだ。代わりに、言葉を使ってどんどん『訊く』ことを覚えた。
小夜は、更に訊く。
「わたしの『好き』と、ミヤの『好き』は、違うの?」
小夜のその問いに、サランは口を閉じて、マジマジと小夜の頭からつま先までを舐めるように見やる。そして、ボソボソと口の中で呟いた。
「う~ん。まあ、今のあんたじゃ、あの子も『その気』にはならないよねぇ……」
その言葉がうまく聞き取れなくて、小夜は眉根を寄せる。
「サラン?」
「ん? ああ。そうだねぇ、もうちょっとあんたが成長した時、省吾があんたに対して『したいな』と思ったことをイヤだと思わなかったら、ソレは『ミヤと同じ好き』ってことかな」
「省吾のことをイヤだなんて、思わない」
即答した小夜に、サランは目を細める。
「そうかな。うん、そうかもねぇ。女の子の方が、早く大人になるもんね。第一、あんたが早く育ってやらないと、省吾もつらいよねぇ」
そう言って、もう一度小夜の頭を撫でる。そして、パン、と両手を鳴らした。
「さあ、おしゃべりはここまで。早くやること終わらせないと!」
サランは野菜を手に取り、再び洗い始める。
なんだか、曖昧な言い方ばかりだった。小夜は理解しようと頭を絞るが、さっぱり解らない。結局、疑問は増えただけのような気がした。
――『好き』って、なんなんだろう。
一緒にいたいと思うのが、『好き』だということなのだと思っていた。でも、どうやらそれだけではないらしい。
色々なことを、知っても知っても、また次の解らないことが出てくる。
小夜は一度地面に視線を落とし、それから、野菜を水に浸けた。
そして、ふと思う。
――ミヤのことは、ちょっと、キライ……?
今まで、誰かを『嫌い』と思ったことがなかったので、よく判らない。
けれども、省吾の傍にはいて欲しくないな、と。
何故か、小夜はそう感じ――そんな自分に、戸惑った。
*
最近、イヤにミヤがくっついてくる。
あんまり密着されると、正直、ちょっと困る。
省吾は何とかミヤを振り切り、家へと向かっていた。彼女の所為で少し遅くなってしまったから、小夜も彼の帰りを待っているだろう。
「よお、省吾。帰るのか?」
家路を急ぐ省吾に陽気に声をかけてきたのは、ダンだ。省吾のガタイもかなりいい方だが、ダンも負けず劣らずがっしりしている。二十歳かそこらになったくらいで、年も近いことから割りと親しくしている相手だった。
「ああ」
簡潔に答えた省吾の肩に、ダンはニヤニヤしながら腕をまわしてくる。
「なんだ?」
「いや、省吾、お前さぁ、最近、ミヤとよく一緒にいるじゃんかよ?」
省吾も、男の集団で育ってきたのだ。この話の流れが何処に向かうのかは、容易に予測できる。言葉は少なく、慎重に反応する。
「……ああ」
「それでさ、どうなんだよ?」
「どうって?」
「決まってんだろ? ……ヤッたのか?」
――やっぱりな。
内心で、省吾は溜息をつく。
「ヤッてねぇよ」
「おいおい、その気はねぇの? あんな美人で、あの身体だぞ? ムラムラくるだろ?」
それは、否定しない。だが、だからといって、手を出す気はさらさらなかった。
言外の省吾の答えを感じ取り、ダンが目を丸くする。
「おいおい、お前も男だろ? あんだけコナかけられて、何とも感じないのか?」
「感じるけど、やらねぇよ」
省吾はすっぱり切り返す。そんな彼に、ダンは目を丸くして呆れたような声を出した。
「ちょっと、待てよ。まさか、小夜がいるからか? お前があの子にぞっこんなのはわかってるが、それとこれとは別だろ? ……まさか、もう、手を出してるのか? ――いてぇッ!」
最後の悲鳴は、省吾の裏拳が鼻面に入った為である。
「……すまん」
鼻血を押さえながら、それでもダンがもごもごと呟く。
「でもな、我慢はよくないぞ、我慢は」
「我慢なんてしてねぇよ」
それは、本心だった。省吾は小夜のことが大事だ。傷一つつけることなく、守ってやりたいと思う。この気持ちは、彼女に出会った時から少しも変わらない。まだまだ子どもな小夜に対して、『そんな』欲求など、浮かぶべくもなかった。
全く揺らがない眼差しの省吾に、ダンは呆れたような、感心したような――うらやむような、複雑な色をした目を向ける。彼も『あの戦い』に参加した一人だった。かつての省吾を知っているし、何故、あの時省吾が戦おうとしたのかも知っている。
「お前は、ホントに変わらないな……」
苦笑と共にそう言ったダンに、省吾は肩を竦める。彼からしてみたら、これはなんら特別なことではない、普通のことだった。むしろ、身体のつながりだけと割り切れる他の男たちの気持ちの方が、解らない。省吾は、小夜の愛情も、信頼も、全てを手に入れたかったから。
「ま、お前はそのままでいってくれや」
そうして、背中を叩かれる。言われるまでもないことだったが、省吾は黙って頷いた。ダンはヘラッと笑って手を振ると、自宅のほうに向かって歩いていく。
省吾はその後姿を目で追いつつ、小夜の待つ家へと足を速めた。
*
小夜は、凄まじい勢いで食事を口に運んでいく省吾をしげしげと見つめる。
省吾は小夜の三倍は食べるので、明らかに消費速度が違っていても、食事を終える時間は大体一緒になる。けれども、今日の彼女の手は止まりがちで、省吾が食べ終わろうとしている時も、まだ三分の一ほどが残っていた。
それに気付いた省吾が、ふと手を止める。
「どうした、小夜? 食欲ないのか?」
そう言いながら伸ばされた手が、小夜の額に触れた。そこからは、いつもと同じようにじんわりと何か温かなものが彼女の中に染み込んでくる。思わず頬を緩めると、釣られたように省吾の口元も綻びた。
「何だ?」
省吾が、そう訊いてくる。出会った時よりも、随分低くて太い声になってしまったけれど、耳に届く心地良さは変わらない。
省吾だったら、あの疑問の答えを教えてくれるだろうか。
小夜は首を傾げる。省吾も知らないことがたくさんあるみたいだけど、彼女が投げる問いには一生懸命に答えようとしてくれる。サランが教えてくれなかった事も、省吾なら答えをくれるかもしれない。
「省吾は、わたしのことが好き?」
そう訊いた途端に、何故か省吾は固まった。しばらくそのままでいて、ようやくきしんだような声で答えてくれる。
「ああ……好き、だよ」
その答えは、初めから判っていた。多分、次の質問も、答えは小夜の思っているとおりだろう。
「じゃあ、ロイのことは好き?」
そう訊くと、省吾は怪訝な顔をした。が、やっぱり小夜の予想通りに答える。
「ああ、好きだ」
解らないのは、次の質問なのだ。
「じゃあ、『わたしを好き』と『ロイを好き』は、どう違うの?」
「は?」
省吾が、また、固まった。
「同じなの?」
「まさか!」
「どう違うの?」
小夜が畳み掛けると、省吾はグッと息を呑んだ。顔がちょっと赤いけれど、怒っているのだろうか。でも、『怒り』のような強い感情を抱いているなら、思考を読もうとしなくても何かは伝わってくる筈だった。
「省吾?」
目を覗き込むと、フイと視線を逸らされる。
なんだか、おかしい。サランは簡単そうに言っていたけれど、そんなに難しい質問なのだろうか。
小夜は何かの助けになれば、と、とりあえず思いつくままを口にした。
「わたしも、省吾もロイも好き。サランとかも。サランは、『好き』に色々あると言うのだけど、わたしには何が違うのかが解らない。省吾も、解らない?」
小夜にしたら、精一杯の言葉を尽くしたつもりだった。
だが。
省吾は、まさに氷の彫像のように固まりきっている。
「……省吾?」
なんだか、衝撃を与えたらバラバラに砕け散ってしまいそうで、小夜は、そっと声を掛けた。と、唐突に、省吾が立ち上がる。
「ごめん、もう寝る」
ガタン、と大きな音を立てて椅子から立ち上がり、それだけ言うと、食事が残っているのに、フラフラと行ってしまう――『寝る』といったにも拘らず、家の外へ。
引き止めようにも引き止められず、追いかけようにも追いかけられず。小夜は、身じろぎ一つできずに、省吾が閉ざしていった扉を見つめ続けた。もしかしたら、すぐに戻ってきてくれるのではないかと、期待して。
けれども、省吾の気配はどんどん離れていくばかりだった。
――わたし、何か間違えた……?
あんな省吾は、一緒に過ごすようになってから、初めて見た。
手を上げて、先ほどまで省吾が触れていた額に、当てる。さっきまで温かく感じていたそこが、今はとても冷たい。
彼に対して何か言わなければいけないとは思ったけれど、その『何か』が何なのかが判らず、小夜は椅子から立ち上がることができなかった。
*
結局、その夜、省吾は帰ってこなかった。
気配は近いから、置いていかれたわけではないことは判っている――省吾が小夜を置き去りにするなんて、絶対にない。それが判っているから、ただひたすら待ってみたのだけれど。
自分が何かを間違えてしまったことは、確かなのだろう。でも、何がいけなかったのか。
一晩考えても、小夜には答えを出せなかった。
誰だったら教えてくれるだろうかと考えると、思い浮かぶのは、やっぱり一人しかいない。
省吾のために用意した朝食はそのままに、小夜は家を出る。まだ早い時間のためか、誰とも会うことがない。
向かった先の家の戸を叩くと、いつもと変わらぬ声が返事をしてくれた。
「おはよう、小夜」
鍵の掛かっていない扉を開けて中に入った小夜を迎えたのは、穏やかな笑みを浮かべたロイである。彼の笑顔に、不安と心細さだけがあった胸の中に、ポッと温かいものが灯った。
長椅子に座って手作業をしている彼の隣に腰を下ろすと、小夜はその膝の上に頭を転がす。
「どうした?」
いつもの小夜と違う様子に気付いたのか、ロイは手にしていた道具を置いた。そして、そっと彼女の頭を撫でてくれる。彼の、いつも変わらぬ物静かさは、混乱した小夜の頭の中を徐々に鎮めていく。
「わたし、省吾を傷付けた」
「小夜が? 何をしたんだ?」
ロイの声は、疑問の他に、微かな驚きを含んでいた。
「判らない。でも、昨日、省吾はうちに帰ってこなかった」
「おやおや……」
「……わたし、何をしたんだろう。ロイなら、判る?」
小夜は、横向きから頭をクルリと回し、真っ直ぐにロイを見上げる。その視線を受けて、彼は微笑んだ。
「まずは、何があったのかを話してもらわないとな」
少し考えて、小夜は昨晩の省吾とのやり取りを、一言一句違えずにそらんじる。こうやって振り返ってみても、何故省吾が行ってしまったのか、やっぱり判らなかった。
一通り聞き終わったロイは、クスクスと笑いながら、困ったような顔をする。
「そうだなぁ……省吾の気持ちも、解らないでもない」
「わたしは、何をしたの?」
ロイが、小夜の紅い瞳を優しく覗き込む。
「小夜は、省吾が好きかい?」
「好き」
迷いなく即答する。
「私のことは? 好きかい?」
これにも、コクリと頷く。
「じゃあ、省吾と私が喧嘩して、省吾がこの村を出て行く、と言ったら、どうする?」
「省吾とロイが喧嘩するなんて、ないよ」
「たとえば、の話だよ。……どうする? この村に残る? 省吾と一緒に出て行く?」
そんなこと、考えるまでもなかった。
「省吾と行く」
小夜のその返事を聞いて、ロイはニッコリと笑みを深くした。
「ソレを、省吾に言ってあげたらいいんだよ」
「ソレ?」
「省吾が一番だっていうことさ。省吾は『特別』なんだってね」
そんな当たり前のことを言うだけでいいのだろうかと、小夜は半信半疑で頷く。省吾が『特別』だなんて、わざわざ口にする必要はないのに。
怪訝な顔をしている小夜の頭を、ロイがポンポンと叩く。
「解っている筈のことでも、たまには言葉にして伝えるのは大事なことだよ。解っていても、はっきりと伝えてもらえると、もっと嬉しいものなんだ。言葉というのは、そのためにあるんだよ。時にはそれで傷つけてしまうがな、ちゃんと使えば、大事な人を喜ばせることができるものなんだ」
ロイの穏やかな声は、ゆっくりと小夜の中に染み込んでいく。
『嬉しい』というのは、とても気持ちがいいものだ。
省吾は、いつもたくさんの『嬉しい』を小夜にくれる。小夜からも省吾に『嬉しい』をあげられたら、もっと『嬉しく』なるのに違いない。
そう思うと、居ても立っても居られなくなった。小夜はムクリと身体を起こす。
「省吾のところに行ってくる」
「ああ」
気もそぞろになった小夜を、ロイは楽しげに見上げる。
「早く行っておやり」
彼のその言葉に背中を押されるように、小夜はロイの家を後にした。
*
省吾は、村の外れの一角で、まんじりともせずに夜を明かしていた。岩に腰掛け、月の輝きが現われて消えていくのをただ見つめ、今は、東の空が白み、天全体が明るくなっていくのを眺めている。
――昨夜の小夜の言葉は、どういう意味だったのだろうか。
単に、細かな機微が判っていないだけなのだと思いたい。
だが、本当に、小夜にとっては、省吾もロイやその他の人間も全て同列だったら……?
旅の間、省吾にしか懐かなかったのは、単に、他にいなかったからというだけだったのか。この村に落ち着いて、他の人間とそれなりに関わるようになって、彼らも同じように『好き』になったのだろうか。
――俺は、小夜にとって『特別』ではない?
頭に浮かんだその一文に、省吾は思考が停止する。
衝撃のあまりに茫然自失の態だった省吾は、その気配に気付くのが遅れた。
「しょ・う・ご!」
唐突に名前を呼ばれて振り返りかけた彼の顔は、声の持ち主を視認する前に、柔らかく温かな二つの塊に押し付けられた。
「こんな時間に、こんなところで何してるの?」
弾むような、明るく艶やかな声――ミヤだ。そう訊きながら、彼女は省吾の頭をグイグイと抱き締めてくる。
このままではその胸で窒息させられそうで、省吾は彼女の両肩を掴むと、極力丁寧に押し退けた。
「おはよう、省吾」
「……おはよう」
省吾は立ち上がりながら応える。そんな彼を見ながら、ミヤは眉をひそめた。
「なんか、あった?」
女の勘の鋭さに、省吾は一瞬顎を引く。が、すぐに目を逸らして答えた。
「なんもねぇよ」
しかし、ミヤは引き下がらない。
「ウソ! ……小夜? あの子のコト?」
ミヤの頭の天辺は、せいぜい省吾の顎の下あたりだ。その位置から、彼女はすくい上げるように見つめてくる。省吾の口は開かれなかったが、その目は心中を雄弁に語っていた。ミヤが、呆れたように溜息をつく。
「もう、だから、あたしにしときなさいって。別に、夫婦になろうなんて言ってないじゃない。あの子が育つまででもいいのよ? タメシにヤッてみるだけでもいいし」
「……」
「ねぇ? 興味は、あるんでしょう?」
ミヤの手が省吾の胸に触れる。
彼女の匂い立つような艶やかさに、何も感じないと言ったら嘘になる。だが、それでも、省吾は、『何か』を得るなら小夜と一緒がいい――小夜でなければ、イヤなのだ。こうやって別の手段を与えられて、改めて自分の気持ちを実感する。
自分の胸に添えられたミヤの両手を掴み、そっと離す。そして、思ったままを口にした。
「ミヤ、俺はやっぱり小夜がいい。あいつがどんなふうに俺のことを想っているのか、判らなくなる時もあるけど、俺は、あいつが大事なんだ」
そう、省吾の中の第一前提は、それなのだ。
段々と小夜が変わっていくから、省吾も彼女からの『見返り』を求めてしまう。もっともっと、自分のことを想って欲しいと思ってしまうのだ。
けれども、重要なのは、小夜が省吾をどう想っているかではない。省吾が小夜をどう想っているか、だ。
今度は揺らぎなく真っ直ぐに見下ろしながらそう言うと、ミヤは一瞬目を丸くし、そして微笑んだ。
「あんたってば。ちょっと憎たらしいけど、羨ましいわ」
彼女は手を伸ばし、省吾の頬に触れる。
「あんたの気持ちに、早くあの子が追い付いてくれるといいわね。まあ、我慢できなくなったら、声を掛けてみてよ。その時、あたしに相手がいなければ、面倒見てあげるわよ?」
ミヤの笑みに釣られて、省吾も頬を緩める。
と、不意に。
「省吾!?」
省吾の全身が、不可視の力によって引っ張られた。まるで、空気全体に掴まれて、引きずられていくようだ。
思わず伸ばしたミヤの手もまた、見えない壁に阻まれる。
「省吾に、触らないで」
響いたのは、まだ子どもらしさの残る声。
省吾とミヤは、ほぼ同時にその方向へと顔を向ける。二人の視線の先にいたのは、深紅の瞳をした少女だった。
「小夜……」
彼女はタタッと省吾に走り寄ると、その身体にしがみついた。そして、顔だけでミヤを振り返る。
「ミヤが省吾に触るのが、イヤ」
「え?」
その深紅の眼差しを向けられたミヤが、目を丸くする。小夜が他人に対してそんなふうに何かの意志表示をするのは、初めてだったからだ。
一方、抱きつかれた省吾は。
小夜の言葉を耳にして、彼女に嫌な思いをさせているというのに、何故か嬉しさがこみ上げてくる。思わず、小夜の身体に腕を回して抱き上げた。
小夜が、まるでミヤから隠すように、省吾の頭をギュッと抱き締める。
そんな二人を見て苦笑したのは、ミヤだった。
「なぁんだ。省吾ってば……もう、イヤになるほど判っちゃうじゃない」
そして歩み寄ると、手を伸ばして小夜の頭をクシャクシャと撫でる。
「あんたも、ちゃんと『女』なのね。我慢しなきゃいけない省吾が可哀相かなって思ったけど、まあ、いいか。もうちょっとは待たなきゃだろうけど、そこは男の見せ所よね」
そう言って、人の悪い笑みを浮かべたミヤは、省吾に向けて片目をつぶる。
「悪いけど、『さっきの話』はナシね。あんたが必死で耐える姿を見てみたくなっちゃった」
じゃあね、と手を振ったミヤが立ち去ると、そこにいるのは二人きりになる。
小夜が省吾の頭にしがみついていた腕を解くと、少し身体を離してヒタと見つめてきた。
「何だ?」
紅玉のようなその瞳は、一度向けられると、初めて出会ったときと同じように省吾の心は囚われてしまう。
「わたしは、省吾も、ロイも好き」
「ああ、そうだな」
小夜の精一杯の言葉に、省吾は、ただ頷く。今の彼女には、『自分の気持ちを理解する』ということすら、凄いことなのだろう。何も知らなかった小夜には、大進歩なのだ。
もう一度抱き締めようとしたが、何故か小夜は腕を突っ張ってそれを拒む。
「小夜?」
彼女は、懸命に言葉を探しているようだ。
「……どっちも好きだけど、『嬉しい』と思って欲しいのは、省吾の方。わたしは、省吾に『嬉しい』と思わせたい。そうしたいのは、省吾だけ」
一心に注がれる眼差しに、省吾は即座に答えることはできなかった。そして、ようやく出せたのも、全く気の利かないものだけだ。
「そうか」
省吾は、それだけ口にする――それだけしか、言葉が出なかった。
「これで、伝わった? 省吾は、『嬉しい』?」
「ああ……ああ。伝わったし、嬉しいよ」
――そう、もう、これ以上ないというほどに。
「もう、最高に、嬉しい」
繰り返し伝えて、今度こそ省吾は小夜を抱き締める。彼女の腕が自分の身体にまわされ、そこに込められる力に、幸せを感じながら。