6.跳びたいお年頃‐後編‐
毎年恒例の行事・マラソン大会は学校をスタート地点として、チェックポイントは商店街にある和菓子屋さん前と公園のふたつで、各チェックポイント地点に立っている先生に、腕か手のひらに桜印の判子を押してもらう。あとはひたすらゴールの学校へ戻るのみだ。
「吉野嬢、お先!」
おそろいの真っ赤なリボンは、すぐに見えなくなった。彼女にはもう“タダ食い”のことしか頭にインプットされていないんだと思う。みんなそれぞれのペースで走っていく中、わたしは最下位だけにはなりたくないという目標の元、最初っからペースを飛ばしすぎてしまったのだ。
そして今に至る。二個目の桜印を腕に押してもらった公園にて、もうすでにギブアップだと言わんばかりに両足がぷるぷる震えていた。横腹も痛いし、苦しい。日頃の運動不足が全面的に原因だろう。
「吉野、お疲れー」
顔を上げると、自転車に跨る太郎先生の姿。汗を拭いながら、再び走り出すわたしの隣をすいすいと自転車で走っていくから、憎たらしい。
「わたしたちへの嫌がらせですか」
「違う違う。おれはお前らの監視役だよ。マラソン大会って校外に出るわけだし、怠けてさぼってるやつはいないかなとかコンビニで買い食いしてるやつはいないかとか、色々」
「その目立つ赤色で監視役ですか」
「へへ、かっこいいだろ!」
「どの辺がでしょう」
得意げな表情で、先生が自転車のベルをちりんちりんと鳴らす。太郎先生と話している間に、何人もの生徒たちがビュンビュンとわたしたちを抜かしていくのがわかった。
「太郎先生、わたしもそろそろ行きますね」
「あー、ちょい待ち」
引きとめられて、振り向けば額をごしごしとジャージの袖で拭われた。太郎先生はいつも何の前触れもなくこういうことをしてくるから困る。なんというか、心臓に悪い。
「泥ついてた」
「そ、それはどうもありがとうございます」
「そんだけ一生懸命ってことだな。うんうん青春だなあ!」
「さ、最下位になりたくないだけですから」
「おう。頑張れよ〜」
やる気のない声援に見送られ、わたしはまた走ることに専念する。後ろのほうから、「太郎先生、後ろ乗せてよー」と疲れ果てた声で誰かが言っているのが聞こえてきた。
やだよー、と先生のやわらかい声がしばらく耳からはなれなかった。
*
チャイムの音がしっかりと聞こえて、へろへろの顔を上げれば学校がようやく見えてきたようだった。この曲がり角を曲がれば見えてくる地獄の坂道を抜ければゴールの学校は目の前だ。
流れ落ちてくる汗をぐいっと拭って一度立ち止まろうとしたその時、悲劇は起こった。
右足の靴ひもがほどけていたことに気が付いていなかったわたしは、思いきり靴ひもを踏んでしまい、スローモーションのように綺麗に地面に倒れこんでしまったのだ。簡単に言えば、転んだのである。まさか本当に転ぶとは思っていなかった。両膝に感じる痛みにただ呆然としていると、前を走っていた同じクラスメイトの二人組が慌てて駆け付けてくれた。恥ずかしくて急いで、立ち上がる。膝にずきんと痛みが走った。
「吉野さん、大丈夫!?」
「すごい音したけど…」
やさしい気遣いにうっかり泣きそうになったが、そこは持ち前の強がりで下手くそな笑顔を作って誤魔化した。先生呼んでくる?の問いかけに即座に首を横に振る。あともう少しでゴールだもん、リタイアなんてしたくない。ぎこちなく、目の前の二人に頭を下げる。
「大丈夫。あ、ありがとう」
「そう?あんま無理しちゃだめだよ」
偶然、カーディガンのポケットにはいっていたくちゃくちゃな絆創膏4つで応急措置。クラスメイトの二人は一度心配そうにわたしの方を振り返ってから、また走りだしていった。真っ赤に染まる膝の痛みに気付かないふりして、わたしもゆっくり走りだす。
「痛くない、痛くない」
まるで呪文のように自分に言い聞かせる。わたしの後ろにはもう誰も走っている生徒は見えない。もしかしたら最下位じゃないかという不安を払いのけるようにして、ただ走ることに集中する。滲んできた目元をカーディガンの袖がごしごしとこすった。
最後の難関、坂道をよたよたと歩いていく。さすがに走れそうになかった。いつも何気なく通っているこの道がこんなに険しいなんて思わなかった。学校が遥か遠くにあるような気さえする。見上げた空には、真っ直ぐにのびる飛行機雲が見えた。わたし、何やってるんだろう。…ださいなあ。
涙がぽろりと一粒落ちそうになったとき、遠くからわたしの名前を呼ぶ声が聞こえた。
「見つけたー!吉野ー!」
キキーッと目の前で自転車が急停止した。赤色のジャージがキラキラと眩しくみえた。乗っていた自転車をがしゃんと乱雑に倒して、泣き出す寸前だったわたしの肩を掴む。慌ただしく視線を上下に動かしたあと、わたしの膝の怪我を発見するなり「キャアアア」と女の子のような悲鳴を上げてその場にしゃがみこんだ。
「大出血じゃねえか!」
「太郎先生、どうしてここに…」
「ついさっき安城たちからお前が転んで怪我してたって聞いて、すっとんできたんだけど…」
言葉を途切れさせて、ぎゅっと眉間に皺をつくった先生は、すぐに握り締めていた携帯電話で学校にいる保健室の先生に連絡をとりはじめた。その間、先生に握られたままの腕をじっと見つめる。太郎先生、汗だくだ。
電話を切った先生は額から流れてくる汗も気にしないで、横に倒れたままになっていた自転車を直すとそれに素早く飛び乗った。
「吉野、後ろに乗って。学校までいっしょに帰ろう。そんで、速攻保健室行くぞ」
「い、いやです。まだ走れます…ここまできてリタイアはいやです」
「…お前さあ、頑張り屋にもほどがあるよ」
怒る、というより呆れたような表情で、ふにゃりと眉をさげて先生は小さく笑った。ぐしゃぐしゃと髪の毛を掻いたあと、ゆっくりと自転車から降りて立ち止まるわたしの顔を覗き見る。
「でも、今日はここまで。いい子だから先生の言うことを聞きなさい」
弱い力で頬っぺたをつねられた。痛くないはずなのに、ぽろぽろと涙がこぼれてとまらなくなる。いや、痛いんだ。さっきまで我慢してきた膝のジリジリとした熱い痛みが一気に押し寄せてきた。小さいこどもみたいに泣きじゃくるわたしの頭を撫でる先生の手のひらは、どこまでもやさしかった。…本当に、ださいなあ。みっともないや。
「よしよし。吉野は頑張ったぞー、えらいえらい」
「で、でも、ちゃんと最後まで走れなかった、もん…」
「別にさ、怪我を我慢してまで無理に最後まで走らなくたっていいんだ。他のやつらといっしょじゃなくたって、別にいいんだよ吉野」
「でも…最下位でもいいから、ゴールしたかったよ先生」
「うん」
「…膝、痛いよ先生。本当は、もう歩けないくらい痛いの」
「うん」
太郎先生の手のひらは魔法みたいだ。わたしの強がりも弱音も涙も全部、素直に溢れださせてしまうのだから。みっともなくてもいいや、って思えてくる。
「よーし、しっかり掴まってろよー。背中に思いきり抱きつくかんじでよろしく!」
「……セクハラで訴えますよ先生」
「いやいや、違うからな!おれは、吉野がうっかり落ちたら危ないからそう言ってるだけであって、べっ、別にそういう意味じゃねえの!ちがうの!誤解なのっ!」
「なんでそんな必死なんですか」
やっと涙が落ち着いて、大人しく先生が運転する自転車の後ろに乗る。セクハラ先生のご希望どおり、思いきり先生の背中にぎゅっと腕を回してしがみついてみる。「おっ」と短い声が前から聞こえた。顔だけ振り返ってわたしを見た先生が「なんだこれ、ちょっと恥ずかしいな」と笑いながら言うものだから、こっちのほうが恥ずかしくてなってしまった。
「吉野吉野、上見ろよ。飛行機雲だ」
「はい」
「この自転車も飛んでくれねえかなあ…くっ…」
「先生、やっぱり降りましょうか?」
「だ、大丈夫だ。大人の、体力、なめんな、よっ」
坂道をじくざぐにのぼっていくわたしたちを乗せた自転車。肩で息をしながら必死にペダルを漕ぐ先生の背中にこっそりと頬っぺたをくっつける。途端に、心臓がふわふわと浮かぶ。宙を飛び跳ねたくなるような、不思議な気持ちになった。
「そういえばさ、小日向が11位でゴールしてたよ」
「へえ、すごい」
「当の本人は、1がひとつ多いーって、地面ゴロゴロ転がって悔しがってたけどな」
「小日向さん、そんなにタダ食いしたかったのかな…」
学校まであと少し。
あともう少しだけ、このままでいたい。恥ずかしくてどこかに跳びたくなる両足をぐっと押さえ付けて、目の前の赤色の背中にしがみつく力をつよくした。
今はただ、こうしていたいのです先生。