はじめての…
後日譚第一話です。
二人きりの旅が始まってから、間もない頃の、一幕です。
二人の気持ちが変化していく様を書ききれると、いいのですが…。
省吾と小夜が二人きりで旅をするようになって数日経った頃、二人はそこそこの規模を持つ町へと到着した。
ちょうど夕暮れ時だった為か、露店の呼び込みが争うように響き渡り、買い物をする人や家路を急ぐ人などで通りは溢れかえっていた。
小夜は、物心がついて以来、所謂「町」に出るのは初めてだったようだ。一種殺気立ったような雰囲気に怯えたのか、省吾の腕にフルフルと震えながらしがみついていた。毛を逆立てた子猫のようで、ちょっと痛い、と思いつつも、省吾の口元は緩んでしまう。
「ゴメン。もっと小さな町の方が良かったか」
そう言いながら、すっぽりと被らせた長衣越しに、頭を撫でる。小夜の紅い目は人目を引いてしまうので、町に入る前から被らせていた。
その手の下で小さな頭が振られる。
「だいじょうぶ」
そう言うが、省吾の腕を掴む指には更に力が入り、その声も細く、震えている。
省吾は思わず小夜の体を自分の長衣の下に包み込んでしまいたくなったが、さすがに往来でそんな事もできず、何とか堪える。
つい数日前まで、軍という特殊な社会の中で、その強大な能力ゆえに腫れ物に触るように育てられてきた少女である。できたら、もっと田舎の小さな町から、ゆっくりと外の世界に慣れさせていってやりたかったが、いかんせん、手持ちの金が心許なくなっていたのだった。
傭兵の仕事で数年働かなくてもいいくらいには稼いでいたが、旅から旅の生活で大金を持ち歩くわけにもいかず、その金は全て銀行に預けてある。そして銀行は、主要都市にしか存在しない。もともと路銀程度しか持ち歩かず、足りなくなったら日雇いの仕事をしたりしていたのだ。今回の仕事の前に、一人分であれば充分足りる程度に用意していたのだが、急遽道連れになった小夜の分だけ不足していた。
省吾は通りを歩きながらどんな仕事にしようかと思案する。独りだった頃は用心棒であろうが山賊退治であろうが、危険なことでも何でもやった。だが、今は小夜がいる。彼女を置いていかなければならないような仕事なんてもっての外だった。実入りが良くて小夜とも離れずに済む、ということを重視すれば、酒場の用心棒あたりが適しているのだが、小夜を酒場に入れたくないという気持ちもある。
――どうしようかな。
『仕事を選ぶ』など、一人の時には考えた事も無かった。面倒だとは思いつつも、それが小夜のためであれば、苦には感じない。
悩みながらもとりあえず宿を探して歩いていると、少し先の店から勢いよく椅子が飛び出してきた。なにやら怒声も響いてくる。食事処と宿屋を兼ねた店のようだが、どうやら早めの酒が入った客が喧嘩を始めたらしい。
中を覗き込むと二人の酔漢が大暴れをしていた。店の者は中年の女性だけで、どうにも手が付けられないようだ。小奇麗なつくりの店だが、皿やら食べ物やらが散乱している。
ここなら小夜を泊めてもいいかな、という打算もよぎり、省吾は喧嘩の仲裁に入ることを決める。屈みこんで長衣の陰に隠れた小夜の紅い目を覗き込み、しっかりと言い聞かせる。
「小夜、いいか?ここでジッと待っているんだぞ。誰かに声を掛けられても、絶対についていくな。誰かに触られそうになったら、俺を呼べ。力は使うなよ」
コクリと頷く小夜の頭を軽く撫で、省吾は店に入る。
中では女主人が声の限りに二人を止めようとしていたが、全く聞き入れられている様子はなかった。
省吾は言葉での仲裁ははなから諦め、実力行使にでる。手近なテーブルから木の椀を手に取ると、おもむろにそれを男たちに投げる。ちょうど省吾に背を向けていた男の後頭部に、椀は見事に命中した。男はすさまじい形相で振り返り、唾を飛ばす。
「誰だこらぁ!」
血走った目は、完全に理性を失っている。
「おっさん達さぁ、いい年して、人の迷惑考えろよな」
酔っ払いが十四、五歳の少年に呆れたような声で諭され、素直に反省するような事があるわけがない。当然の結果として、男二人は標的を変更して襲い掛かってきた。
「舐めた口をきくんじゃねぇ!」
「くそ餓鬼ぃ!」
溜息をつきつつ省吾は先に到達した男の拳をかわすと、鋭い突きを相手の鳩尾へと叩き込んだ。崩れ落ちた体を瞬時に避け、続くもう一人の背後に回りこむ。トン、と手刀を首筋に当てると、そちらも白目をむいて崩れ落ちた。まだ成長途中の省吾では力勝負や持久戦になったら負けてしまうが、正確に急所を捉えれば腕力の差など問題にならない。
華奢な少年が大男二人を瞬殺する様に呆気に取られている女主人をよそに、省吾は男達を一人ずつ引きずり、路地裏に放り込んだ。両者の懐から、店の修理代としていくばくかの金を抜いておくのも忘れない。あとは、酔いが醒めた彼らが子どもに負けたことを恥じてさっさと姿を消してくれれば、それで万事解決だ。
省吾は、言われたとおりに一歩も動かず、目だけでジッと彼の動きを追っていた小夜の手を取り、店に戻る。女主人はまるきり同じ場所に、立っていた。そんな彼女に男達から入手した金を渡す。
「これ、店の修理代。それと、部屋を借りたいんだけど」
そう言われて、女主人は目が覚めたように数回瞬きをした。
「え、あ、ええ……。あんた、強いのねぇ。ああ、部屋ならあるよ。助かったから、安くするよ。私はここの主人のリンだ」
リンは勘定台の裏に回ると、部屋の鍵を取り出した。それを受け取りながら、省吾は簡単に名乗る。
「俺は省吾、こっちは小夜だ」
「へえ、ニッポン系が二人なんて、珍しいねぇ。ああ、兄妹かい?」
「まあ、そんなところだ」
省吾は曖昧に答えておいて、鍵を受け取った。
「ふぅん。あ、部屋は二階の奥だよ……一部屋でいいんだよね?」
「それでいい。あと、この辺で仕事を斡旋しているところはないか?」
「仕事?」
「ああ。短期間で実入りのいいのか、隊商の護衛なんかがいい」
宿屋には省吾のような者が集まるため、仕事を求める者と人手を求める者との仲介をすることが多い。リンの宿屋も同様で、台帳を取り出すと条件に合うようなものを選び出した。
「期間は結構長くなるかもよ。隊商の護衛だけど、次の目的地は首都らしいから。ちょっと貴重なものを手に入れたから、あと二、三人護衛が欲しいんだってさ。人数が揃い次第出発だって」
大きな隊商だけあって、払いもいい。値引きをエサに交渉したら、小夜も同行することを許可してもらえそうだった。とりあえず、金を使わずに移動できれば充分なので、給金はそれほど高くなくていい。
「それにする。どこに泊まっているんだ?」
「もう少し通りを行ったところにある、この町で一番大きな宿屋だよ」
外はもう夕暮れ時だが、割のいい仕事は引き受け手も多い。早めに連絡を取っておいた方がいいだろう。だが、これ以上小夜を人混みに連れ出すのも忍びない。
そう考え、省吾は小夜を部屋で休ませておいて、その商人に会いに行くことに決めた。
小夜の手を引いて階段をあがる省吾の背中に、リンが声を掛ける。
「夕飯の用意をしておくからね。腕によりをかけるよ!」
省吾はそれに軽く頷いて、部屋に向かった。
※
部屋に入ると、省吾は早速、分厚い小夜の長衣を脱がしてやる。彼女の紅い目はずっと省吾に向けられていたらしく、真っ直ぐに彼を見上げていた。初めて会った時には何も映していなかったその眼差しが、今は確かに省吾に注がれている。
そのことに、胸の中がホンワリと温かくなる。
仔猫が親猫を追うようなその目に見つめられていると、省吾の胸は締め付けられたように苦しくなるのだ。いつものように、両手で彼女の柔らかな栗色の巻き毛を、クシャクシャと撫でてやる。細くて絡まりやすいので、コツが必要だった。省吾はその感触が好きだったが、それよりも、撫でてやると、表情は変わらないままだが、小夜がなんとも嬉しそうな雰囲気になるのだ。
いつまでもこうしていたかったが、仕事の話を付けてこなければならない。
省吾は溜息をついて手を放すと、渋々立ち上がる。腰を屈めて視線を合わせると、しっかりと小夜に言い聞かせた。
「いいか、ちょっと出かけてくるけど、この部屋で待ってるんだぞ?」
いつものようにコクリと頷く小夜の頭をもう一度撫でて、省吾は部屋を出る。厨房で夕食の用意に勤しむリンに一声かけて、隊商の泊まっている宿へと向かった。
※
独り残された小夜は、寝台に横たわり、ゆっくりと目を閉じた。
頭の中に張り巡らせた障壁を取り去ると、様々な感情が押し寄せてくる。
かつて小夜が身を置いていた軍では、基本的には皆自律しており、彼女が近づかない限りは強い感情を発することはなかった。しかし、一度小夜を認識すると、彼らは途端に怯え、狼狽え、そこから放たれる意識は、彼女を切り刻むような鋭さを持っていた。
今、小夜が受け止めているものの中には、確かに怒りや悲しみなども含まれていたが、大半は活気に溢れた、陽性のものだ。省吾から向けられる、日向のような温もりとは異なるが、小夜に心地良さを与えてくれる。
省吾のことを考えたとたん、ふと、心許なくなった。一緒に旅立ってからずっと傍にいたから、姿が見えないと、自分の一部が無くなってしまったように感じる。
気付いてしまうと、急に、省吾のことが気になりだした。
省吾の気配を辿れば容易に見つけられるが、それだけだと物足りない。
むくりと起き上がり、部屋の中をウロウロする。
何度か、部屋の対角線上を往復してみた。けれども、落ち着かない。
扉の手をかけ、開けそうになって、省吾の言葉を思い出す。
扉に触れ、離し。また触れて、離す。
――必ず、省吾は帰ってくる。
それは解っているけれど、今、傍にいないことが耐えられない。
ポロポロと、何かが頬を転げ落ちていった。触れた指先についているのは、透明な液体だ。舐めてみると少ししょっぱい。
これが目から出るのは、二回目だった。
――なんでこんなのが出てくるんだろう?
小夜は不思議に思うが、さっぱり解らない。
しばらく待ってみても、それは止まらなかった。
ついに小夜は扉に手をかけ、押し開ける。
一瞬、出て行き際の省吾の言葉が頭の中をよぎったけれど、それはすぐに消えてしまった。
廊下を歩き、階段を下りる。
省吾の気配を追って宿から出ようとしたところで、後ろから陽気な声がかかった。
「あれ、小夜ちゃん! お兄ちゃんが戻ってくるまで、待ってなくちゃいけないんじゃないの?」
厨房から顔を覗かせたリンが、小夜を真っ直ぐに見つめている。
「ほら、お部屋に戻って。独りが寂しかったら、ここにいてもいいから、外に行ったらダメだよ」
そう言いながら、リンは小夜に近づいてきた。
後数歩のところまで来て、ふと彼女は足を止める。
「おや、まあ――」
そう呟いて、目をぱちくりする。リンの目は、真っ直ぐに小夜の瞳に注がれていた。
小夜は、長衣を被り忘れたことに気づき、切りつけてくる思考に対して身構える。
人はみな、小夜の紅い目を見ると、嫌悪し、怯えるのだ。
だが、リンは――。
「まあ、綺麗な色! 宝石みたいだねぇ。ああ、そうか、その色だから、あんなにすっぽり長衣を被っていたんだね。確かに、その色は目立つもんねぇ。仕事柄、色んな色の人間を見てきたけど、そんなのは初めてだ」
まじまじと瞳を覗き込まれて、小夜はゆっくりと瞬きをする。
リンから向けられる思考は、その言葉と矛盾するところがない。言葉と同じように、ただ、賞賛の温もりだけがあった。
「ああ、ほら。あんたみたいに可愛くて、そんな綺麗な目の色をしていたら、あっという間に連れてかれちまう。お兄ちゃんが悲しむよ、そんなことになったら」
そう言いながらリンは無造作に小夜の手を取り、食堂の椅子に座らせる。
小夜はどんなふうに反応していいか判らず、促されるままに椅子に腰を下ろした。
「あんた、お兄ちゃんのことが大好きなんだねぇ。置いてかれちゃったから、寂しいんだろう? お兄ちゃんもあんたのこと、可愛くて仕方ないみたいじゃないか」
可愛い兄妹だねぇ、とリンが目を細める。
「……寂しい?」
小夜は耳慣れない言葉に、首を傾げる。
――話の流れからすると、自分が今感じている、この気持ちのことだろうか?
無言で考える小夜の頬を、リンがごしごしと前掛けで拭う。
「ああ、泣いちゃったんだね。ほら、顔を拭いて」
ゴワゴワした布は小夜の柔らかな頬には少々痛かったが、彼女はされるがままになっていた。
「あ、そうだ。どうせ、お兄ちゃんが帰ってくるまで、寂しくて独りでいられないんだろう? お兄ちゃんに、ご飯を作ってみないかい? 今日は他に泊り客がいないから、余裕があるんだ」
小夜は、リンが何を言っているのか解らず、きょとんと彼女を見つめる。
「ご飯、作ったことないの?」
『ご飯』というのは『食事』の同義語の筈だ。軍では、食事を作るのは小夜の仕事ではなかった。そういえば、省吾と旅をするようになってからは、省吾が捕ってきた獣を焼いたりしていた。
「だったら、よけい、お兄ちゃん喜ぶよぉ」
――『喜ぶ』とは何だろう?
小夜には解らなかったが、リンの様子を見ていると、何か良いことのようだ。
そう思った小夜は、コクン、と頷く。
「やってみる」
小夜の返事に、リンはさっそく腕まくりをした。
*
商隊との取引を成立させて戻ってきた省吾は、宿から漂ういい匂いに、自分が空腹であることを思い出させられた。
「小夜も腹を空かせてるだろうな……」
そう呟くと、「戻りました」と厨房に声をかけながら部屋に向かう。独りで残していったのは初めてだから、心細い思いをさせてしまったかもしれない、と、自然と足が速まった。
だが、借りた筈の部屋の扉を開け、中を見て、もう一度廊下で部屋の番号を確認し、再度部屋の中に戻る。
探すほどの広さも遮蔽物もない部屋の中には、誰もいなかった。
部屋を飛び出すと、殆ど転がり落ちる勢いで階段を下りる。
その勢いのまま厨房に駆け込もうとして、ひょっこりとそこから出てきた姿に心底安堵した。
「小夜……」
「おかえり」
「ただ……え?」
普通に返事をしようとして、省吾は固まった。小夜から『挨拶』というものを聞いたのは、初めてである。
「……ただいま」
何となく照れくさい――ではなくて!
思わずにやけそうになった省吾は、慌てて気を引き締めた。
「小夜、ダメだろう。部屋から出るなと言っておいたじゃないか」
敢えて口調を強くして、怖い顔を作った。小夜の視線が、斜め下方に向けられる。
「子どもが一人でウロウロしていたら、危ないんだからな?」
項垂れる小夜に、逆に『ゴメン』と言いそうになるが、ぐっと堪えて顔を引き締める。これからもたくさんの事を教えていかないといけないのに、今から甘くしていたら先が続かない。
客観的にみても、小夜の顔立ちは可愛らしい。深紅の瞳も、小さな田舎村なら忌避されるだけだろうが、大きな町ではむしろ変な興味を引きかねない。
「俺の言うことを守らないと、二度と会えなくなるかもしれないんだぞ」
省吾の厳しい声に、益々小さな頭が下を向いていく。
そろそろ、省吾の心も痛み始めたが、彼自身、他人を叱った経験などなく、どこでやめていいものか判断を下しかねる。
と、そこに、第三者の声が仲裁に入った。
「まあまあ、そのぐらいにしておやりよ。お兄ちゃんがいなくて、寂しかったんだよね。それよかさ、夕飯にしようよ」
さあさあさあ、と勢いで押され、そのまま省吾と小夜は食卓についた。
少し気まずい雰囲気が漂っているのを払拭しようと、省吾は小さく咳払いをして話し出す。
「さっき、『おかえり』って言っただろ? どこで知ったんだ? 今まで、挨拶とか聞いたことがなかったのに」
「言葉は知ってた。でも、使い方は知らなかった。そうしたら、リンが、『おかえり』はうれしいって言ったから」
そこまで言って、小夜がじっと省吾を見つめる。
「省吾、『うれしい』?」
直球で訊かれ、省吾はぐっと言葉に詰まった。
「……うれしかった、よ」
かなり照れくさいが、省吾は何とか答える。だが、小夜は彼の返事に押し黙る。
「小夜?」
「『うれしい』って、何?」
省吾は問われ、ハッと息を呑む。
「解らない……知らない、のか?」
小夜はコクリと頷いた。
省吾は言葉で説明することができず、手を食卓の上にのせる。
「触ってみろよ。俺にもよく解らないけど、多分、これが『うれしい』なんだと思う」
小夜は省吾の手をじっと見つめた後、おずおずと手を触れた。
――温かい……それに、ムズムズもする……。
省吾から伝わってくる感覚は、これまで触れたことのないものだった。小夜もそれを表現することはできなかったが、心地良いということは、はっきりと解った。
「これが、『うれしい』……」
「俺も、たくさんのことを知っているわけじゃないけど、一緒に、色々知っていこう」
拳に触れる小夜の手を逆に握り返して、省吾はそう言葉にする。小夜と出会ってから、言葉で表現することが増えた。彼女は触れたら何でも解ってしまうが、できるだけ、言葉として伝えたかったからだ。
「さ、ご飯だよ!」
食卓の上に、リンが勢いよく料理をおろす。
「食べて食べて、たくさんあるからね!」
次から次へと料理が現れるが、その中で、一つだけ、妙に素朴な卵焼きが目を引いた。凝った料理の中で、ある意味、浮いている。
「あ、それ……? 特製品だよ、最初に食べてよ」
省吾の視線に気付いたリンが、イタズラっぽい笑顔を浮かべて薦める。
何か仕込があるのかと思って恐る恐る口にするが、普通に美味しい。
「美味しいかい?」
「え、ああ」
省吾がそう答えると、何故か小夜がぴたりと固まる。
「? 小夜?」
「その卵焼き、実は、小夜ちゃんが作ったんだよ」
「……え?」
「だから、小夜ちゃんが、あんたのために作ったんだってば」
それだけ言うと、リンは次の料理を取りに厨房へ戻っていく。
省吾はその背中を見送って、残りの卵焼きを口にする。とてつもなく、美味しく感じられた。食べ終えると、小夜の手を取る。
「小夜、俺にも確かには言えないけど、多分、これが『嬉しい』だよ」
ギュッと握ると、小夜の頬がほのかに色を帯びた。
省吾は、こんなふうに、小夜が時たま見せるわずかな表情の変化が、とても、好きだ。彼女の中に閉じ込められている色々な顔を導き出すのは自分でありたいと、彼は思うのだった。