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夜を越えて巡る朝  作者: トウリン
夜を越えて巡る朝
16/25

糸を操る者

 部屋に駆け込んできたイチを、キーツは眉をひそめて迎えた。

 彼がこの彼女の部屋に来たのは、もう一時間も前になる。その一時間、彼は苛立ちと焦燥を胸にイチを待っていた。

 彼女が戻ってきて、キーツは安堵するどころか、いっそう不安を掻き立てられる。

 流れる水か何かのように常に捉えどころのない静かな動きをするイチが息を切らせて走ってくるなど、今まで見たことが無かった。

「イチ……お前、何処に行ってたんだ?」

 目を細めて、キーツはそう訊いた。これまで、イチがキーツに嘘偽りを言ったことは無い。しかし、今の彼女が返す答えは、どこか信用できない気がした。

「イチ?」

 押し黙ったままのイチに、苛立った声で重ねて問う。

 だが、彼女は肩で息をしたまま、俯いた顔を上げようとはしなかった。

 その小さな頭の天辺を見下ろすキーツの心中に、昼間覚えた嫌な予感が蘇える。


 つい数分前までは、イチにとって自分は『特別』な存在であるという自信が、キーツにはあった。彼女を支配しているのは自分である、と確信していたのだ。

 その安心、あるいは油断は、今は焦燥に取って代わられている。

「まさか、外には行ってないだろうな……?」

 キーツの台詞に、隠しようも無く、少女の細い肩がピクリと震えた。たったそれだけのわずかな動揺が、何よりも雄弁な返事となった。

「イチ? どうなんだ?」

 優しげにすら聞こえる声で、キーツはイチを追い詰める。何処に、何をしに行ったのかはすでに判りきっている。が、イチの口から出た返事が、どうしても聞きたかった。

「答えるんだ」

 穏やかな口調のまま、イチを促す。


 塵が落ちた音だけでも空気が砕け散ってしまいそうな、沈黙。


 そして、イチが答えた。


「外には、行っていません」


 それが嘘であることは、火を見るよりも明らかだった。

「……そうか。なら、いいんだ」

 そう言って、キーツはイチに向けて手を伸ばしかけ、結局彼女に届くことは無くその手を下ろす。イチの嘘によって生じた亀裂は、もしかしたら、キーツが彼女に触れることによって埋めることができたのかもしれない。

 しかし、それでも、彼は目の前の少女に指先ですら触れることができなかった。


 俯いたままのイチの横を通り抜け、キーツは扉に手を掛ける。

「もう、大分遅いな。あまりあちこちうろつかずに、おとなしく寝ろよ」

 部屋を出がけに、キーツはそう言い残した。


 廊下を歩くキーツの頭の中では、イチを繋ぎ止めておく為にすべきことは何なのかと言うことがめまぐるしく回っていた。先ほど彼女に手を触れることができなかったように、己の態度を変えることはできそうもない。

 ということは、ただ一つ。

 イチの目が向いている相手の方を消してしまえばいい。今ならば、まだ、彼女自身が自分の気持ちにはっきりと気付いてはおらず、あの少年を殺したところで傷はまだ浅かろう。再びあの二人が顔を合わせることの無いように、早急に手を打つ必要があった。

 自室に着いたキーツは、各砦に一部隊ずつ配備されている特殊部隊──すなわち、イチが現れるまではこの国で最強の兵士と呼ばれていた男たちの一人を呼び出した。彼らは、今では何らかの理由でイチが戦闘に出られない時の為の補欠としての立場に甘んじている。


「お呼びですか、キーツ殿」

 部屋に現れ、いつものように皮肉の色を含ませてそう言った男は、この砦の特殊部隊の中でも随一の能力を誇る、ゲオルグ・バッシュだった。

 キーツはゲオルグに椅子を勧めることなく、己は机の角に尻を乗せ、話を始める。


「一人消してきてくれ」


 その短い言葉のみで、キーツはゲオルグに向けて一枚の写真を放り投げた。監視カメラの映像を拡大したもので画像は粗いが、たった一つの特徴が標的を決して間違えることのないものにしている。

「ちょっと待ってくださいよ。こんなガキを殺れってんですか?」

 心底から嫌そうな顔で肩を竦め、ゲオルグはキーツに写真を返す。そのまま身を翻して部屋を出て行こうとした彼を、キーツの声が引き止める。

「給料一年分の特別手当を出すぞ」

 振り返ったゲオルグの顔は、心の内を雄弁に語っていた。

「ガキ一人が、一年分?」

 あの少女の無反応ぶりにうんざりして、気晴らしに他の奴をからかおうとでも考えたのかとゲオルグはキーツの顔を眇めて見たが、彼の真顔は裏に何かあるものとは思えなかった。

「本気、のようですね」

「至ってな。とにかく、頼んだ。そいつだって民間人じゃない。昨日この砦を襲撃した反乱軍の一人だ。確かに見てくれは子供だが、傭兵たちの中じゃぁ結構名が通っているらしい」

「……へぇ。ああ、そう言えば聞いたことがあるな。腕の立つ子供の傭兵がいるとか」


 再び写真を手に取り、ゲオルグは物珍しそうに眺めた。

「多分、こいつがそうなんだろうさ。とにかく頼んだぞ。奴らは東の森の中に潜んでいるらしい。狙うのはその子供一人だからな、お前一人の方が身軽だろう」

 そう言われ、ゲオルグは写真から目を上げてキーツに怪訝な顔を向けた。

「ちょっと待ってくださいよ。反乱軍の居場所が割れているなら、それこそ貴方の秘蔵っ子を使って一気に叩き潰しちまえばいいことじゃないですか」

「それがちょっと、な」

 何でわざわざ余分な金を払ってまで、と言わんばかりのゲオルグに、キーツは言葉尻を濁す。

 成り上がり、しかも自分の能力を使ってすらいないキーツに心底から忠誠を誓っている者は、皆無に近い。このゲオルグという男にしても、迂闊に弱みを見せるのは危険すぎる賭けだった。

「ま、色々と事情があるんだよ。あいつもまだ子供だからな」

「……そうですか。まあ、いずれにせよ、命令とあれば行ってくるしかないですかね」

 それ以上食い下がっても得るものはないと悟ったゲオルグは、あまり真面目にやっているようには見えない敬礼をキーツに向けて投げ、扉に向かう。

「じゃ、特別手当の方、くれぐれも忘れないで下さいよ」

 最後にそう残し、ゲオルグは去っていった。


 一人になったキーツは、こつこつと机を指で弾きながら考える。

 ――今の男が見事任務を果たして帰ってきたとして、彼をそのまま生かしておくことでどんな利点があるのかを。

 ゲオルグは特殊部隊の兵士たちの中でも、立てた武勲が一際目を引く男だ。そんな男を公然と処刑するには余程の理由が無ければならない。仮に暗殺させるとしても、あれだけ腕の立つ男を始末させるには、やはりそれなりの腕を持つ者が必要となる。

 結局、堂々巡りとなる可能性は充分にあった。

「相打ちになってくれるのが、一番都合がいいんだけどな」

 ぼやいてはみたけれど、そううまくはいかないことをキーツは重々承知していた。

「……仕方ないか」

 呟き、重い腰を上げる。

 部屋を出たキーツは、再びイチの部屋に向かう。いつに無く険しい顔をして廊下を行く彼に、擦れ違う人々がちらちらと視線を送ったが、キーツは一向に意に介さず歩みを進めた。


 目的の場所に着いたキーツは、二度ほどその扉を叩いた。が、返事が無い。

「イチ? 入るぞ?」

 その言葉と同時に扉を開ける。キーツが部屋に一歩踏み入れると、イチが驚いたように寝台から身を起こすのが視界の隅に入った。

「……どうした、イチ? お前らしくないじゃないか。俺が部屋の前に立ったのも気が付かなかったのか?」

 苦いものが滲み出てしまいそうになるのを辛うじて抑え、努めて軽い口調でキーツはそう言った。

「あ……」

 明らかにいつもと違うイチの口籠りように、キーツの中で正体の判らない苛立ちがこみ上げてくる。後ろ手に戸を閉め、つかつかとイチの傍に歩み寄った。

 彼女はやや俯き気味にキーツから目を逸らしている。その様は、怯えているようにすら見えた。

 キーツの中から、苛立ちが引き潮のように遠のいていく。

「イチ、俺を見るんだ」

 言われ、ゆっくりと彼女の視線が上がってくる。だが、キーツの目と合わせようとはしなかった。

「本当は、あいつのところに行ってきたんだろう?」

 腰を屈め、イチの顔を覗き込むようにして、キーツは静かにそう問いかけた。

 彼女はわずかな身動ぎもしない。

 ただ、瞬きを一度だけ。

「正直に答えてごらん。怒りはしない」

 作ったものではない、穏やかな声。今、この時、先ほどキーツの心の中に湧き上がってきた理由の判らない苛立ちは彼の中から消え去っていた。不思議なほど、心を空にすることができた。

「……キーツ大佐……」

 細い声が、ようやくそれだけ紡ぎ出す。キーツは言葉を使わず、目だけで先を促した。イチからの告白は、すぐには成されなかった。


 再び俯いてしまったイチは、自分に注がれているキーツの視線を痛いほど感じていた。しかし、いつもならば否が応でも伝わってくる彼の思考が、今は全く響いてこない。それが、無性に不安だった。

 キーツはイチが自発的に何か言葉を口にするのを、辛抱強く待つ。蝸牛が這うように時間が流れ、そして、イチの口が開いた。


「本当は、外に行っていました」


 顔を伏せ、蚊の鳴くような声でやっとそれだけ言う。うな垂れ、身を硬くしているイチの肩は、いつもより尚一層細く見えた。

 キーツは、それが溜め息に聞こえないように、軽く一つ息を吐いた。

「初めから、正直にそう言えば良いんだよ」

 彼のその言葉に、イチは尚更小さくなる。何か間違ったことをした時には罰が与えられる──それが『決まり』だった。

 全身を耳にして罰が言い渡されるのを待ったが、次にイチに届いたのは全く違う、そして更に彼女が恐れていたことだった。


「それで、あいつに逢ってきたのかい?」


 キーツの心を読まなくても、彼の言う『あいつ』が誰であるのかははっきりと判った。言葉で返事するのが怖くて、イチは小さく頷いた。

「……そうか。やはりな。で、どうしたんだ? まさか、あいつを殺しに行ったわけではあるまい?」

 『殺す』と言う言葉に、イチの肩が大きく震えた。どうやらここに付け込む隙がありそうなことを、キーツは見逃すことなく察知する。


「殺してはいないようだな。……じゃあ、骨の二、三本でも折ってきたか」

 『良くやった』という色を滲ませてそう言うと、イチの震える声が答えた。

「わたしは、あの人をはじいてしまいました。そして、あの人は、木に……」

「叩き付けたのか? なんだ、一人で反乱軍を潰しに行ったのなら、最初からそう言えば良いんだぞ。まあ、確かに許可無く外に出たことは罰則ものだが、その為だったのなら、情状酌量の余地がある」

 キーツは立ち上がり、部屋の中を往復する。あと一押しでイチの中のたわいのない幻想など消え去ってしまうだろう事が容易に推測できた。

「しかし、たとえ死んではいなくとも、あいつにもお前の力が良く理解できたことだろうな。指一本触れずに人を吹き飛ばす力だ。さぞかしびびっていることだろうよ。ことによると、今頃反乱軍から逃げ出しているかもしれないなぁ。何しろ、お前の力を、身を持って体験したんだからな。普通の奴なら、二度とお前の前に立とうなんて気は起こさなくなるだろうさ」

 己がどんな生き物として他の人々の目に映っているのかということを、思い出させる。

 キーツはイチの前で足を止め、再び彼女の顔を覗き込んだ。強張った彼女の身体は、小刻みに震えていた。


「なあ、イチ。お前が存在を赦されるのは、この俺の隣でだけなんだぞ。お前が俺の言うことを聞くということが解っているから、他の奴らは何も言わないんだ。そうでなけりゃ、とっくの昔に、お前の力を恐れるあまり盲になった奴らに殺されていたとこだ。それを忘れるなよ」

 今までにも何度も繰り返されてきたその言葉に、イチは小さく頷いた。

「……わかっています。キーツ大佐がいたから、わたしは生きてこられたのです」

 か細い声ではあったがいつもどおりの素直な返事に、キーツは自分の台詞が充分効を奏していると確信する。これでゲオルグがうまくやってくれれば万々歳というところである。


 望んだ効果が得られ、すっかり気を良くしたキーツは、立ち上がり、扉に向かう。今はイチの気が動転している為にこちらの思考を読まれずに済んでいるようだが、良からぬ企みを胸に秘めている時は、あまり彼女の近くにいるべきではなかった。

「今俺が言ったことをイチがちゃんと理解していれば、全てうまくいくんだ」

 扉に手を掛け振り返ったキーツは、出掛けに最後の駄目押しとばかりにそう残す。


 キーツの姿が消えるまで見送ったイチに残されたのは、諦念だけである。省吾と会って彼女の中に芽生えかけていた何かは、キーツの手によって握り潰された。

 いや、最初から、何かの間違いに過ぎなかったのかもしれない。


 イチは寝台から立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。遠くには鬱蒼と広がる森が──省吾のいる森が、見える。


 どうして、あれほど彼に逢いたいと思ったのか。

 どうして、その気持ちを抑えようとは思えなかったのか。


 ──会いに行かなければ、良かった。

 今、イチは生まれて初めて、後悔というものを噛み締めていた。

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