錯綜、混乱
省吾、勁捷、ロイ、以下十五名は、侵入地点を前に時計を睨み付けていた。
「五……四……三……二……一……よし、時間だ」
勁捷の声を合図に、一斉に行動を開始する。
コソリとも音を立てずに動くロイの村の男たちに、勁捷は感嘆の呻き声を上げる。
「すげぇな。バルディアの特殊部隊より有能なんじゃねぇの?」
整然とした男たちの動きは厳しい訓練を受けた軍隊のものにも匹敵する。勁捷は目を奪われずにはいられなかった。
それに対して、ロイは小さく笑う。
「野生の獣を相手にしていれば、いやでもこうなる。人間よりも遥かに鋭いからな──訓練項目に組み入れてみるかな?」
「え?」
「いや、別に」
素知らぬ様子で省吾の方へ行ったロイの背中を見ながら、勁捷はひとりごちる。
「食えねぇじいさんだぜ」
小さく頭を振って、気を入れ直して二人を追った。
人の背丈の二倍ほどの塀を越え、一同は砦内へ侵入する。罠を仕掛ける為に散った男たちの姿は、目で確認することはできなかった。省吾たちは木立の陰に隠れ、砦内の気配に気を集中する。
仕掛けを終えた男たちが戻り始めた頃、変化は現れた。
「お、ようやくお出でなさったようだぞ」
勁捷の囁きとほぼ同時ぐらいに、前方の扉が開かれる。
「当たり、だな」
逆光で顔はよく見えないが、シルエットは確かに華奢な少女のものだった。
勁捷は無線機を取り出し、リオンに告げる。
「やっぱ、こっちに来たぜ」
「了解。では、こちらも侵入を開始する。遅くとも十分後には退却するように」
「解ってますって」
勁捷はおどけた様子で無線機に向かって敬礼をし、通信を切る。
一方、そんなやり取りなど、省吾の耳には入っていなかった。
殆ど無意識のうちにふらふらと彼女に歩み寄ろうとした省吾の腕を、ロイが掴む。
「省吾、罠に気を付けるんだ」
その声にハッとしたように瞬きを一つし、省吾は頷きを返す。そして、先ほどよりはしっかりした足取りで歩き始めた。
*
「敵さんのお出ましだぞ」
そう言ってキーツが部屋の扉を開ける前に、イチにはそれが判っていた。
小さく頷いて、イチは立ち上がる。
――相手がどこにいるのかを、キーツに教えてもらう必要は無かった。
廊下を歩くイチを、人々は露骨に避ける。万が一服の裾が掠めようものなら、青くなって身を引くのだ。
その『感じ』は、鼠捕りに捕まった鼠や、蜘蛛の巣に引っ掛かった蝶を触った時に感じるものとよく似ていた。一つ違うのは、人間のものはあまりに強烈だから、触らなくても伝わることだ。
それは怖いということ。
死ぬことほどではないけれど、人は、イチに触れられることを怖がる。
それは、こういうふうに、手を触れなくても重い扉を開けられたりするかららしい。
それなのに──
未だ筋肉よりも骨の方が目立つ身体の少年を前に、イチは思う。
何でこの人は、わたしに近寄ろうとするのだろう、と。
*
手が届く距離まで近付いて、省吾は足を止める。
どことなく少女が怯えているふうなので、それ以上近付けなかった。
ゆっくりと腕を持ち上げ、少女の方へ伸ばす。その指先が頬に触れようとした瞬間、彼女は身を引いてしまう。
咄嗟にまた一歩踏み出しそうになり、省吾は大きく息を吐いて留まった。
「逃げるなよ。何も……傷付けたりは、しない」
優しい声なんて、どうやって出すのだろう。
そう戸惑いながらも、穏やかな話し方に努める。
「逢いたかったんだ」
掠れる声に、精一杯の想いを込める。
けれど、再び伸ばした省吾の手を、少女はやはり怯えた目でしか見てはくれなかった。
(あれほどの力を持っているのに、何で俺が触ろうとするだけでこんなに怖がるんだ?)
省吾は苛立たしいような、悲しいような、やるせない思いになる。
絶対に、傷付けたりはしないのに。
焦る気持ちが無意識のうちに一歩を踏み出させる。その瞬間、少女は目に見えるほどビクリと震え、身を翻した。
「待って!」
殆ど何も考えずに、省吾は少女の腕を捕まえる。が、ちょっと力を加えたら呆気なく折れてしまいそうなその細さに、そして柔らかさに、咄嗟に手放してしまう。
振り返った少女は、心底驚いた顔をしていた。省吾の掴んだところを見つめ、一瞬後、走り去る。
「あ……!」
彼女を追いかけそうになった省吾を、勁捷の鋭い声が引き戻した。
「莫迦! 省吾! 引くぞ!」
省吾にとっては、少女に相対したのは瞬きするほどの時間にしか感じられなかったが、振り返ると、其処にはロイと勁捷しか残っていなかった。二人とも銃口を省吾の方に──正確には、その先にある扉の方に、向けていた。
一度後ろ髪を引かれるように少女の駆け込んでいった扉に目を移したが、其処から十数人の兵士たちが吐き出されてきたのを目にし、すぐに勁捷たちの方へと踵を返す。真横をロイと勁捷が放った威嚇射撃が飛びすさっていくのを感じた。
一転して荒々しい空気が支配するようになった中を走りながら、省吾は少女の腕を握った己の手を見つめる。其処に残る温もりは、生きて動くもののみが持ち得るものだった。
彼女は確かに存在しているのだと、実感した。
*
イチの心臓は、まだどきどきしていた。
少し前、砦で襲撃者を追い払った時、あの中にあの人もいたはずだ。
つまり、自分の力を目にしたことがあるはずで。
それなのに、あの人は、イチから逃げるどころか、どんどん近付いてきた。
真っ直ぐに、イチを見つめながら。
それが、最初に驚いたこと。
イチは、誰かが自分に近付こうとしている、ということが、信じられなかった。
あの人から一心に向けられてきたのは、今まで感じたことのない、強い想い。
とてもとても強い、想い。
強すぎて、イチの胸はザワザワしてしまった。
自分に触れようとしていた、あの手。
あんなふうに手を伸ばされたことなんて、今までなかった。
まるで、三日何も食べていない狼が仔兎でも見つけたかのようだった。
でも、触ったら、またあの『感じ』になってしまうのではないか。
そうしたら、この人も自分に近寄ろうとはしなくなる。
拒まれる。
そう思ったら、地面がぐらぐらするような気がした。
きっと、これが『怖い』ということなのだと、解った。
けれど。
逃げ出した時に掴まれた、腕。
其処から伝わってきたのは、いつもとは全然違う『感じ』だった。
日向だ。
まず思ったのは、それだった。ぽかぽかと温かい、日向。
触れられたところから、温かさが広がって。
イチは日向で眠るのが好きだ。
――あの人に触れられていれば、同じように眠れるのだろうか。
イチはあの人の手に握られたところを、そっと胸に抱き締めた。
その『感じ』が消えないように。
*
事の顛末を監視していたキーツは、とてつもなくまずい状況に陥りかけていることを直感した。彼の命令には絶対服従の筈のイチは目の前の侵入者を一度も攻撃することなく、あまつさえ、自分から逃げ出したのだ。
「皆、直ちに正門へ向かえ! 裏門の方はどうなっている?」
「は、侵入者はすでに撤退し始めています……と、ちょっと待って下さい、これは……」
「今度は何だ?」
「いえ、あの……これを見て下さい」
気まずそうに促す部下の示すものを目にし、キーツは舌打ちをする。モニターには、四、五人ずつ捕らえて宙吊りになっている網の袋が四つ映っていた。
「正門は!?」
其処にも、ぶら下がっているものは一つ少ないとは言え、殆ど同じ光景が映し出されていた。
「これはまずいぞ……」
キーツは呻き、もう一度、少女を捕らえているモニターを見る。
上気して自分の腕を抱き締めているイチの様子は、まるきり、恋する少女のそれだった。
*
省吾たちは先に退却していたリオンたちと無事合流を果たした。
彼らの姿を確認したリオンは眉間の皺を消し、ほっとした顔をする。
「遅かったな。てこずったのか」
そう問うたリオンに向かって、勁捷は首を振った。
「いんや、全然」
「それにしては……」
「いやぁ、こいつが彼女との遭遇接近にのぼせ上がっちまってよ」
危うく砦の中にまで駆け込みそうになった、と余計なことまで言う勁捷を、省吾が睨む。
息を呑み、怒鳴りつけそうになったリオンの機先を制し、エルネストが口を挟んだ。
「まぁまぁ、リオン様。無事戻ってきたのですから……」
「当たり前だ! 何かあったら省吾殿は今ここにはおるまい!?」
まさに頭から湯気を立てそうな勢いで、リオンがエルネストに食って掛かる。
頭に血が昇ったリオンはその応対に慣れているエルネストに任せ、ロイが省吾に向き直った。彼の眼差しも、やはり険しいものを含んでいる。
「確かに今回は無事だったが、あのまま入ってしまっていたら、公開処刑まで直行だったぞ?戦いに身を置く者が冷静さを失ってはいかん」
常に穏やかだったこの男が見せた厳しい言葉に、己の行動が愚かなものであったことを充分承知している省吾はうな垂れる。この世界に入ってまだ一年ほどでしかないが、これほど我を失ったのは初めてだった──いや、物心ついて以来、初めてだった。
そんな省吾の様子に、ロイはやや語調を弱める。
「いいか、省吾。どんな時でも、決して状況を見失うな。ほんの一瞬でも自分の立っている場所を忘れれば、待っているのは死だけだ。逆に、どんなに危険な状況だったとしても、落ち着いて周りを見れば、必ず活路は見出せる」
ロイは口を噤んで、俯いている省吾を見つめた。
そのまだ細い肩が、旋毛が、失ってしまった者のそれと重なる。それ以上の叱責を口にすることができず、ロイは省吾の肩を軽く叩いて締め括った。
未だいきり立ったままのリオンにてこずっているエルネストの助太刀をするべく歩み去ったロイに代わって、勁捷が口を開く。
「俺も、結構怒ってんだぜ? 解ってっか?」
持ち前の軽さを感じさせない勁捷をチラリと見て、省吾が返す。
「……解っている」
「なら、いいさ。色恋沙汰で身を滅ぼすにゃ、お前はちょいと若過ぎんだよ」
肩を竦めて、勁捷がそう呟いた。そして、いつもの口調に戻る。
「で、どうだ? 欲が出てきたろうよ?」
問われ、省吾は頷く。
もう一度会えさえすればそれでいいと思っていたことが、嘘のようだった。
省吾を見て、怯えていた少女。
けれど、何故か、彼女が省吾自身に怯えているわけではないということが解かった。
もっと、あの子に触れていたい。傍にいて、不安に揺れるあの少女を脅かすもの全てから、護ってやりたい。
心底そう思った。
「そんじゃ、今度はお姫様奪取作戦だな」
何処まで本気なのかわからないその言葉に、ロイの協力の元にリオンを宥め終わったエルネストが口を挟む。
「けれど、彼女の方の意思はどうなるんですか? 強奪してみても、彼女が抵抗すればこちらは全滅ですよ」
不安の残るエルネストを、勁捷は軽くいなした。
「いや、それが、あっちの方でも満更じゃない様子なんだな、これが。あそこで最終兵器扱いされてるよか、省吾に掻っ攫われた方が遥かにましなんじゃないの?」
そこへ、まだ何か言いたそうだったリオンが、気を取り直して先のことに目を向けるべく話に参加する。
「我々としても、彼女が戦線を離脱してくれるなら願ってもない。確かに彼女の力は脅威だが、それ以前に、やはりあんな少女と戦うというのは気が向かん」
「まあ、それは言えていますね。あちらの方が遥かに凄い力を持っているとはいえ、あの外見ですからねぇ」
苦笑しつつエルネストが頷いた。大の大人が数十人がかりで十歳かそこらの少女を取り囲んでいるという図は、想像するだにあまり嬉しくないものである。
「ま、お子様相手にあんまりむきになりたかねぇしな」
照れ隠しのように唇を歪めて、勁捷も同意した。
「すまない」
省吾は首を折るようにして頭を下げる。彼にはそれが精一杯だった。
「謝るようなことじゃねぇだろ」
少年の不器用さに、勁捷が苦笑する。リオンは真面目な顔で省吾の言葉を受け止め、ロイは穏やかな微笑を浮かべるだけだった。
「ああ、それから、遅くなりましたが、私たちを出迎えたのは、ごく普通の兵士だけでした。どうやら、今のところは、他にあのような力を持つ者はいないようですね」
エルネストのその言葉で場が切り替わる。
「そいつぁ助かった」
大仰に勁捷が胸を撫で下ろした。声には出なかったが、リオンとエルネストも同様の顔を並べていた。
「まあ、取り敢えず、これで何とか方針が立てられるようになったということかな」
ロイの台詞に、一同が頷く。
確かに、これで手の打ちようが見えてきた。