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小悪党とお嬢ちゃん

作者: 木谷田平
掲載日:2026/10/09

「ちょっと失礼しますよ」


男が事務所へ入ってきた。


地域の高齢者や生活困窮者を支援する、小さなNPO法人だった。


奥では職員が電話を取り、壁には無料法律相談の日程が貼ってある。


刑事は受付に警察手帳を見せた。


「この近所で、ちょっと聞き込みを――」


そこまで言って、止まった。


窓際の机に、小柄な男が座っていた。


禿げ上がった額。


小さな目。


薄い肩。


六十歳ほどの男だった。


男も刑事を見た。


「あ」


「…………」


数秒。


刑事が叫んだ。


「て、てめえ!」


職員たちが一斉に顔を上げる。


「山椒の小金丸!」


小柄な男――小金丸徳郎が、嫌そうな顔をした。


「でけえ声出すんじゃねえよ。サツの旦那」


「こんなところで何してやがる!」


「俺だってよお」


小金丸は頭を掻いた。


「何がなんだか分からねえんだよ……」


「何?」


「あら」


奥から女性の声がした。


「あなた、お客さん?」


刑事が振り向く。


すらりと背の高い女が立っていた。


三十五歳。


濃紺のスーツ。


整った顔立ち。


手には分厚い法律書を抱えている。


「あら、警察の方?」


「え……」


「当法人の顧問弁護士をしております、相沢玲子です」


女は微笑んだ。


それから、ごく自然に小金丸の隣へ立つ。


「それと、この人の妻です」


刑事の口が開いた。


「…………妻?」


「はい」


刑事は玲子を見る。


小金丸を見る。


もう一度玲子を見る。


「お、お前……」


「だからよお」


小金丸がうんざりした顔で言った。


「俺も何がなんだか分からねえんだって」


玲子が笑った。


「あなたが自分で言い出したんでしょう?」


「余計なこと言うな!」


刑事は椅子を引いた。


「ちょっと待て」


座る。


「最初から話せ」


「やだよ」


「話せ!」


小金丸は天井を見た。


「しょうがねえなあ……」


そして、ぼそりと言った。


「まあ、俺も年貢の納めどきってやつだったんですよ」


◆


五年前。


相沢玲子、三十歳。


弁護士になって三年目だった。


大きな事務所の末席。


仕事は山ほどある。


だが、自分の名前で任される案件は、まだそれほど多くない。


そんなころだった。


「相沢先生。先方の担当者です」


依頼人が小声で言った。


応接室の向こう。


小柄な男が一人、ソファにふんぞり返っている。


体に合っていない茶色の背広。


安そうなネクタイ。


そして妙に人を食った顔。


「小金丸徳郎さんですね」


玲子は正面に座った。


「へえ」


小金丸が目を細める。


「先生ってのは、あんたかい」


「何か?」


「いやあ。もっと年寄りが出てくるかと思ったんでね」


「年齢はこの件に関係ありません」


「そりゃそうだ」


にやにやしている。


小金丸は、家主が使っている不動産管理会社の営業主任だった。


店舗の退去に伴う原状回復費用について、管理会社側の窓口として出てきている。


「結論から申し上げます」


玲子は書類を開いた。


「請求額は過大です」


「そうかい」


「こちらの算定では、支払うとしても三十万円が上限です」


「三十ねえ」


小金丸は鼻を掻いた。


「じゃあ、五十でどうだ」


「根拠は?」


「俺の勘」


「話になりません」


「四十八」


「帰ります」


「待ちなよ、お嬢ちゃん」


玲子の眉が動いた。


「ああ。先生だったな」


小金丸は笑った。


「四十五で手を打ちな」


「三十です」


「四十二」


「三十」


「四十」


「三十」


「……頑固だねえ」


「法律の話をしています」


「俺は金の話をしてる」


結局、三十八万円でまとまった。


玲子は勝ったつもりだった。


当初請求は百八十万円。


大幅に減額した。


依頼人も喜んだ。


ところが翌週。


玲子は精算書を見て、顔色を変えた。


「……何、これ」


別項目として、十二万円の残置物処理費が計上されている。


依頼人はすでに了承し、支払っていた。


合計五十万円。


玲子は小金丸を呼び出した。


「あなた!」


「おう。怖え顔だな」


「これは何!」


書類を机へ叩きつける。


「ああ、それか」


「説明しなさい!」


「残った棚やら何やら、片づけてやったんだよ」


「十二万円も取る仕事じゃないでしょう!」


「俺は小金に目がねえんだ」


「ふざけないで!」


「ふざけちゃいねえよ」


小金丸がにやっとした。


「ちゃんと確認しなかった先生が悪いんじゃねえか?」


玲子の顔が赤くなった。


言い返せない。


依頼人に確認を取らなかったのは、自分だった。


「……覚えてなさい」


「何を?」


「いつか必ず」


玲子は小金丸を睨んだ。


「いつか、あなたを法の手で絡め取ってやるわ」


小金丸は肩をすくめた。


「おー怖い怖い」


立ち上がる。


「楽しみにしてるよ、お嬢ちゃん」


◆


玲子は、その件を引きずった。


悔しかった。


十二万円。


金額ではない。


自分が見落とした。


しかも、あんな男に。


もう一度、関係資料を全部取り寄せた。


見積書。


写真。


メール。


工事記録。


「…………」


妙なことがあった。


最初に作られた原状回復見積りは、百八十万円ではなかった。


二百四十万円。


さらに、依頼人側に不利な写真が一枚あった。


壁を大きく加工した跡。


契約上はかなり厳しい。


ところが、最終交渉ではその写真が出てこなかった。


玲子は依頼人に電話した。


「以前、管理会社と直接何か話しました?」


『いえ。ただ……』


「ただ?」


『あの小さいおじさんに、“若い先生に任せときゃいい。余計なこと喋るな”って言われました』


「……小金丸?」


『はい』


玲子は電話を切った。


しばらく考えた。


「……何なのよ」


◆


それから玲子は、ときどき小金丸徳郎という男を調べた。


最初は、仕返しの材料を探すつもりだった。


昔の取引先。


不動産業者。


金融業者。


登記。


人に会えば、ついでのように聞いた。


「小金丸徳郎という人を知りませんか?」


返ってくる答えは、だいたい似ていた。


「小金丸? ああ、山椒の」


「あいつに任せると高くつくぞ」


「金には細けえ」


「頭は切れるな」


そして、ときどき。


「でも、あくどい話は嫌うね」


という人間がいた。


玲子は眉をひそめた。


「小悪党なのに?」


「だから小悪党なんだろ」


男は笑った。


◆


一年ほど経った。


地方裁判所の廊下で、玲子は見覚えのある小さな背中を見つけた。


「あら」


小金丸が振り向く。


「げ」


「げ、とは何よ」


「また会ったな、お嬢ちゃん」


「まだそんな呼び方してるの?」


「嫌なら聞き流せ」


小金丸は封筒を懐へ入れた。


玲子が見逃さなかった。


「何、それ」


「仕事だよ」


「また、みみっちく稼いでるの?」


「へへへ」


小金丸は笑った。


「俺は小金に目がねえだけさ」


「そのうち本当に捕まるわよ」


「大金に手え出す馬鹿より長生きするぜ」


「どういう意味?」


「大金ってのはな」


小金丸は鼻を鳴らした。


「だいたい後ろに、面倒くせえ奴がいるんだよ」


「臆病なのね」


「褒め言葉として受け取っとくぜ」


小金丸は歩き出した。


「小金丸さん」


「何だ」


「あなたなら、もっと大きなお金を動かせるでしょうに」


小金丸が振り向いた。


「何だそりゃ」


「その頭があれば、もっと稼げるでしょう?」


「面倒くせえ」


「もったいないわね」


小金丸は鼻で笑った。


「お前らお利口ちゃんは、何でも上を目指しゃいいと思ってやがる」


「違うの?」


「三万ありゃな」


小金丸は懐を叩いた。


「しばらくは、うまいもんが食える」


玲子は呆れた。


「本当にみみっちいわね」


「へへへ」


小金丸は去っていった。


玲子は、その小さな背中を見送った。


「……変な人」


◆


さらに半年ほど経ったころ。


玲子は、古い商店街を訪れていた。


依頼人は、そこで三十年以上商売を続けている乾物店だった。


長年商品を卸していた飲食店が閉店し、百数十万円の売掛金が残った。


相手方の代表は「払う」と言いながら連絡を先延ばしにしている。


帳簿や請求書を確認し、今後の回収方法を店主夫妻と相談するため、玲子自身が店へ足を運んでいた。


「じゃあ、この納品書の分も含めて、こちらで整理します」


「先生、悪いねえ。こんなところまで来てもらって」


「いえ。数字が少し複雑なので、直接確認したほうが早いですから」


打ち合わせを終えると、外はもう夕方だった。


玲子は鞄を肩に掛け、商店街を駅のほうへ歩いた。


八百屋。


豆腐店。


米屋。


昔ながらの店が並んでいる。


ふと足が止まった。


――そういえば。


小金丸の出身地は、この辺りだったはずだ。


以前、登記や古い資料を調べたときに住所を見た記憶がある。


商店街の端に、年季の入った米屋があった。


店先では、白髪の男が椅子に腰掛けて新聞を読んでいる。


奥では、同じくらいの年の女が米袋を整理していた。


玲子は少し迷った。


それから店先へ寄った。


「すみません」


男が新聞から顔を上げた。


「はいよ」


「少し、お聞きしてもいいですか?」


「何だい?」


「この辺りに昔、小金丸徳郎さんという方が住んでいませんでしたか?」


男の目が丸くなった。


「徳郎?」


奥にいた女が顔を出した。


「誰だって?」


「小金丸の徳ちゃんだよ」


「あらまあ、徳ちゃん!」


女が懐かしそうに笑った。


「ご存じなんですか?」


「そりゃ知ってるよ」


男は新聞を畳んだ。


「この辺じゃ、知らない人はいなかったんじゃないかねえ」


「そんなに?」


「昔はね」


女が口を挟んだ。


「なんてったって徳ちゃんは、幕本でずーっと一番だったよ」


玲子が目を瞬いた。


「幕本高校ですか?」


「そうそう、県立幕本」


男が頷く。


「あそこ入るだけでも大したもんだろ。それで徳ちゃん、ずっと一番だったんだから」


「首席だったんですか?」


「首席っていうのかねえ。とにかく、試験やるといつも一番だったよな」


「そうよ」


女が笑う。


「学校の先生がねえ、“徳郎は大したもんだ”って、よくお母さんに言ってたもの」


「お母様と二人暮らしだったんですよね」


「ああ」


男が頷いた。


「楽な家じゃなかったよ」


「でも、徳ちゃんはほんと、お母さん思いでねえ」


女の声が少し柔らかくなる。


「学校から帰ってくると買い物して、荷物持ってさ。あのころの男の子なんて、そんなこと恥ずかしがるでしょう? 徳ちゃんは平気でやってたよ」


「へえ……」


「勉強もしてたしなあ」


男が笑った。


「それが、どうして高校を?」


夫婦の顔から、少し笑みが消えた。


男が首を傾げる。


「お母さんが再婚してな」


「再婚?」


「ああ」


女が言った。


「徳ちゃん、最初は喜んでたのよ」


「そうそう」


「“これで母ちゃんも少し楽になる”ってねえ」


玲子は黙って聞いた。


「それが……半年くらいだったかねえ」


男が言う。


「ふっと家を出ちまった」


「高校も?」


「ああ。辞めた」


「先生たちも、ずいぶん止めたらしいよ」


女が眉を寄せる。


「そりゃそうでしょう。幕本でずっと一番だったんだもの。もったいない、もったいないって」


「何かあったんですか?」


夫婦は顔を見合わせた。


男が首を振った。


「さあなあ」


女も小さく首を振る。


「あのころのことは、誰もよう知らないのよ」


玲子は、それ以上聞かなかった。


「その後は?」


「金融屋にいたって聞いたな」


「不動産もやってたでしょう?」


「ああ、やってたやってた」


男が苦笑する。


「頭は昔っからよかったからねえ。何やらせても、要領だけはいいんだ」


「要領だけって」


女が笑った。


「徳ちゃんに失礼でしょう」


「ありがとうございました」


「先生、徳ちゃんの知り合いかい?」


「仕事で、少し」


「そうかい」


女が笑う。


「会ったら言っといてよ。たまには顔見せなさいって」


「はい」


玲子は店を出た。


夕方の商店街を歩く。


「幕本……」


自分も中学生のころ、受験を考えたことがある。


届かなかった。


「首席って……」


少し間を置く。


「あの男が?」


それだけ呟いて、玲子は駅へ向かった。


◆


それからは、わざわざ小金丸のことを調べることも少なくなった。


だからといって、縁が切れたわけでもなかった。


裁判所。


法務局。


取引先のビル。


忘れたころに、小柄な男が現れる。


「またあなた?」


「お嬢ちゃんこそ、どこにでもいやがるな」


そんなやり取りをして別れる。


数か月会わないこともあれば、一月のうちに二度顔を合わせることもあった。


会えば、小金丸は相変わらず「お嬢ちゃん」と呼んだ。


玲子も、そのたびに嫌そうな顔をした。


◆


ある日、法務局の廊下でまた鉢合わせた。


小金丸は何通かの登記事項証明書を抱えている。


玲子がそれを見る。


「不動産?」


「まあな」


「ずいぶん法務局に慣れてるのね」


「当たり前だろ」


「どうして?」


小金丸が鼻を鳴らした。


「こう見えて俺ァ、司法書士くれえ取ってんだぜ」


玲子が止まった。


「……司法書士?」


「何だその顔は」


「資格、持ってるの?」


「持ってちゃ悪いか」


「初めて聞いたわ」


「聞かれなかったからな」


玲子は小金丸をじっと見る。


「あなた、本当に何者なの?」


小金丸はにやりとした。


「小悪党だよ」


「自分で言うのね」


「へへへ」


そこへ、年配の夫婦がやってきた。


「小金丸さん!」


小金丸が振り向く。


「ああ。もう大丈夫だから帰んな」


「本当にありがとうございました」


「いいって。ほら」


追い払うように手を振る。


夫婦が何度も頭を下げながら去っていった。


玲子が聞いた。


「今の人たちは?」


「客だ」


「いくら取ったの?」


「何でまずそこを聞くんだよ」


「あなた相手だからよ」


小金丸が嫌そうな顔をする。


「一万だ」


「一万円?」


「何だよ」


「さっき別の人から三万円もらったって言ってなかった?」


「あれは別口だ!」


小金丸は逃げるように歩き出した。


玲子が笑った。


「小金丸さん」


「何だよ」


「少しはまともな仕事もするのね」


「てめえ、喧嘩売ってんのか!」


◆


さらに時が流れた。


玲子は事務所でも中堅になっていた。


大きな企業案件を任されるようになり、後輩もついた。


小金丸とは相変わらず、ときどき顔を合わせた。


会えば二、三言やり合う。


それだけだった。


そのころ。


事務所を挙げた大きな取引が持ち込まれた。


新興企業との資本提携。


相手の代表は神崎という男だった。


四十歳。


長身。


端正な顔。


話がうまい。


数字にも強い。


会議が終わり、玲子が廊下を歩いていると。


「よお」


聞き覚えのある声がした。


振り向く。


「……あなた」


「久しぶりじゃねえか、お嬢ちゃん」


「まだ言ってるのね」


小金丸だった。


手には薄汚れた紙袋。


「また、みみっちく稼ぎに来たの?」


「今日はちゃんとした仕事だよ」


「あなたのちゃんとした仕事って、信用できないのよね」


小金丸が顎をしゃくった。


「今すれ違った男」


「神崎さん?」


「そういう名前か」


「あいつ、お前の客か」


「取引相手よ」


「今度のヤマかい?」


「そうよ。事務所でもかなり大きな案件なの」


「それをお嬢ちゃんが?」


「ええ。私が担当してるわ」


「へえ。出世したもんだ」


「昔とは違うのよ」


小金丸は息を吐く。


「やめときな」


「は?」


「あの男。俺と同じ匂いがする」


玲子は笑った。


「あなたと?」


「ああ」


「ずいぶん失礼ね」


「いや」


小金丸は首を振った。


「俺よりヤベえ、相当なもんだ」


玲子の笑顔が消えた。


「負け惜しみはやめなさい」


「何?」


「私はもう、昔のお嬢ちゃんじゃないのよ」


「そうかい」


玲子はすたすたと歩き出した。


「おい」


振り向かない。


小金丸が頭を掻いた。


「へえ」


誰もいない廊下で呟いた。


「行っちまったぜ」


◆


外回りを終えた小金丸は、事務所へ戻るとソファに横になった。


「今日は、やけに眠いぜ……」


目を閉じた。


◆

<<お嬢ちゃん?いや、これは…?>>


「ねえ、ちょっといい?」


「え?」


制服姿の少女が、隣の机から身を乗り出している。


「ここ、どうやるの?」


「これは……ここに補助線を引いて」


小金丸はノートに線を引いた。


「あ、そうか!」


少女の顔が明るくなる。


「わあ! 小金丸君に聞くとなんでも分かっちゃうわね!」


「え……そ、そうかな……」


「ねえねえ、次の問題もいい?」


「う、うん……」


小金丸は顔を赤くした。


少女が椅子を寄せてくる。


「じゃあ、これ」


「あ、ああ……」


◆


「……ん?」


小金丸は目を開けた。


事務所の天井。


「なんでえ……寝ちまったのか」


しばらく天井を見ていた。


「……何十年も前の夢なんかよ」


鼻を鳴らす。


「ちっ。しょうがねえなあ……」


◆


一週間後。


玲子が事務所へ戻ると、小金丸が受付の椅子に座っていた。


「何してるの?」


「待ってた」


「私を?」


「他に誰がいる」


玲子は時計を見る。


「忙しいの」


「知ってる」


「なら帰って」


「おい、お嬢ちゃん」


「何よ」


「あの野郎」


小金丸が低い声で言った。


「思ったより、ずっとヤベえぞ」


玲子の顔が険しくなる。


「まだ言ってるの?」


「ほらよ」


厚い封筒を差し出した。


「何、これ」


「あいつが今までやった取引だ」


「どうやってこんなもの――」


「聞くな」


玲子は封筒を受け取らない。


小金丸が続けた。


「住菱にも食い込もうとして、取引停止食らってる」


玲子の目が動いた。


「そのあと銀行を変えてる。会社も二つ潰してる」


「……」


「今の会社だけ見てると分からねえ」


小金丸は封筒を玲子の胸元へ押しつけた。


「読め」


「余計なお世話よ」


「そうかい」


手を離す。


玲子が反射的に受け取った。


「読むか捨てるかは、お嬢ちゃんの勝手だ」


小金丸が背を向ける。


「俺もヤキが回ったもんだぜ」


「待ちなさい」


「何だ」


「これ、どうして――」


「じゃあな」


行ってしまった。


◆


玲子は、その夜。


封筒を開けた。


翌朝。


さらに調べた。


二日後。


事務所のパートナーに報告した。


三日後。


取引は止まった。


その一か月後。


神崎の別会社をめぐる訴訟が表に出た。


玲子は新聞記事をしばらく見つめた。


◆


数か月後。


法務局。


玲子は、小さな男を見つけた。


「小金丸さん」


男が振り向く。


「おう」


にやりとする。


「お嬢ちゃんじゃねえか」


「相変わらずね」


「へへへ」


「何がおかしいの」


「いやあ」


小金丸は玲子の顔を覗き込んだ。


「あの男に丸裸にされて、泣いてるかと思ったぜ」


「……確かに」


「ん?」


「あなたの言う通りだったわ」


小金丸の眉が上がった。


「へえ」


「危ない男だった」


「ちったあ勉強したようだな」


偉そうに頷く。


「おじさんの言うことは聞いておくもんだぜ」


「あなたに話があるの」


「何だよ」


「三十分でいいわ」


「俺はこのあと仕事があるんだよ」


「三十分」


「しょうがねえなあ」


小金丸は外を指した。


「そこのサテンで聞いてやる」


◆


古い喫茶店だった。


玲子はコーヒー。


小金丸はクリームソーダを頼んだ。


玲子が目を細める。


「何だよ」


「別に」


「言いたきゃ言え」


「かわいいもの頼むのね」


「うるせえ」


玲子は笑った。


それから、真顔になる。


「ありがとう」


小金丸のストローが止まった。


「何が」


「あの資料」


「何の話だ」


「神崎のことよ」


「ああ」


小金丸はクリームをすくった。


「金になりそうだったから調べただけだ」


「嘘」


「何?」


「あなた、あの件で一円も儲けてないでしょう」


「…………」


玲子は鞄から古いファイルを出した。


小金丸の顔が嫌そうになる。


「五年前の件も」


「何だよ」


「あのとき、本当ならうちの依頼人はもっと払わされてた」


「知らねえな」


「写真もあった」


「何の写真だ」


「壁の改造」


「さあな」


「あなたが引っ込めたんでしょう」


「証拠でもあんのか」


「ないわ」


「なら寝言だ」


玲子はファイルを開いた。


「小金丸徳郎」


「……何だよ」


「母子家庭で育つ」


小金丸の顔から笑いが消えた。


「おい」


「近所では孝行息子として有名」


「やめろ」


「県立幕本高校入学」


「やめろって言ってんだ!」


「二年まで首席を維持」


小金丸が立ち上がりかけた。


玲子が笑った。


「まさか、あなたのほうがお利口ちゃんだったとはね」


「こ、この女……!」


「私、幕本には入れなかったのよ。ましてや首席なんて」


「やめろ! この女!」


玲子は楽しそうに小金丸を見る。


「ふふ。あなたのことに興味が出て、調べたのよ」


小金丸が固まった。


「気色悪い女だな」


「失礼ね」


「人の昔を勝手に掘りやがって!」


「仕事柄よ」


「関係あるか!」


玲子はページに目を落とした。


「高校二年のとき、お母様が再婚」


小金丸が黙った。


「その半年後に、家を出てる」


「…………」


「高校も退学」


「もういい」


低い声だった。


玲子は顔を上げた。


「お母様の再婚、最初は喜んでたそうね」


小金丸は答えない。


「これで母ちゃんが楽になるって」


「…………」


玲子は、そこでファイルを閉じた。


やがて小金丸が鼻を鳴らした。


「昔の話だ」


「そうね」


「今じゃ立派な小悪党だよ」


「それも調べたわ」


「何?」


「甘く見ると、びりっとやられる」


小金丸の眉が動く。


「でも、根こそぎは取らない」


「てめえ」


「山椒の小金丸」


小金丸の顔が変わった。


「どこでその名を!」


玲子は微笑んだ。


「いろんな人に聞いたわ」


「誰だ!」


「教えない」


「この野郎!」


「野郎じゃないわ」


玲子はコーヒーを一口飲んだ。


「あなた、本当にあくどい稼ぎ方は嫌いなのね」


「何を勘違いしてやがる」


「違う?」


「俺はな」


小金丸が身を乗り出した。


「お前みてえな、お利口なお嬢ちゃんをちょいと引っかけて、小金を巻き上げるのが好きなだけだ」


「……」


「助ける?」


鼻を鳴らした。


「冗談じゃねえ」


玲子はしばらく小金丸を見た。


そして。


「ふふ」


「何がおかしい」


「そういうことにしてあげる」


「何?」


「山椒の小金丸さん」


「その名で呼ぶな!」


小金丸は立ち上がった。


「帰る!」


「待ちなさい」


「お嬢ちゃんの寝言に付き合ってる暇はねえ!」


玲子が腕を掴んだ。


「離せ!」


「嫌よ」


「何しやがる!」


小柄な小金丸は、立った玲子より頭一つ近く低い。


「私、あなたに借りを作るの嫌なの」


「知るか!」


「嫌なのよ」


「じゃあ忘れろ!」


「それも嫌」


「面倒くせえ女だな!」


玲子は手を離さなかった。


「私にできることで、あなたの望みを一つ叶えるわ」


小金丸が止まった。


「……何?」


「借りを返す」


「何でもか?」


「私にできることなら」


小金丸は玲子を見上げた。


しばらく考える。


そして、にやりとした。


「じゃあ」


「何?」


「俺の女房になりな」


玲子の表情が固まった。


小金丸は笑った。


「俺は今年で六十だ」


「……」


「あと二十年もすりゃ、あの世行きよ」


「……」


「最後に若え女と一緒になるってのも、悪かねえ」


玲子は黙っている。


小金丸が吹き出した。


「はっ!」


腕を振りほどこうとする。


「できるわけねえだろ!」


「…………」


「分かったら帰んな。お嬢ちゃん!」


「いいわ」


「そうそう。帰って――」


止まった。


「何?」


「いいわ」


「何が」


「その望み」


玲子が小金丸を見る。


「叶えてあげる」


小金丸の顔が引きつった。


「お嬢ちゃん、正気か!」


「正気よ」


「俺が何歳か聞いてたか!」


「六十」


「分かってんじゃねえか!」


「付き合ってる男とかいるだろ!」


「先月別れたわよ」


「はあ!?」


「何よ」


「そういう問題じゃねえ!」


「あなたが言い出したんでしょう?」


「冗談に決まってんだろ!」


「私は、できることならって言ったわ」


「だからってよお!」


「できるわよ」


「できるできねえの話じゃねえ!」


「ただし」


「まだ何かあんのか!」


「条件があるわ」


小金丸の目が細くなる。


「……何だ」


玲子は言った。


「山椒の小金丸は、今日で廃業」


「は?」


「もう、そういう稼ぎ方はやめなさい」


「何言ってやがる!」


「あなたの知恵が欲しいところなんて、いくらでもあるわ」


「俺はな――」


「困ってる人の相談でも受ければいい」


「ふざけんな!」


「向いてるわよ」


「どこがだ!」


玲子は小金丸を見る。


「五年も見てきたもの」


小金丸が一瞬黙った。


「こ、この女……」


小金丸が一歩下がる。


玲子も一歩出る。


「狂ったか?」


「逃がさないわよ」


「待て!」


玲子が、がしっと小金丸の両肩を掴んだ。


「今日から、あなたの奥さんになるんだから」


「まだ今日じゃねえ!」


「じゃあ婚姻届を取りに行きましょう」


「話を聞け!」


「それから仕事も探すわよ」


「勝手に決めんな!」


「言ったでしょう?」


玲子が笑った。


「いつか、あなたを絡め取るって」


「や、やめろ!」


喫茶店中の視線が、二人に集まっていた。


◆


「……てなわけでよお」


小金丸は深いため息をついた。


「俺は廃業」


刑事は黙っている。


「今じゃ、この慈善NPOなんたらで」


「正式名称くらい覚えなさい」


玲子が言った。


「うるせえな」


「常務理事でしょう?」


「勝手に役付けやがって」


「嫌なら辞める?」


小金丸が黙った。


刑事が尋ねた。


「で」


「何だよ」


「本当に、ここで世のため人のために働いてんのか?」


「素面で言えるかよ。そんな話」


そのとき。


若い職員が顔を出した。


「小金丸さん。昨日の生活相談の件なんですけど」


「あ?」


「業者さんが、やっぱり二十万円払えって」


「馬鹿野郎」


小金丸の目つきが変わった。


「ありゃ払う必要ねえ。契約書の三枚目見ろ。解約条項がある」


「でも――」


「電話貸せ。俺が話す」


「はい!」


小金丸は立ち上がった。


玲子がその背中に言う。


「言葉遣い、気をつけてね」


「分かってるよ!」


「怒鳴らない」


「分かってる!」


「脅さない」


「俺を何だと思ってやがる!」


刑事がぼそりと言った。


「山椒の小金丸」


「てめえ!」


玲子が笑った。


「お茶、どうぞ」


部屋の隅では、小金丸が電話に向かっていた。


「もしもし? ああ、俺だよ。いやいや、脅す気なんざありませんよ。ただねえ、そちらさんも契約書ってもんは、ちゃんと読んだほうがいいんじゃありませんかねえ……」


刑事は、小金丸の隣で嫣然と笑う美しい弁護士を、化け物でも見るような目で見つめた。


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