26、中級編
上野からの帰り、細田君に送ってもらった私は車の中で寝てしまい、家の近辺についた所で起こされた。私がいつも利用している駅まで来てくれていて、そこからは歩いて数分もない場所に住んでいたので近くのコンビニで降ろしてもらおうと思った。
が、危ないからという事で降ろしてもらえず、代わりに細田君にコンビニで水だのパンだの買ってもらいアパートの前まで送ってもらった。・・・まあ、あんなにふらついてて、おんぶまでしてもらってた状態だったから仕方ないか・・・。
もう随分と外も明るくなっていて、朝早い通勤のサラリーマンや、学生、朝の散歩に出ているおじいちゃん、おばあちゃんがアパートの前を通り過ぎていく。・・・・私は、今から家に帰って寝ようとしてるんだけどな。みんなの流れと逆流しているのって、なんだか変な気分だ・・・。
その日は結局、3時近くにゆっくり目を覚まし、舞台の稽古にも大慌てで向かうといった感じだった。起きてすぐはなんだか少し頭も痛くて、どうしようかと思ったけど・・細田君の『アルコールは加水分解だから』という言葉を信じて、とにかく水を飲んでお酒を抜くように努めた。大慌てで稽古に向かったけど、昨日さっちゃんに言われた事を思いだし、家にあるだけのメイク道具もカバンに突っ込んだ。・・・さっちゃんのカリスマメイクを全部再現できるわけも無いけど・・さっちゃんが使っていたチークやシャドウの色、アイラインを入れる位置なんかは大体覚えているので、少しは真似できそうだった。
幸いにもその日の稽古は私の出番では無く、ほとんど見学ばかりだったので時間をかけて体調を戻す事ができた。ぼーっとした頭で稽古を見学しながら、昨日の事を考えていた。・・あ、そういえば南波さんからもらった名刺にアドレス書いてたっけ・・?昨日ちらりと見たときに、名前と一緒に電話番号とアドレスのようなものが印刷されていたような気がしたのを思い出した。主に大騒ぎしていたのは店長なんだけど・・やっぱり私からも昨日のお詫びとか、お礼とかメールしといたほうがいいのかな。酔いどれて早めに帰ることになっちゃったし。・・いや、でも昨日は『お客さん』として行ったんだから、そんなに気を使わなくていいのかな?いやいや、でも南波さんはオーナーの知り合いだって言うし、ここはやっぱり・・・・・。あ、そういえばきょうは岩村に樋口さんの事相談しないといけなかった。樋口さんにもメールしなきゃいけないし・・・・
「・・大山!」
・・・・ん?大山?
「こらぁ!!大山!!何ぼーっとしてる!!!」
ふいに大きな声がして、はっとする。気がつくと稽古場のみんなの視線が私に集中していた。・・そ、そうだ!私、大山だ。大山咲は私の名前じゃないか!最近『ミキ』と呼ばれることが多いせいか、気を抜いていると自分の名前を忘れてる。
「次、大山の出番だろ!稽古中にぼーっとするなよ!!」
「す、すみません!!!」
ぼーっと色々と考え事をしているうちに、予定よりも早く稽古が進んでいて、いつのまにか私の出番だったようだ。その後は大激怒の演出家の先生にこっぴどく叱られ・・・稽古場の掃除を全部させられて帰る羽目になってしまった。稽古後の掃除は、普段から交代でやっているので苦ではないけれど、二日酔いで身体がだるい私には、なかなかキツいペナルティとなった。のろのろ掃除を済ませて『MOON』に向かうと、いつも以上に遅刻ギリギリの出勤になってしまっていた。
「・・・ふう・・」
どうにかお店に滑り込み、さっちゃんに嫌味とダメだしされながらヘアメイクとメイクを済ませ、フロアへ出た。新店長と新店舗のキャスト選抜がかかってるとあって、従業員のやる気は今夜も十分、大盛況の『MOON』だった。
「ね、昨日どうだった?楽しかった?」
次の席に着く前に、アキラちゃんとちょっとフロアで立ち話しをする時間ができた。今日のアキラちゃんは真っ赤なサテンのロングドレスで、綺麗なボディラインがくっきり強調されててセクシーなカンジだった。アキラちゃんはニヤっと笑って私に聞いてきた。
「どうせ店長、大暴れしたんでしょ?今日出勤してないんだけど。」
「え?」
あたりを見渡すと、店長の姿は無い。いつも木曜日は出勤しないみたいだけど・・今日は木曜じゃないしな。もちろんまりあさんはいつも通りに出勤していて、お客さんも沢山来て大忙しだ。
「・・噂によると・・ケーサツのお世話になったらしーよ。」
アキラちゃんがびっくりする様な事を言う。
「け、警察!?」
「ば、ばか!!声、おっきい!!!」
思わず大声を出してしまった私の口を、アキラちゃんが大慌ててで塞ぐ。
「・・さっき岩村がケイ君と電話で話してるっぽくて、そんな事言ってたの。・・まあ、今回に限った話じゃないから、たいしたことじゃないけどね。」
「・・今回に限らないって・・・」
そんなアキラちゃんの言葉には、なんとなく納得してしまう。普通だったら警察にお世話になるんて、大事なんだけど。・・・あの店長だったら、十分ありえると思ってしまう。
昨日の店長の様子を思い返してみても・・・車の中で延々と話していた店長の自慢話も、酔って駅前の電話ボックスを倒したとか、銭湯の煙突の上にまで上ってタバコ一服してやったとか、バイク盗んで近くの中学校の校庭走り回って、近くの住民に通報されたとか・・・そんなのばっかりだったしなぁ。どこまで本当かわかんないけど。
「もう釈放されてて、今日は謹慎くらっただけみたいだけど。・・ちなみに、こないだの年末年始は酔った勢いで浅草寺の賽銭箱に派手にダイブしたあげく、賽銭箱動かそうとして捕まったしね。」
「マジで・・!?でも、そんな何度も捕まってよく平気で働けるね・・・・」
これも夜の世界特有ってことなのか・・。昼間の仕事なら即効でクビだ。
「うーん。まあもちろん、この仕事だからやってけるってのもあるけど、いつも物を壊すとかそっち系だからね・・。器物損壊っての?だから後始末はいつも、ケイ君がお金払って、はい示談ってとこね。ちょっとやばいことになってもケイ君の人脈があるから大丈夫だって思ってるんじゃない?店長も酒と女の問題除けば、仕事は出来る奴だからねぇ。ケイ君もそこは買ってるんじゃないかな。でも最近の店長はちょっと、やりすぎなカンジはするけど。・・・ケイ君ね、ケーサツのお偉いさんとか、大物政治家や大物組長ともパイプあるって噂だし。」
「ええ!?そうなの!?」
闇金やってて、デリヘルとか、キャバクラのオーナーともなれば、それくらいの表と表の人脈はあっても不思議じゃないか。
「ケイ君ってさぁ、ああ見えて怖いとこあるからね。自分にとって利益あると思う人間には色々良くしてくれるけど、もう自分にとって用無しだと思えばポイよ。男も女も。」
アキラちゃんはそう言って、面白そうに笑う。・・・そうかなぁ、オーナーそこまで冷酷な人にも思えないけど・・・。
「はぁーい!次、行くよー!ミキティ!!」
そんなことを考えていたが、ハイテンションの岩村の声に現実に引き戻された。
「ミキティ!今日は終わったらミーティングね!今月末のイベントの予定、それから来月のクリスマスイベントの説明もあるから!!」
「あ、ああ、はい・・」
そうだ、岩村には樋口さんの事とか相談したかったんだ!すっかり樋口さんへのメールも、南波さんへのメールも出来ないままだった!ああ、それに今月末のイベント、自分でドレス買ってこなきゃいけないんだっけ。次は来月のクリスマス・・・・・あああああ、やること多すぎて、なんだか目の前が真っ暗になってくる。
「さ、ミキティ!まりあさんのヘルプよろしく!」
岩村のテンションの高い言葉に、フロアへと押し出される。今日は新規のお客さんよりも指名のお客さんが多かったようで、私もアキラちゃんもまりあさんのヘルプ回りで終わった。何度か席に着いたことのあるお客さんも多く、わりとやりやすかった。
「・・・うーん。樋口さんねぇ・・」
営業終了後の店内、細田君や他のボーイの人たちがお絞りをたたんだり、グラスやボトルを片付け閉店作業をしている傍ら、私はフロアの一角で岩村とミーティングをしていた。早速昨日の樋口さんの事を相談してみたんだけど・・・
「正直、まだ判断できないと思うけど・・・」
そう前置きして岩村は言葉を続けた。
「ふとした事での指名替えとか、お客さんが切れちゃうのは良くあることなんだよね。特に、ミキちゃんみたいに水商売初心者です!っていう子が成長して、どんどん化けてキレイになって、ブレイクしてくパターンだと・・・それって店や本人にとっては凄く嬉しい変化なんだけどさ、水商売初心者の、素朴なミキちゃんが良かったって思ってたお客様には、あんまり嬉しくない変化だろうからね。」
「・・・はあ・・・」
「もっと売れっ子になってくると分かると思うけど、もちろん一人のお客さんにかまってあげられる時間も減ってくからメールや電話の時間なんて少なくなるし。お店で指名しても全然席に着けないって現象もでてくるし・・それが不満で指名が離れることもあるからね。お金払ってるのになんだよって。まあ、そう思うのが普通じゃないかな。飯岡さんみたいに夜の店に飲みに来て、わざわざ売れる子を指名して、大金使うこと自体が楽しいっていう『飲みなれた』人はまた別だけど。営業トークだって思ってても、心のどこかでもしかしたら女の子と付き合えるかも!俺でも口説けるかも!やれるかも!って思ってくるお客様は多いからね。」
そういえば、まりあさんのお客さんなんて、幾つも指名が重なっている時はセットで10分もまりあさんが着かないこともあったっけ・・・。それでもいつも楽しそうにまりあさんに会いにくるのは何でなんだろう・・。まりあさんのお客さんは、たしかに飯岡さんのように『飲みなれてる』お客さんは多いけど、そうじゃない普通のお客さんだって沢山居る。そういったフォローに回るのも私達ヘルプの仕事だけど、あくまでも『脇役』だし。それだけじゃこんなに沢山のお客さんに支持されないよね。
「まあ、ともかく・・樋口さんは次の反応見ないと分からないなぁ。とにかく連絡してみて!それでも感触がダメなら、ダイレクトにイベント誘ってみて、それでもダメなら樋口さんはもう切れたと思って、次のお客様に向かったほうがいいよ。こんなの一種の通過儀礼だから、気にしない!気にしない!!ミキちゃんが成長してる証!!」
そういって岩村はバシッと私の背中をたたいた。
「さ、というわけで・・ミキちゃんにはそろそろ、これが必要になってきたわけだ・・・」
ごそごそと分厚いファイルからホチキス止めされた冊子を取り出す岩村。・・・あ、これは最初に説明された、岩村特製の・・・
「岩村特製・接客マニュアル~中級編!!!!レベルアップおめでとおぅ!!!!」
初級編より明らかに分厚くなっているマニュアル・・・・・岩村は嬉々としてそれを私に手渡す。何が基準かわからないレベルアップだけど、とにかくそういうことらしい・・。
「これは店外持ち出し禁止だからね!!この一週間はミキちゃんにこれを伝授しよう!!」
岩村は長い前髪をかきあげると、また悦に入ったような表情で満足げに頷く。
「いやー働いた最初の月で中級編までレベルアップするのは、エナちゃん以来だよ。今やエナちゃんも歌舞伎町でも有名な、押しも押されぬ人気嬢・藤咲エナだからね。」
エナさんといえば・・・まりあさんと仲が良い、あの小さくて可愛い子だ。キャバ雑誌の読者投票でもランクインする、『MOON』ナンバー3のエナさん・・。エナさんのことも、岩村が指導したってこと!?・・・岩村の指導も、まんざらでもないってことか・・。
「エナちゃんもミキちゃんも、初心者の状態でこのマニュアルに・・この俺に出会えたのがラッキーさ!!でも、俺の事は絶対に好きになっちゃぁーだめだぞ!!!」
「絶対なりません。」
・・・このウザイくらいのハイテンションと、自意識過剰さえなければ、岩村はいい奴に違いない。
「・・お、おいおい。そんなにきっぱり否定しないでよ。」
「マニュアル、早く始めてください。」
ちょっと不満そうにぶつぶつ言いながら、岩村はマニュアルの説明を始めた。