暗殺者
密命を受けたゲオルグは、気配を消し、コソリとも物音を立てずに森の中を進んでいた。
慎重ではあるが、歩く速度は平地を行く時とそうは変わらない。もともと、編隊を組んでの行軍よりも、こういった隠密行動の方が得意なのである。
森に入って丸一日経つが、敵も巧妙で、なかなか気配を見せようとしない。
変わらぬ歩みの中、ゲオルグは今回の任務について考えていた。
──なぜ、あんな子供を一人殺すのに、あれ程法外な報酬をぶら下げてみせたのか?
兵士の間でのキーツについての評価は、誰に訊いても同じものが返ってくるだろう。
──化け物の腰巾着、ただそれだけだ。
それ故に今回のこともあの少女絡みであることは間違いない。しかし、いったいどういう絡みなのか、それが全く見当もつかなかった。
「そう言や、今回、初めてアレがしくじったんだったな……それと関係あるってのか?」
ゲオルグは声に出して、そう呟いた。
実のところ、彼には今回の任務に対する疑問があった。誤解の無いように言っておけば、これが王直々の命令であれば、たとえどんなものであろうとも、何一つ迷うことなく従っていたのだ。
しかし、今回の発令者はあくまでもキーツだ。
他の多くの兵士たちと同様に、ゲオルグ・バッシュは、王に対しては絶対的な忠誠を誓っていたが、キーツ・アンドロフ個人に対しては全く従う気はなかった。化け物じみているとは言え、自分の子供とも言える程の小娘の後ろでデカい顔をしている男に、いったいどんな敬意が払えるというのであろうか。
ふと、決めあぐねていたゲオルグの足が止まった。小さく舌打ちをもらす。
「しまった……見つけちまったよ」
まだ遠くはあったが、複数のヒトの気配は間違いようが無かった。
枝振りの良い樹を選んで登り、スコープを取り出した。木々の隙間から、辛うじて個人の判別がつく。どうやら、食事の最中のようであった。倍率を調整しつつ、標的を探す。
いくつかのグループができており、そのうちの一つ、上品そうな青年二人、初老の男一人、体格の良い男一人の中に、痩せた少年の姿があった。
「アレかぁ……どう見ても、ガキだよな。どうしたもんかな」
スコープを覗いたまま、ゲオルグはぼやく。
――この時はまだ、この逡巡が、迷う余地を取り除いてくれることになるとは知るべくもなかった。
*
夕食は、猪の肉だった。丸々と良く肥えた猪は、大所帯を賄っても余る程であった。
「まったく、あんたらといると食事に不自由しなくていいよな。……? どうした、ロイ? 石でも入ってたか?」
勁捷は隣に座っているロイの手が止まったのに気付き、肉を頬張ったまま訊ねる。
「あ、いや……何でもない。ちょっと用足しだ。構わず、食べていてくれ」
そう言いおいて、ロイは立ち上がる。
「何だよ、小便か? 飯の前に行っときゃいいのに」
「まあ、そう言われても、こればかりはいつ来るか判らんからな」
「ま、そりゃそうか。肉は残しといてやるから、ゆっくり行ってきな」
「頼むよ」
片手を挙げてそう言い残し、ロイは茂みの中へ入っていく。
「ああ? 何だよ、あんな奥まで行く事はないだろうに」
姿が見えなくなったロイに、勁捷はそう呟く。
「あんたのように、無神経じゃないんだろ」
突っ込んだ省吾に、勁捷はいかにも心外だ、というふうに目を丸くする。
「俺ほど繊細なやつはいねぇぜ?」
「あんたが繊細なら、熊だって世を儚んで死んじまうよ」
ボソリと返した省吾に、勁捷はわざとらしく大きな溜息を吐いた。
「やっぱ、子供には大人の心遣いってのが解んねぇんだろうなぁ」
──ロイが席を立った後でも、そこでは全く変わらぬ食事風景が繰り広げられていた。
*
「くそ、美味そうだな、あいつら。もういい、やっちまえ」
ゲオルグは、意を決して狙撃銃を袋から取り出し、組み立て始める。これまでにも何度も繰り返してきた作業には、五分とかからなかった。
完成したそれを、肩に担ぎ、照準を覗いた──その時。
「そこまでだな」
突然下から響いた声に、ゲオルグは危うく銃を取り落としそうになった。辛うじてそれはせずに済んだが、下に向けて構えるほどの余裕は無かった。対して、樹下の相手はぴたりとこちらに銃口を向けている。そこに立っているのは、少年のグループにいた、初老の男であった。
「あんた、いったい、いつの間に……」
「すまんな、驚かせたか?」
惚けた言い様だったが、怒ることすらできない。そんな茫然自失のゲオルグに向かって、初老の男──ロイは、穏やかに促した。
「さあ、その銃を下に落として、ゆっくり降りてくるんだ」
*
ロイが連れ帰った男を前に、一同は驚きを隠せなかった。
「あんた、ほんとに何者なんだ?」
「まあ、年の功というやつかな」
飄々としたロイの様子に呆れながらも、勁捷は心底ゾッとする。
ロイ以外の誰も、この狙撃手の存在に気が付かなかったのだ。男が持っていた狙撃銃は、非常に高性能だが、その分値も張るものであり、並の兵には支給されない。これだけの逸品を任されているということは、その腕も相応に信頼されているということだろう。
ロイが阻止しなければ、狙われていた者は、運が良くて重傷──まず間違いなく命がなかったことだろう。
「まあ、無事で良かったってもんだよな。んで、あんた、名前は?」
取り敢えず、勁捷はそう問うたが、答えは期待していなかった。能力があるということは、さぞかし口も堅かろう。
案の定、男は瞑目したまま、唇はピクリともしない。
並の尋問では口を割らないだろう。それなりの手段は必要だろうかと、勁捷が考えあぐねているのをよそに、リオンが男の前に立った。
「貴殿、ゲオルグ・バッシュであろう?」
初めて男が反応した。
「そう言う貴方は──リオン・a・リーヴ!? いったい──」
男──ゲオルグの目が、目前に居る人物が信じられずに目を見張る。
「この『反乱軍』を率いているのが私だと、知らなかったのか?」
「まさか、そんな……貴方は誰よりも陛下に忠誠を尽くされておられた筈。何故このような事に……?」
ゲオルグは、自分の目が信じられないように、何度も首を振る。
「私にも思うところがあるのだ。だが、決して国に背く気持ちはない」
「何をそのような。明らかな反逆ではないですか!」
「確かに、行為はそうかもしれないが、心は違う。私は、陛下にもっと民草の事を見てもらいたいのだ。そして、民草には、もう少し自分たちの境遇に疑問を持ってもらいたいのだ。貴殿は、今の民の暮らしについて、何も思わないのか? 彼らは、生きているのだ。税金を納めるためだけにいるのではない」
「自分は、ただの兵士です。そのような事を考える必要は無い。貴方もそうです。貴方の本分は、陛下をお護りすることではないのですか?」
ゲオルグは頑なに唇を引き結ぶ。
「そうだ。今は陛下に弓引いているかもしれない。だが、これは国を、ひいては陛下をお護りすることになると、私は信じている」
「戯言だ!」
「いいや、聞いてくれ。今のままでは、いつか必ず、民から不満が噴出する。誰か一人が声を上げれば、暴動が起きるだろう」
「そうなったら! そうなったら、我らが叩き潰します。それが我らの責務だ」
「それを何度繰り返すつもりだ?」
「何度でも!」
一歩も讓らない眼差しで、ゲオルグが言い放つ。そんな兵士を、リオンは悲しみと共に見つめる。
「それでは、いずれ国は疲弊するぞ。国の大部分を占めるのは、民草なのだ」
リオンの静かな口調に、ゲオルグは二の句が継げなくなる。
「陛下の為されている事が必要であるということは、今はもう、解っている。だが、陛下は国を治めようとしているあまり、民草一人一人の事を見ようとはされない。彼らもヒトだということを、もう少し考えていただきたいのだ」
リオンの声は、荒立てたものではないからこそ、よく通る。だが、ゲオルグはやはり、王の兵士であった。
「貴方の仰りたい事は解ります。ですが、自分は王の御心に従います」
リオンの眼差しとゲオルグのそれとが、真っ直ぐにぶつかり合う。どちらにも、迷いは一片もなかった。
「そうか……。それはそれで、貴殿の進む道ではあるな」
呟き、リオンは小刀を取り出した。そして、ゲオルグを捕らえていた縄を切る。
「よろしいのですか? 自分を解放すれば、すぐに追討するかもしれませんが」
「構わない。私は逃げも隠れもしない」
真直ぐにそう言い放つリオンを、ゲオルグはどこか眩しそうに見る。
「貴方は、全く……変わらない」
「私は私だ。変わる気はない」
そんなリオンに、ゲオルグは微かに笑みを漏らす。
一区切りが付いたところで、エルネストがふと気付いたようにゲオルグに訊ねた。
「リオン様の事を知らなかったという事は、貴方が狙ったのは誰だったんですか?」
ゲオルグは一瞬ためらったが、元々あまり従う気の無かった命令である。
「そちらの少年です──王からの命ではないと思いますが」
突然、話を振られ、省吾は面食らう。
「いったい何だって、また、省吾殿が?」
一同、皆、訳が解らず首を傾げるのへ、ゲオルグは同じように首を傾げながら続ける。
「恐らく、あの少女絡みだと思うのですが、詳しい事は知りません。命令は、少女の上司から出たものですので」
あくまで、自分の上司ではない事を強調する。
「そう言えば、あの少女も何か少しおかしかったな……。貴方達が砦を襲撃してきた時、自分等が出動したのですが、実のところ、彼女が現れて以来、我々特殊部隊は、殆どお払い箱状態だったんです。我々に与えられるような任務を、彼女はたった独りで、より効率的にこなす事ができていましたから。彼女が出た回数自体がそう多くはないとはいえ、彼女が任務を達成せずに戻ってくるなんて、今まで聞いた事がなかった」
「あの時か……? あの時、あの子は急に逃げて行ったんだ。俺は何もする気は無かった……ただ、近くに行きたかっただけだったのに」
「近くに、か。今まで、あの少女から遠ざかろうとする者はいても、寄って行こうと思う者はいなかったからな。逆にそれにビビったのかもしれん」
「けど、近寄っただけだ。そんなに脅かすような事はしなかった」
ムッツリと、拗ねた様な省吾に、ゲオルグは硬い顔で答える。豪胆な男の顔に、わずかに恐怖が見て取れた。
「あの少女は――人の心を読むのだ。それに、あの力。だから、皆、彼女からできるだけ離れようとする。多分、これまでに彼女が自分に向けられたものとして感じ取った感情は、恐怖だけなのだろうな。少なくとも、欠片でも好意的なものは、向けられた事が無いだろう」
その言葉に誇張が無い事は、ゲオルグの表情を見れば判る。省吾は俯き、唇を噛み締めた。あの子がそんな所にいるなんて、許せなかった。
「絶対に、あの子は貰う。俺が連れて行く」
今はどんなに怖がられていようとも、そんな必要はないのだということを解らせてやる。たとえどれほど時間がかかろうとも、だ。
省吾の決意に、ゲオルグは信じられないというふうに首を振る。
「あれは、まさに『化け物』だ。近くにいれば、嫌でもそれを思い知る。いずれ、怖れ、疎んじるようになるぞ?」
「そんなことは無い。有り得ない」
省吾自身にも、なぜこれほどまでに確信があるのかが解っていない。それでも、あの少女を傷つけることなど、あらゆる意味において、有り得なかった。
固い決意に、省吾は爪が食い込まんばかりに両の拳を握る。
その場に佇む一同は、出会った頃にはただの「子供」であった少年が、このほんの数ヶ月の間に大きく変わりつつあることを、確かに感じ取っていた。