小悪党とお嬢ちゃん
「ちょっと失礼しますよ」
男が事務所へ入ってきた。
地域の高齢者や生活困窮者を支援する、小さなNPO法人だった。
奥では職員が電話を取り、壁には無料法律相談の日程が貼ってある。
刑事は受付に警察手帳を見せた。
「この近所で、ちょっと聞き込みを――」
そこまで言って、止まった。
窓際の机に、小柄な男が座っていた。
禿げ上がった額。
小さな目。
薄い肩。
六十歳ほどの男だった。
男も刑事を見た。
「あ」
「…………」
数秒。
刑事が叫んだ。
「て、てめえ!」
職員たちが一斉に顔を上げる。
「山椒の小金丸!」
小柄な男――小金丸徳郎が、嫌そうな顔をした。
「でけえ声出すんじゃねえよ。サツの旦那」
「こんなところで何してやがる!」
「俺だってよお」
小金丸は頭を掻いた。
「何がなんだか分からねえんだよ……」
「何?」
「あら」
奥から女性の声がした。
「あなた、お客さん?」
刑事が振り向く。
すらりと背の高い女が立っていた。
三十五歳。
濃紺のスーツ。
整った顔立ち。
手には分厚い法律書を抱えている。
「あら、警察の方?」
「え……」
「当法人の顧問弁護士をしております、相沢玲子です」
女は微笑んだ。
それから、ごく自然に小金丸の隣へ立つ。
「それと、この人の妻です」
刑事の口が開いた。
「…………妻?」
「はい」
刑事は玲子を見る。
小金丸を見る。
もう一度玲子を見る。
「お、お前……」
「だからよお」
小金丸がうんざりした顔で言った。
「俺も何がなんだか分からねえんだって」
玲子が笑った。
「あなたが自分で言い出したんでしょう?」
「余計なこと言うな!」
刑事は椅子を引いた。
「ちょっと待て」
座る。
「最初から話せ」
「やだよ」
「話せ!」
小金丸は天井を見た。
「しょうがねえなあ……」
そして、ぼそりと言った。
「まあ、俺も年貢の納めどきってやつだったんですよ」
◆
五年前。
相沢玲子、三十歳。
弁護士になって三年目だった。
大きな事務所の末席。
仕事は山ほどある。
だが、自分の名前で任される案件は、まだそれほど多くない。
そんなころだった。
「相沢先生。先方の担当者です」
依頼人が小声で言った。
応接室の向こう。
小柄な男が一人、ソファにふんぞり返っている。
体に合っていない茶色の背広。
安そうなネクタイ。
そして妙に人を食った顔。
「小金丸徳郎さんですね」
玲子は正面に座った。
「へえ」
小金丸が目を細める。
「先生ってのは、あんたかい」
「何か?」
「いやあ。もっと年寄りが出てくるかと思ったんでね」
「年齢はこの件に関係ありません」
「そりゃそうだ」
にやにやしている。
小金丸は、家主が使っている不動産管理会社の営業主任だった。
店舗の退去に伴う原状回復費用について、管理会社側の窓口として出てきている。
「結論から申し上げます」
玲子は書類を開いた。
「請求額は過大です」
「そうかい」
「こちらの算定では、支払うとしても三十万円が上限です」
「三十ねえ」
小金丸は鼻を掻いた。
「じゃあ、五十でどうだ」
「根拠は?」
「俺の勘」
「話になりません」
「四十八」
「帰ります」
「待ちなよ、お嬢ちゃん」
玲子の眉が動いた。
「ああ。先生だったな」
小金丸は笑った。
「四十五で手を打ちな」
「三十です」
「四十二」
「三十」
「四十」
「三十」
「……頑固だねえ」
「法律の話をしています」
「俺は金の話をしてる」
結局、三十八万円でまとまった。
玲子は勝ったつもりだった。
当初請求は百八十万円。
大幅に減額した。
依頼人も喜んだ。
ところが翌週。
玲子は精算書を見て、顔色を変えた。
「……何、これ」
別項目として、十二万円の残置物処理費が計上されている。
依頼人はすでに了承し、支払っていた。
合計五十万円。
玲子は小金丸を呼び出した。
「あなた!」
「おう。怖え顔だな」
「これは何!」
書類を机へ叩きつける。
「ああ、それか」
「説明しなさい!」
「残った棚やら何やら、片づけてやったんだよ」
「十二万円も取る仕事じゃないでしょう!」
「俺は小金に目がねえんだ」
「ふざけないで!」
「ふざけちゃいねえよ」
小金丸がにやっとした。
「ちゃんと確認しなかった先生が悪いんじゃねえか?」
玲子の顔が赤くなった。
言い返せない。
依頼人に確認を取らなかったのは、自分だった。
「……覚えてなさい」
「何を?」
「いつか必ず」
玲子は小金丸を睨んだ。
「いつか、あなたを法の手で絡め取ってやるわ」
小金丸は肩をすくめた。
「おー怖い怖い」
立ち上がる。
「楽しみにしてるよ、お嬢ちゃん」
◆
玲子は、その件を引きずった。
悔しかった。
十二万円。
金額ではない。
自分が見落とした。
しかも、あんな男に。
もう一度、関係資料を全部取り寄せた。
見積書。
写真。
メール。
工事記録。
「…………」
妙なことがあった。
最初に作られた原状回復見積りは、百八十万円ではなかった。
二百四十万円。
さらに、依頼人側に不利な写真が一枚あった。
壁を大きく加工した跡。
契約上はかなり厳しい。
ところが、最終交渉ではその写真が出てこなかった。
玲子は依頼人に電話した。
「以前、管理会社と直接何か話しました?」
『いえ。ただ……』
「ただ?」
『あの小さいおじさんに、“若い先生に任せときゃいい。余計なこと喋るな”って言われました』
「……小金丸?」
『はい』
玲子は電話を切った。
しばらく考えた。
「……何なのよ」
◆
それから玲子は、ときどき小金丸徳郎という男を調べた。
最初は、仕返しの材料を探すつもりだった。
昔の取引先。
不動産業者。
金融業者。
登記。
人に会えば、ついでのように聞いた。
「小金丸徳郎という人を知りませんか?」
返ってくる答えは、だいたい似ていた。
「小金丸? ああ、山椒の」
「あいつに任せると高くつくぞ」
「金には細けえ」
「頭は切れるな」
そして、ときどき。
「でも、あくどい話は嫌うね」
という人間がいた。
玲子は眉をひそめた。
「小悪党なのに?」
「だから小悪党なんだろ」
男は笑った。
◆
一年ほど経った。
地方裁判所の廊下で、玲子は見覚えのある小さな背中を見つけた。
「あら」
小金丸が振り向く。
「げ」
「げ、とは何よ」
「また会ったな、お嬢ちゃん」
「まだそんな呼び方してるの?」
「嫌なら聞き流せ」
小金丸は封筒を懐へ入れた。
玲子が見逃さなかった。
「何、それ」
「仕事だよ」
「また、みみっちく稼いでるの?」
「へへへ」
小金丸は笑った。
「俺は小金に目がねえだけさ」
「そのうち本当に捕まるわよ」
「大金に手え出す馬鹿より長生きするぜ」
「どういう意味?」
「大金ってのはな」
小金丸は鼻を鳴らした。
「だいたい後ろに、面倒くせえ奴がいるんだよ」
「臆病なのね」
「褒め言葉として受け取っとくぜ」
小金丸は歩き出した。
「小金丸さん」
「何だ」
「あなたなら、もっと大きなお金を動かせるでしょうに」
小金丸が振り向いた。
「何だそりゃ」
「その頭があれば、もっと稼げるでしょう?」
「面倒くせえ」
「もったいないわね」
小金丸は鼻で笑った。
「お前らお利口ちゃんは、何でも上を目指しゃいいと思ってやがる」
「違うの?」
「三万ありゃな」
小金丸は懐を叩いた。
「しばらくは、うまいもんが食える」
玲子は呆れた。
「本当にみみっちいわね」
「へへへ」
小金丸は去っていった。
玲子は、その小さな背中を見送った。
「……変な人」
◆
さらに半年ほど経ったころ。
玲子は、古い商店街を訪れていた。
依頼人は、そこで三十年以上商売を続けている乾物店だった。
長年商品を卸していた飲食店が閉店し、百数十万円の売掛金が残った。
相手方の代表は「払う」と言いながら連絡を先延ばしにしている。
帳簿や請求書を確認し、今後の回収方法を店主夫妻と相談するため、玲子自身が店へ足を運んでいた。
「じゃあ、この納品書の分も含めて、こちらで整理します」
「先生、悪いねえ。こんなところまで来てもらって」
「いえ。数字が少し複雑なので、直接確認したほうが早いですから」
打ち合わせを終えると、外はもう夕方だった。
玲子は鞄を肩に掛け、商店街を駅のほうへ歩いた。
八百屋。
豆腐店。
米屋。
昔ながらの店が並んでいる。
ふと足が止まった。
――そういえば。
小金丸の出身地は、この辺りだったはずだ。
以前、登記や古い資料を調べたときに住所を見た記憶がある。
商店街の端に、年季の入った米屋があった。
店先では、白髪の男が椅子に腰掛けて新聞を読んでいる。
奥では、同じくらいの年の女が米袋を整理していた。
玲子は少し迷った。
それから店先へ寄った。
「すみません」
男が新聞から顔を上げた。
「はいよ」
「少し、お聞きしてもいいですか?」
「何だい?」
「この辺りに昔、小金丸徳郎さんという方が住んでいませんでしたか?」
男の目が丸くなった。
「徳郎?」
奥にいた女が顔を出した。
「誰だって?」
「小金丸の徳ちゃんだよ」
「あらまあ、徳ちゃん!」
女が懐かしそうに笑った。
「ご存じなんですか?」
「そりゃ知ってるよ」
男は新聞を畳んだ。
「この辺じゃ、知らない人はいなかったんじゃないかねえ」
「そんなに?」
「昔はね」
女が口を挟んだ。
「なんてったって徳ちゃんは、幕本でずーっと一番だったよ」
玲子が目を瞬いた。
「幕本高校ですか?」
「そうそう、県立幕本」
男が頷く。
「あそこ入るだけでも大したもんだろ。それで徳ちゃん、ずっと一番だったんだから」
「首席だったんですか?」
「首席っていうのかねえ。とにかく、試験やるといつも一番だったよな」
「そうよ」
女が笑う。
「学校の先生がねえ、“徳郎は大したもんだ”って、よくお母さんに言ってたもの」
「お母様と二人暮らしだったんですよね」
「ああ」
男が頷いた。
「楽な家じゃなかったよ」
「でも、徳ちゃんはほんと、お母さん思いでねえ」
女の声が少し柔らかくなる。
「学校から帰ってくると買い物して、荷物持ってさ。あのころの男の子なんて、そんなこと恥ずかしがるでしょう? 徳ちゃんは平気でやってたよ」
「へえ……」
「勉強もしてたしなあ」
男が笑った。
「それが、どうして高校を?」
夫婦の顔から、少し笑みが消えた。
男が首を傾げる。
「お母さんが再婚してな」
「再婚?」
「ああ」
女が言った。
「徳ちゃん、最初は喜んでたのよ」
「そうそう」
「“これで母ちゃんも少し楽になる”ってねえ」
玲子は黙って聞いた。
「それが……半年くらいだったかねえ」
男が言う。
「ふっと家を出ちまった」
「高校も?」
「ああ。辞めた」
「先生たちも、ずいぶん止めたらしいよ」
女が眉を寄せる。
「そりゃそうでしょう。幕本でずっと一番だったんだもの。もったいない、もったいないって」
「何かあったんですか?」
夫婦は顔を見合わせた。
男が首を振った。
「さあなあ」
女も小さく首を振る。
「あのころのことは、誰もよう知らないのよ」
玲子は、それ以上聞かなかった。
「その後は?」
「金融屋にいたって聞いたな」
「不動産もやってたでしょう?」
「ああ、やってたやってた」
男が苦笑する。
「頭は昔っからよかったからねえ。何やらせても、要領だけはいいんだ」
「要領だけって」
女が笑った。
「徳ちゃんに失礼でしょう」
「ありがとうございました」
「先生、徳ちゃんの知り合いかい?」
「仕事で、少し」
「そうかい」
女が笑う。
「会ったら言っといてよ。たまには顔見せなさいって」
「はい」
玲子は店を出た。
夕方の商店街を歩く。
「幕本……」
自分も中学生のころ、受験を考えたことがある。
届かなかった。
「首席って……」
少し間を置く。
「あの男が?」
それだけ呟いて、玲子は駅へ向かった。
◆
それからは、わざわざ小金丸のことを調べることも少なくなった。
だからといって、縁が切れたわけでもなかった。
裁判所。
法務局。
取引先のビル。
忘れたころに、小柄な男が現れる。
「またあなた?」
「お嬢ちゃんこそ、どこにでもいやがるな」
そんなやり取りをして別れる。
数か月会わないこともあれば、一月のうちに二度顔を合わせることもあった。
会えば、小金丸は相変わらず「お嬢ちゃん」と呼んだ。
玲子も、そのたびに嫌そうな顔をした。
◆
ある日、法務局の廊下でまた鉢合わせた。
小金丸は何通かの登記事項証明書を抱えている。
玲子がそれを見る。
「不動産?」
「まあな」
「ずいぶん法務局に慣れてるのね」
「当たり前だろ」
「どうして?」
小金丸が鼻を鳴らした。
「こう見えて俺ァ、司法書士くれえ取ってんだぜ」
玲子が止まった。
「……司法書士?」
「何だその顔は」
「資格、持ってるの?」
「持ってちゃ悪いか」
「初めて聞いたわ」
「聞かれなかったからな」
玲子は小金丸をじっと見る。
「あなた、本当に何者なの?」
小金丸はにやりとした。
「小悪党だよ」
「自分で言うのね」
「へへへ」
そこへ、年配の夫婦がやってきた。
「小金丸さん!」
小金丸が振り向く。
「ああ。もう大丈夫だから帰んな」
「本当にありがとうございました」
「いいって。ほら」
追い払うように手を振る。
夫婦が何度も頭を下げながら去っていった。
玲子が聞いた。
「今の人たちは?」
「客だ」
「いくら取ったの?」
「何でまずそこを聞くんだよ」
「あなた相手だからよ」
小金丸が嫌そうな顔をする。
「一万だ」
「一万円?」
「何だよ」
「さっき別の人から三万円もらったって言ってなかった?」
「あれは別口だ!」
小金丸は逃げるように歩き出した。
玲子が笑った。
「小金丸さん」
「何だよ」
「少しはまともな仕事もするのね」
「てめえ、喧嘩売ってんのか!」
◆
さらに時が流れた。
玲子は事務所でも中堅になっていた。
大きな企業案件を任されるようになり、後輩もついた。
小金丸とは相変わらず、ときどき顔を合わせた。
会えば二、三言やり合う。
それだけだった。
そのころ。
事務所を挙げた大きな取引が持ち込まれた。
新興企業との資本提携。
相手の代表は神崎という男だった。
四十歳。
長身。
端正な顔。
話がうまい。
数字にも強い。
会議が終わり、玲子が廊下を歩いていると。
「よお」
聞き覚えのある声がした。
振り向く。
「……あなた」
「久しぶりじゃねえか、お嬢ちゃん」
「まだ言ってるのね」
小金丸だった。
手には薄汚れた紙袋。
「また、みみっちく稼ぎに来たの?」
「今日はちゃんとした仕事だよ」
「あなたのちゃんとした仕事って、信用できないのよね」
小金丸が顎をしゃくった。
「今すれ違った男」
「神崎さん?」
「そういう名前か」
「あいつ、お前の客か」
「取引相手よ」
「今度のヤマかい?」
「そうよ。事務所でもかなり大きな案件なの」
「それをお嬢ちゃんが?」
「ええ。私が担当してるわ」
「へえ。出世したもんだ」
「昔とは違うのよ」
小金丸は息を吐く。
「やめときな」
「は?」
「あの男。俺と同じ匂いがする」
玲子は笑った。
「あなたと?」
「ああ」
「ずいぶん失礼ね」
「いや」
小金丸は首を振った。
「俺よりヤベえ、相当なもんだ」
玲子の笑顔が消えた。
「負け惜しみはやめなさい」
「何?」
「私はもう、昔のお嬢ちゃんじゃないのよ」
「そうかい」
玲子はすたすたと歩き出した。
「おい」
振り向かない。
小金丸が頭を掻いた。
「へえ」
誰もいない廊下で呟いた。
「行っちまったぜ」
◆
外回りを終えた小金丸は、事務所へ戻るとソファに横になった。
「今日は、やけに眠いぜ……」
目を閉じた。
◆
<<お嬢ちゃん?いや、これは…?>>
「ねえ、ちょっといい?」
「え?」
制服姿の少女が、隣の机から身を乗り出している。
「ここ、どうやるの?」
「これは……ここに補助線を引いて」
小金丸はノートに線を引いた。
「あ、そうか!」
少女の顔が明るくなる。
「わあ! 小金丸君に聞くとなんでも分かっちゃうわね!」
「え……そ、そうかな……」
「ねえねえ、次の問題もいい?」
「う、うん……」
小金丸は顔を赤くした。
少女が椅子を寄せてくる。
「じゃあ、これ」
「あ、ああ……」
◆
「……ん?」
小金丸は目を開けた。
事務所の天井。
「なんでえ……寝ちまったのか」
しばらく天井を見ていた。
「……何十年も前の夢なんかよ」
鼻を鳴らす。
「ちっ。しょうがねえなあ……」
◆
一週間後。
玲子が事務所へ戻ると、小金丸が受付の椅子に座っていた。
「何してるの?」
「待ってた」
「私を?」
「他に誰がいる」
玲子は時計を見る。
「忙しいの」
「知ってる」
「なら帰って」
「おい、お嬢ちゃん」
「何よ」
「あの野郎」
小金丸が低い声で言った。
「思ったより、ずっとヤベえぞ」
玲子の顔が険しくなる。
「まだ言ってるの?」
「ほらよ」
厚い封筒を差し出した。
「何、これ」
「あいつが今までやった取引だ」
「どうやってこんなもの――」
「聞くな」
玲子は封筒を受け取らない。
小金丸が続けた。
「住菱にも食い込もうとして、取引停止食らってる」
玲子の目が動いた。
「そのあと銀行を変えてる。会社も二つ潰してる」
「……」
「今の会社だけ見てると分からねえ」
小金丸は封筒を玲子の胸元へ押しつけた。
「読め」
「余計なお世話よ」
「そうかい」
手を離す。
玲子が反射的に受け取った。
「読むか捨てるかは、お嬢ちゃんの勝手だ」
小金丸が背を向ける。
「俺もヤキが回ったもんだぜ」
「待ちなさい」
「何だ」
「これ、どうして――」
「じゃあな」
行ってしまった。
◆
玲子は、その夜。
封筒を開けた。
翌朝。
さらに調べた。
二日後。
事務所のパートナーに報告した。
三日後。
取引は止まった。
その一か月後。
神崎の別会社をめぐる訴訟が表に出た。
玲子は新聞記事をしばらく見つめた。
◆
数か月後。
法務局。
玲子は、小さな男を見つけた。
「小金丸さん」
男が振り向く。
「おう」
にやりとする。
「お嬢ちゃんじゃねえか」
「相変わらずね」
「へへへ」
「何がおかしいの」
「いやあ」
小金丸は玲子の顔を覗き込んだ。
「あの男に丸裸にされて、泣いてるかと思ったぜ」
「……確かに」
「ん?」
「あなたの言う通りだったわ」
小金丸の眉が上がった。
「へえ」
「危ない男だった」
「ちったあ勉強したようだな」
偉そうに頷く。
「おじさんの言うことは聞いておくもんだぜ」
「あなたに話があるの」
「何だよ」
「三十分でいいわ」
「俺はこのあと仕事があるんだよ」
「三十分」
「しょうがねえなあ」
小金丸は外を指した。
「そこのサテンで聞いてやる」
◆
古い喫茶店だった。
玲子はコーヒー。
小金丸はクリームソーダを頼んだ。
玲子が目を細める。
「何だよ」
「別に」
「言いたきゃ言え」
「かわいいもの頼むのね」
「うるせえ」
玲子は笑った。
それから、真顔になる。
「ありがとう」
小金丸のストローが止まった。
「何が」
「あの資料」
「何の話だ」
「神崎のことよ」
「ああ」
小金丸はクリームをすくった。
「金になりそうだったから調べただけだ」
「嘘」
「何?」
「あなた、あの件で一円も儲けてないでしょう」
「…………」
玲子は鞄から古いファイルを出した。
小金丸の顔が嫌そうになる。
「五年前の件も」
「何だよ」
「あのとき、本当ならうちの依頼人はもっと払わされてた」
「知らねえな」
「写真もあった」
「何の写真だ」
「壁の改造」
「さあな」
「あなたが引っ込めたんでしょう」
「証拠でもあんのか」
「ないわ」
「なら寝言だ」
玲子はファイルを開いた。
「小金丸徳郎」
「……何だよ」
「母子家庭で育つ」
小金丸の顔から笑いが消えた。
「おい」
「近所では孝行息子として有名」
「やめろ」
「県立幕本高校入学」
「やめろって言ってんだ!」
「二年まで首席を維持」
小金丸が立ち上がりかけた。
玲子が笑った。
「まさか、あなたのほうがお利口ちゃんだったとはね」
「こ、この女……!」
「私、幕本には入れなかったのよ。ましてや首席なんて」
「やめろ! この女!」
玲子は楽しそうに小金丸を見る。
「ふふ。あなたのことに興味が出て、調べたのよ」
小金丸が固まった。
「気色悪い女だな」
「失礼ね」
「人の昔を勝手に掘りやがって!」
「仕事柄よ」
「関係あるか!」
玲子はページに目を落とした。
「高校二年のとき、お母様が再婚」
小金丸が黙った。
「その半年後に、家を出てる」
「…………」
「高校も退学」
「もういい」
低い声だった。
玲子は顔を上げた。
「お母様の再婚、最初は喜んでたそうね」
小金丸は答えない。
「これで母ちゃんが楽になるって」
「…………」
玲子は、そこでファイルを閉じた。
やがて小金丸が鼻を鳴らした。
「昔の話だ」
「そうね」
「今じゃ立派な小悪党だよ」
「それも調べたわ」
「何?」
「甘く見ると、びりっとやられる」
小金丸の眉が動く。
「でも、根こそぎは取らない」
「てめえ」
「山椒の小金丸」
小金丸の顔が変わった。
「どこでその名を!」
玲子は微笑んだ。
「いろんな人に聞いたわ」
「誰だ!」
「教えない」
「この野郎!」
「野郎じゃないわ」
玲子はコーヒーを一口飲んだ。
「あなた、本当にあくどい稼ぎ方は嫌いなのね」
「何を勘違いしてやがる」
「違う?」
「俺はな」
小金丸が身を乗り出した。
「お前みてえな、お利口なお嬢ちゃんをちょいと引っかけて、小金を巻き上げるのが好きなだけだ」
「……」
「助ける?」
鼻を鳴らした。
「冗談じゃねえ」
玲子はしばらく小金丸を見た。
そして。
「ふふ」
「何がおかしい」
「そういうことにしてあげる」
「何?」
「山椒の小金丸さん」
「その名で呼ぶな!」
小金丸は立ち上がった。
「帰る!」
「待ちなさい」
「お嬢ちゃんの寝言に付き合ってる暇はねえ!」
玲子が腕を掴んだ。
「離せ!」
「嫌よ」
「何しやがる!」
小柄な小金丸は、立った玲子より頭一つ近く低い。
「私、あなたに借りを作るの嫌なの」
「知るか!」
「嫌なのよ」
「じゃあ忘れろ!」
「それも嫌」
「面倒くせえ女だな!」
玲子は手を離さなかった。
「私にできることで、あなたの望みを一つ叶えるわ」
小金丸が止まった。
「……何?」
「借りを返す」
「何でもか?」
「私にできることなら」
小金丸は玲子を見上げた。
しばらく考える。
そして、にやりとした。
「じゃあ」
「何?」
「俺の女房になりな」
玲子の表情が固まった。
小金丸は笑った。
「俺は今年で六十だ」
「……」
「あと二十年もすりゃ、あの世行きよ」
「……」
「最後に若え女と一緒になるってのも、悪かねえ」
玲子は黙っている。
小金丸が吹き出した。
「はっ!」
腕を振りほどこうとする。
「できるわけねえだろ!」
「…………」
「分かったら帰んな。お嬢ちゃん!」
「いいわ」
「そうそう。帰って――」
止まった。
「何?」
「いいわ」
「何が」
「その望み」
玲子が小金丸を見る。
「叶えてあげる」
小金丸の顔が引きつった。
「お嬢ちゃん、正気か!」
「正気よ」
「俺が何歳か聞いてたか!」
「六十」
「分かってんじゃねえか!」
「付き合ってる男とかいるだろ!」
「先月別れたわよ」
「はあ!?」
「何よ」
「そういう問題じゃねえ!」
「あなたが言い出したんでしょう?」
「冗談に決まってんだろ!」
「私は、できることならって言ったわ」
「だからってよお!」
「できるわよ」
「できるできねえの話じゃねえ!」
「ただし」
「まだ何かあんのか!」
「条件があるわ」
小金丸の目が細くなる。
「……何だ」
玲子は言った。
「山椒の小金丸は、今日で廃業」
「は?」
「もう、そういう稼ぎ方はやめなさい」
「何言ってやがる!」
「あなたの知恵が欲しいところなんて、いくらでもあるわ」
「俺はな――」
「困ってる人の相談でも受ければいい」
「ふざけんな!」
「向いてるわよ」
「どこがだ!」
玲子は小金丸を見る。
「五年も見てきたもの」
小金丸が一瞬黙った。
「こ、この女……」
小金丸が一歩下がる。
玲子も一歩出る。
「狂ったか?」
「逃がさないわよ」
「待て!」
玲子が、がしっと小金丸の両肩を掴んだ。
「今日から、あなたの奥さんになるんだから」
「まだ今日じゃねえ!」
「じゃあ婚姻届を取りに行きましょう」
「話を聞け!」
「それから仕事も探すわよ」
「勝手に決めんな!」
「言ったでしょう?」
玲子が笑った。
「いつか、あなたを絡め取るって」
「や、やめろ!」
喫茶店中の視線が、二人に集まっていた。
◆
「……てなわけでよお」
小金丸は深いため息をついた。
「俺は廃業」
刑事は黙っている。
「今じゃ、この慈善NPOなんたらで」
「正式名称くらい覚えなさい」
玲子が言った。
「うるせえな」
「常務理事でしょう?」
「勝手に役付けやがって」
「嫌なら辞める?」
小金丸が黙った。
刑事が尋ねた。
「で」
「何だよ」
「本当に、ここで世のため人のために働いてんのか?」
「素面で言えるかよ。そんな話」
そのとき。
若い職員が顔を出した。
「小金丸さん。昨日の生活相談の件なんですけど」
「あ?」
「業者さんが、やっぱり二十万円払えって」
「馬鹿野郎」
小金丸の目つきが変わった。
「ありゃ払う必要ねえ。契約書の三枚目見ろ。解約条項がある」
「でも――」
「電話貸せ。俺が話す」
「はい!」
小金丸は立ち上がった。
玲子がその背中に言う。
「言葉遣い、気をつけてね」
「分かってるよ!」
「怒鳴らない」
「分かってる!」
「脅さない」
「俺を何だと思ってやがる!」
刑事がぼそりと言った。
「山椒の小金丸」
「てめえ!」
玲子が笑った。
「お茶、どうぞ」
部屋の隅では、小金丸が電話に向かっていた。
「もしもし? ああ、俺だよ。いやいや、脅す気なんざありませんよ。ただねえ、そちらさんも契約書ってもんは、ちゃんと読んだほうがいいんじゃありませんかねえ……」
刑事は、小金丸の隣で嫣然と笑う美しい弁護士を、化け物でも見るような目で見つめた。




