5.跳びたいお年頃‐前編‐
どこかの教室の窓から紙飛行機が飛ばされていくのが見えた。そんな5月中旬のよく晴れた午後の日。
わたしたちの天敵である定期テストのあとに待ち構えているのはさらなる強敵、マラソン大会だった。知識という知識を脳ミソの中から出し切ったあと、体力まで削られていくなんて、どんな拷問だろうか。雨が降りますようにと必死に願ったにも関わらず、今日は一日快晴らしい。
照りつける太陽に舌打ちするが、あまりの眩しさに目を細めるしかなかった。
「今日は待ちに待ったマラソン大会ですぞ、お嬢!」
…ここに一部、例外の子がいた。いつになくやる気に満ちあふれている小日向さんが今は太陽より眩しくみえる。半袖に短パン、さらに前髪を真っ赤なリボンで結んでちょんまげにしている。その剥き出しになった額には“お肉”と書かれたハチマキを巻いて、元気に準備運動をしている。
「ヤル気満々だね」
「今年の一位になったら、一週間食堂でタダ食いが出来るんだよ」
「ああ…」
「あれもこれもどれもそれも食べ放題なんだよ!」
「うん、頑張ってね」
ムンッと鼻息荒くする小日向さんとは対照的に、わたしは上着にカーディガンを羽織って、生足を隠すために短パンの下に黒タイツをはいている。唯一、髪の毛だけはいつものみつあみではなくポニーテール(小日向さんの強い希望)にしてみた。小日向さんとおそろいの真っ赤なリボンがかなり恥ずかしかったりする。
「やっぱりお嬢はポニーテール似合うね!無防備なうなじがたまりませんなあ」
「…ほどこうかな」
「これでブルマだったら最高なんだけどねえ」
「前から思ってたけど、小日向さんってたまに親父くさいよね」
「誉め言葉です!」
「誉めてません」
そんなやりとりをしていたら、突然くいっとポニーテールが引っ張られる感覚がした。
「あ、ごめんな吉野。つい引っ張りたくなってさ」
いたずらっ子の正体は、真っ赤なジャージを着た太郎先生だった。謝りながらも、右手で思いきりわたしのポニーテールを掴んだまま放さない。
「吉野、ポニーテール似合うのな〜。かわいーかわいー」
「引っ張らないでください」
「だって、なんかこう無防備にゆらゆら揺れてるから掴みたくなるじゃん」
「尻尾みたいに言わないでください」
「太郎ちゃん太郎ちゃん、わたしの渾身のちょんまげはどう?」
「小日向のそれは、なんかひっこぬきたくなるな」
気の抜ける二人の会話を聞き流しながら、ふいに太郎先生の赤いジャージに目がいく。なんて暑苦しい色。この間の白いジャージの方がまだマシじゃないだろうか。そこまで考えて、「あ」と声がもれる。
「太郎ちゃん、そのジャージ若干小さいねえ。なんで?」
「これ、高校生のときに着てたジャージなんだよ。やっぱ少し小さいよなー…」
「あれ?この間着てた白いジャージは?白米みたいで美味しそうな色だったのに、勿体ない」
「白米ってお前…。いやだってさー…」
太郎先生と目が合う。口を尖らせて拗ねたような表情をしている。以前に“似合わない”といったことをまだ根に持っているらしい。先生を上から下まで見る。膝小僧の部分に穴があいている。高校生時代の先生が少し垣間見えた気がして、なんだかうれしくなった。
「…赤も微妙ですね」
「ひでえ!白もだめ、赤もだめって!じゃあおれは何色のジャージなら似合うんですか!」
「なぜ半泣きなんですか」
「太郎ちゃん、いっそのこと黄色にすればいいよ。カレーみたいで美味しそうだもん」
「小日向はそればっかだな」
「無難に黒でいいじゃないですか、もうめんどくさい」
太郎先生が好き勝手に引っ張ったり揺らしたりしたせいで、ぐしゃぐしゃになってしまったポニーテールを結びなおす。
あ。リボンの色、先生のジャージとおんなじ色だ。
なんてことを思って、すぐに恥ずかしくてなって、髪の毛を結う指先が震えた。
「もうすぐ始まるね。お嬢、今日はライバルだから!最後までいっしょに走ろうね、なんてありえないから!だって、マラソンとは己との戦いなのだから!」
「うんうん、頑張って。わたしはわたしのペースで走るから」
「よし、健闘を祈る!」
小日向さんはぴしりと敬礼をしてから、風のような速さでスタート地点の校門前まで走っていってしまう。隣に立っている太郎先生を見ると、楽しそうにへらへら笑っていた。
「小日向は面白い子だよなあ」
「はしゃぎすぎて転ばないか心配です」
「おれは吉野が転ばないか心配だけどなー。なんて」
「…」
「おっ、照れた照れた」
…ジャージの仕返しかこの野郎。腕まくりをした先生の腕がまた、わたしの頭上に伸びてくる。当然のようにくいくいと引っ張られるポニーテール。むっつりとするわたしとは反対に、先生は顔をくしゃくしゃにして笑っている。わたしの髪の毛はオモチャじゃない。
「そのジャージ、膝のところ破けてますね」
「ヤンチャなお年頃だったからな」
「今も十分ヤンチャしてるじゃないですか」
「ははっ、そうかもなー。…お。」
髪の毛に触れていた指先が真っ赤なリボンに移動していた。そっと触れて、すぐにはなれていく。
「色。おんなじだ。」
自分のジャージを指差して、いたずらっ子のように微笑む。つられて、口元が緩みそうになった。
「吉野とおそろいなら、このジャージでもいいや」
すらりと、そんなことを口にしないで先生。
恥ずかしくなる。意味もなく、すごくすごく、くすぐったくなるから。
「おお、吉野が笑ってる。いいもん見たなー、うんうん」
「わ、笑ってません」
「なんでだよー、お前はもっと笑っとけばいいの。そうやっていつも笑っとけ、な。」
くいっと軽くポニーテールを一度引っ張って、わたしの顔を覗き込んでおもいっきり笑う先生。ああ、まぶしいなあ。目を逸らすと、先生の影と自分の影が重なって触れ合っているように見えて、どこを見ればいいのか分からなくなってしまった。
やっぱり、赤も似合ってないですね。
走る前から慌ただしくなる心臓をごまかして呟いた皮肉の声は、擦れてしまった。
後編に続きます。